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{{基礎情報 武士 |
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| 氏名 = 宇佐美定満 |
| 氏名 = 宇佐美 定満 |
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| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] |
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| 死没 = |
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| 別名 = 宇駿、[[受領名]]:駿河守<br/>[[仮名 (通称)|通称]]:{{sup|[一説に]}}四郎右衛門尉 |
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| 墓所 = 雲洞庵([[新潟県]][[南魚沼市]])<br/>経塚:宇賀神社([[長野県]][[上水内郡]][[信濃町]]) |
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| 官位 = |
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| 主君 =[[上条定憲]]→[[長尾晴景]]→[[上杉謙信|長尾景虎(上杉謙信)]] |
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| 氏族 = [[宇佐美氏]]([[藤原南家]]・[[工藤氏]]支流) |
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| 兄弟 = |
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| 特記事項 = |
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'''宇佐美 定満'''(うさみ さだみつ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。 |
'''宇佐美 定満'''(うさみ さだみつ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[越後国]](現在の新潟県)において[[琵琶島城]]([[新潟県]][[柏崎市]])に勢力を持っていたとされる武将。軍記物語では[[上杉謙信]]の軍師という扱いを受けているが確実な史料からはその事実は確認されていない。 |
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軍記物等で[[上杉謙信]]の軍師として登場する'''[[宇佐美定行]]'''のモデルとされる。 |
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== 概要 == |
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[[伊豆国]]宇佐美荘(現在の[[静岡県]][[伊東市]][[宇佐美]])を発祥とし、越後守護上杉家の重臣を務めた[[宇佐美氏]]出身。 |
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==事跡== |
==事跡== |
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宇佐美'''定満'''は「宇駿」「宇佐美駿河守」「宇佐美駿河守定満」「宇駿定満」の名で一次史料に登場し、その活動が確認出来る。越後守護[[上杉定実]]に味方して、守護代[[長尾為景]]と抗争していた[[宇佐美房忠|宇佐美弥七郎房忠]]は、[[永正]]11年([[1514年]])越後[[岩手城]]にて敗死<ref>永正11年6月13日付伊達稙宗宛上条定憲書状{{harv|越佐史料巻3|1971|ref=越佐3|p=609}}。</ref>。[[新沢佳大]]はこの時に城より逃げ落ちた「弥七郎息」を定満に比定し、従来、定満の祖父とされてきた[[宇佐美孝忠]]と父とされてきた房忠は同一人物であり、房忠は孝忠の晩年の名前であったとする<ref>{{harvnb|新沢|1971|page=106}}</ref>。 |
