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「波川清宗」の版間の差分

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清宗は[[高知県]][[土佐郡]]で生まれ、[[長宗我部国親]]に側近として仕えた。一条兼定を滅ぼした功で、国親の娘(長宗我部元親の妹)を正室に迎え入れ、長宗我部家一門の一人となる。その後も[[長宗我部元親]]の四国統一に大きく貢献して、幡多郡山路城主となった。しかし、失政が多く蟄居させられる。その不満から[[天正]]8年([[1580年]])に反乱を企んだが、露見。阿波へ逃れたが結局は自刃して果てた。
清宗は[[高知県]][[土佐郡]]で生まれ、[[長宗我部国親]]に側近として仕えた。一条兼定を滅ぼした功で、国親の娘(長宗我部元親の妹)を正室に迎え入れ、長宗我部家一門の一人となる。その後も[[長宗我部元親]]の四国統一に大きく貢献して、幡多郡山路城主となった。しかし、失政が多く蟄居させられる。その不満から[[天正]]8年([[1580年]])に反乱を企んだが、露見。阿波へ逃れたが結局は自刃して果てた。
しかし、清宗の子[[波川 清久]]はなぜか殺されずに、波川氏は幕末まで続いた。
しかし、清宗の子[[波川 清久]]はなぜか殺されずに、波川氏は幕末まで続いた。


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2007年10月9日 (火) 09:24時点における版

波川 清宗(はかわ きよむね、 生年不明 - 天正8年12月8日1580年12月27日))は四国の大名・長宗我部国親長宗我部元親の家臣。

清宗は高知県土佐郡で生まれ、長宗我部国親に側近として仕えた。一条兼定を滅ぼした功で、国親の娘(長宗我部元親の妹)を正室に迎え入れ、長宗我部家一門の一人となる。その後も長宗我部元親の四国統一に大きく貢献して、幡多郡山路城主となった。しかし、失政が多く蟄居させられる。その不満から天正8年(1580年)に反乱を企んだが、露見。阿波へ逃れたが結局は自刃して果てた。 しかし、清宗の子波川 清久はなぜか殺されずに、波川氏は幕末まで続いた。