「註釈学派 (フランス法)」の版間の差分
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2011年3月4日 (金) 10:40時点における版
註釈学派(ちゅうしゃくがくは、Ecole de i'éxegèse)とは、フランスの法学者の一派。
概要
19世紀のフランス法学において一世を風靡した学派である。ナポレオンが制定したフランス民法典を中核として整備された実定諸法典を自然法の現れであるとして絶対視し、慣習法・判例法・条理といった不文法を一切排除し、その解釈においても厳格な立法者意思に従って解釈することを至上命題とした(立法者意思説)。
これは、裁判官の恣意的な法の解釈適用を許さず法規に拘束することで、モンテスキューが警告したような、国家権力による裁判権の濫用というアンシャン・レジームの克服を目指したもので、抽象的な法の要件を解釈して具体的事件に適用して解決するという、大陸法における近代法学の基本的原則の確立に大きく寄与すると共に、19世紀の経済的自由主義の時代に一定の歴史的意義を果たした。
反面、判例・慣習はもとより、比較法・法制史・法哲学・法社会学などをほとんど無視するという、極めて硬直し偏った法学であったため、ナポレオン民法が時代遅れとなった19世紀の末から本格的に批判され始め[1]、その後、註釈学派に対し、必ずしも法文の文理に囚われるべきでないとするサレイユ等の自由法論が台頭することになる。
日本への影響
富井政章、梅謙次郎がフランスで学んだのはこの註釈学派であった。梅は法学の基礎教育を日本で既に終了しており、フランスのドクター・コースで主体的に学習したために、フランス法学に対して一定の評価を与えているのに対し、富井が受けたのは硬直した典型的な註釈学派であった。このため富井に大きな失望を与え、富井自身はフランス以外の留学経験がなかった仏法系の出自であったにもかかわらず、日本民法典の起草に際してほとんどドイツ民法一辺倒というほどの立場となる。
穂積陳重もまた註釈学派の硬直性を批判しており、旧民法の主要な起草者であったボアソナード自身は典型的な註釈学派ではなかったが、梅もまたフランス民法典及び旧民法の内容には不満を持っていたこともあって[2]、これら起草者の基本的態度が日本民法のフランス法離れの大きな要因となる[3]。
憲法・民事訴訟法・商法・刑法等の諸法典もドイツ法の大きな影響下の下制定されたこともあり、日本におけるフランス註釈学派の影響は消極的なものにとどまる。その後ようやくフランス法学が再評価され始めたのは、牧野英一が富井からサレイユの著書の紹介をされたことが端緒であった[4]。