「宇野正高」の版間の差分
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==来歴== |
==来歴== |
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愛知県愛知郡日進町(現日進市)で(8人兄弟の7番目)として生を受け、戦後の動乱期に幼・少年時代を過ごす。 |
愛知県愛知郡日進町(現日進市)で(8人兄弟の7番目)として生を受け、戦後の動乱期に幼・少年時代を過ごす。1962年12月26日、16歳でプロデビュー。以来45戦もの戦いに死力を尽くした。サウスポーの闘志あふれるファイターで、意外性があり、デビュー以来多くのファンを楽しませた。 |
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着実に力を付け、 |
着実に力を付け、1966年12月、牛若丸原田(笹崎)と対戦、引き分けて日本ランク入りを果たした。世界チャンピオン・ファイティング原田の実弟で、後にバンタム級・フェザー級の二階級で日本タイトルを獲得した強豪に一歩も引かなかったことは、大器の片鱗を伺わせた。1968年1月には、日本スーパーバンタム級で7度の防衛を果たした実力者・太郎浦一(新和)を破り、一躍脚光を浴びた。試合は、終始ストレートを出しては足で逃げる太郎浦に対して、「あくまで打ちまくる」のが身上の宇野が、右フックの連打で攻め続けた。7回のダウンに続き、8回59秒の右アッパー2発が決定打となり、一階級上のチャンピオンに堂々のKO勝ちであった。 |
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宇野の名を一躍世に知らしめたのは、そのわずか一ヶ月後に金山体育館(名古屋市)で行なわれたジョー・メデル(メキシコ)との一戦。世界ランクから外れたとはいえ、歴史的強豪として畏怖された偉大なボクサーに敢然と挑んだのは、まさしく、宇野の「常に目標を上位におき、飛躍を目ざしたい」という信条だったであろう。 |
宇野の名を一躍世に知らしめたのは、そのわずか一ヶ月後に金山体育館(名古屋市)で行なわれたジョー・メデル(メキシコ)との一戦。世界ランクから外れたとはいえ、歴史的強豪として畏怖された偉大なボクサーに敢然と挑んだのは、まさしく、宇野の「常に目標を上位におき、飛躍を目ざしたい」という信条だったであろう。 |
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勝てば世界ランク入りが視野に入るこの大舞台に、宇野は万全の準備で臨んだ。 |
勝てば世界ランク入りが視野に入るこの大舞台に、宇野は万全の準備で臨んだ。64ラウンドものスパーリングをこなし、弱点であった「目の負傷」にも、コミッションドクターから5針縫う手術を受けて備えた。 |
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宇野にとって「生涯の一戦」となったこの10回戦。老練な技巧で序盤からペースを作るメデルに対し、宇野は若さを前面に出し、左ストレート・右フックの二段打ちで対抗した。中盤から盛り返して引き分けに持ち込んだという善戦。 |
宇野にとって「生涯の一戦」となったこの10回戦。老練な技巧で序盤からペースを作るメデルに対し、宇野は若さを前面に出し、左ストレート・右フックの二段打ちで対抗した。中盤から盛り返して引き分けに持ち込んだという善戦。 |
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「前半は恐くて入って行けなかった」と反省を口にしたが、 |
「前半は恐くて入って行けなかった」と反省を口にしたが、22歳の青年ボクサーにとって、何物にも代えがたい「成長の糧」となった価値ある試合であった。 |
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メデル戦のさらに2ヶ月後の |
メデル戦のさらに2ヶ月後の1968年4月。日本チャンピオンの高木永悟(アベ)とのタイトルマッチを戦う。初回からファイター同士の激しい打ち合いとなり、中盤にラッシュが爆発したが、一進一退のシーソーゲームの中、左目の出血が宇野を襲いドクターストップ。7回不運なTKO負けを喫した。思えば、目の負傷は彼のボクサー人生に常に付いて回った。 |
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日本バンタム級 |
日本バンタム級1位となり、同年7月、後に東洋バンタム級チャンピオンとなる金沢和良(アベ)と対戦するも敗戦。同年9月にはメキシコに渡り、オクタビオ・ファモソ・ゴメスと対戦。自身初の外国での試合であったが、惜しくもTKO敗け。しかし、敗れてもなおリングにほとばしる闘志は、見る者に大きな感動を呼び覚ました。 |
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1969年9月、後にスーパーバンタム級チャンピオンを4度防衛するサルトビ小山との対戦がTKO敗けとなり、これが宇野の最後の試合となった。思えばまだまだ貧しい時代、プロボクサーの人口も多い中で、目の負傷を抱えながら毎月のように試合に出場し、45戦を戦ったことは、日本ボクシング界に残る偉業に違いない。 |
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1970年6月1日、8年に及ぶプロボクサー人生に幕を下ろし正式引退。現在は、2007年1月にオープンしたアマチュアボクシングジム「ボクシングジムUNO」の会長として、日夜後進の育成に尽力している。 |
