「フィリップ・ジヤン」の版間の差分
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初期の読書によってジアンは文体の大切さを頭に叩き込んだ。[[ルイ=フェルディナン・セリーヌ]]の『なしくずしの死』、[[ウィリアム・フォークナー]]の『[[死の床に横たわりて]]』、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』<ref name="三番">これら3作品は2002年にジュリヤールから出版された『石盤』の各章を構成している</ref>。興味は[[アメリカ文学]]に向かった。「書くこと、それは調和を与えることである。時間に贈り物をすることである。空間に動きを、もの憂さにスウィングを与えることである。これらは[[ジャック・ケルアック]]から学んだことなのだ。最も重要で本質的で生死に関わる教え。そのためにケルアックは知識人たちから放逐されたわけだが」<ref name="四番">Entretien avec Philippe Djian par Yann Plougastel, revue Epok n° 23, 02/2002, entretien retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive].</ref>。2002年に出版されたジヤンの『石盤(Ardoise)』は、「私の人生に大変な衝撃を与え、私を文学に導いてくれた最初の10人(の作家)に」捧げられている。つまり、J・D・サリンジャー、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、[[ブレーズ・サンドラール]]、ジャック・ケルアック、[[ハーマン・メルヴィル]]、[[ヘンリー・ミラー]]、ウィリアム・フォークナー、[[アーネスト・ヘミングウェイ]]、[[レイモンド・カーヴァー]]、[[リチャード・ブローティガン]]である。ジヤンがブローディガンを知ったのは1970年代終わりのことである。「まず『[[:en:Dreaming_of_Babylon|バビロンを夢見て]]』(en)を読み、衝撃を受けた。信じられないような発見だった。楽しむとともに深刻でいられるなんて考えもしなかった。私に感銘を与えた詩だ、日常をうたった詩なんだけれども」<ref name="五番"> Entretien avec Philippe Djian, paru dans Le Moule à Gaufres n°7, Retombées de Brautigan, Paris, Éditions Méréal, 1993, entretien retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive].</ref>。1985年の『ベティ・ブルーーー愛と激情の日々』の銘句にジアンがその作者として選んだのはブローディガンだった。 |
初期の読書によってジアンは文体の大切さを頭に叩き込んだ。[[ルイ=フェルディナン・セリーヌ]]の『なしくずしの死』、[[ウィリアム・フォークナー]]の『[[死の床に横たわりて]]』、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』<ref name="三番">これら3作品は2002年にジュリヤールから出版された『石盤』の各章を構成している</ref>。興味は[[アメリカ文学]]に向かった。「書くこと、それは調和を与えることである。時間に贈り物をすることである。空間に動きを、もの憂さにスウィングを与えることである。これらは[[ジャック・ケルアック]]から学んだことなのだ。最も重要で本質的で生死に関わる教え。そのためにケルアックは知識人たちから放逐されたわけだが」<ref name="四番">Entretien avec Philippe Djian par Yann Plougastel, revue Epok n° 23, 02/2002, entretien retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive].</ref>。2002年に出版されたジヤンの『石盤(Ardoise)』は、「私の人生に大変な衝撃を与え、私を文学に導いてくれた最初の10人(の作家)に」捧げられている。つまり、J・D・サリンジャー、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、[[ブレーズ・サンドラール]]、ジャック・ケルアック、[[ハーマン・メルヴィル]]、[[ヘンリー・ミラー]]、ウィリアム・フォークナー、[[アーネスト・ヘミングウェイ]]、[[レイモンド・カーヴァー]]、[[リチャード・ブローティガン]]である。ジヤンがブローディガンを知ったのは1970年代終わりのことである。「まず『[[:en:Dreaming_of_Babylon|バビロンを夢見て]]』(en)を読み、衝撃を受けた。信じられないような発見だった。楽しむとともに深刻でいられるなんて考えもしなかった。私に感銘を与えた詩だ、日常をうたった詩なんだけれども」<ref name="五番"> Entretien avec Philippe Djian, paru dans Le Moule à Gaufres n°7, Retombées de Brautigan, Paris, Éditions Méréal, 1993, entretien retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive].</ref>。1985年の『ベティ・ブルーーー愛と激情の日々』の銘句にジアンがその作者として選んだのはブローディガンだった。 |
