コンテンツにスキップ

「ジャミラ・ブーパシャ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Pinkpastel (会話 | 投稿記録)
内部リンク作成など。
m →‎事件の概要: 不要な改行の削除
 
(22人の利用者による、間の33版が非表示)
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2016年8月28日 (日) 12:35 (UTC)}}
[[Image:Djamila Boupacha.jpg|thumb| ジャミラ・ブーパシャ(1962年撮影)]]
[[File:Djamila BOUPACHA.jpg|right|thumb|2017年撮影]]
'''ジャミラ・ブーパシャ'''(アラビア語:جميلة بوباشا フランス語:Djamila Boupacha, [[1938年]][[2月9日]] - )は、[[アルジェリア]]の[[独立]][[社会運動|運動]]家。愛称は[[ジャミラ]]。
[[ファイル:Djamila_Boupacha_1963.jpg|サムネイル|1963年3月14日撮影]]
'''ジャミラ・ブーパシャ'''({{lang-ar|جميلة بوباشا}}, Jamīla Būbāshā, ジャミーラ・ブーバーシャー、{{lang-fr|Djamila Boupacha}}、[[1938年]][[2月9日]] - )<ref>ジャミーラ(ジャミラ)がファーストネーム、ブーバーシャー(ブーァパシャ)が家名。</ref>は、[[アルジェリア]]の[[社会運動|独立運動]]家。


アルジェリアに駐留する[[フランス]]当局から[[非人道的]]な[[拷問]]を受け、これに対する[[抗議]]運動によってアルジェリアでフランスが行っていた[[人権蹂躙]]が明らかとなり、アルジェリア独立に大きな影響を与えた。ここでは、この[[事件]]を中心に記述する。
アルジェリアに駐留する[[フランス]]当局から[[非人道的]]な[[拷問]]を受け、これに対する抗議運動によってアルジェリアでフランスが行っていた[[人権蹂躙]]が明らかとなり、アルジェリア独立に大きな影響を与えた。ここでは、この事件を中心に記述する。


== 事件の概要 ==
== 事件の概要 ==
[[1959年]][[9月]]、[[アルジェリア戦争|独立戦争]]下にあったフランス領アルジェリアの[[首都]][[アルジェ]]で[[爆弾]][[テロリズム|テロ]]未遂事件が発生。[[フランス警察]]は[[アルジェリア民族解放戦線]](FLN)のメンバージャミラを事件の[[被疑者|容疑者]]として[[逮捕]]、連した。
[[1959年]]9月、[[アルジェリア戦争|独立戦争]]下にあったフランス領アルジェリアの首都[[アルジェ]]で爆弾テロ未遂事件が発生した。[[フランスの警察|フランス警察]]は[[アルジェリア民族解放戦線]] (FLN) のメンバーであるジャミラを事件の容疑者として逮捕し、連行した。ジャミラは無実を主張したが、アルジェリアに駐留するフランス警察と[[落下傘部隊]]はジャミラに対し、[[電気ショック]]{{要曖昧さ回避|date=2023年1月}}のほか、[[膣]]への瓶挿入などの凄惨な拷問を、連日にわたって加え続けた。そのため、ジャミラは数日間も意識不明に陥る。この事実を知ったFLNの顧問弁護士[[ジゼル・アリミ]]はフランス当局に反訴を提起し、抗議運動を開始した。


[[1960]]、アリミの友人である[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]が、「Pour Djamila Boupacha」と題する手記を[[ル・モンド]]』紙に寄稿した<ref>[https://web.archive.org/web/20120324184623/http://s1.lemde.fr/webdocs_contenu/fichiers/2012/torture/pdf/09_Pourdjamila.pdf シモーヌ・ド・ボーヴォワール「Pour Djamila Boupacha」全文]{{fr icon}} ウェブアーカイブ。2014年7月11日閲覧。</ref>。フランス当局の非人道的な行為は、フランス国民に大きな衝撃をもって知られることになった
ジャミラは[[無実]]を主張したが、アルジェリアに駐留する[[フランスの警察|フランス警察]]と[[落下傘部隊]]はジャミラに対し、[[電気ショック]]、[[膣]]への[[瓶]]挿入などの凄惨な拷問を連日にわたって加え続けた。そのためジャミラは数日間、[[意識障害|意識不明]]に陥る。


