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「バルトロメオ・コレオーニ (軽巡洋艦)」の版間の差分

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2019年2月11日 (月) 15:59時点における版

バルトロメオ・コレオーニ
シドニーから撮影したコレオーニ(1940年7月)
シドニーから撮影したコレオーニ(1940年7月)
基本情報
建造所 アンサルド、ジェノバ造船所
運用者  イタリア王立海軍
艦種 二等巡洋艦
級名 ジュッサーノ型
母港 ナポリ
艦歴
発注 1926年
起工 1928年6月21日
進水 1930年12月21日
就役 1932年2月10日
最期 スパダ岬沖海戦1940年7月19日被雷沈没
要目
基準排水量 5,110英トン
常備排水量 6,571トン
満載排水量 6,954トン[1]
全長 169.30m
最大幅 15.50m
吃水 5.3m
ボイラー ヤーロー-アンサルド水管缶
主機 ベッルッツォ式タービン2基
推進 2軸
出力 計画 95,000hp
速力 計画 36.5ノット
航続距離 計画 3,800海里 / 18ノット
乗員 507名うち司令部19名
兵装 アンサルド1926年式152/53砲イタリア語版 4基8門
OTO/アンサルド100/47砲イタリア語版3基6門
ブレダ1932年式37mm機銃英語版連装4基(竣工時)
ブレダM35RM 20mm機銃連装4基(改装後)
533mm連装発射管2基4門
装甲 機関部舷側 24mm、甲板 20mm
ターレット23mm、甲板20mm
司令塔 40mm
搭載機 水偵2機
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バルトロメオ・コレオーニ (Bartolomeo Colleoni) は、1930年進水イタリア海軍軽巡洋艦アルベルト・ディ・ジュッサーノ級

艦名の由来

コンドッティエーレバルトロメーオ・コッレオーニから命名[要出典]

艦歴

ジェノバアンサルド社で建造[2]。1928年6月21日起工[2]。1930年12月21日進水[2]。1932年2月10日竣工[2]

1938年11月に上海へと向かいイタリア東洋艦隊の旗艦を務め、1939年には親善航海を行い、青島芝罘秦皇島大連神戸横浜長崎を訪問している[3]第二次世界大戦勃発後の1939年10月28日にイタリア本国に戻った[4]。バルトロメオ・コレオーニはジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレとともに第2艦隊の第2戦隊を編成した[4]

1940年6月10日、シチリア海峡への機雷敷設を行う[4]。7月6日から第2戦隊(バルトロメオ・コレオーニ、ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ)は駆逐艦や水雷艇とともにナポリカターニアからベンガジへ向かう船団を護衛した[5]。この船団は人員2200名、戦車72両、車両237両や16,000トン以上の燃料および補給物資を運ぶもので、7月8日にベンガジに到着した[6]。この翌日にはカラブリア沖海戦が発生している。

スパダ岬沖海戦

イギリスの小型タンカーの船団がルーマニアからギリシャ水域へと向かっているとの情報に基づき、第2戦隊(バルトロメオ・コレオーニ、ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ)にその攻撃が命じられた[7]。7月17日、第2戦隊はトリポリから出撃した[7]。7月19日、クレタ島西のアンティキティラ海峡からエーゲ海へ入った第2戦隊はイギリスの第2駆逐群(駆逐艦アイレクスヒーローヘイスティハイペリオン)と遭遇、戦闘となった(スパダ岬沖海戦[8]。イギリスの駆逐艦は北東へ向かい、それを追跡するイタリア軽巡洋艦との間で砲火が交わされた[8]。だが、戦場に軽巡洋艦シドニーと駆逐艦ハヴォックが現れ、イタリア軽巡洋艦は南西へと向かい今度はシドニーなどはそれを追撃した[9]。バルトロメオ・コレオーニは被弾して航行不能となり、さらにアイレクスとハイペリオンの雷撃でそれぞれ魚雷1本が命中し、スパダ岬沖で転覆し沈没した[10]。生存者はアイレクス、ハイペリオン、ハヴォックにより救助された[11]。救助された人数は525名とするもの[12][13]と、545名とするもの[14][11]がある。 その内、艦長Novaroなど51名は負傷しており、その後艦長は死亡している[14]。他にギリシャの貨物船に7名が救助されているが、121名が死亡[15]した[14]

脚注

  1. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「JapaneseCruisers-p565」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  2. ^ a b c d Cruisers of World War Two, p.129
  3. ^ VITA OPERATIVA DEGLI INCROCIATORI LEGGERI Classe “DI GIUSSANO””. pietrocristini.com. 2019年2月11日閲覧。 (イタリア語)
  4. ^ a b c Cruisers of World War Two, p.131
  5. ^ Struggle for the Middle Sea, p.34
  6. ^ Struggle for the Middle Sea, pp.34-35
  7. ^ a b Struggle for the Middle Sea, p.45
  8. ^ a b Struggle for the Middle Sea, p.46
  9. ^ Struggle for the Middle Sea, p.47
  10. ^ Struggle for the Middle Sea, pp.47-48
  11. ^ a b Struggle for the Middle Sea, p.48
  12. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.33
  13. ^ Selected Operations (Mediterranean), p.31
  14. ^ a b c The Naval War in the Miditerranean, p.85
  15. ^ The Naval War in the Miditerranean, p.85 では艦長を含むかは不明。Struggle for the Middle Sea, p.48 では死者数に艦長も含める。

参考文献

  • M. J. Whitley, Cruisers of World War Two: an International Encyclopedia, Naval Institute Press, 2000, ISBN 1-55750-141-6
  • Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3
  • Jack Greene and Alessandro, The Naval War in the Miditerranean, Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2
  • Jurgen Rohwer, Chronology of the War at Sea 1939-1945, Naval institute press, 2005, ISBN 1-59114-119-2