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2011年4月17日 (日) 13:02時点における版
ニッコロ・マキャヴェッリ Niccolò Machiavelli | |
---|---|
ニッコロ・マキャヴェッリの肖像画 | |
誕生 |
1469年5月3日 イタリア・フィレンツェ共和国 |
死没 |
1527年6月21日(58歳没) イタリア・フィレンツェ |
職業 |
外交官 作家 |
国籍 | イタリア |
主題 |
政治 歴史 軍事 |
代表作 |
『君主論』 『ディスコルシ』 『戦術論』 『フィレンツェ史』 『マンドラゴラ』 |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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署名 | |
ウィキポータル 文学 |
ニッコロ・マキャヴェッリ(イタリア語: Niccolò Machiavelli, 1469年5月3日 - 1527年6月21日)は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。
著書に、『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。日本語では「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」など様々な表記が見られる。
生涯
1469年、フィレンツェ共和国の指導者を多く輩出した貴族の分家に生まれる。マキャヴェッリは他の兄弟たちとともに父母の愛情に包まれ、上流階級の必須教養であったローマ・ギリシャ古典やラテン語などを学んで育った。その青少年期は、大ロレンツォによる独裁、大ロレンツォ死後に発生したメディチ家追放(1494年)、サヴォナローラの神政とその失脚・処刑(1498年)など、フィレンツェ共和国の激動期に重なる。
1498年、マキャヴェッリはピエロ・ソデリーニ政権下の第二書記局長に登用された。マキャヴェッリが属した第二書記局は内政・軍政を所轄し、自身が各国との交渉に関わることも多く、外国に派遣されることも度々であった。マキャヴェッリは見聞きした各国為政者や古典から学んだ歴史上の人物の中から、権謀術数にたけた教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアに理想の君主像を見出すようになった。
マキャヴェッリは自らの経験と考察から、国の根源は傭兵に拠らない軍事力にあると確信し、国民軍の創設を計画した。貴族や富裕層の中には国民軍創設に反対する者もいたが、その企画は実現する。国民軍は期待された成果を挙げることなく、ピエロ・ソデリーニ政権は、1512年、メディチ家のフィレンツェ復権を後押しするハプスブルク家スペインの前に屈服し、マキャヴェッリは第二書記局長の職を解かれた。
1513年、ボスコリ事件に連座したマキャヴェッリは、ジョヴァンニ・デ・メディチ(後のレオ10世)新政権下で莫大な罰金を科せられて一時拘束された。激しい拷問を受けた後に釈放されたマキャヴェッリは、自らの領地にある山荘に隠棲すると、昼間は農業に勤しんだり近くの庶民と交わり賭け事などをして時を過ごし、日が落ちると読書執筆三昧の日々を送った。執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、彼の喜劇は大好評を博し著作家としての名声を得た。
マキャヴェッリは、「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」と愛国者を自認、いつでもフィレンツェのために役立ちたいと公言していた。元来、陽気でお喋りで、飲む・打つ・買うが大好き、また良き夫、良き父親、仕事好きでめげないマキャヴェッリは、独裁的なメディチ家が君臨する新政権下への就職活動を模索するようになった。
マキャヴェッリは共和制支持派と見られていたので、かっての同僚や彼に批判的な人の中には、メディチ政権への猟官運動を冷淡に見る者もいた。新たにフィレンツェの支配者となったジョヴァンニ・デ・メディチまたその後任者ジュリアーノ・デ・メディチの方でも、長く前政権下の政務に携わったマキャヴェッリを用いることはしなかった。
1516年に死去したジュリアーノ・デ・メディチの後任にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられた。謁見の場でマキャヴェッリがロレンツォ・デ・メディチに献上したのが『君主論』である。ロレンツォ・デ・メディチに献上された本『君主論』には、君主たるものがいかにして権力を維持し、政治を安定させるか、という政治手法が書き記されている。
彼の理論は「フォルトゥーナ」(Fortuna, 運命)と「ヴィルトゥ」(Virtù, 技量)という概念を用い、君主にはフォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。『リウィウス論』では古代ローマ史を例にとり偉大な国家を形成するための数々の原則が打ち立てられている。全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時において新たな点であった。共和主義者のマキャヴェッリであったが、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦う「イタリア戦争」に衝撃を受けた。彼が体験した挫折感と、独立を願って止まない情熱が存在があったからこそ、『君主論』が生まれたといわれる。マキャヴェッリは君主論の中で、混乱するイタリアにあって国を治めるために、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いている。理想の君主チェーザレ・ボルジアを例示して、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じた。
