コンテンツにスキップ

「九鬼隆義」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Soica2001 (会話 | 投稿記録)
+画像、加筆
1行目: 1行目:
[[ファイル:Grave yards of Kukis princesses and children and Takayoshi Kuki J09 16.jpg|thumb|right|240px|心月院にある九鬼隆義の墓。]]
[[File:Kuki Takayoshi a.jpg|200px|right|<center>九鬼 隆義</center>]]
[[ファイル:Grave yards of Kukis princesses and children and Takayoshi Kuki J09 16.jpg|thumb|right|200px|心月院にある九鬼隆義の墓。]]
'''九鬼 隆義'''(くき たかよし、[[天保]]8年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]([[1837年]][[5月9日]]) - [[明治]]24年([[1891年]])[[1月24日]])は、[[日本]]の[[大名]]・[[摂津国|摂津]][[三田藩]]の第13代(最後)の藩主。[[九鬼氏|九鬼家]]宗家14代。官位は従五位下、[[長門国|長門]]守。贈従四位。[[子爵]]。
'''九鬼 隆義'''(くき たかよし、[[天保]]8年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]([[1837年]][[5月9日]]) - [[明治]]24年([[1891年]])[[1月24日]])は、[[日本]]の[[大名]]・[[摂津国|摂津]][[三田藩]]の第13代(最後)の藩主。[[九鬼氏|九鬼家]]宗家14代。官位は従五位下、[[長門国|長門]]守。贈従四位。[[子爵]]。


5行目: 6行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
天保8年(1837年)4月5日生まれ。幼名は啓之助。[[安政]]6年([[1859年]]代藩主[[九鬼精隆]]死去により、その養嗣子として後を継いだ。同年12月28日に叙任する。[[キリスト教]]禁教令の[[高札]]が撤廃される前から[[キリスト教]]を篤く信仰([[洗礼]]は[[高札]]の撤廃後に受けた)しており、藩政ではキリスト教博愛主義に基づいた善政を行なったという早くから討幕派となり、[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では新政府に与して戦った。
天保8年(1837年)4月5日生まれ。幼名は啓之助。[[安政]]6年([[1859年]])11月第12三田藩主[[九鬼精隆]]の急逝により、その養嗣子として後を継ぎ、同年12月28日に叙任した三田藩主に就くと[[藩政改革]]を断行し、下級藩士の[[白洲退蔵]][[小寺泰次郎]]の登用、藩軍備洋式化を行なった。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では[[鳥羽・伏見の戦い]]直後から新政府に与して戦った。


明治維新が起こると、近代港として神戸港整備されると知るや、幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、藩士の[[白洲退蔵]]([[白洲次郎]]の祖父)、[[小寺泰次郎]]らとともに「'''[[志摩三商会]]'''」という神戸初の輸入商社を設立する。これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の[[元町]]、[[三宮]]といった神戸港周辺の都市開発や[[神戸女学院]]の前身である女子寄宿学校・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼしている
明治2年([[1869年]])6月23日、[[版籍奉還]]により[[藩知事]]なり、明治4年([[1871年]])7月15日、[[廃藩置県]]により免官された。明治5年([[1872年]])、近代港として発展見込まれる[[神戸市|神戸]]に居を移し、三田藩士の多くもこれに倣った。[[生田川]]付け替えに伴う埋立地の買占め、転売で巨利を得た。この資金を基に{{和暦|m|6}}3月、幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、白洲退蔵小寺泰次郎らとともに「'''[[志摩三商会]]'''」という神戸初の貿易商社を設立した。これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の[[元町]]、[[三宮]]といった神戸港周辺の都市開発や[[神戸女学院]]の前身である女子寄宿学校・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼし


明治2年([[1869年]])6月23日、[[版籍奉還]]により[[藩知事]]となり、明治4年([[1871年]])7月15日、[[廃藩置県]]により免官された。明治15年([[1882年]])より[[宮内省]]準奏御用掛華族局に勤務。明治17年([[1884年]])に[[子爵]]に叙される。明治19年([[1886年]])に吹上・浜両御苑勤務に異動した。明治20年([[1887年]])[[4月24日]]にキリスト教の[[洗礼]]を受けた。明治24年(1891年)1月24日、55歳で死去。法号は大光院。
明治15年([[1882年]])より[[宮内省]]準奏御用掛華族局に勤務。明治17年([[1884年]])に[[子爵]]に叙される。明治19年([[1886年]])に吹上・浜両御苑勤務に異動した。明治20年([[1887年]])[[4月24日]]にキリスト教の[[洗礼]]を受けた。明治24年(1891年)1月24日、55歳で死去。法号は大光院。


== 関連項目 ==
== 参考サイト ==
* [http://eonet.jp/eohikari-ch/rekishi/archives.html 歴史ろまん紀行]#161 九鬼隆義 - eo光チャンネルplus(2012年1月18日閲覧)
*[[三田城]] - 三田城の最後の城主


{{三田藩主|九鬼氏|13代|1859年 - 1871年}}
{{三田藩主|九鬼氏|13代|1859年 - 1871年}}

2012年1月18日 (水) 12:24時点における版

九鬼 隆義
九鬼 隆義
心月院にある九鬼隆義の墓。

九鬼 隆義(くき たかよし、天保8年4月5日1837年5月9日) - 明治24年(1891年1月24日)は、日本大名摂津三田藩の第13代(最後)の藩主。九鬼家宗家14代。官位は従五位下、長門守。贈従四位。子爵

丹波綾部藩主・九鬼隆都の三男。母は側室の佐里。養母は大村純昌の娘。正室は九鬼精隆の娘。継室は松井松平康爵の娘、佐藤一昌の娘。子は九鬼隆輝(長男)、九鬼隆徳(次男)、九鬼隆保(三男)、好子(松方幸次郎室)、娘(寺島某室)、娘(上野精一室)。好子が嫁いだ松方幸次郎は、明治元勲松方正義の三男。

経歴

天保8年(1837年)4月5日生まれ。幼名は啓之助。安政6年(1859年)11月、第12代三田藩主九鬼精隆の急逝により、その養嗣子として後を継ぎ、同年12月28日に叙任した。三田藩主に就くと藩政改革を断行し、下級藩士の白洲退蔵小寺泰次郎の登用、藩兵の軍備洋式化を行なった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い直後から新政府に与して戦った。

明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免官された。明治5年(1872年)、近代港として発展が見込まれる神戸に居を移し、三田藩士の多くもこれに倣った。生田川付け替えに伴う埋立地の買占め、転売で巨利を得た。この資金を基に1873年(明治6年)3月、幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、白洲退蔵や小寺泰次郎らとともに「志摩三商会」という神戸初の貿易商社を設立した。これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の元町三宮といった神戸港周辺の都市開発や神戸女学院の前身である女子寄宿学校・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼした。

明治15年(1882年)より宮内省準奏御用掛華族局に勤務。明治17年(1884年)に子爵に叙される。明治19年(1886年)に吹上・浜両御苑勤務に異動した。明治20年(1887年4月24日にキリスト教の洗礼を受けた。明治24年(1891年)1月24日、55歳で死去。法号は大光院。

参考サイト