「本田実」の版間の差分
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
2行目: | 2行目: | ||
本田は1923年ごろ(当時10歳)、生家の星空の美しさを意識し始め、ためた小遣いで口径28mmのシングルレンズと焦点距離25mmの[[ラムスデン式接眼鏡]]を買った。32倍の[[屈折望遠鏡]]を自作して下弦の月を見たのが、望遠鏡による初めての天体観測となった(当時17歳)。 |
本田は1923年ごろ(当時10歳)、生家の星空の美しさを意識し始め、ためた小遣いで口径28mmのシングルレンズと焦点距離25mmの[[ラムスデン式接眼鏡]]を買った。32倍の[[屈折望遠鏡]]を自作して下弦の月を見たのが、望遠鏡による初めての天体観測となった(当時17歳)。 |
||
対物レンズは桐の小箱に大切に保管され、「我ニ太陽ノ黒点ヲ 木星ノ四大衛星ヲ 土星ノ環ヲ 最初ニ見セテクレタレンズ 28ミリシングルレンズ」と表書きがされている。 |
対物レンズは[[桐]]の小箱に大切に保管され、「我ニ太陽ノ黒点ヲ 木星ノ四大衛星ヲ 土星ノ環ヲ 最初ニ見セテクレタレンズ 28ミリシングルレンズ」と表書きがされている。 |
||
1930年ごろ、[[国立天文台|東京天文台]]の[[神田茂]]著『彗星の話』を読んで、[[彗星]]発見を決意。[[1932年]]には[[金星]]のそばに彗星らしきものを発見し、[[京都大学]]の[[京都大学大学院理学研究科附属花山天文台|花山天文台]]に報告したが、「恐らくゴースト」と指摘するハガキが届いた。 |
1930年ごろ、[[国立天文台|東京天文台]]の[[神田茂]]著『彗星の話』を読んで、[[彗星]]発見を決意。[[1932年]]には[[金星]]のそばに彗星らしきものを発見し、[[京都大学]]の[[京都大学大学院理学研究科附属花山天文台|花山天文台]]に報告したが、「恐らくゴースト」と指摘するハガキが届いた。 |
||
これを契機に、同天文台長・[[山本一清]]の指導を受け、[[日食]]や[[黄道光]]を観測した。黄道光観測所(当時・広島県福山市)時代の[[1940年]]に初の彗星発見となる[[岡林・本田彗星]]を発見。[[1941年]]から、[[岡山県]][[倉敷市]]中央の全国初の民間天文台である[[倉敷天文台]]で活躍した。 |
これを契機に、同天文台長・[[山本一清]]の指導を受け、[[日食]]や[[黄道光]]を観測した。黄道光観測所(当時・広島県[[福山市]])時代の[[1940年]]に初の彗星発見となる[[岡林・本田彗星]]を発見。[[1941年]]から、[[岡山県]][[倉敷市]]中央の全国初の民間天文台である[[倉敷天文台]]で活躍した。 |
||
戦争中も、戦地の[[マレー半島|マライ半島]]では星図もなかったが、星雲状の移動天体を捜索、「彗星発見か」と、シンガポールから[[東京天文台]]へと送られた。新彗星ではなかったものの、[[グリッグ・シェレルップ彗星|グリグ・スケレルプ周期彗星]]であることが判明し、「空に科学する兵士」と報じられ、内地の慧夫人に居場所を知らせることになった<ref>{{Cite journal|title=遺稿「星へものを尋ねて(わが感情天文学)」|journal=天文月報|publisher=日本天文学会|date=1990年12月}}</ref>。 |
戦争中も、戦地の[[マレー半島|マライ半島]]では星図もなかったが、星雲状の移動天体を捜索、「彗星発見か」と、シンガポールから[[東京天文台]]へと送られた。新彗星ではなかったものの、[[グリッグ・シェレルップ彗星|グリグ・スケレルプ周期彗星]]であることが判明し、「空に科学する兵士」と報じられ、内地の慧夫人に居場所を知らせることになった<ref>{{Cite journal|title=遺稿「星へものを尋ねて(わが感情天文学)」|journal=天文月報|publisher=日本天文学会|date=1990年12月}}</ref>。 |
||
本田には「プレアデス星団(日本名・すばる)の星が27個見えた」との逸話があるが、1941年、従軍中の旧満州から滋賀県の田上天文台の山本一情教授に宛てたハガキにある「プレアデスを数えてみますと、實に27個の星を数えました」の記述により実証された<ref>日本海新聞(2017年12月28日)</ref>。 |
