「ジャック・シャバン=デルマス」の版間の差分
45行目: | 45行目: | ||
[[1958年]][[アルジェリア]]独立問題を受けて、ド・ゴールが政界復帰すると、シャバン=デルマスは、ド・ゴール派新党「[[新共和国連合]]」(UNR)結成に一役買い、[[フランス第五共和政|第五共和政]]発足後、[[下院]]である[[国民議会]]の議長に選出されド・ゴールを支えた。 |
[[1958年]][[アルジェリア]]独立問題を受けて、ド・ゴールが政界復帰すると、シャバン=デルマスは、ド・ゴール派新党「[[新共和国連合]]」(UNR)結成に一役買い、[[フランス第五共和政|第五共和政]]発足後、[[下院]]である[[国民議会]]の議長に選出されド・ゴールを支えた。 |
||
[[1969年]]ド・ゴールが辞任し、後任の大統領に[[ジョルジュ・ポンピドゥ]]首相が当選すると、シャバン=デルマスは後任の首相に任命された。 |
[[1969年]]ド・ゴールが辞任し、後任の大統領に[[ジョルジュ・ポンピドゥ]]首相が当選すると、シャバン=デルマスは後任の首相に任命された。 |
||
シャバン=デルマスは、前年の[[1968年]][[五月革命 (フランス)|五月革命]]による社会的混乱を収拾するため「新しい社会」をスローガンに新内閣を発足させた。また、マスメディアに対する統制を緩和した。これは |
シャバン=デルマスは、前年の[[1968年]][[五月革命 (フランス)|五月革命]]による社会的混乱を収拾するため「新しい社会」をスローガンに新内閣を発足させた。また、マスメディアに対する統制を緩和した。これはゴーリスト内の保守派からは、進歩的であると見なされることになった。シャバン=デルマスとポンピドー大統領の間には潜在的な対立も生まれるようになった。鋭い風刺で知られる[[カナール・アンシェネ]]紙は、シャバン=デルマスを脱税容疑で批判した。 |
||
[[1974年]][[4月2日]]ポンピドーが死去すると、シャバン=デルマスは、ドゴール派の候補者として[[1974年フランス大統領選挙|後継大統領選挙]]に立候補する。しかし同じドゴール派の[[ジャック・シラク]]が[[独立共和派]]から立候補した[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]の支持に回るなど、自派の支持をまとめ切れず第1回投票で敗北を喫した。 |
[[1974年]][[4月2日]]ポンピドーが死去すると、シャバン=デルマスは、ドゴール派の候補者として[[1974年フランス大統領選挙|後継大統領選挙]]に立候補する。しかし同じドゴール派の[[ジャック・シラク]]が[[独立共和派]]から立候補した[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]の支持に回るなど、自派の支持をまとめ切れず第1回投票で敗北を喫した。 |
2016年4月10日 (日) 09:37時点における版
ジャック・シャバン=デルマス Jacques Chaban-Delmas | |
任期 | 1969年6月20日 – 1972年7月6日 |
---|---|
元首 | ジョルジュ・ポンピドゥー大統領 |
出生 | 1915年3月7日 パリ |
死去 | 2000年11月10日(85歳没) パリ |
政党 | 共和国民主連合(UDR) |
ジャック・シャバン=デルマス(シャバン・デルマス、シャバンデルマス、Jacques Chaban-Delmas、デルマではなくデルマスと発音される[1]、1915年3月7日 – 2000年11月10日)は、フランスの政治家。ドゴール派の重鎮で、ジョルジュ・ポンピドゥー大統領の下で1969年から1972年まで首相を務めた。
生涯
本名は、ジャック・デルマス。第二次世界大戦中、レジスタンス活動に参加し、多くの偽名を用いたが、その最後の偽名がシャバンで、戦後、正式にシャバン=デルマスと改名した。レジスタンス活動では旅団規模の部隊を指揮し、1944年8月のパリ蜂起に参加している。
戦後、急進党に入党するが、ド・ゴールと行動を共にし、ド・ゴール主義政党、フランス国民連合(RPF)を結成する。1947年から1995年までほぼ半世紀に渡り、ボルドー市長を務めるとともに、ジロンド県から国民議会議員として選出され続けた。 1953年ド・ゴールの政界引退を受けて、シャバン=デルマスは、ド・ゴール派議員を糾合し、社会共和派を結成した。また、中道左派の政党連合である共和国戦線とも提携した。
1958年アルジェリア独立問題を受けて、ド・ゴールが政界復帰すると、シャバン=デルマスは、ド・ゴール派新党「新共和国連合」(UNR)結成に一役買い、第五共和政発足後、下院である国民議会の議長に選出されド・ゴールを支えた。 1969年ド・ゴールが辞任し、後任の大統領にジョルジュ・ポンピドゥ首相が当選すると、シャバン=デルマスは後任の首相に任命された。 シャバン=デルマスは、前年の1968年五月革命による社会的混乱を収拾するため「新しい社会」をスローガンに新内閣を発足させた。また、マスメディアに対する統制を緩和した。これはゴーリスト内の保守派からは、進歩的であると見なされることになった。シャバン=デルマスとポンピドー大統領の間には潜在的な対立も生まれるようになった。鋭い風刺で知られるカナール・アンシェネ紙は、シャバン=デルマスを脱税容疑で批判した。
1974年4月2日ポンピドーが死去すると、シャバン=デルマスは、ドゴール派の候補者として後継大統領選挙に立候補する。しかし同じドゴール派のジャック・シラクが独立共和派から立候補したヴァレリー・ジスカール・デスタンの支持に回るなど、自派の支持をまとめ切れず第1回投票で敗北を喫した。
1978年国民議会議長に選出される。フランソワ・ミッテラン大統領のときにフランス社会党が敗北し、コアビタシオンが浮上すると、ミッテランとの交友関係から、首相候補に取りざたされたが、シャバン=デルマスはこれを辞退し、シラクを推し自らは、国民議会議長を選んだ。
個人的には第一級のスポーツマンであり、テニスプレイヤーとして鳴らした。
1966年公開の映画「パリは燃えているか」 Paris brûle-t-il ? ルネ・クレマン監督)では、アラン・ドロンがシャバン・デルマス役を演じている。
脚注
関連項目
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|