1520年、マキャヴェッリ理論の傾倒者が多く首謀者に含まれた反メディチの陰謀オルティ・オリチェライ事件が発生したが、ロレンツォの後任者ジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)は、マキャヴェッリの事件への関与を一切問うことをしなかったばかりか、著作家として才能を開花させていたマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆を依頼した。
このようにメディチ家政権下で顧問的に用いられるようになったマキャヴェッリだったが、1527年に発生したローマ略奪でメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャヴェッリもまた政権から追放されるはめになった。一貫した共和制支持派からは「メディチ家に擦り寄った裏切り者」、ある者からは「目的のためには手段を選ばない狡猾者」と非難され失意のうちに病を得て急死した。
軍事理論
マキャヴェッリはその軍事思想を『君主論』また『政略論』や『戦術論』に記している。その特徴として以下のことが挙げられる。
- 軍事力の重要性を論じている。『君主論』において君主に必要なものとして法律とともに軍備があげられている。また傭兵軍ではなく常備軍の編制を重視し、また騎兵ではなく歩兵の有効性を論じてもいる。
- 軍事訓練の重要性を論じている。マキャヴェッリは軍事訓練を錬度に合わせて段階的に実施することを述べており、第一段階に整列の動作の訓練、第二段階に整列行進の動作の訓練、第三段階に戦闘訓練、第四段階に信号や命令伝達の教育としている。
- 司令官の軍事的統率能力の重要性を論じている。これは統率論として軍隊の団結に司令官の統率力が直結すると述べられており、血筋や権威ではなく勇敢や善行がこの統率力を強化すると考えている。また演説の能力も求められるとしている。
マキャヴェッリ語録
透徹したリアリズムと深い洞察力で、時に機知に富んだ皮肉を交えながら、人間の本質を鋭く抉り出した発言は、しばしば引用され、政治思想の枠を超えて広く親しまれている。
年表
- 1469年 フィレンツェに生まれる。
- 1498年 共和国政府の第二書記局長になる(~1512年まで)。10人委員会に出向。
- 1499年 (フィレンツェはフランス王のナポリ遠征に際し支援の約束をするが、結局フランスは撤退)
- 1500年 政府の使節としてフランスへ赴く。
- 1502年 教皇軍のチェーザレ・ボルジアがウルビーノを征服(フィレンツェはフランスに支援を要請)。使節としてチェーザレと交渉し、和議を結ぶ。
- 1503年 (教皇アレクサンデル6世死去、チェーザレ失脚)
- 1504年 市民兵の創設を主張。
- 1506年 市民兵の軍部秘書になる。コンタードの農民を徴兵。
- 1511年 (教皇ユリウス2世が神聖同盟でフランスに対抗)フランスに使節として赴く。
- 1512年 市民兵はスペイン軍に敗退。メディチ家のフィレンツェ復帰に伴い、失職。『リヴィウス論』に着手(未完)。
- 1513年 反メディチ陰謀の容疑(ボスコリ事件)で拘束され、拷問を受けるが、まもなく釈放。『君主論』を脱稿。
- 1520年 ジュリオ・デ・メディチ(のちの教皇クレメンス7世)の依頼で『フィレンツェ史』の執筆を始める(~1525年)。
- 1527年 (ローマ略奪の報がフィレンツェに伝わりメディチ家再追放)他界。
著作
- 君主論 (Il Principe, 没後の1532年刊行)
- ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(Discorsi Sopra La Prima Deca Di Tito Livio:リウィウス論、ローマ史論考、ディスコルシ、政略論 などとも呼ばれる)
- 戦術論 (Dell'arte della guerra)
- フィレンツェ史 (Istorie fiorentine)
- 戯曲 マンドラゴラ
なお、1998年から2002年にかけて『マキァヴェッリ全集』(全6巻+補巻)が筑摩書房から刊行された。
脚注
関連文献
- 『マキァヴェッリ全集.補巻 研究・年譜・年表・索引』 藤沢道郎ほか訳、筑摩書房、2002年
- 西村貞二 『マキアヴェリ 人と思想』 清水書院、1986年、新書版で入門書
- 西村貞二 『マキアヴェリズム』 講談社学術文庫 1991年、入門書
- 澤井繁男 『マキアヴェリ、イタリアを憂う』 講談社選書メチエ 2003年
- 佐々木毅 『マキアヴェッリの政治思想』 岩波書店、1970年、新版1998年ほか
- 佐々木毅 『マキアヴェッリと「君主論」』 講談社学術文庫、1994年
- 塩野七生 『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡』 〈塩野七生ルネサンス著作集7〉新潮社、2001年/新潮文庫 全3冊、2010年
- 塩野七生 『マキアヴェッリ語録』 新潮社 のち新潮文庫、1992年、改版2009年
- ロベルト・リドルフィ 『マキァヴェッリの生涯』 須藤祐孝訳註、岩波書店、2009年、古典的大著
- マウリツィオ・ヴィロー 『マキァヴェッリの生涯 その微笑の謎』 武田好訳、白水社 2007年
- セバスティアン・デ・グラツィア 『地獄のマキアヴェッリ (全2巻)』 田中治男訳、叢書ウニベルシタス:法政大学出版局、1996年
- ルネ・ケーニヒ 『マキアヴェッリ 転換期の危機分析』 小川さくえほか訳、叢書ウニベルシタス:法政大学出版局 2001年
- マルセル・ブリヨン 『マキャヴェリ』 生田耕作ほか訳、みすず書房、初版1966年、新装版1998年、伝記小説
関連項目
- マキャヴェリズム
- イタリア戦争
- ルネサンス
- ルイ・アルテュセール - マキャヴェッリの研究者
- マキャベリ的知性仮説 - マキャヴェッリの名にちなんだ進化心理学上の学説。
- 2パック - マキャベリに感銘を受け、名前をマキャベリ(Makaveli)と改名した現代アメリカのミュージシャン
- 現実主義
- 韓非子
- カウティリヤ