「藤原定信」の版間の差分
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* [[井垣清明]]ほか編著 『書の総合事典』 [[柏書房]]、2010年 ISBN 4-7601-3571-4 |
* [[井垣清明]]ほか編著 『書の総合事典』 [[柏書房]]、2010年 ISBN 978-4-7601-3571-4 |
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* [[島谷弘幸]] 『日本の美術519 和様の書』 [[ぎょうせい]] 2009年 ISBN 978-4-324-08728-2 |
* [[島谷弘幸]] 『日本の美術519 和様の書』 [[ぎょうせい]] 2009年 ISBN 978-4-324-08728-2 |
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* 『<small>徳川美術館新館開館二十周年記念 秋季特別展</small> 王朝美の精華・石山切 ─かなと料紙の競演─』展図録、[[徳川美術館]]、2007年 |
* 『<small>徳川美術館新館開館二十周年記念 秋季特別展</small> 王朝美の精華・石山切 ─かなと料紙の競演─』展図録、[[徳川美術館]]、2007年 |
2012年2月15日 (水) 02:23時点における版
藤原 定信(ふじわら の さだのぶ、寛治2年(1088年) - 保元元年1月18日[1](1156年2月10日))は、平安時代後期の廷臣・書家。藤原定実の長男で、世尊寺家第5世となり能書家として重んじられた。官位は従四位下、宮内権大輔。
経歴
元永2年(1119年)32歳の時、父定実が出家したすると、能書として様々な書役を務めた。天治元年(1124年)摂政の上表文を、大治4年(1129年)に法勝寺千僧御読経の願文や、太政大臣の上表を書いた。康治元年(1142年)には大嘗会屏風の筆者となるなど、多くの墨跡を今日に伝えている。
大治4年から仁平元年(1151年)の23年間をかけて、一切経全5048巻を独力で書写した[2]。書写を終えた後、春日大社でこれを供養し、多武峰で出家、法名を生光とした。この一筆一切経の偉業を成し遂げたのは、日本の歴史上定信と宗像大社の色定法師の二人だけである。『本朝世紀』によると、院宮諸家がその偉業を讃え、たくさんの贈り物をしたという[3]。しかし、奉納した春日大社で起きた火災で全て焼失してしまい、現存しない。翌年、定信が左大臣藤原頼長の家を訪ねるた際、頼長は手を洗い、口をすすぎ、衣装を整え、まず定信に礼拝してから談話したという。
鑑識にも長じており、保延6年(1140年)10月22日、小野道風書の『屏風土代』(三の丸尚蔵館蔵)と藤原行成書の『白楽天詩巻(高松宮家本)』(東京国立博物館蔵)を入手し、『屏風土代』は延長6年(928年)11月、道風35歳の書であること、『白楽天詩巻』は寛仁2年8月21日、行成47歳の書であることを鑑定し、それぞれの奥書きに記している。今日、道風や行成の書風が分かるのは、この定信の鑑定によるところが大きい。
書風は祖父・藤原伊房の影響が強いことが、当時から『今鏡』で指摘されており[4]、代表作の「金沢本万葉集」も伊房筆「藍紙本万葉集」の書風に似ている。しかし、定信の方が一筆一切経の経験からか、運筆が早く軽快で緩急抑揚の変化が大きい。定信は西行と和歌の贈答をしたことが『山家集』に見えはするものの、歌人ではなかった。そのため、定信は当時一流の能書家でありながら、古筆の筆者としては尊重されず、多くは藤原公任の書跡とされて伝来している。
筆跡
- 金沢本万葉集
- 加賀金沢の前田家に伝来したことから「金沢本」と呼ばれる『万葉集』。前田育徳会所蔵の巻第三の断簡2枚と、巻第六の断簡5枚を合わせた1帖は国宝。明治43年(1910年)明治天皇が前田邸に行幸した際、同家より巻第二の大部分と第四の一部を合綴した1帖が献上され、現在は三の丸尚蔵館所蔵。他に巻第四と第六の断簡が数葉伝存し、「金沢切」と呼ばれる。
- 定信和漢朗詠集切
- 近来、石川家の秘庫から出たもので、その奥書きに「同日未刻染筆申時終切定信」の自署があるので、定信の真跡と決定された。詩句と和歌を大きく散らし書きにしている。書風は雄健高雅で、連綿も自然で、筆端には才気が溢れており、円熟した晩年の書と推測されている。京都国立博物館の断簡は重要文化財[1][2]。
- 西本願寺本三十六人家集のうち「貫之集下(石山切として分割された)」「順集(糟色紙・岡寺切[3])」「中務集」
- 西本願寺他、東京国立博物館[4][5]や根津美術館などに分蔵。和泉市久保惣記念美術館のものは重文。
- 順集は32頁は西本願寺に残るが、桃山時代から江戸時代初期に一部(9枚36頁)が抜き取られ、伝藤原公任「岡寺切」「糟色紙」と呼ばれる。両者の違いは、破り継ぎのある断簡を「糟色紙」、無いものを「岡寺切」と称し区別することによる。「岡寺切」の名は飛鳥の岡寺に伝来したことによると言われ、現在9面の伝存が確認されている[5]。
- 戊辰切(和漢朗詠集のうち上巻「女郎花」の段と巻下)
- 一橋徳川家旧蔵品。『和漢朗詠集』を上下二巻に書写した巻物を、昭和3年(1928年)分割したもの。その年の干支にちなんで「戊辰切」と名付けられた。筆跡から定信筆との見方が強い。ただ、上巻は息子の伊行の筆だが、当時の慣習では親が上巻を、子が下巻を書くのが慣習で、逆になることは異例である。そのため、定信の書に学んだ人物を想定する意見もある。東京国立博物館[8]や五島美術館、徳川美術館などに分蔵。
- 砂子切本兼輔集切
- 上記の本願寺本とはやや遅れて別の三十六人歌集が書写されており「別本三十六人歌集」などと呼ばれている。そのうちの「兼輔集」は、石山切と同筆であり定信の手と分かる。東京国立博物館[9][10]や根津美術館などに分蔵。
- 法華経(戸隠切)
など。
系譜
脚注
参考文献
- 井垣清明ほか編著 『書の総合事典』 柏書房、2010年 ISBN 978-4-7601-3571-4
- 島谷弘幸 『日本の美術519 和様の書』 ぎょうせい 2009年 ISBN 978-4-324-08728-2
- 『徳川美術館新館開館二十周年記念 秋季特別展 王朝美の精華・石山切 ─かなと料紙の競演─』展図録、徳川美術館、2007年
- 春名好重 『書の古代史』 新人物往来社 1987年 ISBN 4-404-01439-2
- 古谷稔編 『日本の美術180 平安時代の書』 至文堂 1981年
- 春名好重編著 『古筆大辞典』 平凡社、1979年
- 木村卜堂編著 『日本と中国の書史』 社団法人 日本書作家協会発行 1971年
- 常石英明著 『古書画の鑑定と観賞』 金園社 1970年