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「内藤政脩」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
宝暦2年(1752年)10月25日、[[尾張国|尾張]][[尾張藩|名古屋藩]]主・徳川宗勝の十四男として名古屋で生まれる。[[明和]]7年([[1770年]])に延岡藩の第2代藩主・内藤政陽の[[養子]]となり、10月29日に政陽が[[隠居]]すると、[[家督]]を継いで第3代藩主となった。
宝暦2年(1752年)10月25日、[[尾張国|尾張]][[尾張藩|名古屋藩]]主・[[徳川宗勝]]の十四男として名古屋で生まれる。幼名は徳十郎、[[元服]]時に、次兄で尾張藩主を継いだ[[徳川宗睦]]より[[偏諱]]を与えられて'''松平睦精'''(ちかきよ/よしきよ)と名乗る。[[明和]]7年([[1770年]])に延岡藩の第2代藩主・[[内藤政陽]]の[[養子]]となり、'''内藤政脩'''に改名。10月29日に政陽が[[隠居]]すると、[[家督]]を継いで第3代藩主となった。


しかし[[天明の大飢饉]]による大被害で農村は荒廃した。このため、藩財政がさらに悪化したため、御用金・献上金などで急場をしのいだ。[[安永]]2年([[1773年]])からは新田開発を行ない、倹約令を出し、文武を奨励し、風紀粛清のために「延岡若蓮中議覚書」を出しているが、いずれもほとんど効果は無かった。[[寛政]]2年([[1790年]])8月20日、養子の内藤政韶(養父・政陽の長男)に家督を譲って隠居する。
しかし[[天明の大飢饉]]による大被害で農村は荒廃した。このため、藩財政がさらに悪化したため、御用金・献上金などで急場をしのいだ。[[安永]]2年([[1773年]])からは新田開発を行ない、倹約令を出し、文武を奨励し、風紀粛清のために「延岡若蓮中議覚書」を出しているが、いずれもほとんど効果は無かった。[[寛政]]2年([[1790年]])8月20日、養子の内藤政韶(養父・政陽の長男)に家督を譲って隠居する。

2013年6月2日 (日) 07:21時点における版

 
内藤政脩
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦2年10月25日1752年11月30日
死没 文化2年7月24日1805年8月18日
改名 松平徳十郎(幼名)→松平睦精→内藤政脩→暁山(法号)
戒名 尚徳院暁山居士
墓所 神奈川県鎌倉市光明寺
官位 従五位下、備後
幕府 江戸幕府
日向国延岡藩
氏族 尾張徳川家内藤氏
父母 父:徳川宗勝、母:寺島氏
養父:内藤政陽
兄弟 徳川宗睦松平義敏松平勝長松平勝当
松平勝綱竹腰勝起井上正国内藤頼多
松平勝鷹政脩、ほか女子
正室:内藤政陽の娘
政和、養子:内藤政韶
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内藤 政脩(ないとう まさのぶ)は、日向延岡藩の第3代藩主。延岡藩内藤家宗家8代。

生涯

宝暦2年(1752年)10月25日、尾張名古屋藩主・徳川宗勝の十四男として名古屋で生まれる。幼名は徳十郎、元服時に、次兄で尾張藩主を継いだ徳川宗睦より偏諱を与えられて松平睦精(ちかきよ/よしきよ)と名乗る。明和7年(1770年)に延岡藩の第2代藩主・内藤政陽養子となり、内藤政脩に改名。10月29日に政陽が隠居すると、家督を継いで第3代藩主となった。

しかし天明の大飢饉による大被害で農村は荒廃した。このため、藩財政がさらに悪化したため、御用金・献上金などで急場をしのいだ。安永2年(1773年)からは新田開発を行ない、倹約令を出し、文武を奨励し、風紀粛清のために「延岡若蓮中議覚書」を出しているが、いずれもほとんど効果は無かった。寛政2年(1790年)8月20日、養子の内藤政韶(養父・政陽の長男)に家督を譲って隠居する。

文化2年(1805年)7月24日、延岡で死去した。享年54。