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梁父吟とは、[[泰山]]の麓にある梁父という名の丘にまつわる故事を詠ったもので、梁甫とも書かれる。[[泰山]]では山頂に土を盛り、高い場所をさらに高くして、天に届け、という儀式を行って天を祭るところであり、梁父では丘の土をはらい、地を祭って丘の下の霊と交わる儀式を行うところである。梁父はいわゆる[[古墳]]であり、昔、そこに霊が埋葬されたと伝えられて、始皇帝も[[泰山]]と梁父で封禅の儀式を行った。[[孔子]]の弟子の[[曾子]]が、[[泰山]]の麓で耕していた時に、雨や雪のために帰れなくなり、父母をしのんで、[[琴曲]]として作った、という伝説がある。[[諸葛亮]]が好んで詠ったため、[[諸葛亮]]の作とする説もある。しかし、実際には古代の[[挽歌]]であると思われる。 |
梁父吟とは、[[泰山]]の麓にある梁父という名の丘にまつわる故事を詠ったもので、梁甫とも書かれる。[[泰山]]では山頂に土を盛り、高い場所をさらに高くして、天に届け、という儀式を行って天を祭るところであり、梁父では丘の土をはらい、地を祭って丘の下の霊と交わる儀式を行うところである。梁父はいわゆる[[古墳]]であり、昔、そこに霊が埋葬されたと伝えられて、始皇帝も[[泰山]]と梁父で封禅の儀式を行った。[[孔子]]の弟子の[[曾子]]が、[[泰山]]の麓で耕していた時に、雨や雪のために帰れなくなり、父母をしのんで、[[琴曲]]として作った、という伝説がある。[[諸葛亮]]が好んで詠ったため、[[諸葛亮]]の作とする説もある。しかし、実際には古代の[[挽歌]]であると思われる。 |
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歩みて[[斉 (春秋時代)|斉]]城の門を出ず |
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遥かに望む蕩陰の里 |
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里中に三墳有り |
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累々として正に相い似たり |
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問う是れ誰が家の墓ぞ |
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力は能く南山を排き |
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文は能く地紀を絶む |
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一朝 讒言を被れば |
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二桃 三士を殺す |
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国相 [[斉 (春秋時代)|斉]]の[[晏嬰|晏子]] |
2014年3月18日 (火) 14:13時点における版
梁父吟とは、泰山の麓にある梁父という名の丘にまつわる故事を詠ったもので、梁甫とも書かれる。泰山では山頂に土を盛り、高い場所をさらに高くして、天に届け、という儀式を行って天を祭るところであり、梁父では丘の土をはらい、地を祭って丘の下の霊と交わる儀式を行うところである。梁父はいわゆる古墳であり、昔、そこに霊が埋葬されたと伝えられて、始皇帝も泰山と梁父で封禅の儀式を行った。孔子の弟子の曾子が、泰山の麓で耕していた時に、雨や雪のために帰れなくなり、父母をしのんで、琴曲として作った、という伝説がある。諸葛亮が好んで詠ったため、諸葛亮の作とする説もある。しかし、実際には古代の挽歌であると思われる。
歩みて斉城の門を出ず 遥かに望む蕩陰の里 里中に三墳有り 累々として正に相い似たり 問う是れ誰が家の墓ぞ 田疆・古治子 力は能く南山を排き 文は能く地紀を絶む 一朝 讒言を被れば 二桃 三士を殺す 誰か能く此の謀を為す 国相 斉の晏子