「コルベイユ条約 (1258年)」の版間の差分
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'''コルベイユ条約'''(コルベイユじょうやく、{{lang-fr|Traité de Corbeil}}、{{lang-es|Tratado de Corbeil}})は、[[1258年]][[5月11日]]にコルベイユ(現[[フランス]]領[[コルベイユ=エソンヌ]])で締結された、[[フランス王]][[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]と[[アラゴン王]][[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]の間の条約<ref name="Sanders">{{cite journal |author=I. J. Sanders |title=The Texts of the Peace of Paris, 1259 |journal=The English Historical Review |volume=66 |issue=258 |date=January 1951 |pages=81–97 |jstor=556491 |publisher=Oxford University Press |doi=10.1093/ehr/lxvi.cclviii.81}}</ref>。 |
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ルイ9世は[[カール大帝|シャルルマーニュ]]の末裔として[[スペイン辺境領]]とゴート辺境領のうち現[[カタルーニャ州]]にあたる地域への封建制での[[宗主権]]を放棄した。 |
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ハイメ1世は{{仮リンク|フォヌイエ=ドゥ=ラゼ|en|Fenouillet-du-Razès}}、{{仮リンク|ペイルペルテューズ|en|Peyrepertuse}}、{{仮リンク|ピュイローラン城|en|Puilaurens Castle}}、{{仮リンク|フォヌイエ (ピレネー=オリアンタル県)|en|Fenouillet, Pyrénées-Orientales|label=フォヌイエ}}城、ペイルペルテューズ城、カステルフィゼル({{lang|fr|Castellfisel}})、{{仮リンク|シャトー・ド・ケリビュス|en|Château de Quéribus}}への請求を取り下げ、[[トゥールーズ伯|トゥールーズ]]、[[サン=ジル (ガール県)|サン=ジル]]、{{仮リンク|ケルシー (フランス)|en|Quercy|label=ケルシー}}、{{仮リンク|ナルボンヌ子爵|en|Viscounts of Narbonne|label=ナルボンヌ}}、[[アルビ]]、[[カルカソンヌ]](1213年以降トゥールーズ伯領の一部)、{{仮リンク|ラゼ|en|Razès}}、[[ベジエ]]、{{仮リンク|ロラゲ|en|Lauragais}}、{{仮リンク|テルメ (オード県)|en|Termes, Aude|label=テルメ}}、{{仮リンク|メネルブ|en|Ménerbes}}(1179年に封建制から解放され、{{仮リンク|ロシェ2世トランカヴェル|en|Roger II Trencavel|label=ロジェ2世・ド・ベジエ}}に引き渡された)への宗主権を放棄した。また[[アグド]]と[[ニーム (フランス)|ニーム]](この2か所の子爵は1112年以降[[バルセロナ伯]]の封臣となった)、{{仮リンク|ルエルグ|en|Rouergue}}、[[ミヨー (フランス)|ミヨー]]、{{仮リンク|ジェヴォーダン|en|Gévaudan}}([[ドゥース1世 (プロヴァンス女伯)|ドゥース・ド・プロヴァンス]]の権利により)への宗主権も放棄した。これにより、ハイメ1世が維持したのは[[モンペリエ]]の統治権、[[カルラ (カンタル県)|カルラ]]子爵領、{{仮リンク|オメラス|en|Aumelas}}男爵領のみとなった。 |
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[[アラゴン王国]]の{{仮リンク|フォワ伯領|en|County of Foix}}への宗主権の放棄ははじめ条約に含まれていたが、ハイメ1世が1258年7月16日に条約を批准するとき、ルイ9世の宗主権の下に含まれていなかったことを理由に拒否された。 |
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コルベイユ条約(コルベイユじょうやく、フランス語: Traité de Corbeil、スペイン語: Tratado de Corbeil)は、1258年5月11日にコルベイユ(現フランス領コルベイユ=エソンヌ)で締結された、フランス王ルイ9世とアラゴン王ハイメ1世の間の条約[1]。
内容
[編集]ルイ9世はシャルルマーニュの末裔としてスペイン辺境領とゴート辺境領のうち現カタルーニャ州にあたる地域への封建制での宗主権を放棄した。
ハイメ1世はフォヌイエ=ドゥ=ラゼ、ペイルペルテューズ、ピュイローラン城、フォヌイエ城、ペイルペルテューズ城、カステルフィゼル(Castellfisel)、シャトー・ド・ケリビュスへの請求を取り下げ、トゥールーズ、サン=ジル、ケルシー、ナルボンヌ、アルビ、カルカソンヌ(1213年以降トゥールーズ伯領の一部)、ラゼ、ベジエ、ロラゲ、テルメ、メネルブ(1179年に封建制から解放され、ロジェ2世・ド・ベジエに引き渡された)への宗主権を放棄した。またアグドとニーム(この2か所の子爵は1112年以降バルセロナ伯の封臣となった)、ルエルグ、ミヨー、ジェヴォーダン(ドゥース・ド・プロヴァンスの権利により)への宗主権も放棄した。これにより、ハイメ1世が維持したのはモンペリエの統治権、カルラ子爵領、オメラス男爵領のみとなった。
アラゴン王国のフォワ伯領への宗主権の放棄ははじめ条約に含まれていたが、ハイメ1世が1258年7月16日に条約を批准するとき、ルイ9世の宗主権の下に含まれていなかったことを理由に拒否された。
条約により、ハイメ1世の娘イザベルがルイ9世の息子フィリップと結婚した。
その後
[編集]7月17日、ハイメ1世は神聖ローマ帝国の封土であるプロヴァンス伯領への相続権を同族のレーモン・ベランジェ4世の娘でルイ9世の王妃であるマルグリット・ド・プロヴァンスに譲った。
条約の直接的な影響はバルセロナ家を南フランスの政治から完全に切り離したことであり、これによりラングドックとカタルーニャの文化と経済の関係が薄れた。また、プロヴァンスがカペー系アンジュー家に渡され、後に同家が断絶されるとフランスに組み込まれた。
脚注
[編集]- ^ I. J. Sanders (January 1951). “The Texts of the Peace of Paris, 1259”. The English Historical Review (Oxford University Press) 66 (258): 81–97. doi:10.1093/ehr/lxvi.cclviii.81. JSTOR 556491.
参考文献
[編集]- Joseph de Laborde, Layettes du Trésor des chartes, vol. 3 (Paris: E. Plon, 1875), pp. 405ff.
- Engels, Odilo. "Der Vertrag von Corbeil (1258)." Gesammelte Aufsätze zur Kulturgeschichte Spaniens 19 (1962): 114–46.