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「伏見奉行」の版間の差分

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'''伏見奉行'''(ふしみぶぎょう)は、[[江戸幕府]]の役職の一つ。[[伏見宿 (京街道)|伏見町]]、御城山(旧[[伏見城]])、周辺の8カ村を管轄した{{Sfn|井上|2020|p=55}}。[[遠国奉行]]の一。身分は老中支配・諸大夫、[[役高]]は持高(設定なし){{Sfn|小倉|2008|p=41}}。配下に[[与力]]10騎、[[同心]]50人{{Sfn|井上|2020|p=53}}。寛文6年(1666年)の設立から元禄9年~11年(1696~1698)および文化5年~7年(1808年~1810年)の二度の中断を挟み、慶応3年(1867年)の廃止まで続いた{{Sfn|井上|2020|p=54}}。
'''伏見奉行'''(ふしみぶぎょう)は、[[江戸幕府]]の役職の一つ。[[遠国奉行]]の一。[[伏見宿 (京街道)|伏見町]]、御城山(旧[[伏見城]])、周辺の8カ村を管轄した{{Sfn|井上|2020|p=55}}。身分は老中支配・諸大夫、[[役高]]は持高(設定なし){{Sfn|小倉|2008|p=41}}。配下に[[与力]]10騎、[[同心]]50人{{Sfn|井上|2020|p=53}}。寛文6年(1666年)の設立から元禄9年~11年(1696~1698)および文化5年~7年(1808年~1810年)の二度の中断を挟み、慶応3年(1867年)の廃止まで続いた{{Sfn|井上|2020|p=54}}。


== 沿革 ==
== 沿革 ==
1666年3月に創設され、[[旗本]]の[[水野忠貞]]が初代奉行となったが、実際には水野は正保4年(1650年)から[[上方郡代]]だったので、実務的には上方郡代の職務を、[[京都町奉行]]・[[京都代官]]・伏見奉行に分割したと言える{{Sfn|井上|2020|p=53}}。身分上は老中支配であったが、職務上は[[所司代]]の下に属し、これは京都町奉行、[[奈良奉行]]などと同様だった{{Sfn|小倉|2008|p=47}}。
1666年3月に創設され、[[旗本]]の[[水野忠貞]]が初代奉行となったが、実際には水野は正保4年(1650年)から[[上方郡代]]だったので、実務的には上方郡代の職務を、[[京都町奉行]]・[[京都代官]]・伏見奉行に分割したと言える{{Sfn|井上|2020|p=53}}。身分上は老中支配であったが、職務上は[[所司代]]([[京都所司代#江戸幕府が設置したもの|京都所司代]])の下に属し、これは京都町奉行、[[奈良奉行]]などと同様だった{{Sfn|小倉|2008|p=47}}。


== 歴代奉行 ==
== 歴代奉行 ==
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* [[内藤正縄]] - 天保9年~安政6年
* [[内藤正縄]] - 天保9年~安政6年
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== 脚注 ==
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2022年1月17日 (月) 08:09時点における版

伏見奉行(ふしみぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。遠国奉行の一。伏見町、御城山(旧伏見城)、周辺の8カ村を管轄した[1]。身分は老中支配・諸大夫、役高は持高(設定なし)[2]。配下に与力10騎、同心50人[3]。寛文6年(1666年)の設立から元禄9年~11年(1696~1698)および文化5年~7年(1808年~1810年)の二度の中断を挟み、慶応3年(1867年)の廃止まで続いた[4]

沿革

1666年3月に創設され、旗本水野忠貞が初代奉行となったが、実際には水野は正保4年(1650年)から上方郡代だったので、実務的には上方郡代の職務を、京都町奉行京都代官・伏見奉行に分割したと言える[3]。身分上は老中支配であったが、職務上は所司代京都所司代)の下に属し、これは京都町奉行、奈良奉行などと同様だった[5]

歴代奉行

以下は歴代の伏見奉行および在任期間の一覧である[3]

奉行所

伏見奉行所
伏見奉行の位置(京都市内)
伏見奉行
京都市における伏見奉行所の位置
所在地京都府伏見区西奉行町
座標北緯34度55分51.91秒 東経135度45分57.28秒 / 北緯34.9310861度 東経135.7659111度 / 34.9310861; 135.7659111座標: 北緯34度55分51.91秒 東経135度45分57.28秒 / 北緯34.9310861度 東経135.7659111度 / 34.9310861; 135.7659111
面積伏見町
建設1666年
管理者伏見奉行

1625年にそれまで奉行所が置かれていた清水谷から富田信濃守屋敷跡に移転。以後、1868年の鳥羽・伏見の戦いで焼失するまで、江戸時代を通して奉行所が置かれた[6]。 跡地は現在は京都市営桃陵団地となっている[7]。現地には碑があるのみとなっている[8]

脚注

  1. ^ 井上 2020, p. 55.
  2. ^ 小倉 2008, p. 41.
  3. ^ a b c 井上 2020, p. 53.
  4. ^ 井上 2020, p. 54.
  5. ^ 小倉 2008, p. 47.
  6. ^ 『伏見城跡・桃陵遺跡』京都平安文化財発掘調査報告第2集. 有限会社京都平安文化財. (2014). p. 6. http://iseki-hakktsu.com/publications/index.html 2022年1月17日閲覧。 
  7. ^ 伏見奉行所跡”. ながと書房. 2022年1月17日閲覧。
  8. ^ 中村彰彦 (2015). 〈増補決定版〉 新選組紀行. PHP研究所. p. 103. https://books.google.co.jp/books?id=B49YDwAAQBAJ&pg=PT103 2022年1月17日閲覧. "今日の伏見区西奉行町にあるその跡地を訪ねると、ちょっとがっかりするかも知れない。御香宮神社の南方にあたるその跡には、「伏見奉行所跡」碑がぽつんと建っているだけなのだ。" 

脚注