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{{出典の明記|date=2019年1月14日 (月) 09:47 (UTC)}} |
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'''伊達 宗遠'''('''だてむねとう''' [[正中]]元年([[1324年]]) - [[元中]]2年/[[至徳]]2年([[1385年]]))は[[守護大名]]。[[伊達氏]]第8代当主。官位は従五位下、弾正少弼。父は[[伊達行宗]]、母は[[田村氏]]の娘・静照院。息子に[[伊達政宗 (大膳大夫)|伊達政宗]]など。 宗遠の息子の[[大条宗行|宗行]]は、[[大条氏]](大枝)の祖となった。 |
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{{基礎情報 武士 |
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==経歴== |
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| 氏名 = 伊達宗遠 |
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| 画像説明 = |
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また、米沢の[[成島八幡宮]]の拝殿をを改築している。 |
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| 時代 = [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] |
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| 生誕 = [[正中 (日本)|正中]]元年([[1324年]]) |
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| 死没 = [[元中]]2年/[[至徳 (日本)|至徳]]2年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[1385年]][[6月28日]]) |
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| 改名 = |
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| 別名 = |
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| 諡号 = 定叟公 |
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| 神号 = |
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| 戒名 = 定叟 |
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| 霊名 = |
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| 墓所 = |
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| 官位 = [[従五位|従五位下]][[弾正台|弾正少弼]] |
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| 幕府 = |
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| 主君 = |
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| 藩 = |
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| 氏族 = [[伊達氏]] |
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| 父母 = [[伊達行朝]]、田村氏娘・[[静照院]] |
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| 兄弟 = '''宗遠'''、[[伊達行資|行資]] |
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| 妻 = '''[[結城宗広]]娘・[[高明院]]''' |
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| 子 = '''[[伊達政宗 (大膳大夫)|政宗]]'''、[[大條氏|大條宗行]]、[[最上直家]]正室 |
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| 特記事項 = |
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}} |
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'''伊達 宗遠'''(だて むねとお)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。[[官位]]は[[従五位|従五位下]]・[[弾正台|弾正少弼]]。[[伊達氏]]8代当主。 |
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*父:[[伊達行宗]] |
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**[[大条宗行]] |
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== 生涯 == |
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宗遠の子・[[大條氏|宗行]]は[[大條氏]](大枝)<ref>大條氏本家は明治期に伊達に復姓している。お笑いコンビ・[[サンドウィッチマン (お笑いコンビ)|サンドウィッチマン]]の[[伊達みきお]]はその末裔にあたる。</ref>の祖となった。 |
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*父:[[伊達行朝]]([[1291年]]-[[1348年]]) |
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*生母不明の子女 |
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**男子:[[大條氏|大條宗行]] - 大枝宗行 |
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伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。 |
伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。 |
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行宗-宗遠の場合、[[1348年]]の『[[奥州管領]][[吉良貞家]]の書状』の中に「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官[[伊達宗政|伊達修理亮宗政]]」とみえ、また宗遠の初見は[[1342年]]の『[[五辻顕尚]]の書状』の中の伊達飛騨前司とある為、宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている<ref>小林清治『東昌寺と陸奥安国寺』、『伊達政宗のすべて』(新人物往来社)</ref>。 |
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行宗-宗遠の場合、[[1348年]]の[[奥州管領]][[吉良貞家]]の書状の中に |
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「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官[[伊達宗政|伊達修理亮宗政]]」とみえ、 |
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また宗遠の初見は[[1342年]]の[[五辻顕尚]]の書状の中の伊達飛騨前司とある為、 |
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宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている。 |
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== 脚注 == |
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修理亮宗政と宗遠が同時代の人であることがわかる。 |
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また、伊達行宗の子息には[[伊佐城]]主となった[[伊達行資|伊達宮内太郎行資]]([[伊佐岡氏]]祖)がおり、 |
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{{伊達氏宗家歴代当主||8代}} |
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行資こそが万寿丸では無いかとの説もある。 |
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宗遠は「行宗の庶子」「行宗の弟」「有力な親族」の何れかである可能性が指摘されている。 |
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{{DEFAULTSORT:たて むねとお}} |
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{{先代次代|[[伊達氏]]|第8代|[[伊達行宗|行宗]]|[[伊達政宗 (大膳大夫)|政宗 (大膳大夫)]]}} |
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[[Category:伊達氏|むねとお]] |
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{{生没年|たてむねとう|1324年|1385年}} |
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[[Category:南北朝時代の |
[[Category:南北朝時代の武将]] |
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[[Category: |
[[Category:陸奥国人領主]] |
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[[Category:1324年生]] |
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[[Category:1385年没]] |
2024年3月21日 (木) 13:06時点における版
時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 正中元年(1324年) |
死没 | 元中2年/至徳2年5月20日(1385年6月28日) |
諡号 | 定叟公 |
戒名 | 定叟 |
官位 | 従五位下弾正少弼 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 伊達行朝、田村氏娘・静照院 |
兄弟 | 宗遠、行資 |
妻 | 結城宗広娘・高明院 |
子 | 政宗、大條宗行、最上直家正室 |
伊達 宗遠(だて むねとお)は、南北朝時代の武将。官位は従五位下・弾正少弼。伊達氏8代当主。
生涯
天授6年/康暦2年(1380年)頃から長井氏を攻め立てた。宗遠は周辺各氏との一揆契約や騙し討ちなどの謀略を駆使し、長井氏を確実に切り崩していった。結局元中2年/至徳2年(1385年)には長井氏は滅亡し、伊達氏は米沢を手に入れる事になった。
天授7年/康暦3年(1381年)には大崎氏と戦い信夫郡・刈田郡・伊具郡・柴田郡を奪い、また、武石行胤を破り亘理郡も実質的な支配下に組み入れている。
この時代には小沢氏、余目氏などと一揆契約を結んでいる。また、米沢の成島八幡宮の拝殿を改築している。
系譜
系譜の疑問点
伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。
行宗-宗遠の場合、1348年の『奥州管領吉良貞家の書状』の中に「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官伊達修理亮宗政」とみえ、また宗遠の初見は1342年の『五辻顕尚の書状』の中の伊達飛騨前司とある為、宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている[2]。
1377年に伊達宗政(修理亮)が留守持家と一揆を結んだとの史料(一揆契約の書状)もあり、修理亮宗政と宗遠が同時代の人であることがわかる。