本田には「プレアデス星団(日本名・[[すばる]])の星が27個見えた」との逸話があるが、1941年、従軍中の旧満州から滋賀県の田上天文台の山本一情教授に宛てたハガキにある「プレアデスを数えてみますと、實に27個の星を数えました」の記述により実証された<ref>日本海新聞(2017年12月28日)</ref>。 |
||
倉敷の街が明かるくなり、新天体発見が困難になったため、暗い空を求めて移動観測していたとき、[[賀陽町]](現・[[吉備中央町]])の地域の人のはからいで、[[1981年]]に私費で建設した観測所を「星尋山荘(せいじんさんそう)」と名付けた。星尋山荘で通算1453回目の観測を行った2日後の[[1990年]][[8月26日]]、倉敷天文台内で永眠。倉敷市名誉市民となった<ref name=kurashiki/>。 |
倉敷の街が明かるくなり、新天体発見が困難になったため、暗い空を求めて移動観測していたとき、[[賀陽町]](現・[[吉備中央町]])の地域の人のはからいで、[[1981年]]に私費で建設した観測所を「星尋山荘(せいじんさんそう)」と名付けた。星尋山荘で通算1453回目の観測を行った2日後の[[1990年]][[8月26日]]、倉敷天文台内で永眠。倉敷市名誉市民となった<ref name=kurashiki/>。 |
2018年10月22日 (月) 00:41時点における版
本田 實(ほんだ みのる、1913年2月26日 - 1990年8月26日)は世界を代表する日本のアマチュア天文家[1]。生涯に彗星12個、新星11個を発見した[2]。鳥取県八頭郡八頭村(現八頭町)出身。八東町名誉町民第1号。八東尋常高小卒。独学による天文観測。1985年第19回吉川英治文化賞受賞。1987年フランス天文学会100周年記念賞受賞。[3]
本田は1923年ごろ(当時10歳)、生家の星空の美しさを意識し始め、ためた小遣いで口径28mmのシングルレンズと焦点距離25mmのラムスデン式接眼鏡を買った。32倍の屈折望遠鏡を自作して下弦の月を見たのが、望遠鏡による初めての天体観測となった(当時17歳)。 対物レンズは桐の小箱に大切に保管され、「我ニ太陽ノ黒点ヲ 木星ノ四大衛星ヲ 土星ノ環ヲ 最初ニ見セテクレタレンズ 28ミリシングルレンズ」と表書きがされている。
1930年ごろ、東京天文台の神田茂著『彗星の話』を読んで、彗星発見を決意。1932年には金星のそばに彗星らしきものを発見し、京都大学の花山天文台に報告したが、「恐らくゴースト」と指摘するハガキが届いた。 これを契機に、同天文台長・山本一清の指導を受け、日食や黄道光を観測した。黄道光観測所(当時・広島県福山市)時代の1940年に初の彗星発見となる岡林・本田彗星を発見。1941年から、岡山県倉敷市中央の全国初の民間天文台である倉敷天文台で活躍した。
戦争中も、戦地のマライ半島では星図もなかったが、星雲状の移動天体を捜索、「彗星発見か」と、シンガポールから東京天文台へと送られた。新彗星ではなかったものの、グリグ・スケレルプ周期彗星であることが判明し、「空に科学する兵士」と報じられ、内地の慧夫人に居場所を知らせることになった[4]。
本田には「プレアデス星団(日本名・すばる)の星が27個見えた」との逸話があるが、1941年、従軍中の旧満州から滋賀県の田上天文台の山本一情教授に宛てたハガキにある「プレアデスを数えてみますと、實に27個の星を数えました」の記述により実証された[5]。
倉敷の街が明かるくなり、新天体発見が困難になったため、暗い空を求めて移動観測していたとき、賀陽町(現・吉備中央町)の地域の人のはからいで、1981年に私費で建設した観測所を「星尋山荘(せいじんさんそう)」と名付けた。星尋山荘で通算1453回目の観測を行った2日後の1990年8月26日、倉敷天文台内で永眠。倉敷市名誉市民となった[2]。
小惑星の名前の中に、本田實((3904) 本田)と慧(さとる)夫人((8485) 慧)、そして星尋山荘((11442) 星尋山荘)がある。
脚注
- ^ 『人物レファレンス事典郷土人物編』(2008)
- ^ a b “秘書課/倉敷市”. 倉敷市. 2015年7月19日閲覧。
- ^ “本田実”. kotobank.jp. 2018年10月15日閲覧。
- ^ “遺稿「星へものを尋ねて(わが感情天文学)」”. 天文月報 (日本天文学会). (1990年12月).
- ^ 日本海新聞(2017年12月28日)
外部リンク
- 公益財団法人倉敷天文台 - 公式サイト
- ようこそ星尋山荘へ - 星尋山荘のホームページ