以上のを契機にアリミとボーヴォワールが中心となって開始された抗議運動は急速に発展し、[[フランソワーズ・サガン]]らの文化人も参加した結果2年以上にわたった裁判はフランスだけでなく全世界からの注目を集めた。
この事実を知ったFLNの顧問[[弁護士]][[w:Gisèle Halimi|ジゼル・アリミ]]はフランス当局に[[反訴]]を提起、抗議運動を開始した。

年、アリミの友人である[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]が、「Pour Djamila Boupacha」と題する手記を[[ル・モンド|「ル・モンド」]]に寄稿<ref>[http://web.archive.org/web/20120324184623/http://s1.lemde.fr/webdocs_contenu/fichiers/2012/torture/pdf/09_Pourdjamila.pdf シモーヌ・ド・ボーヴォワール「Pour Djamila Boupacha」] ウェブアーカイブ。2014年7月11日閲覧。</ref>。フランス当局の[[非人道的]]な行為は、フランス国民に大きな衝撃をもって知られることにな

を契機にアリミとボーヴォワールが中心となって開始された[[抗議]]運動は急速に発展[[フランソワーズ・サガン]]らの[[文化人]]も参加し、年以上にわたった[[裁判]]はフランスだけでなく全世界からの注目を集めた。


== 事件の背景 ==
== 事件の背景 ==
[[1954年]]、[[第二次世界大戦]]後の[[アジア]]で起こった民族独立の動きに触発されたアルジェリアの独立派勢力がアルジェリア民族解放戦線(FLN)を結成、[[武力]]闘争による独立運動が本格化した。同年、これに対抗する[[フランス軍|フランス現地駐留軍]]との間で[[戦争]]状態に入る([[アルジェリア戦争|アルジェリア独立戦争]])。
[[1954年]]、[[第二次世界大戦]]後のアジアで起こった民族独立の動きに触発されたアルジェリアの独立派勢力がFLNを結成、武力闘争による独立運動が本格化した。同年、これに対抗する[[フランス軍|フランス現地駐留軍]]との間で戦争状態に入る([[アルジェリア戦争|アルジェリア独立戦争]])。


FLNが[[都市]]部で爆弾テロ闘争を行う一方、フランス現地駐留軍はFLNの本拠地とされる[[村落|農村]]部で現地[[住民]]を[[虐殺]]。さらに[[1958年]]3月には政府のアルジェリア[[政策]]に不満を募らせた軍が[[クーデター]]を起こすなど事態は泥沼化した。
FLNが都市部で爆弾テロ闘争を行う一方、フランス現地駐留軍はFLNの本拠地とされる農村部で現地住民を[[虐殺]]した。さらに[[1958年]]3月には政府のアルジェリア政策に不満を募らせた軍が[[クーデター]]を起こすなど事態は泥沼化した。


ような状況下でジャミラ・ブーパシャ連行・拷問事件は発生した。
以上の状況下で、この事件は発生した。


== 事件の結末 ==
== 事件の結末 ==
1958年、[[フランス大統領]]に就任した[[シャルル・ド・ゴール]]は、[[民族自決]]の流れを止めることは不可能と判断アルジェリア独立を承認する姿勢を示した。
1958年、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]]に就任した[[シャルル・ド・ゴール]]は、[[民族自決]]の流れを止めることは不可能と判断し、アルジェリア独立を承認する姿勢を示した。アルジェリア領有継続派はこれに強硬に反対し、ド・ゴール暗殺計画を含むテロ行為を行ったが、[[1962年]]3月に[[エビアン協定]]が締結され、和平が成立する。この協定にしたがい、ジャミラは釈放された。


1962年7月、アルジェリアは独立を達成する。
アルジェリア[[領有]]継続派はこれに強硬に反対し、ド・ゴール[[暗殺]]計画を含むテロ行為を行ったが、[[1962年]][[3月]]に[[w:Évian Accords|エビアン協定]]が締結され、和平が成立。この協定にしたがい、ジャミラは釈放された。

