「近衛文隆」の版間の差分
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翌[[1939年]](昭和14年)、[[東亜同文書院大学|東亜同文書院]]講師、兼学生主事(俸給・月 117円60銭、在外手当・月 54円40銭)に就任して[[上海市|上海]]へ赴く。上海では[[蔣介石]]との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで[[重慶市|重慶]]に向かおうとして[[憲兵|憲兵隊]]に捕まり、[[閣議]]でも問題視されたため帰国<ref>文隆が面識のあった中国側の女[[スパイ]]・[[鄭蘋茹]]に機密情報を漏洩するのを恐れて帰国を命令したとする説もある</ref>。帰国後も[[青年同志会]]という組織を作って直接交渉を主張した。そのため軍部から問題視され、[[1940年]](昭和15年)2月に召集され、[[満州]]阿城[[砲兵]]連隊に入隊。[[幹部候補生 (日本軍)|幹部候補生]]考査に合格して[[中尉|陸軍中尉]]まで昇進した。 |
翌[[1939年]](昭和14年)、[[東亜同文書院大学|東亜同文書院]]講師、兼学生主事(俸給・月 117円60銭、在外手当・月 54円40銭)に就任して[[上海市|上海]]へ赴く。上海では[[蔣介石]]との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで[[重慶市|重慶]]に向かおうとして[[憲兵|憲兵隊]]に捕まり、[[閣議]]でも問題視されたため帰国<ref>文隆が面識のあった中国側の女[[スパイ]]・[[鄭蘋茹]]に機密情報を漏洩するのを恐れて帰国を命令したとする説もある</ref>。帰国後も[[青年同志会]]という組織を作って直接交渉を主張した。そのため軍部から問題視され、[[1940年]](昭和15年)2月に召集され、[[満州]]阿城[[砲兵]]連隊に入隊。[[幹部候補生 (日本軍)|幹部候補生]]考査に合格して[[中尉|陸軍中尉]]まで昇進した。 |
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[[太平洋戦争]]のさなか、[[貞明皇后]]の姪・[[大谷正子]]([[浄土真宗]]・[[京都]][[西本願寺]]・[[大谷光明]]の娘、1924-2017)と[[1944年]](昭和19年)に[[ハルビン市|ハルビン]]で結婚。[[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]、[[満州]]で終戦を迎え、[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|GRU]]の[[スメルシ]]部隊によって襲撃を受け、[[8月19日]]に[[捕虜]]となる。その後、[[シベリア抑留]]で15ヶ所もの収容所を転々と移動させられた。抑留中は[[士官]]であることを盾に労役を断固拒否し[[ソビエト連邦|ソ連]]に対し気骨のあるところを見せた。[[1955年]](昭和30年)の[[日ソ共同宣言|日ソ国交正常化]]交渉に際し、首相:[[鳩山一郎]]の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、[[1956年]](昭和31年)[[10月29日]]に[[イヴァノヴォ州]]{{仮リンク|レジニェヴォ地区|ru|Лежневский район}}{{仮リンク|チェルンツィ村|ru|Чернцы (Лежневский район)}}のイヴァノヴォ収容所(内務省第48号[[ラーゲリ|ラーギリ]])で死去。[[死因]]は[[動脈硬化]]による[[脳出血]]と[[急性腎炎]]とされるが、ソ連による暗殺説もあ |
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{{要出典範囲|[[1991年]](平成3年)[[10月18日]]付「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法第2条、3条で無罪、名誉回復。[[1992年]](平成4年)[[2月27日]]、[[ロシア連邦]]軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、[[1997年]](平成9年)[[10月16日]]、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した|date=2018年3月}}。 |
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
2023年1月18日 (水) 12:40時点における版
近衞 文隆 このえ ふみたか | |
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1938年、首相官邸にて | |
生誕 |
1915年4月3日 日本 京都府 |
死没 |
1956年10月29日(41歳没) ソビエト連邦 イヴァノヴォ州 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1940年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中尉 |
除隊後 | シベリア抑留 |
