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2012年1月18日 (水) 17:56時点における版
東京美術学校(とうきょうびじゅつがっこう)は、1887年(明治20年)に東京府に設立された官立(唯一)の美術専門学校である。略称は「美校」。
概要
日本最初の美術教員・美術家養成のための機関であり、当初は文人画を除く伝統的日本美術の保護を目的としたが、その後西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も行うようになった。修業年限5年のうち最初の2年を「普通科」、後の3年を「専修科」とした。第二次世界大戦後、新制東京芸術大学に包括され同美術学部の前身となった。
沿革
1886年(明治19年)から翌1887年にかけて文部省図画取調掛委員として岡倉覚三(天心)およびフェノロサは欧米調査旅行を行った。この旅行は美術教育全般に関わる調査を目的としたものであった(当該項目参照)が、美術学校の組織管理および学科教授法も含まれており、2人の報告に基き1887年10月、勅令により図画取調掛および工部大学校内「工部美術部」を統合・改編して東京美術学校が設立され、修業年限2年で基礎実技と学科を担当する「普通科」、3年で専門科目を担当する「専修科」を設置した。初代校長に就任したのは取調掛委員長の濱尾新だったが事務取扱にとどまり、1889年2月の開校後、第2代校長として就任した岡倉覚三が事実上の初代校長であった。開校時の他のスタッフは岡倉を幹事、フェノロサを「雇」(外国人教師)としたほか、教官は黒川真頼・橋本雅邦(「教諭」)・小島憲之(嘱託)であり、のち川端玉章・巨勢小石・狩野夏雄・高村光雲らを加えた。教官となったのはほとんどが日本画家などの伝統的美術家であり(狩野芳崖も教授就任が打診されていたが開校直前に死去したため実現せず)、(文人画を除く)伝統美術の振興をめざす岡倉・フェノロサの理念が具体化された形になった。1893年には第1回卒業式を挙行し、横山大観らの卒業生を送り出した。
しかし時代の変化とともに伝統美術に限定されない、より幅広い教育内容が求められるようになったため、1896年西洋画科・図案科が新設された。前者には黒田清輝・藤島武二・和田英作・岡田三郎助、後者に福地復一・横山大観・本多天城らが教官として就任、以後、洋画興隆の基礎が形成された。同じ頃、岡倉校長の専権的な学校運営に対する批判が起こるようになり、1898年「美校騒動」として表面化、岡倉を始めとして橋本・横山・下村観山・菱田春草ら多数の教官が退任し日本美術院を結成した。
岡倉退任後、1901年より1932年(昭和7年)までの長期間にわたり校長として在任した正木直彦のもとで校制改革(1905年)が行われ、これ以降はほぼ制度・組織は安定した(退任後の1935年彼の功績を称え「正木記念館」が設置されている)。また正木校長時代の1929年には、美術学校が蒐集した美術品を展示するための「陳列館」(現東京藝術大学大学美術館旧館)が建設された。1932年正木が退任したのち校長に就任したのは、初めて学内から選出(これ以前の校長は岡倉も含めすべて文部官僚であった)された西洋画科教授の和田英作であり、同時に作家(芸術家)校長の趨りとなった。
第二次世界大戦後の学制改革により新制東京芸術大学が発足すると、東京美術学校は東京音楽学校とともに包括されて同大学の美術学部の前身となり、1952年最後の卒業式ののち廃校となった。
年表
- 1887年10月5日:図画取調掛を東京美術学校と改称し設立。
- 1889年2月:開校。日本画・木彫・彫金の3科を設置。
- 1896年:西洋画・図案の2科を新設。
- 1899年:塑造科を設置。
- 1905年:学科を再編成し日本画・西洋画・彫刻・金工・鋳造・漆工の6科とする。
- 1907年:図画師範科設置。
- 1915年(大正4年):臨時写真科設置。
- 1926年:写真科を東京高等工芸学校に移管し廃止。図案科から建築科を分離・設置。
- 1949年5月:新制東京芸術大学に包括される。
- 1952年3月31日:廃止。
歴代校長
- 1890年6月27日 - 10月7日:校長心得。
- 1890年10月7日 - 1898年3月29日:兼任。
校地の変遷と継承
設立時の校地は東京府下谷区(現・東京都台東区)の上野恩賜公園内に設置され、これが新制大学への移行を経て現在の東京芸術大学美術学部の校地(上野キャンパス)にそのまま継承されている。
関連文献
- 宮川寅雄 「東京美術学校」 『日本近現代史辞典』 東洋経済新報社、1979年
- 中野善達 「東京美術学校」 『洋学史事典』 雄松堂出版、1984年
- 山本正男 「東京美術学校」 『国史大辞典』第10巻 吉川弘文館、1989年
- 大熊敏之 「東京美術学校」 『日本歴史大事典』第3巻 小学館、2001年