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「田中純 (文芸評論家)」の版間の差分

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'''田中 純'''(たなか じゅん、[[1890年]][[1月19日]] - [[1966年]][[4月20日]])は、小説家、文芸評論家、翻訳家。
'''田中 純'''(たなか じゅん、[[1890年]][[1月19日]] - [[1966年]][[4月20日]])は、小説家、文芸評論家、翻訳家。


[[広島市]]生まれ。[[関西学院]]神学部を出て伝道師となるが、[[早稲田大学]]英文科を1915年に卒業、[[春陽堂]]に入り『[[新小説]]』編集部に属し、文学の翻訳などをしつつ、[[久米正雄]]、[[里見弴]]らと知り合い、文芸評論や小説などを書くようになり、1919年、[[吉井勇]]とともに外務省の[[小村欣一]]の肝煎りで[[国民文芸会]]を結成し、演劇復興運動を起こす。同年、吉井、里見、久米とともに理事として雑誌『人間』を創刊、中途から植村宗一([[直木三十五]])が編集に当たった。
[[広島市]]生まれ。[[関西学院]]神学部を出て伝道師となるが、[[早稲田大学]]英文科を1915年に卒業、[[春陽堂書店|春陽堂]]に入り『[[新小説]]』編集部に属し、文学の翻訳などをしつつ、[[久米正雄]]、[[里見弴]]らと知り合い、文芸評論や小説などを書くようになり、1919年、[[吉井勇]]とともに外務省の[[小村欣一]]の肝煎りで[[国民文芸会]]を結成し、演劇復興運動を起こす。同年、吉井、里見、久米とともに理事として雑誌『人間』を創刊、中途から植村宗一([[直木三十五]])が編集に当たった。


== 著書 ==
== 著書 ==

2008年12月22日 (月) 11:22時点における版

田中 純(たなか じゅん、1890年1月19日 - 1966年4月20日)は、小説家、文芸評論家、翻訳家。

広島市生まれ。関西学院神学部を出て伝道師となるが、早稲田大学英文科を1915年に卒業、春陽堂に入り『新小説』編集部に属し、文学の翻訳などをしつつ、久米正雄里見弴らと知り合い、文芸評論や小説などを書くようになり、1919年、吉井勇とともに外務省の小村欣一の肝煎りで国民文芸会を結成し、演劇復興運動を起こす。同年、吉井、里見、久米とともに理事として雑誌『人間』を創刊、中途から植村宗一(直木三十五)が編集に当たった。

著書

  • 妻 新潮社 1920
  • 月光曲 金星堂 1922
  • 闇に哭く 玄文社 1924
  • 輪舞 新潮社 1925
  • 美濃と飛騨の旅 日本風景協会 1931
  • 無明の春 忠文館書店 1933
  • 耶蘇伝 堀書店 1948
  • ヴェールを外した作家の横顔 朝日新聞社 1955(朝日文化手帖)
  • 文壇恋愛史 正続 新潮社 1955(一時間文庫)
  • 女のたゝかい 女性解放の旗手たち 新潮社 1957
  • 近代麗人伝 光書房 1959

翻訳

  • 医学上より見たる酒精飲料の利害 ジョセフ・ストーク 日本禁酒同盟会 1913
  • 露西亜文芸の主潮 クロポートキン 春陽堂 1917
  • ルーヂン ツルゲエネフ 新潮社 1918
  • その前夜 ツルゲエネフ 新潮社 1918
  • 秘密の庭 バーネツト 家庭読物刊行会 1919
  • ドストイェーフスキー全集 第1巻 貧しき人々・プロハルチン君・死の家よりの覚書 ドストイヱフスキー全集刊行会 1920
  • 処女地 ツルゲエネフ 新潮社 1920
  • モウパッサン全集 第7巻 湯の町の恋・モントリオル 天佑社 1921
  • カルメン メリメエ 文芸日本社 1925
  • ドストイェフスキイ全集 第3巻 死の家の記録 ドストエフスキー全集刊行会 1925
  • 亜米利加の悲劇 テオドル・ドライサー 大衆公論社 1930
  • 人生論 トルストイ 新潮社(新潮文庫) 1933
  • わが滑空物語 ロベルト・クロンフェルト 東晃社 1943