「浅井万福丸」の版間の差分
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近江国の戦国大名・浅井長政の嫡男として誕生。 |
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生母については不明。長政には二男三女がいたとされるが(『[[翁草]]』)、万福丸は『[[信長公記]]』に基づく[[織田信長]]の妹・[[お市の方]]の入嫁以前の出生とされ、長政は[[六角氏]]重臣・[[平井定武]]の娘とも婚約しており、[[側室]]の存在も確認されていたため、万福丸と次男は市の出子でなく継母となった市の養子となった説(『浅井氏家譜大成』)や、市の入嫁時期を永禄4年([[1561年]])とする見解を示す説があり<ref>[[太田浩司]]『北近江の戦国史』</ref>、市の出子や[[浅井三姉妹]]との双子である可能性を示している<ref>[[福田千鶴]]『江の生涯』</ref>。 |
生母については不明。長政には二男三女がいたとされるが(『[[翁草]]』)、万福丸は『[[信長公記]]』に基づく[[織田信長]]の妹・[[お市の方]]の入嫁以前の出生とされ、長政は[[六角氏]]重臣・[[平井定武]]の娘とも婚約しており、[[側室]]の存在も確認されていたため、万福丸と次男は市の出子でなく継母となった市の養子となった説(『浅井氏家譜大成』)や、市の入嫁時期を永禄4年([[1561年]])とする見解を示す説があり<ref>[[太田浩司]]『北近江の戦国史』</ref>、市の出子や[[浅井三姉妹]]との双子である可能性を示している<ref>[[福田千鶴]]『江の生涯』</ref>。幼いころに、[[越前国|越前]]の[[朝倉義景]]のもとに人質として過ごしたという(『[[当代記]]』)。 |
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天正元年(1573年)、[[織田氏]]の攻撃による[[浅井氏]]の滅亡に伴い死去。[[余呉湖]]のほとりに匿われていたが、信長の命で万福丸を執拗に捜索した[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の軍勢によって発見されて、串刺しの刑に処せられた。『信長公記』によれば、処刑は[[関ヶ原]]で執行された。「浅井備前が十歳の嫡男」とあり、この時に10歳であったことから、永禄7年の誕生であることがわかる<ref>[[北川央]]「それからのお市と娘たち」(小和田哲男編『浅井長政のすべて』新人物往来社、2008年)171頁</ref>。 |
天正元年(1573年)、[[織田氏]]の攻撃による[[浅井氏]]の滅亡に伴い死去。[[余呉湖]]のほとりに匿われていたが、信長の命で万福丸を執拗に捜索した[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の軍勢によって発見されて、串刺しの刑に処せられた。『信長公記』によれば、処刑は[[関ヶ原]]で執行された。「浅井備前が十歳の嫡男」とあり、この時に10歳であったことから、永禄7年の誕生であることがわかる<ref>[[北川央]]「それからのお市と娘たち」(小和田哲男編『浅井長政のすべて』新人物往来社、2008年)171頁</ref>。 |
2018年1月29日 (月) 11:28時点における版
浅井 万福丸(あざい まんぷくまる、淺井 萬福丸、永禄7年(1564年)? - 天正元年9月(1573年10月))は、安土桃山時代の人物。近江国の戦国大名・浅井長政の嫡男。生母は不明。
『浅井氏家譜大成』によれば、諱は輝政とされるが、実際に元服した事項の確証性はない。
生涯
近江国の戦国大名・浅井長政の嫡男として誕生。
生母については不明。長政には二男三女がいたとされるが(『翁草』)、万福丸は『信長公記』に基づく織田信長の妹・お市の方の入嫁以前の出生とされ、長政は六角氏重臣・平井定武の娘とも婚約しており、側室の存在も確認されていたため、万福丸と次男は市の出子でなく継母となった市の養子となった説(『浅井氏家譜大成』)や、市の入嫁時期を永禄4年(1561年)とする見解を示す説があり[1]、市の出子や浅井三姉妹との双子である可能性を示している[2]。幼いころに、越前の朝倉義景のもとに人質として過ごしたという(『当代記』)。
天正元年(1573年)、織田氏の攻撃による浅井氏の滅亡に伴い死去。余呉湖のほとりに匿われていたが、信長の命で万福丸を執拗に捜索した羽柴秀吉の軍勢によって発見されて、串刺しの刑に処せられた。『信長公記』によれば、処刑は関ヶ原で執行された。「浅井備前が十歳の嫡男」とあり、この時に10歳であったことから、永禄7年の誕生であることがわかる[3]。
天正元年に産まれた弟の万寿丸は、仏門に入り正芸と号し、近江国坂田郡長沢村の副田寺の住職となった[4]。