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諸事情で伊達家を出奔、北川宣勝と名乗り、秀頼に仕える。
諸事情で伊達家を出奔、北川宣勝と名乗り、秀頼に仕える。


[[大坂冬の陣]]は八町目口を守って奮戦。[[豊臣秀頼]]より[[長我部盛親]]を指揮下に置くよう命ぜられるが、「私が盛親の下に付くのが道理」と固辞。
[[大坂冬の陣]]は八町目口を守って奮戦。[[豊臣秀頼]]より[[長我部盛親]]を指揮下に置くよう命ぜられるが、「私が盛親の下に付くのが道理」と固辞。


[[大坂夏の陣]]では道明寺の戦い、天王寺・岡山の戦いで奮戦するも力及ばず。大坂城落城後、[[山川賢信]]と共に八幡滝本坊に隠れたが、のちに自首。命は助けられた。
[[大坂夏の陣]]では道明寺の戦い、天王寺・岡山の戦いで奮戦するも力及ばず。大坂城落城後、[[山川賢信]]と共に八幡滝本坊に隠れたが、のちに自首。命は助けられた。

2006年2月15日 (水) 17:59時点における版

北川 宣勝(きたがわ のぶかつ ?-?)は戦国時代、江戸時代初期の武将。治郎兵衛。伊達氏家臣・浜田景隆の長子。

諸事情で伊達家を出奔、北川宣勝と名乗り、秀頼に仕える。

大坂冬の陣は八町目口を守って奮戦。豊臣秀頼より長宗我部盛親を指揮下に置くよう命ぜられるが、「私が盛親の下に付くのが道理」と固辞。

大坂夏の陣では道明寺の戦い、天王寺・岡山の戦いで奮戦するも力及ばず。大坂城落城後、山川賢信と共に八幡滝本坊に隠れたが、のちに自首。命は助けられた。

徳川家康の死後に大村純頼に仕えた。