近衛 文隆(このえ ふみたか、旧字体:近󠄁衞文󠄁隆󠄁、1915年〈大正4年〉4月3日 - 1956年〈昭和31年〉10月29日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。階級は陸軍中尉。位階は従五位。内閣総理大臣近衛文麿の長男で後陽成天皇の男系十三世子孫にあたる。
概要
京都府出身。近衞文麿(首相)・千代子(父は旧豊後佐伯藩毛利家当主・毛利高範)夫妻の長男。家系は藤原北家の嫡流にして摂家筆頭・近衞家。学歴はプリンストン大学政治学部修業(中退)。
来歴・人物
学習院中等科卒業後、外交官を目指し、周囲の反対を押し切りアメリカに留学し、ローレンスビル・スクールを卒業、プリンストン大学に学んだ。ゴルフ部長として全米1位となる。滞米中はアマチュアゴルファーとして活躍する。1938年(昭和13年)に帰国し、父の秘書官となる。
翌1939年(昭和14年)、東亜同文書院講師、兼学生主事(俸給・月 117円60銭、在外手当・月 54円40銭)に就任して上海へ赴く。上海では蔣介石との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、閣議でも問題視されたため帰国[1]。帰国後も青年同志会という組織を作って直接交渉を主張した。そのため軍部から問題視され、1940年(昭和15年)2月に召集され、満州阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生考査に合格して陸軍中尉まで昇進した。
太平洋戦争のさなか、貞明皇后の姪・大谷正子(浄土真宗・京都西本願寺・大谷光明の娘、1924-2017)と1944年(昭和19年)にハルビンで結婚。1945年(昭和20年)8月15日、満州で終戦を迎え、GRUのスメルシ部隊によって襲撃を受け、8月19日に捕虜となる。その後、シベリア抑留で15ヶ所もの収容所を転々と移動させられた。抑留中は士官であることを盾に労役を断固拒否しソ連に対し気骨のあるところを見せた。1955年(昭和30年)の日ソ国交正常化交渉に際し、首相:鳩山一郎の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、1956年(昭和31年)10月29日にイヴァノヴォ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村のイヴァノヴォ収容所(内務省第48号ラーギリ)で死去。死因は動脈硬化による脳出血と急性腎炎とされるが、ソ連による暗殺説もあり[2]、庶子を称する東隆明によると帰国前日に薬毒死により殺害されたという[3]。その後、遺骨は正子夫人の尽力で1958年(昭和33年)に帰国した。生前に父:文麿の死去については知らされていたと思われるが、自らが近衛家の当主と認識していたかどうかについては、当時のシベリア抑留の過酷さからみて現在でも議論がある。
1991年(平成3年)10月18日付「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法第2条、3条で無罪、名誉回復。1992年(平成4年)2月27日、ロシア連邦軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、1997年(平成9年)10月16日、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した[要出典]。
死亡時嫡出子が存在せず[4]、妻・正子は文麿外孫の細川護煇を養子として家督を継がせた。
系譜
近衞家
近衞家は、藤原忠通の子である近衞基実を始祖とし、五摂家の一つであった。
皇室との関係
後陽成天皇 | 後水尾天皇 | 明正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後光明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後西天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
霊元天皇 | 東山天皇 | 中御門天皇 | 桜町天皇 | 桃園天皇 | 後桃園天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 典仁親王 | 光格天皇 | 仁孝天皇 | 孝明天皇 | 明治天皇 | 大正天皇 | 昭和天皇 | 明仁上皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近衞信尋 | 近衞尚嗣 | 近衞基熈 | 近衞家熈 | 近衞家久 | 近衞内前 | 近衞経熈 | 近衞基前 | 近衞忠煕 | 近衞忠房 | 近衞篤麿 | 近衞文麿 | 近衞文隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 係累縁者が多数に上るため、後陽成天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。
- 遠祖の近衞信尋は、後陽成天皇の第四皇子として生まれ、近衞信尹の養子となり、近衞家を継承した。
参考文献
- V・A・アルハンゲリスキー『プリンス近衞殺人事件』、瀧澤一郎訳、新潮社、2000年。ISBN 4-10-540301-X
- 工藤美代子『近衛家七つの謎 誰も語らなかった昭和史』、PHP研究所 2009年
- 近衛忠大ほか 『近衛家の太平洋戦争』 NHK「真珠湾への道」取材班、日本放送出版協会、2004年
- 甥に当たる近衛家次期当主がナレータも担当。『NHKスペシャルセレクション』などで放映。