コンテンツにスキップ

「註釈学派 (フランス法)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Phenomenology (会話 | 投稿記録)
日本への影響: 文献増補
Phenomenology (会話 | 投稿記録)
11行目: 11行目:
[[富井政章]]、[[梅謙次郎]]がフランスで学んだのはこの註釈学派であった。梅は法学の基礎教育を[[日本]]で既に[[修了]]しており、フランスのドクター・コースで主体的に学習したために、[[フランス法]]学に対して一定の評価を与えているのに対し、富井が受けたのは硬直した典型的な註釈学派であった。このため富井に大きな失望を与え<ref>後年の富井は法律の註釈や暗記に対する強い嫌悪をしばしば示している。大村敦志「富井政章」『法学教室』186号33頁</ref>、富井自身はフランス以外の留学経験がなかったという完全にフランス法系の出自であったにもかかわらず、日本[[民法]]典の起草に際してほとんど[[ドイツ民法]](正確にはその草案)一辺倒というほどの立場となる<ref>[[星野英一]]『民法論集第五巻』170-172頁([[有斐閣]]、[[1986年]])</ref>。
[[富井政章]]、[[梅謙次郎]]がフランスで学んだのはこの註釈学派であった。梅は法学の基礎教育を[[日本]]で既に[[修了]]しており、フランスのドクター・コースで主体的に学習したために、[[フランス法]]学に対して一定の評価を与えているのに対し、富井が受けたのは硬直した典型的な註釈学派であった。このため富井に大きな失望を与え<ref>後年の富井は法律の註釈や暗記に対する強い嫌悪をしばしば示している。大村敦志「富井政章」『法学教室』186号33頁</ref>、富井自身はフランス以外の留学経験がなかったという完全にフランス法系の出自であったにもかかわらず、日本[[民法]]典の起草に際してほとんど[[ドイツ民法]](正確にはその草案)一辺倒というほどの立場となる<ref>[[星野英一]]『民法論集第五巻』170-172頁([[有斐閣]]、[[1986年]])</ref>。


[[穂積陳重]]もまた註釈学派の硬直性を批判しており<ref>星野・民法論集5巻159-162頁</ref>、フランス民法が時代遅れになってきていた事情もあって<ref>梅謙次郎「法律の解釈」『太陽』9巻2号56頁([[博文館]]、1903年)</ref><ref>穂積陳重『法典論』30頁(哲学書院、1890年)</ref>、日本民法典は総じてフランス民法から離れ、ドイツ民法の思想を大幅に取り入れて起草されたものとなった<ref>梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号671頁(1896年)</ref><ref>[[仁井田益太郎]]・[[穂積重遠]]・[[平野義太郎]]「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」[[法律時報]]10巻7号24頁</ref><ref>穂積陳重「獨逸民法論序」『穂積陳重遺文集第二冊』421頁、「獨逸法学の日本に及ぼせる影響」『穂積陳重遺文集第三冊』621頁</ref><ref>富井政章『訂正増補民法原論第一巻総論』第17版序5頁(有斐閣書房、[[1922年]])</ref><ref>[[仁保亀松]]『国民教育法制通論』19頁(金港堂書籍、[[1904年]])、仁保亀松、伴房次郎述[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/792037/7『民法総則』5頁](京都法政大学、1904年)</ref><ref>[[松波仁一郎]]=仁保亀松=仁井田益太郎合著・穂積陳重=富井政章=梅謙次郎校閲『帝國民法正解』1巻8頁([[日本法律学校]]、[[1896年]]、復刻版信山社、1997年)</ref>。
[[穂積陳重]]もまた註釈学派の硬直性を批判しており<ref>星野・民法論集5巻159-162頁</ref>、フランス民法が時代遅れになってきていた事情もあって<ref>梅謙次郎「法律の解釈」『太陽』9巻2号56頁([[博文館]]、1903年)</ref><ref>穂積陳重『法典論』30頁(哲学書院、1890年)</ref>、日本民法典は総じてフランス民法から離れ、ドイツ民法の思想を大幅に取り入れて起草されたものとなった<ref>梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号671頁(1896年)</ref><ref>[[仁井田益太郎]]・[[穂積重遠]]・[[平野義太郎]]「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」[[法律時報]]10巻7号24頁</ref><ref>穂積陳重「獨逸民法論序」『穂積陳重遺文集第二冊』421頁、「獨逸法学の日本に及ぼせる影響」『穂積陳重遺文集第三冊』621頁</ref><ref>富井政章『訂正増補民法原論第一巻総論』第17版序5頁(有斐閣書房、[[1922年]])</ref><ref>[[仁保亀松]]『国民教育法制通論』19頁(金港堂書籍、[[1904年]])、仁保亀松、伴房次郎述[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/792037/7 『民法総則』5頁](京都法政大学、1904年)</ref><ref>[[松波仁一郎]]=仁保亀松=仁井田益太郎合著・穂積陳重=富井政章=梅謙次郎校閲『帝國民法正解』1巻8頁([[日本法律学校]]、[[1896年]]、復刻版信山社、1997年)</ref>。