宇佐美'''定満'''は「宇駿」「宇佐美駿河守」「宇佐美駿河守定満」「宇駿定満」の名で一次史料に登場し、その活動が確認出来る。越後守護[[上杉定実]]に味方して、守護代[[長尾為景]]と抗争していた[[宇佐美房忠|宇佐美弥七郎房忠]]は、[[永正]]11年([[1514年]])越後[[岩手城]]にて敗死<ref>永正11年6月13日付伊達稙宗宛上条定憲書状{{harv|越佐史料巻3|1971|ref=越佐3|p=609}}。</ref>。[[新沢佳大]]はこの時に城より逃げ落ちた「弥七郎息」を定満に比定し、従来、定満の祖父とされてきた[[宇佐美孝忠]]と父とされてきた房忠は同一人物であり、房忠は孝忠の晩年の名前であったとする<ref>{{harvnb|新沢|1971|page=106}}</ref>。 |
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岩手城落城の約20年後、定満は為景と守護上杉家一門[[上条定憲]]との抗争(越後享禄・天文の乱<ref>{{ |
岩手城落城の約20年後、定満は為景と守護上杉家一門[[上条定憲]]との抗争(越後享禄・天文の乱<ref>{{Cite Kotobank|word=享禄・天文の乱|encyclopedia=世界大百科事典 第2版|access-date=2020年7月9日}}</ref>)において定憲側の武将として登場する。当初為景側であった定満は離反した後、諸方へ計略を巡らせ、[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])5月に上田衆・妻有衆・藪神衆・大熊氏らと共に定憲側に集結した<ref>天文4年5月29日付福王寺孝重宛長尾為景書状{{harv|越佐史料巻3|1971|ref=越佐3|p=808}}。</ref>。宇佐美・柿崎勢は天文5年([[1536年]])4月10日に行われた三分一原の戦いで為景勢に敗北しているが、この戦いの後に為景は隠居しているため、定満にも相応の成果があった戦いと言える。一説には定満率いる宇佐美勢はこの戦いで為景を討ち死に寸前まで追い詰めたといわれている<ref>天文5年4月13日付平子右馬允宛長尾為景書状{{harv|越佐史料巻3|ref=越佐3|1971|p=829}}。</ref>。なお、この時期「宇佐美四郎右衛門尉」なる人物が定憲側の武将として活動している。新沢はこれを定満に比定しているが<ref>{{harvnb|新沢|1971|page=107}}</ref>、『越佐史料』<ref>天文4年6月25日付宇佐美四郎右衛門尉宛上条定兼(定憲)書状{{harv|越佐史料巻3|1971|ref=越佐3|p=811}}</ref>や『上越市史資料編3古代・中世』<ref>{{harvnb|上越市史編さん委員会|2002|ref=資3|p=600}}</ref>では別人として扱っている。 |
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===長尾景虎の家督相続以後=== |
===長尾景虎の家督相続以後=== |
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その後、景虎と政景の抗争が終結すると定満の名は確実な史料上から消える。[[高橋修 (歴史学者)|高橋修]]は定満は景虎に重用されず宇佐美家は没落したとする{{sfn|高橋|2007|p=87}}。 |
その後、景虎と政景の抗争が終結すると定満の名は確実な史料上から消える。[[高橋修 (歴史学者)|高橋修]]は定満は景虎に重用されず宇佐美家は没落したとする{{sfn|高橋|2007|p=87}}。 |
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ただし宇佐美家そのものが断絶したわけでは無く、[[永禄]]10年8月、[[武田信玄]]の信州侵攻への防備強化に携わった者の中に「宇佐美平八郎」の名が見えている<ref>永禄11年8月10日付宝蔵院他四名宛上杉輝虎書状{{harv|越佐史料巻4|1971|ref=越佐4|p=666}}</ref>。 |
ただし宇佐美家そのものが断絶したわけでは無く、[[永禄]]10年8月、[[武田信玄]]の信州侵攻への防備強化に携わった者の中に「宇佐美平八郎」の名が見えている<ref>永禄11年8月10日付宝蔵院他四名宛上杉輝虎書状{{harv|越佐史料巻4|1971|ref=越佐4|p=666}}</ref>。一説に、[[上杉謙信|長尾景虎(上杉謙信)]]の地位を確固たるものにするために、[[長尾政景]]を舟遊びに誘い、政景と共に溺死したというものがある。引き揚げられた政景の死体には、刀傷があったという。 |
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==定満の琵琶島城在城について== |
==定満の琵琶島城在城について== |
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[[寛永]]20年 |
[[寛永]]20年([[1643年]])成立の『北越軍記』をはじめとする江戸時代の諸書は定行を琵琶島城主とし、また定満も多くの書籍等で琵琶島城主として紹介されることがある。しかし定満の父房忠の琵琶島在城については[[万里集九]]の詩文集「梅花無尽蔵」<ref>『続群書類従第12輯下』続群書類従完成会、1959年所収</ref>の記述によって裏付けられるものの、それ以降の宇佐美氏と琵琶島城の関係を明確に示した史料は現在確認されない。 |
