コンテンツにスキップ

「イェンス・ベルセリウス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
F1825a (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
F1825a (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
31行目: 31行目:


== 業績 ==
== 業績 ==
ベルセリウスは[[元素]]を電気的に陰性な元素と陽性な元素とに分類して、[[原子]]は反対電荷間の電気的引力により結合して[[分子]]を形成するという[[電気化学的二元論]]を考えた。さらに、[[ゲイ・リュサック]]の[[気体反応の法則]]を根拠として[[化合物]]中の元素の構成比を推定し、1828年までにそれまで知られていた43の元素の[[原子量]]を、2,000以上の化合物を精製・分析することによって決定した<ref>ベルセリウス、p.200-203の図表。但し[[原子量]]の基準として[[酸素]]を100としたのは、ラボアジェの影響と言われる。</ref>。これは[[ジョン・ドルトン]]の求めた値よりも飛躍的に精度を高めたものである<ref>久保、p.87。ベルセリウスは、正確な[[定量分析]]が理論体系の確立に不可欠と考えていた。</ref>。新[[元素]]として[[セレン]]、[[トリウム]]、[[セリウム]]を発見した。そして、[[タンタル]]・[[ケイ素]]・[[ジルコニウム]]を[[単体]]として分離し、[[リチウム]]を命名した。また、[[元素記号]]を[[ラテン語]]または[[ギリシャ語]]の名称のアルファベット頭文字で表す現在の方法を[[1813年]]頃に提唱したが、すぐに普及した。化学を[[有機化学]]と[[無機化学]]の2つに分け、[[ハロゲン]]・[[同素体]]・[[異性体]]・[[有機物]]・[[触媒]]・[[アモルファス|非結晶(Amorphie)]]などの化学上重要な用語や概念を創案した。
ベルセリウスは[[元素]]を電気的に陰性な元素と陽性な元素とに分類して、[[原子]]は反対電荷間の電気的引力により結合して[[分子]]を形成するという[[電気化学的二元論]]を考えた。さらに、[[ゲイ・リュサック]]の[[気体反応の法則]]を根拠として[[化合物]]中の元素の構成比を推定し、1828年までにそれまで知られていた43の元素の[[原子量]]を、2,000以上の化合物を精製・分析することによって決定した<ref>ベルセリウス、p.200-203の図表。但し[[酸素]]を[[原子量]]の基準(100)としたのは、ラボアジェの影響と言われる。</ref>。これは[[ジョン・ドルトン]]の求めた値よりも飛躍的に精度を高めたものである<ref>久保、p.87。ベルセリウスは、正確な[[定量分析]]が理論体系の確立に不可欠と考えていた。</ref>。新[[元素]]として[[セレン]]、[[トリウム]]、[[セリウム]]を発見した。そして、[[タンタル]]・[[ケイ素]]・[[ジルコニウム]]を[[単体]]として分離し、[[リチウム]]を命名した。また、[[元素記号]]を[[ラテン語]]または[[ギリシャ語]]の名称のアルファベット頭文字で表す現在の方法を[[1813年]]頃に提唱したが、すぐに普及した。化学を[[有機化学]]と[[無機化学]]の2つに分け、[[ハロゲン]]・[[同素体]]・[[異性体]]・[[有機物]]・[[触媒]]・[[アモルファス|非結晶(Amorphie)]]などの化学上重要な用語や概念を創案した。


[[カロリンスカ研究所|カロリンスカ医学外科学院]]の助手の頃から、[[スウェーデン語]]の教科書の著作を計画した。大学で化学を教えるために著した『化学における教科書(Lärbok i Kemien)』全6巻(1808年〜1830年)は、後に弟子の[[フリードリヒ・ヴェーラー]]により『化学の教科書(Lehrbuch der Chemie)』全5巻として[[ドイツ語]]に翻訳された<ref>[[フランス語]]、[[英語]]、[[イタリア語]]にも訳され、化学の普及に貢献した。</ref>が、当時の最高水準の化学の教科書であった。
[[カロリンスカ研究所|カロリンスカ医学外科学院]]の助手の頃から、[[スウェーデン語]]の教科書の著作を計画した。大学で化学を教えるために著した『化学における教科書(Lärbok i Kemien)』全6巻(1808年〜1830年)は、後に弟子の[[フリードリヒ・ヴェーラー]]により『化学の教科書(Lehrbuch der Chemie)』全5巻として[[ドイツ語]]に翻訳された<ref>[[フランス語]]、[[英語]]、[[イタリア語]]にも訳され、化学の普及に貢献した。</ref>が、当時の最高水準の化学の教科書であった。

