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*[[1884年]](明治17年)[[10月10日]]に[[元服]]。翌日、[[結婚]]。
*[[1884年]](明治17年)[[10月10日]]に[[元服]]。翌日、[[結婚]]。
*[[1887年]](明治20年)には[[尚順]](松山王子)とともに[[沖縄県|沖縄]]に帰郷。その後[[公同会運動]]を展開した。
*[[1887年]](明治20年)には[[尚順]](松山王子)とともに[[沖縄県|沖縄]]に帰郷。その後[[公同会運動]]を展開した。
*[[1896年]](明治29年)に弟・尚順らと[[琉球新報]]を創刊。[[6月30日]]には、男爵を授かる。
*[[1896年]](明治29年)に弟・[[尚順]]らと[[琉球新報]]を創刊。[[6月30日]]には、男爵を授かる。


== 栄典 ==
== 栄典 ==
* [[1896年]](明治29年)[[6月30日]] - [[男爵]]<ref>『官報』第3901号「叙任及辞令」1896年7月1日。</ref>
* [[1896年]](明治29年)[[6月30日]] - [[男爵]]<ref>『[[官報]]』第3901号「叙任及辞令」1896年7月1日。</ref>
* [[1902年]](明治35年)[[6月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。</ref>
* [[1902年]](明治35年)[[6月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。</ref>



2019年12月12日 (木) 09:31時点における版

しょう いん

尚 寅
生誕 尚泰王 第四王子 思樽金
1866年11月22日
琉球王国首里
死没 (1905-02-17) 1905年2月17日(38歳没)
墓地 宜野湾御殿の墓
住居 宜野湾御殿
国籍 琉球王国
日本の旗 日本
別名 宜野湾王子朝広
宜野湾御殿一世
民族 琉球民族
職業 王族
貴族
実業家
肩書き 宜野湾間切按司地頭
琉球新報 創設者
運動・動向 公同会運動
宗教 祖先崇拝
配偶者 大山按司加那志(伊江朝永三女)
尚泰王
佐敷按司加那志
栄誉 男爵
正五位
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尚 寅(しょう いん、宜野湾王子朝広、同治5年10月16日1866年11月22日) - 明治38年(1905年2月17日)は、琉球国尚泰王の次子。男爵宜野湾御殿の元祖。童名・思樽金。

生涯

栄典

家族

  • 父・尚泰王
  • 母・佐敷按司加那志
  • 妻・大山按司加那志(1871年(明治4年)4月16日 - 1918年(大正7年)12月17日、童名・真鍋樽(和名・ナベ子)、伊江朝永三女)
    • 長女・房子(1889年(明治22年)生。伊江朝助に嫁ぐ)
    • 長男・尚琳(しょうりん、1891年(明治24年)12月12日 - 1963年(昭和38年)7月30日)
    • 次男・尚球(しょうきゅう、1892年(明治25年)9月23日生)

宜野湾御殿の墓

宜野湾御殿の墓は、沖縄県那覇市史跡に指定されており、那覇市の末吉公園にある。

脚注

  1. ^ 官報』第3901号「叙任及辞令」1896年7月1日。
  2. ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。

関連項目

爵位
先代
叙爵
男爵
尚家(分家)初代
1896年 - 1905年
次代
尚琳