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景虎時代の琵琶島城主に想定される人物は永禄2年([[1559年]])作成の「諸国衆御太刀之次第」には「披露太刀ノ衆」の一人「びわ島殿」、「天正三年上杉家軍役帳」では「弥七郎殿」、「天正五年上杉家家中名字尽」では「琵琶島弥七郎」としてその名が見える。永禄2年の「びわ島殿」について『上杉年譜』は定満とは別人の琵琶島弥七郎として扱い『越佐史料』も琵琶島弥七郎の註を付けている。[[井上鋭夫]]は「びわ島殿」を宇佐美定満と解釈しているが、新沢は「宇佐美殿」「宇佐美駿河守殿」と記していない点に疑問が残るとしている<ref>{{harvnb|新沢|1971|pages={{要ページ番号|date=2018年9月}}}}</ref>。 |
景虎時代の琵琶島城主に想定される人物は永禄2年([[1559年]])作成の「諸国衆御太刀之次第」には「披露太刀ノ衆」の一人「びわ島殿」、「天正三年上杉家軍役帳」では「弥七郎殿」、「天正五年上杉家家中名字尽」では「琵琶島弥七郎」としてその名が見える。永禄2年の「びわ島殿」について『上杉年譜』は定満とは別人の琵琶島弥七郎として扱い『越佐史料』も琵琶島弥七郎の註を付けている。[[井上鋭夫]]は「びわ島殿」を宇佐美定満と解釈しているが、新沢は「宇佐美殿」「宇佐美駿河守殿」と記していない点に疑問が残るとしている<ref>{{harvnb|新沢|1971|pages={{要ページ番号|date=2018年9月}}}}</ref>。 |
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また天正3年の「弥七郎殿」ついては、『越佐史料』や『新潟県史』は単に琵琶島弥七郎として扱うが、井上や「藩制成立史の総合研究-米沢藩」は長尾景通に比定している<ref>{{Citation|和書|editor=藩政史研究会|title=藩制成立史の綜合研究―米沢藩|year=1963|chapter= |publisher=吉川弘文館 |pages={{要ページ番号|date=2018年9月}}|isbn= }}{{ASIN|B000JAIRG0}}</ref>。[[西澤睦郎]]は「弥七郎」は定満の父房忠の幼名と同じであることから、定満の子か孫がその名を継いだのではないかとし、琵琶島を名乗る以上その居城は琵琶島城であったとする{{sfn|西澤|2000|ref=tei|loc=「謙信と越後の領主」|p=55}}。[[矢田俊文]]は16世紀前半の史料から宇佐美氏の在所が小野要害([[小野城 (越後国)|小野城]]<ref>現在の新潟県上越市柿崎区下小野にあった。</ref>)であることと、柿崎氏が宇佐美一族であったことから、宇佐美氏の本拠地は現在の柿崎区域であったとしている<ref>{{Citation|和書|last=矢田|first=俊文 |author-link= |editor1=田村裕|editor2=坂井秀弥|title=中世の越後と佐渡―遺物と文書が語る中世的世界|year=1999|chapter=戦国期越後の守護と守護代:上杉房定と長尾為景|series=環日本海歴史民俗学叢書7|publisher=高志書院|page=56|isbn=4906641296}}</ref>。 |
また天正3年の「弥七郎殿」ついては、『越佐史料』や『新潟県史』は単に琵琶島弥七郎として扱うが、井上や「藩制成立史の総合研究-米沢藩」は長尾景通に比定している<ref>{{Citation|和書|editor=藩政史研究会|title=藩制成立史の綜合研究―米沢藩|year=1963|chapter= |publisher=吉川弘文館 |pages={{要ページ番号|date=2018年9月}}|isbn= }}{{ASIN|B000JAIRG0}}</ref>。[[西澤睦郎]]は「弥七郎」は定満の父房忠の幼名と同じであることから、定満の子か孫がその名を継いだのではないかとし、琵琶島を名乗る以上その居城は琵琶島城であったとする{{sfn|西澤|2000|ref=tei|loc=「謙信と越後の領主」|p=55}}。[[矢田俊文]]は16世紀前半の史料から宇佐美氏の在所が小野要害([[小野城 (越後国)|小野城]]<ref>現在の新潟県上越市柿崎区下小野にあった。</ref>)であることと、柿崎氏が宇佐美一族であったことから、宇佐美氏の本拠地は現在の柿崎区域であったとしている<ref>{{Citation|和書|last=矢田|first=俊文 |author-link= |editor1=田村裕|editor2=[[坂井秀弥]]|title=中世の越後と佐渡―遺物と文書が語る中世的世界|year=1999|chapter=戦国期越後の守護と守護代:上杉房定と長尾為景|series=環日本海歴史民俗学叢書7|publisher=高志書院|page=56|isbn=4906641296}}</ref>。 |