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==人物・エピソード == |
==人物・エピソード == |
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* ボクシング引退後に始めたゴルフは相当な腕前で、1980年に「第11回東海クラシック」にも出場している(第8回東海マスターズに初参加で予選1位通過。決勝戦は2位で、東海クラシックに推薦出場)。 |
* ボクシング引退後に始めたゴルフは相当な腕前で、1980年に「第11回東海クラシック」にも出場している(第8回東海マスターズに初参加で予選1位通過。決勝戦は2位で、東海クラシックに推薦出場)。 |
2019年10月12日 (土) 00:21時点における版
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基本情報 | |
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階級 | バンタム級 |
身長 | 166㎝ |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1946年3月26日(78歳) |
出身地 | 愛知日進市 |
スタイル | サウスポー |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 45 |
勝ち | 20 |
KO勝ち | 6 |
敗け | 12 |
引き分け | 12 |
無効試合 | 1 |
宇野 正高(うの まさたか、1946年3月25日 - )は、愛知県日進市出身の元プロボクサー、アマチュアボクシング指導者。最高位は日本バンタム級1位。東海ジム所属。
来歴
愛知県愛知郡日進町(現日進市)で(8人兄弟の7番目)として生を受け、戦後の動乱期に幼・少年時代を過ごす。1962年12月26日、16歳でプロデビュー。以来45戦もの戦いに死力を尽くした。サウスポーの闘志あふれるファイターで、意外性があり、デビュー以来多くのファンを楽しませた。 着実に力を付け、1966年12月、牛若丸原田(笹崎)と対戦、引き分けて日本ランク入りを果たした。世界チャンピオン・ファイティング原田の実弟で、後にバンタム級・フェザー級の二階級で日本タイトルを獲得した強豪に一歩も引かなかったことは、大器の片鱗を伺わせた。1968年1月には、日本スーパーバンタム級で7度の防衛を果たした実力者・太郎浦一(新和)を破り、一躍脚光を浴びた。試合は、終始ストレートを出しては足で逃げる太郎浦に対して、「あくまで打ちまくる」のが身上の宇野が、右フックの連打で攻め続けた。7回のダウンに続き、8回59秒の右アッパー2発が決定打となり、一階級上のチャンピオンに堂々のKO勝ちであった。 宇野の名を一躍世に知らしめたのは、そのわずか一ヶ月後に金山体育館(名古屋市)で行なわれたジョー・メデル(メキシコ)との一戦。世界ランクから外れたとはいえ、歴史的強豪として畏怖された偉大なボクサーに敢然と挑んだのは、まさしく、宇野の「常に目標を上位におき、飛躍を目ざしたい」という信条だったであろう。 勝てば世界ランク入りが視野に入るこの大舞台に、宇野は万全の準備で臨んだ。64ラウンドものスパーリングをこなし、弱点であった「目の負傷」にも、コミッションドクターから5針縫う手術を受けて備えた。 宇野にとって「生涯の一戦」となったこの10回戦。老練な技巧で序盤からペースを作るメデルに対し、宇野は若さを前面に出し、左ストレート・右フックの二段打ちで対抗した。中盤から盛り返して引き分けに持ち込んだという善戦。 「前半は恐くて入って行けなかった」と反省を口にしたが、22歳の青年ボクサーにとって、何物にも代えがたい「成長の糧」となった価値ある試合であった。 メデル戦のさらに2ヶ月後の1968年4月。日本チャンピオンの高木永悟(アベ)とのタイトルマッチを戦う。初回からファイター同士の激しい打ち合いとなり、中盤にラッシュが爆発したが、一進一退のシーソーゲームの中、左目の出血が宇野を襲いドクターストップ。7回不運なTKO負けを喫した。思えば、目の負傷は彼のボクサー人生に常に付いて回った。 日本バンタム級1位となり、同年7月、後に東洋バンタム級チャンピオンとなる金沢和良(アベ)と対戦するも敗戦。同年9月にはメキシコに渡り、オクタビオ・ファモソ・ゴメスと対戦。自身初の外国での試合であったが、惜しくもTKO敗け。しかし、敗れてもなおリングにほとばしる闘志は、見る者に大きな感動を呼び覚ました。 1969年9月、後にスーパーバンタム級チャンピオンを4度防衛するサルトビ小山との対戦がTKO敗けとなり、これが宇野の最後の試合となった。思えばまだまだ貧しい時代、プロボクサーの人口も多い中で、目の負傷を抱えながら毎月のように試合に出場し、45戦を戦ったことは、日本ボクシング界に残る偉業に違いない。 1970年6月1日、8年に及ぶプロボクサー人生に幕を下ろし正式引退。現在は、2007年1月にオープンしたアマチュアボクシングジム「ボクシングジムUNO」の会長として、日夜後進の育成に尽力している。
人物・エピソード
- ボクシング引退後に始めたゴルフは相当な腕前で、1980年に「第11回東海クラシック」にも出場している(第8回東海マスターズに初参加で予選1位通過。決勝戦は2位で、東海クラシックに推薦出場)。
- 選手時代から無類の甘党で、ジムの鏡開きでは「ぜんざい5杯」をペロリと平らげた。
参考文献
KKベストセラーズ社刊「ボクシング・ワールド」2007年2月号。P124 ベースボールマガジン社刊「日本の名ボクサー100選」2013年6月号。P103 フィットネススポーツ社刊「ボクシング・ビート」2018年11月号。P110&P111