[[7月]]、アルジェリアは独立を達成する。


== 事件の与えた影響 ==
== 事件の与えた影響 ==
[[1960年]]当時のフランス国内ではアルジェリア独立戦争の長期化泥沼化に起因する厭戦気分が広がっていた。
[[1960年]]当時のフランス国内ではアルジェリア独立戦争の長期化泥沼化に起因する厭戦気分が広がっていた。それに加え、この事件に対してフランスだけでなく国外からも行われた強い批判、および領有継続派が行ったテロ行為による治安への不安はアルジェリア独立を肯定する世論形成に大きな影響を与え、[[1961年]]6月に行われたフランス[[国民投票]]では75%がアルジェリアの民族自決を支持するに至る


以上のよ国民世論の支持を受け、ド・ゴールはアルジェリア独立政策を推進した。
それに加え、この事件に対してフランスだけでなく国外からも行われた強い批判、および、領有継続派が行ったテロ行為による治安への不安はアルジェリア独立を肯定する[[世論]]形成に大きな影響を与え、[[1961年]][[6月]]に行われたフランス[[国民投票]]では75%がアルジェリアの民族自決を支持するに至る。

ド・ゴールはこした国民世論の支持を受け、アルジェリア独立政策を推進した。


== 関連書籍 ==
== 関連書籍 ==
ここでは、[[日本]][[出版]]されたものを記すにとどめる。
以下では、日本で出版されたものを記すにとどめる。
* [[ジゼル・アリミ]]、[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]『ジャミラよ朝は近いアルジェリア少女拷問の記録』 [[手塚伸一 (仏文学者)|手塚伸一]]訳、[[集英社]]、[[1963年]][[8月]]<ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000466013-00 ジャミラよ朝は近い:アルジェリア少女拷問の記録(集英社):1963|書誌詳細] 国立国会図書館サーチ。2014年7月11日閲覧。</ref>

* ジャミラよ朝は近い - アルジェリア少女拷問の記録<ref>[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000466013-00 ジャミラよ朝は近い:アルジェリア少女拷問の記録(集英社):1963|書誌詳細] 国立国会図書館サーチ。2014年7月11日閲覧。</ref>
** [[著作者|著者]] ジゼル・アリミ、シモーヌ・ド・ボーヴォワール
** [[翻訳|翻訳者]] [[手塚伸一 (仏文学者)|手塚伸一]]
** [[初版]]発行 [[1963年]][[8月]]
** 発行所 [[集英社]]

== 怪獣ジャミラとの関係 ==
[[1966年]][[12月18日]]に放送された[[特撮]][[テレビ番組]][[ウルトラマン|「ウルトラマン」]]第23話「故郷は地球」に登場する[[架空]]の[[ジャミラ_(ウルトラ怪獣)|怪獣ジャミラ]]の名は、ジャミラ・ブーパシャに由来する。[[World Wide Web|ウェブ]]上を中心に「怪獣ジャミラの名前はアルジェリア独立戦争で[[虐殺]]された[[少女]]の名に由来する」との説が広がっているが、上述の通り、[[殺害]]されてはいない。

日本では「少女」と語られることが多いが、事件当時はすでに20歳を越えていた。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[アルジェリアの歴史]]
* [[アルジェリア戦争]]
* [[アルジェリア戦争]]
* [[ジャミラ (ウルトラ怪獣)]] - 特撮テレビドラマ『[[ウルトラマン]]』第23話「故郷は地球」に登場する怪獣。名前はジャミラ・ブーパシャに由来する<ref name="読本">{{Harvnb|ウルトラマン研究読本|2013|pp=170-171|loc=「エピソードガイド 第23話 故郷は地球」}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}


{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふはしや しやみら}}
{{DEFAULTSORT:ふはしや しやみら}}
[[Category:アルジェリアの人物]]
[[Category:アルジェリアの人物]]
[[Category:アルジェリア戦争]]
[[Category:アルジェリア戦争の人物]]
[[Category:フランスの戦争犯罪]]
[[Category:ジゼル・アリミ]]
[[Category:シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]
[[Category:拷問被害者]]
[[Category:1938年生]]
[[Category:1938年生]]
[[Category:存命人物]]