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==宇佐美定行== |
==宇佐美定行== |
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[[image:Usami Sadamitu.jpg|210px|thumb|甲越勇将伝・上杉家廿四将:宇佐美駿河守定行([[歌川国芳]]作)]] |
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(本節の記述は主に高橋修の研究成果に拠る)<ref>{{harvtxt|高橋|2007}}。他に、[[#tei|高橋(2000)]]「合戦図屏風の中の「謙信」」、{{harvtxt|高橋|1997}}「軍学者宇佐見定祐について─紀州本川中島合戦図屏風の周辺─」。</ref><!--下記には高橋氏の推測部分などもあるため、部分部分に出典を付けるべき--> |
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===定行の事跡=== |
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『北越軍記』やその派生本等<ref>『謙信家記』・『北越軍談』・『春日山日記』・『謙信軍記』において、定行に該当する人物は良勝の名で登場している。</ref>によると、琵琶島城城主・宇佐美'''定行'''は、兄[[長尾晴景]]から命を狙われ[[栃尾城]]へ逃げ込んだ上杉謙信(当時は長尾景虎)に招かれて彼の軍師となり、敵対を躊躇する謙信を説得して兄への挙兵を決意させる。米山合戦における定行の活躍などもあって晴景は敗死し、天文17年(1548年)謙信は上杉家当主の座につく。天文23年([[1554年]])8月の[[川中島の戦い|川中島合戦]]では謙信の窮地を救う活躍し、その後、謙信に従って関東に出兵して、永禄5年([[1562年]])、[[厩橋城]]を[[北条氏邦]]の攻撃から守り切るも、嫡男定勝を失う。そして永禄7年([[1564年]])定行は謙信への叛意を抱く[[長尾政景]]を暗殺するため政景を野尻湖へ舟遊びに誘い、舟底の栓を抜いたうえで、政景もろとも湖底に沈んだとされる。定行は謙信宛ての遺書を残しており、そこには上田長尾側からの遺恨を抑えるため宇佐美家を取り潰し、兄の死によって嫡男となった勝行を追放するようにと{{ruby|認|したた}}めてあった、としている。また『北越軍記』や宇佐美家に伝えられた系譜類によると、上杉家を追放された勝行はその後、[[豊臣秀次|三好秀次]](豊臣秀次)の家臣・[[渡瀬繁詮|渡瀬左衛門大夫]]、さらに[[仙石秀久]]・[[黒田孝高]]・[[蒲生氏郷]]・[[小西行長]]らの許を転々とし、最後は旧家復帰の望みを賭けて[[関ヶ原の戦い]]で上杉家の陣に加わるが、敗戦により叶わず、越後で没したとしている。 |
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しかし、これら定行・勝行の事跡や定勝の存在は一次史料からは確認されない。『北越軍記』は永正4年に孝忠が病死したのち定行が宇佐美家を継いだとするが、前述の通り定満の父に比定される房忠が永正11年までは生存しており、矛盾が生じている。また『北越軍記』は'''定行'''が永禄5年(1562年)に'''定満'''へ改名したとするが、天文18年(1549年)時点で定満の名が確認出来る史料が存在しており、永禄5年改名説は根拠が薄い<ref>{{Harvtxt|新沢|1971}}。ただし新沢は天文18年以前に定行を名乗っていた可能性は完全に否定出来ないとする。</ref>。さらに長尾晴景の没年は天文22年([[1553年]])であり<ref>林泉寺所蔵花嶽院古碑{{harv|越佐史料巻4|1971|ref=越佐4|p=81}}</ref>、謙信と争って敗死したという事実は無い。 |
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===「軍師宇佐美定行」の創出=== |
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定行の活躍を伝える『北越軍記』の作者は、紀州藩初代藩主[[徳川頼宣]]に仕え、越後流軍学を講じた軍学者[[宇佐美定祐]]と考えられる<ref>江戸時代の儒学者[[榊原篁洲]]の記した『榊巷談苑』(寛政元年刊行)には、『北越太平記(北越軍記)』と『東国太平記』は紀州の宇佐美竹隠(定祐)が名前を隠して書いた物であり、何かにかこつけて定行を称揚している、と記されている。</ref>。そして定祐の父・宇佐美造酒助勝興は、宇佐美家に伝わる系譜類によれば、定行の孫つまり勝行の子とされる人物である。勝興は駿河を経て、尾張藩主[[徳川義直]]に仕官したが、喧嘩の仲裁結果が義直の意に沿わなかったため尾張を出た。その後、水戸藩主[[徳川頼房]]に400石で召し抱えられたが、讒言によって水戸を去り、徳川頼宣の許に至ったと系譜類は伝える{{要出典|date=2018年9月}}。<!--前掲の出典はここが適切--> |
