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「註釈学派 (フランス法)」の版間の差分

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これは、[[裁判官]]の恣意的な法の解釈適用を許さず法規に拘束することで、[[シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]が警告したような、国家権力による[[裁判権]]の濫用という[[アンシャン・レジーム]]の克服を目指したもので、[[大陸法]]における[[近代]][[法学]]の基本的原則の確立に大きく寄与すると共に、19世紀の[[経済]]的[[自由主義]]の時代に一定の歴史的意義を果たした。
これは、[[裁判官]]の恣意的な法の解釈適用を許さず法規に拘束することで、[[シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]が警告したような、国家権力による[[裁判権]]の濫用という[[アンシャン・レジーム]]の克服を目指したもので、[[大陸法]]における[[近代]][[法学]]の基本的原則の確立に大きく寄与すると共に、19世紀の[[経済]]的[[自由主義]]の時代に一定の歴史的意義を果たした。


反面、判例・[[慣習]]はもとより、[[比較法]]・[[法制史]]・[[法哲学]]・[[法社会学]]などをほとんど無視するという、極めて硬直し偏った法学であったため、ナポレオン民法が時代遅れとなった19世紀の末から本格的に批判され始め<ref>[[潮見俊隆]]・[[利谷信義]]編『日本の法学者』[[法学セミナー]]増刊33頁([[日本評論社]]、[[1974年]])</ref>、その後、註釈学派に対し、必ずしも法文の文理のみに囚われるべきでないとするジェニー(François Gény)やサレイユ(Raymond Saleilles)らの[[自由法論]]が台頭して実務を支配することになる<ref>梅謙次郎述『民法総則(自第一章至第三章)』305頁([[法政大学]]、1907年)</ref>。
反面、判例・[[慣習]]はもとより、[[比較法]]・[[法制史]]・[[法哲学]]・[[法社会学]]などをほとんど無視するという、極めて硬直し偏った法学であったため、ナポレオン民法が時代遅れとなった19世紀の末から本格的に批判され始め<ref>[[潮見俊隆]]・[[利谷信義]]編『日本の法学者』[[法学セミナー]]増刊33頁([[日本評論社]]、[[1974年]])</ref>、その後、註釈学派に対し、必ずしも法文の文理のみに囚われるべきでないとするジェニー(François Gény)やサレイユ(Raymond Saleilles)らの[[自由法論]]が台頭して実務を支配することになる<ref>[[石坂音四郎]]『改纂民法研究上巻』2頁(有斐閣、1919年)、梅謙次郎述『民法総則(自第一章至第三章)』305頁([[法政大学]]、1907年)</ref>。


== 日本への影響 ==
== 日本への影響 ==

2011年4月12日 (火) 22:53時点における版

註釈学派(ちゅうしゃくがくは、Ecole de l'Exègèse)とは、フランスの法学者の一派。

概要

19世紀フランス法学において一世を風靡した学派である。ナポレオンが制定したフランス民法典を中核として整備された実定諸法典を自然法の現れであるとして絶対視し、慣習法判例法・条理といった不文法を一切排除し、その解釈においても厳格な立法者意思に従って解釈することを至上命題とした(立法者意思説)。

これは、裁判官の恣意的な法の解釈適用を許さず法規に拘束することで、モンテスキューが警告したような、国家権力による裁判権の濫用というアンシャン・レジームの克服を目指したもので、大陸法における近代法学の基本的原則の確立に大きく寄与すると共に、19世紀の経済自由主義の時代に一定の歴史的意義を果たした。

反面、判例・慣習はもとより、比較法法制史法哲学法社会学などをほとんど無視するという、極めて硬直し偏った法学であったため、ナポレオン民法が時代遅れとなった19世紀の末から本格的に批判され始め[1]、その後、註釈学派に対し、必ずしも法文の文理のみに囚われるべきでないとするジェニー(François Gény)やサレイユ(Raymond Saleilles)らの自由法論が台頭して実務を支配することになる[2]

日本への影響

富井政章梅謙次郎がフランスで学んだのはこの註釈学派であった。梅は法学の基礎教育を日本で既に修了しており、フランスの博士課程で主体的に学習したために、フランス法学に対して一定の評価を与えているのに対し[3]、富井が受けたのは硬直した典型的な註釈学派であった[4]。このため富井に大きな失望を与え[5][6][7]、富井自身は完全にフランス法系の出自であったにもかかわらず、日本民法典の起草に際してほとんどドイツ民法(正確にはその草案)一辺倒というほどの立場となる[8]