2013年9月17日 (火) 13:56時点における版

イェンス・ヤコブ・ベルセリウス
Jöns Jacob Berzelius
生誕 (1779-08-20) 1779年8月20日
 スウェーデン リンシェーピング 郊外
死没 (1848-08-07) 1848年8月7日(68歳没)
 スウェーデン ストックホルム
国籍  スウェーデン
研究分野 化学
研究機関 カロリンスカ医学外科学院
出身校 ウプサラ大学
博士課程
指導学生
フリードリヒ・ヴェーラー
ジェルマン・アンリ・ヘス
主な業績 元素記号
原子量
元素の発見と単離
有機物異性体触媒の命名
影響を
受けた人物
アントワーヌ・ラヴォアジエ
ジョン・ドルトン
ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック
ハンフリー・デービー
影響を
与えた人物
クロード・ルイ・ベルトレー
アメデオ・アヴォガドロ
ユストゥス・フォン・リービッヒ
ジャン=バティスト・デュマ
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

イェンス・ヤコブ・ベルセリウス(Jöns Jacob Berzelius, 1779年8月20日 - 1848年8月7日)は、スウェーデン化学者、医師である。元素記号の記法を提唱し、原子量を精密に決定した。また新しい元素を発見・単離し、種々の化学概念を創案した。近代化学の理論体系を組織化し、集大成した人物である[1]クロード・ルイ・ベルトレーハンフリー・デービーら当代の科学者だけでなく、政治家クレメンス・フォン・メッテルニヒや文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテとも親交があった。弟子にフリードリヒ・ヴェーラージェルマン・アンリ・ヘスがいる。

生涯

1779年8月20日、スウェーデンリンシェーピング近くの教会区で生まれる。父はイェータランドの高等学校長、牧師であり、4歳のときに死別した。その後母と再婚した養父も牧師であったが、継子たちにも分け隔てなく接し、幼い息子に対して同国の博物学者カール・フォン・リンネの足跡をたどれる力をつけるように諭したといわれる[2]1793年、リンシェーピングのギムナジウムに入学したが、昆虫や植物の採集に熱中し、自然の観察に興味をもつようになった。1797年3月、ウプサラ大学医学部に入学したが、化学実験に勤しみ、1800年にメデヴィの温泉水の分析[3]で卒業論文を提出した。1802年ガルヴァーニ装置の電気に関する研究で医学の学位をとり、1804年ストックホルムで開業した。医業の傍ら化学の研究をするうちに、カロリンスカ医学外科学院で医学と薬学の無給助手に採用され、1807年教授に昇格した。1808年スウェーデン王立科学アカデミーの会員となり、1810年は会長をつとめ、1818年に終身会員に任命された。プロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム、ロシア皇太子アレクサンドル、フランス国王ルイ・フィリップに進講した。研究に余念がなく1835年まで独身を通していたが、友人の妹との結婚に際し、国王より男爵に叙せられた。1848年ストックホルムで死去。

業績

ベルセリウスは元素を電気的に陰性な元素と陽性な元素とに分類して、原子は反対電荷間の電気的引力により結合して分子を形成するという電気化学的二元論を考えた。さらに、ゲイ・リュサック気体反応の法則を根拠として化合物中の元素の構成比を推定し、1828年までにそれまで知られていた43の元素の原子量を、2,000以上の化合物を精製・分析することによって決定した[4]。これはジョン・ドルトンの求めた値よりも飛躍的に精度を高めたものである[5]。新元素としてセレントリウムセリウムを発見した。そして、タンタルケイ素ジルコニウム単体として分離し、リチウムを命名した。また、元素記号ラテン語またはギリシャ語の名称のアルファベット頭文字で表す現在の方法を1813年頃に提唱したが、すぐに普及した。化学を有機化学無機化学の2つに分け、ハロゲン同素体異性体有機物触媒非結晶(Amorphie)などの化学上重要な用語や概念を創案した。

カロリンスカ医学外科学院の助手の頃から、スウェーデン語の教科書の著作を計画した。大学で化学を教えるために著した『化学における教科書(Lärbok i Kemien)』全6巻(1808年〜1830年)は、後に弟子のフリードリヒ・ヴェーラーにより『化学の教科書(Lehrbuch der Chemie)』全5巻としてドイツ語に翻訳された[6]が、当時の最高水準の化学の教科書であった。

脚注

  1. ^ 久保、p.85。アントワーヌ・ラヴォアジエが建設した化学体系の拡張と完成を一生の仕事として意識して行った。
  2. ^ ベルセリウス、p.3。訳者によるベルセリウス小伝。
  3. ^ 以前に同大学トルビョルン・ベリマンが行った分析結果を参考にしたものであった。
  4. ^ ベルセリウス、p.200-203の図表。但し酸素原子量の基準(100)としたのは、ラボアジェの影響と言われる。
  5. ^ 久保、p.87。ベルセリウスは、正確な定量分析が理論体系の確立に不可欠と考えていた。
  6. ^ フランス語英語イタリア語にも訳され、化学の普及に貢献した。

参考文献

外部リンク

関連項目