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一方、[[小幡景憲]]門下の軍学者[[小早川能久]]の記した『翁物語後集』によると、宇佐美三木之助(造酒助勝興)は[[稲垣重綱]]に仕えた料理人の子であり、のちに重綱の[[右筆]]となって、当時編集作業中であった『[[甲陽軍鑑]]』の筆写を任されるが、無断で作成した副本を持ち出して出奔。駿河を経て、徳川義直の許にいたが、足軽の女房に手を出したのを咎められて尾張を逃げ出し、その後、水戸を立ち退いてからは行方知れずになった、とする。水戸を去った経緯については、頼房への仕官の話を聞きつけた[[上杉景勝]]が旧臣の家系を抱えることを望み、確認のためかつて謙信に仕えていた[[畠山義春]]に問い合わせたところ、定満は子を残さず没したことが判明。まとまりかけていた仕官の話は立ち消えとなり、勝興は紀州へと去った、とする記録もある。また、代々宇佐美家には、定行あるいは勝行の数々の軍功に対して出された上杉謙信・[[豊臣秀吉]]・[[小早川隆景]]ら著名な大名による感状が伝えられてきたが、これらは書状群は偽文書の可能性が高い{{要出典|date=2018年9月}}。<!--前掲の出典はここが適切。可能性言及部分はページ番号は特に必要--> |
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これらの点から、宇佐美家とは血縁の無い勝興・定祐の父子は、系譜・書状の偽作や『北越軍記』等の軍記物の執筆によって、名軍師宇佐美定行を創出するとともに、その定行を祖とする越後流軍学を引き継ぐ宇佐美家の子孫という由緒を手に入れ、紀州藩お抱えの軍学者になったと推測される{{要出典|date=2018年9月}}。<!--前掲の出典はここが適切。推測については前述の通り--> |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
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* [[堀和久]]『宇佐美良勝』([[文春文庫]]・『戦国の軍師たち』収録) |
* [[堀和久]]『宇佐美良勝』([[文春文庫]]・『戦国の軍師たち』収録) |
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; 映画 |
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* 『[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]』([[大河ドラマ]]、1969年、演:宇佐美定行役 - [[宇野重吉]]) |
* 『[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]』([[大河ドラマ]]、1969年、演:宇佐美定行役 - [[宇野重吉]]) |
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* 『[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]』(大河ドラマ、[[1988年]]、演:宇佐美定行役 - [[沼崎悠]]) |
* 『[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]』(大河ドラマ、[[1988年]]、演:宇佐美定行役 - [[沼崎悠]]) |
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* 『[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]』(大河ドラマ、2007年、演:[[緒形拳]]) |
* 『[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]』(大河ドラマ、2007年、演:[[緒形拳]]) |
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* 『天と地と』([[テレビ朝日]]、2008年1月6日、演:宇佐美定行役 - 渡瀬恒彦) |
* 『天と地と』([[テレビ朝日]]、2008年1月6日、演:宇佐美定行役 - 渡瀬恒彦) |
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* {{Citation|和書| title = 上杉謙信 : 政虎一世中忘失すべからず候|series=ミネルヴァ日本評伝選|author = 矢田俊文|publisher=[[ミネルヴァ書房]]| year = 2005|isbn=4623044866}} |