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ジアンはデニス・ジョンソンとマーティン・エイミスも評価している。「しかし、彼らのほうが自分より優れていると思うので、自分が書くときには読まないようにしている」とジヤンは2003年の雑誌『リール Lire(読む)』できっぱりと言っている<ref name=“七番”> « Philippe Djian en homme rangé », article magazine Lire du 1er juin 2003, disponible sur le site de L'Express.fr [archive].</ref>。より最近では、2010年に雑誌『レクスプレス l’Expresse』で、「今大好きなのはジェイ・マキナニー(略)とブレット・イーストン・エリスだ。『アメリカン・サイコ』もいいが、強烈すぎる。やはりフィリップ・ロスが最高だと思う。中でも『アメリカン・パストラル』が一番だ」と語っている<ref name=“一番”>« Philippe Djian: "Le métier d'écrivain est un travail d'artisan" », L'Express, 9 avril 2010 [archive]</ref>。フランス文学に関しては同じ『レクスプレス』のインタビューでパトリック・モディアノ、ジャン・エシュノーズ、クリスチャン・ガリを自分より「優れた」作家として挙げている<ref name=“一番”>« Philippe Djian: "Le métier d'écrivain est un travail d'artisan" », L'Express, 9 avril 2010 [archive]</ref>。 |
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自分の作品については、「それらは当初書きたいと思ったような作品では決してない。私は自分で読みたいと思う作品を書こうと努めている。しかし、書き終えるとそうではなくなっているのだ。結果としてその作品に満足できず、別のものを書かざるをえなくなるのだ」<ref name=“八番”> Entretien avec Philippe Djian par Éric Neuhoff, journal Le Figaro, 1993, retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive].</ref>。彼の作品は(いうまでもなく)ひとつの文から始まる。「インスピレーションで書くのは(そして今も書き続けているのは)、最初の文だけだ。この有名な最初の文からすべてが流れ出てくる」<ref name="一番">« Philippe Djian: "Le métier d'écrivain est un travail d'artisan" », L'Express, 9 avril 2010 [archive]</ref>。。彼は作品を手書きしたことはない。常にタイプライターを用い、のちにコンピュータを使うようになった<ref name="一番">« Philippe Djian: "Le métier d'écrivain est un travail d'artisan" », L'Express, 9 avril 2010 [archive]</ref>。。 |
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ジヤンは1970年代半ば、25歳のときにのちに妻となる女性と出合った。アネというあだ名の彼女はそのとき16歳だった。彼女は画家となり、二人は何人もの子を儲けた<ref name=“七番”> « Philippe Djian en homme rangé », article magazine Lire du 1er juin 2003, disponible sur le site de L'Express.fr [archive].</ref><ref name=“九番”>Entretien avec Philippe Djian par Jean-François Duval, revue Construire no 16, 18 avril 2000, retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive]</ref> |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2021年1月10日 (日) 06:59時点における版
フィリップ・ジヤン Philippe Djian | |
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フィリップ・ジヤン、2009年撮影 | |
誕生 |
1942年6月3日(82歳) フランス パリ |
言語 | フランス語 |
代表作 | 『ベティ・ブルー―愛と激情の日々(37°2 le matin)』(1985年) |
フィリップ・ジヤン (Philippe Djian, 1942年6月3日 - ) は、フランスの作家、作詞家、翻訳家。
1942年6月3日、フランス、パリ生まれ。
『ベティ・ブルー―愛と激情の日々(37°2 le matin)』(1985年)の作者として知られる。
経歴
フィリップ・ジヤン(Philippe Djian)は、パリ10区のちょっとしたブルジョワ家庭の3人きょうだいの長子として生まれた。中学校(collège)で知り合った友人、ジェローム・ウケ(Jérôme Equer)によって文学に開眼し、次に自ら書き始める[1]。まずはウケと一緒に行った旅行の記録という形で書き始めた。最初の旅行は、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』を追いかけた[1]18歳のときのアメリカ合衆国行きであった[2]。次に『パリ・マッチ』に寄稿する記事のためにコロンビアに行った[1]。
