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「マーク・スピッツ」の版間の差分

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'''マーク・アンドリュー・スピッツ'''(Mark Andrew Spitz, [[1950年]][[2月10日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]生まれの[[競泳]]選手である。
'''マーク・アンドリュー・スピッツ'''(Mark Andrew Spitz, [[1950年]][[2月10日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]生まれの[[競泳]]選手である。


[[近代オリンピック]]の一大会における金メダルの最多獲得者であった。[[1972年]]の[[ミュンヘンオリンピック]]では、以下の7種目で金メダルを獲得し、かつ7種目全てで当時の世界記録をマークした。これはフェルプスに並ばれただけであり、いまだに抜かれてはいない
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*100m [[自由形]]
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*200m 自由形
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*800m フリーリレー
*800m フリーリレー
*400m [[メドレーリレー]]
*400m [[メドレーリレー]]
生涯獲得金メダル数9個は競泳の[[マイケル・フェルプス]]に2008年の北京オリンピックで抜かれるまでは、体操の[[ラリサ・ラチニナ]]、陸上の[[パーヴォ・ヌルミ]]、陸上の[[カール・ルイス]]と並ぶ最多タイ記録だった。1968年のメキシコオリンピックの前にすでに10個の世界記録を持っていたスピッツは、大胆にもオリンピックで6つの金メダルを取ると宣言した。しかし、彼が取れた金メダルは結局2つのリレーだけで、メドレーリレーでは代表となることはできず、100mバタフライでは銀メダル、100m自由形では銅メダルに終わった。彼はこの失敗をバネにつの金メダル獲得のため努力し、結果的には7個の金メダルを次のミュンヘン五輪で取ることになった。
生涯獲得金メダル数9個は競泳の[[マイケル・フェルプス]]に2008年の北京オリンピックで抜かれるまでは、体操の[[ラリサ・ラチニナ]]、陸上の[[パーヴォ・ヌルミ]]、陸上の[[カール・ルイス]]と並ぶ最多タイ記録だった。1968年のメキシコオリンピックの前にすでに10個の世界記録を持っていたスピッツは、大胆にもオリンピックで6つの金メダルを取ると宣言した。しかし、彼が取れた金メダルは結局2つのリレーだけで、メドレーリレーでは代表となることはできず、100mバタフライでは銀メダル、100m自由形では銅メダルに終わった。彼はこの失敗をバネに6つの金メダル獲得のため努力し、結果的には7個の金メダルを次のミュンヘン五輪で取ることになった。


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2008年8月25日 (月) 17:34時点における版

オリンピック
競泳
1968 4×100mリレー
1968 4×200mリレー
1972 100m自由形
1972 200m自由形
1972 100mバタフライ
1972 200mバタフライ
1972 4×100mリレー
1972 4×200mリレー
1972 4×100mメドレーリレー
1968 100mバタフライ
1968 100m自由形

マーク・アンドリュー・スピッツ(Mark Andrew Spitz, 1950年2月10日 - )は、アメリカ合衆国生まれの競泳選手である。

1972年ミュンヘンオリンピックにおいて、以下の7種目で金メダルを獲得し、かつ全ての種目で当時の世界記録をマークした。オリンピック1大会の金メダル獲得数はマイケル・フェルプスに破られたものの、世界記録樹立数は並ばれただけである。

生涯獲得金メダル数9個は競泳のマイケル・フェルプスに2008年の北京オリンピックで抜かれるまでは、体操のラリサ・ラチニナ、陸上のパーヴォ・ヌルミ、陸上のカール・ルイスと並ぶ最多タイ記録だった。1968年のメキシコオリンピックの前にすでに10個の世界記録を持っていたスピッツは、大胆にもオリンピックで6つの金メダルを取ると宣言した。しかし、彼が取れた金メダルは結局2つのリレーだけで、メドレーリレーでは代表となることはできず、100mバタフライでは銀メダル、100m自由形では銅メダルに終わった。彼はこの失敗をバネに6つの金メダル獲得のため努力し、結果的には7個の金メダルを次のミュンヘン五輪で取ることになった。