* {{Citation|和書| title = 上杉謙信 : 政虎一世中忘失すべからず候|series=ミネルヴァ日本評伝選|author = 矢田俊文|publisher=[[ミネルヴァ書房]]| year = 2005|isbn=4623044866}} |
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* {{Citation|和書| title = 上越市史別編1|editor= 上越市史編さん委員会 |publisher=上越市| year = 2003|ref = 上別1}} |
* {{Citation|和書| title = 上越市史別編1|editor= 上越市史編さん委員会 |publisher=上越市| year = 2003|ref = 上別1}} |
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* {{Citation|和書| title = 【異説】もうひとつの川中島合戦: 紀州本川中島合戦「川中島合戦図屏風」の発見 |last= 高橋|first=修|author-link=高橋修 (歴史学者)|publisher=洋泉社| year = 2007|isbn=9784862481269}} |
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* {{Cite journal |和書|last=新沢|first=佳大|author-link=新沢佳大|title= 宇佐美駿河守の虚像とその実像|year= 1971|journal = 日本歴史|pages=104-110|publisher=吉川弘文館|issue =276|naid=40003062741|ref=harv}} |
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* {{Cite journal |和書|last=高橋|first=修|title= 軍学者宇佐見定祐について─紀州本川中島合戦図屏風の周辺─|naid=|pages=22-32|year=1997|journal =和歌山県立博物館研究紀要|publisher=和歌山県立博物館|issue =2|ref=harv}} |
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<!--下記の書籍は参照された場所とページが不明。もし参照しないなら関連図書という節を作って移動を--> |
<!--下記の書籍は参照された場所とページが不明。もし参照しないなら関連図書という節を作って移動を--> |
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{{参照方法|date=2018年9月|section=1}} |
{{参照方法|date=2018年9月|section=1}} |
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* {{Cite journal |和書|author = [[中村亮佑]]|title= 越後守護上杉氏直臣に関する基礎的考察 :越後平子氏を中心に|year= 2017|journal = 駒澤大学大学院史学論集|publisher=駒澤大学大学院史学会|issue =47|pages=29-52|naid=40021229554}} |
* {{Cite journal |和書|author = [[中村亮佑]]|title= 越後守護上杉氏直臣に関する基礎的考察 :越後平子氏を中心に|year= 2017|journal = 駒澤大学大学院史学論集|publisher=駒澤大学大学院史学会|issue =47|pages=29-52|naid=40021229554}} |
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* {{Cite journal |和書|author =[[井上泰至]]|title= 歴史の捏造-『東国太平記』の場合|naid=40001291424|pages=20-30|year= 2000|journal = 国語国文|publisher=中央図書出版社|issue =5|volume=69}}通号789号 |
* {{Cite journal |和書|author =[[井上泰至]]|title= 歴史の捏造-『東国太平記』の場合|naid=40001291424|pages=20-30|year= 2000|journal = 国語国文|publisher=中央図書出版社|issue =5|volume=69}}通号789号 |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:うさみ さたみつ}} |
