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2020年6月28日 (日) 02:59時点における版
柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年1月28日 - 1980年1月28日)は、東京府出身の化学者。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。
生涯
薬学者柴田承桂の息子として東京市神田区駿河台に生まれる。父は当時、東京医学校(東京大学医学部の前身)教授。祖先は代々、尾張藩で侍医を務めた。兄柴田桂太は、のち植物生理学者、東京帝国大学教授。長男は著名な作曲家にして音楽評論家の柴田南雄。
東京高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)から旧制第一高等学校を経て、1904年、東京帝国大学理科大学化学科入学、桜井錠二や池田菊苗たちに師事し、1907年卒業。東京帝国大学大学院に進んで松原行一に師事した後、1910年、東京帝国大学理科大学講師となったが、同年、文部省留学生としてヨーロッパに渡り、ドイツではライプツィヒ大学にてハンチに、スイスではチューリヒ大学にてアルフレート・ヴェルナーに、フランスではパリ大学にてジョルジュ・ユルバンに学ぶ。
1913年に帰国し、東京帝国大学理科大学助教授として無機化学を講じる。1916年、長男南雄誕生。1917年7月16日、金属錯塩の吸収スペクトルの研究によって理学博士となる[1]。1919年、東京帝国大学教授。
1927年、帝国学士院恩賜賞受賞。1942年、東京帝国大学理学部教授を定年退官し、新設の名古屋帝国大学に赴任、理学部長に就任。1944年、帝国学士院会員となる。
1948年、名古屋大学教授を退官。1949年、東京都立大学 (1949-2011)の初代総長に就任し、1957年までこの地位にあった。
1962年、日本学士院院長に就任(~1970年)。文化功労者となる。
日本の科学界全体の国際交流に尽くした他、日本の火山・温泉や古代文化財に対する化学的研究を本格的に行った。特に錯塩化学の日本における草分け的存在である。
脚注
- ^ 『官報』第1545号、大正6年9月25日。
参考文献
- 竹内敬人「柴田雄次」(『科学史技術史事典』(弘文堂、1983年) ISBN 978-4-335-75003-8)
関連項目
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