穂積陳重もまた註釈学派の硬直性を批判しており[9]、フランス民法が時代遅れになってきていた事情もあって[10][11][12]、日本民法典は総じてフランス民法から大きく離れ、ドイツ民法の思想を大幅に取り入れて起草されたものとなった[13][14][15][16][17][18][19][20]

そもそも、旧民法の主要な起草者であり、教育者として日本近代法学の確立に重大な貢献をしたボアソナード自身も自然法論者ながらも比較法への関心が高く、ある場合には実体法の規定を批判するなど典型的な註釈学派であったとはいえなかった[21]

憲法民事訴訟法商法刑法等の諸法典もまたドイツ法の大きな影響の下制定されたこともあり、これらのことから日本におけるフランス註釈学派の影響は消極的なものにとどまる。その後フランス法解釈学は、自由法論の台頭によって再評価されることになる[22]

脚注

  1. ^ 潮見俊隆利谷信義編『日本の法学者』法学セミナー増刊33頁(日本評論社1974年
  2. ^ 石坂音四郎『改纂民法研究上巻』2頁(有斐閣、1919年)、梅謙次郎述『民法総則(自第一章至第三章)』305頁(法政大学、1907年)
  3. ^ 星野英一『民法論集五巻』181頁(有斐閣1986年
  4. ^ 星野・民法論集5巻170-172頁
  5. ^ 後年の富井は法律の註釈や暗記に対する強い嫌悪をしばしば示している。大村敦志「富井政章」『法学教室』186号33頁
  6. ^ 富井はフランス法学に対し次のように述べる。「一方では注釈的に流れ又一方では主観的の空理空典を説くに過ぎないやうな有様であつたから、今日まで法律の学問と云ふものは進歩せなんだのである」富井政章「法学ノ研究二就テ」明治法学55号81頁(1903年)
  7. ^ 富井は、フランス民法百周年の祝賀演説という祝典の場においてすら、フランス法学に対して「卑近なる註釈的に偏した」との批判を浴びせている。富井政章「佛蘭西民法制定後佛国二於ケル沿革」法理研究会編『仏蘭西民法百年紀念論集』35頁(法理研究会、1905年)
  8. ^ 仁井田益太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」『法律時報』10巻7号24頁
  9. ^ 星野・民法論集5巻159-162頁
  10. ^ 梅謙次郎「法律の解釈」『太陽』9巻2号56頁(博文館、1903年)
  11. ^ 穂積陳重『法典論』30頁(哲学書院、1890年)
  12. ^ 富井政章『訂正増補民法原論第一巻總論』第17版37頁(有斐閣書房、1922年)
  13. ^ 梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号671頁以下(1896年)
  14. ^ 穂積陳重「獨逸民法論序」『穂積陳重遺文集第二冊』421頁、「獨逸法学の日本に及ぼせる影響」『穂積陳重遺文集第三冊』621頁、穂積(陳)・法窓夜話99話
  15. ^ 富井・民法原論第一巻序5頁
  16. ^ 仁井田益太郎穂積重遠平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」法律時報10巻7号24頁
  17. ^ 仁保亀松『国民教育法制通論』19頁(金港堂書籍、1904年)、仁保亀松講述『民法総則』5頁京都法政学校、1904年)
  18. ^ 松波仁一郎=仁保亀松=仁井田益太郎合著・穂積陳重=富井政章=梅謙次郎校閲『帝國民法正解』1巻8頁(日本法律学校1896年、復刻版信山社、1997年)
  19. ^ 加藤雅信『新民法大系I民法総則』第2版(有斐閣、2005年)27頁
  20. ^ 反対、星野英一『民法論集一巻』71頁(有斐閣、1970年)、内田貴『民法I総則物権法総論』第4版25頁(東京大学出版会、2008年)、潮見佳男『民法総則講義』24頁(有斐閣、2005年)
  21. ^ 潮見=利谷編・日本の法学者34、41頁
  22. ^ 自由法論に対しては富井も一定の評価を与えている。牧野英一『民法の基本問題』1頁以下(有斐閣、1955年)。ただし、結論的には「この学説は論理解釈の弊を矯めんが為め遂に論理解釈そのものを排斥し成文法以外に茫漠たる一大法源を認めんとするものにしてその非なること」明らかである、としてこれを退けている。富井・民法原論第一巻101頁

関連項目