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[[Category:戦国武将]] |
[[Category:戦国武将]] |
2023年4月26日 (水) 18:53時点における最新版
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 延徳元年(1489年)? |
死没 | 永禄7年(1564年8月21日) |
別名 |
宇駿、受領名:駿河守 通称:[一説に]四郎右衛門尉 |
墓所 |
雲洞庵(新潟県南魚沼市) 経塚:宇賀神社(長野県上水内郡信濃町) |
主君 | 上条定憲→長尾晴景→長尾景虎(上杉謙信) |
氏族 | 宇佐美氏(藤原南家・工藤氏支流) |
父母 | 宇佐美房忠 |
子 | 定勝? 勝行? |
宇佐美 定満(うさみ さだみつ)は、戦国時代の武将。越後国(現在の新潟県)において琵琶島城(新潟県柏崎市)に勢力を持っていたとされる武将。軍記物語では上杉謙信の軍師という扱いを受けているが確実な史料からはその事実は確認されていない。
軍記物等で上杉謙信の軍師として登場する宇佐美定行のモデルとされる。
概要
[編集]伊豆国宇佐美荘(現在の静岡県伊東市宇佐美)を発祥とし、越後守護上杉家の重臣を務めた宇佐美氏出身。
事跡
[編集]長尾景虎の家督相続以前
[編集]宇佐美定満は「宇駿」「宇佐美駿河守」「宇佐美駿河守定満」「宇駿定満」の名で一次史料に登場し、その活動が確認出来る。越後守護上杉定実に味方して、守護代長尾為景と抗争していた宇佐美弥七郎房忠は、永正11年(1514年)越後岩手城にて敗死[1]。新沢佳大はこの時に城より逃げ落ちた「弥七郎息」を定満に比定し、従来、定満の祖父とされてきた宇佐美孝忠と父とされてきた房忠は同一人物であり、房忠は孝忠の晩年の名前であったとする[2]。
岩手城落城の約20年後、定満は為景と守護上杉家一門上条定憲との抗争(越後享禄・天文の乱[3])において定憲側の武将として登場する。当初為景側であった定満は離反した後、諸方へ計略を巡らせ、天文4年(1535年)5月に上田衆・妻有衆・藪神衆・大熊氏らと共に定憲側に集結した[4]。宇佐美・柿崎勢は天文5年(1536年)4月10日に行われた三分一原の戦いで為景勢に敗北しているが、この戦いの後に為景は隠居しているため、定満にも相応の成果があった戦いと言える。一説には定満率いる宇佐美勢はこの戦いで為景を討ち死に寸前まで追い詰めたといわれている[5]。なお、この時期「宇佐美四郎右衛門尉」なる人物が定憲側の武将として活動している。新沢はこれを定満に比定しているが[6]、『越佐史料』[7]や『上越市史資料編3古代・中世』[8]では別人として扱っている。
長尾景虎の家督相続以後
[編集]天文17年(1548年)に長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぐと定満はこれに従い、景虎と対立した上田長尾家の当主長尾政景に備えて要害に入る。天文18年(1549年)6月、景虎の家臣平子孫太郎に宛てた書状によると、定満は政景側の計略や脅迫を受けており、まだ自身に力が無く、家臣も士気が低下しているため、自分達だけに備えを任せれば後悔するであろうことを訴えている[9]。
一時景虎より離反するが、後に復し、天文20年(1551年)正月には政景側の発智長芳・穴澤長勝らと交戦[10][11]。一方、同年夏頃に定満と平子孫太郎の間で多劫小三郎の遺領を巡っての対立が発生したらしく[12]、孫太郎や大熊朝秀・直江実綱・本庄実乃ら景虎の奉行人に対して裁定への不満を訴えるとともに、知行の加増が無く、家臣の戦意も失われている状況を嘆いている[13][14]。
その後、景虎と政景の抗争が終結すると定満の名は確実な史料上から消える。高橋修は定満は景虎に重用されず宇佐美家は没落したとする[15]。 ただし宇佐美家そのものが断絶したわけでは無く、永禄10年8月、武田信玄の信州侵攻への防備強化に携わった者の中に「宇佐美平八郎」の名が見えている[16]。一説に、長尾景虎(上杉謙信)の地位を確固たるものにするために、長尾政景を舟遊びに誘い、政景と共に溺死したというものがある。引き揚げられた政景の死体には、刀傷があったという。
定満の琵琶島城在城について
[編集]寛永20年(1643年)成立の『北越軍記』をはじめとする江戸時代の諸書は定行を琵琶島城主とし、また定満も多くの書籍等で琵琶島城主として紹介されることがある。しかし定満の父房忠の琵琶島在城については万里集九の詩文集「梅花無尽蔵」[17]の記述によって裏付けられるものの、それ以降の宇佐美氏と琵琶島城の関係を明確に示した史料は現在確認されない。