2024年3月12日 (火) 11:35時点における最新版

2017年撮影
1963年3月14日撮影

ジャミラ・ブーパシャアラビア語: جميلة بوباشا‎, Jamīla Būbāshā, ジャミーラ・ブーバーシャー、フランス語: Djamila Boupacha1938年2月9日 - )[1]は、アルジェリア独立運動家。

アルジェリアに駐留するフランス当局から非人道的拷問を受け、これに対する抗議運動によってアルジェリアでフランスが行っていた人権蹂躙が明らかとなり、アルジェリア独立に大きな影響を与えた。ここでは、この事件を中心に記述する。

事件の概要

[編集]

1959年9月、独立戦争下にあったフランス領アルジェリアの首都アルジェで爆弾テロ未遂事件が発生した。フランス警察アルジェリア民族解放戦線 (FLN) のメンバーであるジャミラを事件の容疑者として逮捕し、連行した。ジャミラは無実を主張したが、アルジェリアに駐留するフランス警察と落下傘部隊はジャミラに対し、電気ショック[要曖昧さ回避]のほか、への瓶挿入などの凄惨な拷問を、連日にわたって加え続けた。そのため、ジャミラは数日間も意識不明に陥る。この事実を知ったFLNの顧問弁護士ジゼル・アリミはフランス当局に反訴を提起し、抗議運動を開始した。

1960年、アリミの友人であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールが、「Pour Djamila Boupacha」と題する手記を『ル・モンド』紙に寄稿した[2]。フランス当局の非人道的な行為は、フランス国民に大きな衝撃をもって知られることになった。

以上のことを契機にアリミとボーヴォワールが中心となって開始された抗議運動は急速に発展し、フランソワーズ・サガンらの文化人も参加した結果、2年以上にわたった裁判はフランスだけでなく全世界からの注目を集めた。

事件の背景

[編集]

1954年第二次世界大戦後のアジアで起こった民族独立の動きに触発されたアルジェリアの独立派勢力がFLNを結成し、武力闘争による独立運動が本格化した。同年、これに対抗するフランス現地駐留軍との間で戦争状態に入る(アルジェリア独立戦争)。

FLNが都市部で爆弾テロ闘争を行う一方、フランス現地駐留軍はFLNの本拠地とされる農村部で現地住民を虐殺した。さらに、1958年3月には政府のアルジェリア政策に不満を募らせた軍がクーデターを起こすなど、事態は泥沼化した。

以上の状況下で、この事件は発生した。

事件の結末

[編集]

1958年、フランス大統領に就任したシャルル・ド・ゴールは、民族自決の流れを止めることは不可能と判断し、アルジェリア独立を承認する姿勢を示した。アルジェリア領有継続派はこれに強硬に反対し、ド・ゴール暗殺計画を含むテロ行為を行ったが、1962年3月にエビアン協定が締結され、和平が成立する。この協定にしたがい、ジャミラは釈放された。

1962年7月、アルジェリアは独立を達成する。

事件の与えた影響

[編集]

1960年当時のフランス国内では、アルジェリア独立戦争の長期化や泥沼化に起因する厭戦気分が広がっていた。それに加え、この事件に対してフランスだけでなく国外からも行われた強い批判、および領有継続派が行ったテロ行為による治安への不安はアルジェリア独立を肯定する世論形成に大きな影響を与え、1961年6月に行われたフランス国民投票では75%がアルジェリアの民族自決を支持するに至る。

以上のような国民世論の支持を受け、ド・ゴールはアルジェリア独立政策を推進した。

関連書籍

[編集]

以下では、日本で出版されたものを記すにとどめる。

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ ジャミーラ(ジャミラ)がファーストネーム、ブーバーシャー(ブーァパシャ)が家名。
  2. ^ シモーヌ・ド・ボーヴォワール「Pour Djamila Boupacha」全文(フランス語) ウェブアーカイブ。2014年7月11日閲覧。
  3. ^ ジャミラよ朝は近い:アルジェリア少女拷問の記録(集英社):1963|書誌詳細 国立国会図書館サーチ。2014年7月11日閲覧。
  4. ^ ウルトラマン研究読本 2013, pp. 170–171, 「エピソードガイド 第23話 故郷は地球」