そもそも、[[旧民法]]の主要な起草者であり、教育者として日本近代法学の確立に重大な貢献をした[[ボアソナード]]自身も自然法論者ながらも比較法への関心が高く、ある場合には実体法の規定を批判するなど典型的な註釈学派であったとはいえなかった<ref>潮見=利谷編・日本の法学者34、41頁</ref>。
そもそも、[[旧民法]]の主要な起草者であり、教育者として日本近代法学の確立に重大な貢献をした[[ボアソナード]]自身も自然法論者ながらも比較法への関心が高く、ある場合には実体法の規定を批判するなど典型的な註釈学派であったとはいえなかった<ref>潮見=利谷編・日本の法学者34、41頁</ref>。

2011年3月8日 (火) 16:25時点における版

註釈学派(ちゅうしゃくがくは、Ecole de l'Exègèse)とは、フランスの法学者の一派。

概要

19世紀フランス法学において一世を風靡した学派である。ナポレオンが制定したフランス民法典を中核として整備された実定諸法典を自然法の現れであるとして絶対視し、慣習法判例法・条理といった不文法を一切排除し、その解釈においても厳格な立法者意思に従って解釈することを至上命題とした(立法者意思説)。

これは、裁判官の恣意的な法の解釈適用を許さず法規に拘束することで、モンテスキューが警告したような、国家権力による裁判権の濫用というアンシャン・レジームの克服を目指したもので、抽象的な法の要件を解釈して具体的事件に適用して解決するという、大陸法における近代法学の基本的原則の確立に大きく寄与すると共に、19世紀の経済自由主義の時代に一定の歴史的意義を果たした。

反面、判例・慣習はもとより、比較法法制史法哲学法社会学などをほとんど無視するという、極めて硬直し偏った法学であったため、ナポレオン民法が時代遅れとなった19世紀の末から本格的に批判され始め[1]、その後、註釈学派に対し、必ずしも法文の文理のみに囚われるべきでないとするジェニーやサレイユ(Raymond Saleilles)らの自由法論が台頭することになる。

日本への影響

富井政章梅謙次郎がフランスで学んだのはこの註釈学派であった。梅は法学の基礎教育を日本で既に修了しており、フランスのドクター・コースで主体的に学習したために、フランス法学に対して一定の評価を与えているのに対し、富井が受けたのは硬直した典型的な註釈学派であった。このため富井に大きな失望を与え[2]、富井自身はフランス以外の留学経験がなかったという完全にフランス法系の出自であったにもかかわらず、日本民法典の起草に際してほとんどドイツ民法(正確にはその草案)一辺倒というほどの立場となる[3]

穂積陳重もまた註釈学派の硬直性を批判しており[4]、フランス民法が時代遅れになってきていた事情もあって[5][6]、日本民法典は総じてフランス民法から離れ、ドイツ民法の思想を大幅に取り入れて起草されたものとなった[7][8][9][10][11][12]

そもそも、旧民法の主要な起草者であり、教育者として日本近代法学の確立に重大な貢献をしたボアソナード自身も自然法論者ながらも比較法への関心が高く、ある場合には実体法の規定を批判するなど典型的な註釈学派であったとはいえなかった[13]

憲法民事訴訟法商法刑法等の諸法典もまたドイツ法の大きな影響の下制定されたこともあり、これらのことから日本におけるフランス註釈学派の影響は消極的なものにとどまる。その後フランス法学は、自由法論の台頭によって富井や牧野英一らにより再評価されることになる[14]

脚注

  1. ^ 潮見俊隆利谷信義編『日本の法学者』法学セミナー増刊33頁(日本評論社1974年
  2. ^ 後年の富井は法律の註釈や暗記に対する強い嫌悪をしばしば示している。大村敦志「富井政章」『法学教室』186号33頁
  3. ^ 星野英一『民法論集第五巻』170-172頁(有斐閣1986年
  4. ^ 星野・民法論集5巻159-162頁
  5. ^ 梅謙次郎「法律の解釈」『太陽』9巻2号56頁(博文館、1903年)
  6. ^ 穂積陳重『法典論』30頁(哲学書院、1890年)
  7. ^ 梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号671頁(1896年)
  8. ^ 仁井田益太郎穂積重遠平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」法律時報10巻7号24頁
  9. ^ 穂積陳重「獨逸民法論序」『穂積陳重遺文集第二冊』421頁、「獨逸法学の日本に及ぼせる影響」『穂積陳重遺文集第三冊』621頁
  10. ^ 富井政章『訂正増補民法原論第一巻総論』第17版序5頁(有斐閣書房、1922年
  11. ^ 仁保亀松『国民教育法制通論』19頁(金港堂書籍、1904年)、仁保亀松、伴房次郎述『民法総則』5頁(京都法政大学、1904年)
  12. ^ 松波仁一郎=仁保亀松=仁井田益太郎合著・穂積陳重=富井政章=梅謙次郎校閲『帝國民法正解』1巻8頁(日本法律学校1896年、復刻版信山社、1997年)
  13. ^ 潮見=利谷編・日本の法学者34、41頁
  14. ^ 牧野英一『民法の基本問題』1頁以下(有斐閣、1955年)

関連項目