景虎時代の琵琶島城主に想定される人物は永禄2年(1559年)作成の「諸国衆御太刀之次第」には「披露太刀ノ衆」の一人「びわ島殿」、「天正三年上杉家軍役帳」では「弥七郎殿」、「天正五年上杉家家中名字尽」では「琵琶島弥七郎」としてその名が見える。永禄2年の「びわ島殿」について『上杉年譜』は定満とは別人の琵琶島弥七郎として扱い『越佐史料』も琵琶島弥七郎の註を付けている。井上鋭夫は「びわ島殿」を宇佐美定満と解釈しているが、新沢は「宇佐美殿」「宇佐美駿河守殿」と記していない点に疑問が残るとしている[18]。 また天正3年の「弥七郎殿」ついては、『越佐史料』や『新潟県史』は単に琵琶島弥七郎として扱うが、井上や「藩制成立史の総合研究-米沢藩」は長尾景通に比定している[19]。西澤睦郎は「弥七郎」は定満の父房忠の幼名と同じであることから、定満の子か孫がその名を継いだのではないかとし、琵琶島を名乗る以上その居城は琵琶島城であったとする[20]。矢田俊文は16世紀前半の史料から宇佐美氏の在所が小野要害(小野城[21])であることと、柿崎氏が宇佐美一族であったことから、宇佐美氏の本拠地は現在の柿崎区域であったとしている[22]。
宇佐美定行
[編集]関連作品
[編集]- 小説
- 映画
- テレビドラマ
- 『天と地と』(大河ドラマ、1969年、演:宇佐美定行役 - 宇野重吉)
- 『武田信玄』(大河ドラマ、1988年、演:宇佐美定行役 - 沼崎悠)
- 『風林火山』(大河ドラマ、2007年、演:緒形拳)
- 『天と地と』(テレビ朝日、2008年1月6日、演:宇佐美定行役 - 渡瀬恒彦)
- 『天地人』(大河ドラマ、2009年、演:真木仁)
脚注
[編集]- ^ 永正11年6月13日付伊達稙宗宛上条定憲書状(越佐史料巻3 1971, p. 609)。
- ^ 新沢 1971, p. 106
- ^ 「享禄・天文の乱」『世界大百科事典 第2版』 。コトバンクより2020年7月9日閲覧。
- ^ 天文4年5月29日付福王寺孝重宛長尾為景書状(越佐史料巻3 1971, p. 808)。
- ^ 天文5年4月13日付平子右馬允宛長尾為景書状(越佐史料巻3 1971, p. 829)。
- ^ 新沢 1971, p. 107
- ^ 天文4年6月25日付宇佐美四郎右衛門尉宛上条定兼(定憲)書状(越佐史料巻3 1971, p. 811)
- ^ 上越市史編さん委員会 2002, p. 600
- ^ 天文18年6月5日付平子孫太郎宛宇佐美定満書状(越佐史料巻4 1971, p. 12)。
- ^ 天文20年正月15日付発智長芳宛栗林経重書状(越佐史料巻4 1971, p. 37)
- ^ 天文20年正月16日付穴澤長勝宛長尾政景書状(越佐史料巻4 1971, p. 39)
- ^ 天文20年5月15日付平子孫太郎宛宇佐美定満書状(越佐史料巻4 1971, p. 39)
- ^ 天文21年10月10日付平子孫太郎宛宇佐美定満書状(越佐史料巻4 1971, p. 79)
- ^ 天文21年12月12日付大熊朝秀・直江実綱・本庄実乃宛宇佐美定満書状(越佐史料巻4 1971, p. 80)
- ^ 高橋 2007, p. 87.
- ^ 永禄11年8月10日付宝蔵院他四名宛上杉輝虎書状(越佐史料巻4 1971, p. 666)
- ^ 『続群書類従第12輯下』続群書類従完成会、1959年所収
- ^ 新沢 1971, pp. [, 要ページ番号],
- ^ 藩政史研究会 編『藩制成立史の綜合研究―米沢藩』吉川弘文館、1963年、[要ページ番号]頁。ASIN B000JAIRG0
- ^ 西澤 2000, p. 55, 「謙信と越後の領主」.
- ^ 現在の新潟県上越市柿崎区下小野にあった。
- ^ 矢田俊文 著「戦国期越後の守護と守護代:上杉房定と長尾為景」、田村裕; 坂井秀弥 編『中世の越後と佐渡―遺物と文書が語る中世的世界』高志書院〈環日本海歴史民俗学叢書7〉、1999年、56頁。ISBN 4906641296。
参考文献
[編集]- 宇佐美定満関連
- 西澤睦郎; 高橋修 著「謙信と越後の領主」「合戦図屏風の中の「謙信」」、池享; 矢田俊文 編『定本上杉謙信』高志書院、2000年。ISBN 4906641369。
- 高橋義彦 編『越佐史料』 3巻、名著出版、1971年。 ※大正14年-昭和6年刊の複製
- 高橋義彦 編『越佐史料』 4巻、名著出版、1971年。} ※大正14年-昭和6年刊の複製
- 上越市史編さん委員会 編『上越市史 資料編3 古代・中世』上越市、2002年。
- 新潟県 編『新潟県史 資料編 3 中世 1 (文書編 1) 本編』新潟県、1982年。
- 池享; 矢田俊文 編『上杉氏年表 : 為景・謙信・景勝』(増補改訂)高志書院、2007年。ISBN 9784862150196。
- 矢田俊文『上杉謙信 : 政虎一世中忘失すべからず候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2005年。ISBN 4623044866。
- 上越市史編さん委員会 編『上越市史別編1』上越市、2003年。
- 中村亮佑「越後守護上杉氏直臣に関する基礎的考察 :越後平子氏を中心に」『駒澤大学大学院史学論集』第47号、駒澤大学大学院史学会、2017年、29-52頁、NAID 40021229554。
- 井上泰至「歴史の捏造-『東国太平記』の場合」『国語国文』第69巻第5号、中央図書出版社、2000年、20-30頁、NAID 40001291424。通号789号