初期の読書によってジアンは文体の大切さを頭に叩き込んだ。ルイ=フェルディナン・セリーヌの『なしくずしの死』、ウィリアム・フォークナーの『死の床に横たわりて』、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』[3]。興味はアメリカ文学に向かった。「書くこと、それは調和を与えることである。時間に贈り物をすることである。空間に動きを、もの憂さにスウィングを与えることである。これらはジャック・ケルアックから学んだことなのだ。最も重要で本質的で生死に関わる教え。そのためにケルアックは知識人たちから放逐されたわけだが」[4]。2002年に出版されたジヤンの『石盤(Ardoise)』は、「私の人生に大変な衝撃を与え、私を文学に導いてくれた最初の10人(の作家)に」捧げられている。つまり、J・D・サリンジャー、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、ブレーズ・サンドラール、ジャック・ケルアック、ハーマン・メルヴィル、ヘンリー・ミラー、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ、レイモンド・カーヴァー、リチャード・ブローティガンである。ジヤンがブローディガンを知ったのは1970年代終わりのことである。「まず『バビロンを夢見て』(en)を読み、衝撃を受けた。信じられないような発見だった。楽しむとともに深刻でいられるなんて考えもしなかった。私に感銘を与えた詩だ、日常をうたった詩なんだけれども」[5]。1985年の『ベティ・ブルーーー愛と激情の日々』の銘句にジアンがその作者として選んだのはブローディガンだった。
ジアンはデニス・ジョンソンとマーティン・エイミスも評価している。「しかし、彼らのほうが自分より優れていると思うので、自分が書くときには読まないようにしている」とジヤンは2003年の雑誌『リール Lire(読む)』できっぱりと言っている[6]。より最近では、2010年に雑誌『レクスプレス l’Expresse』で、「今大好きなのはジェイ・マキナニー(略)とブレット・イーストン・エリスだ。『アメリカン・サイコ』もいいが、強烈すぎる。やはりフィリップ・ロスが最高だと思う。中でも『アメリカン・パストラル』が一番だ」と語っている[7]。フランス文学に関しては同じ『レクスプレス』のインタビューでパトリック・モディアノ、ジャン・エシュノーズ、クリスチャン・ガリを自分より「優れた」作家として挙げている[7]。
自分の作品については、「それらは当初書きたいと思ったような作品では決してない。私は自分で読みたいと思う作品を書こうと努めている。しかし、書き終えるとそうではなくなっているのだ。結果としてその作品に満足できず、別のものを書かざるをえなくなるのだ」[8]。彼の作品は(いうまでもなく)ひとつの文から始まる。「インスピレーションで書くのは(そして今も書き続けているのは)、最初の文だけだ。この有名な最初の文からすべてが流れ出てくる」[1]。。彼は作品を手書きしたことはない。常にタイプライターを用い、のちにコンピュータを使うようになった[1]。。
ジヤンは1970年代半ば、25歳のときにのちに妻となる女性と出合った。アネというあだ名の彼女はそのとき16歳だった。彼女は画家となり、二人は何人もの子を儲けた[6][9]
脚注
- ^ a b c d e « Philippe Djian: "Le métier d'écrivain est un travail d'artisan" », L'Express, 9 avril 2010 [archive]
- ^ Entretien avec Philippe Djian par Jean-Luc Bitton, Routard.com, août 2002, entretien retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive].
- ^ これら3作品は2002年にジュリヤールから出版された『石盤』の各章を構成している
- ^ Entretien avec Philippe Djian par Yann Plougastel, revue Epok n° 23, 02/2002, entretien retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive].
- ^ Entretien avec Philippe Djian, paru dans Le Moule à Gaufres n°7, Retombées de Brautigan, Paris, Éditions Méréal, 1993, entretien retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive].
- ^ a b « Philippe Djian en homme rangé », article magazine Lire du 1er juin 2003, disponible sur le site de L'Express.fr [archive].
- ^ a b « Philippe Djian: "Le métier d'écrivain est un travail d'artisan" », L'Express, 9 avril 2010 [archive]
- ^ Entretien avec Philippe Djian par Éric Neuhoff, journal Le Figaro, 1993, retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive].
- ^ Entretien avec Philippe Djian par Jean-François Duval, revue Construire no 16, 18 avril 2000, retranscrit sur le site Philippedjian.free.fr [archive]