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斛瑟羅の政治が冷酷なため、民衆はこれに心服していなかったが、烏質勒が支配下の者をよく撫でて威信があったため、諸胡([[ソグド人]]などの西方民族)は彼に順附し、帳落が次第に強盛となった。烏質勒はその下に20人の都督を置き、それぞれに7千人の兵を統率させ、碎葉([[スイアブ]])の西北に駐屯した。やがて碎葉を攻撃して手に入れると、牙帳を移してここに居をかまえ、碎葉 |
斛瑟羅の政治が冷酷なため、民衆はこれに心服していなかったが、烏質勒が支配下の者をよく撫でて威信があったため、諸胡([[ソグド人]]などの西方民族)は彼に順附し、帳落が次第に強盛となった。烏質勒はその下に20人の都督を置き、それぞれに7千人の兵を統率させ、碎葉([[スイアブ]])の西北に駐屯した。やがて碎葉を攻撃して手に入れると、牙帳を移してここに居をかまえ、碎葉水を大牙とし、弓月城・伊麗河([[イリ川]])を小牙とした。その領域は東北が[[東突厥]]と、西南が諸胡([[昭武九姓]])と、東南が西州([[トルファン]])・庭州([[ビシュバリク]])と隣接した。 |
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[[聖暦]]2年([[699年]])、烏質勒は子の遮弩を遣わして周([[武周]])に入朝したため、[[武則天]]より厚く尉撫を加えられた。 |
[[聖暦]]2年([[699年]])、烏質勒は子の遮弩を遣わして周([[武周]])に入朝したため、[[武則天]]より厚く尉撫を加えられた。 |
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[[久視]]元年([[700年]])、斛瑟羅は周に入朝して左衛大将軍 |
[[久視]]元年([[700年]])、斛瑟羅は周に入朝して左衛大将軍・平西軍大総管を拝命したが、支配下の部衆が烏質勒の侵略を受けて弱小になったので、敢えて蕃地へ帰ろうとはしなかった。そのため、彼の支配領域はすべて烏質勒に併合されてしまった。 |
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[[神龍 (唐)|神龍]]2年([[706年]])春<ref>『[[資治通鑑]]』</ref>、烏質勒が懐徳郡王に封ぜられることが決定された。12月、烏質勒は[[安西大都護]]の[[郭元振]]と軍事を議していたが、厳しい風雪と老齢のため、死去してしまう。[[中宗 (唐)|中宗]]は詔によって烏質勒を懐徳郡王に封じるため、[[御史大夫]]の[[解琬]]を烏質勒のもとへ赴かせて冊立させようとしたが、すでに烏質勒が死去していたので、烏質勒の子である[[娑葛]]を嗢鹿州都督 |
[[神龍 (唐)|神龍]]2年([[706年]])春<ref>『[[資治通鑑]]』</ref>、烏質勒が懐徳郡王に封ぜられることが決定された。12月、烏質勒は[[安西大都護]]の[[郭元振]]と軍事を議していたが、厳しい風雪と老齢のため、死去してしまう。[[中宗 (唐)|中宗]]は詔によって烏質勒を懐徳郡王に封じるため、[[御史大夫]]の[[解琬]]を烏質勒のもとへ赴かせて冊立させようとしたが、すでに烏質勒が死去していたので、烏質勒の子である[[娑葛]]を嗢鹿州都督・左驍衛大将軍とし、父の封爵を襲名させた。 |
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*『[[資治通鑑]]』巻第二百六、巻第二百七、巻第二百八 |
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2021年10月28日 (木) 14:56時点における最新版
烏質勒(うしつろく、拼音:Wūzhìlè、? - 706年)は、突騎施(テュルギシュ、Türügeš)部の首領。
生涯
[編集]烏質勒は西突厥の斛瑟羅の下に隷属し、莫賀達干(バガ・タルカン、Baγa Tarqan:官名)と号していた。
斛瑟羅の政治が冷酷なため、民衆はこれに心服していなかったが、烏質勒が支配下の者をよく撫でて威信があったため、諸胡(ソグド人などの西方民族)は彼に順附し、帳落が次第に強盛となった。烏質勒はその下に20人の都督を置き、それぞれに7千人の兵を統率させ、碎葉(スイアブ)の西北に駐屯した。やがて碎葉を攻撃して手に入れると、牙帳を移してここに居をかまえ、碎葉水を大牙とし、弓月城・伊麗河(イリ川)を小牙とした。その領域は東北が東突厥と、西南が諸胡(昭武九姓)と、東南が西州(トルファン)・庭州(ビシュバリク)と隣接した。
聖暦2年(699年)、烏質勒は子の遮弩を遣わして周(武周)に入朝したため、武則天より厚く尉撫を加えられた。
久視元年(700年)、斛瑟羅は周に入朝して左衛大将軍・平西軍大総管を拝命したが、支配下の部衆が烏質勒の侵略を受けて弱小になったので、敢えて蕃地へ帰ろうとはしなかった。そのため、彼の支配領域はすべて烏質勒に併合されてしまった。
神龍2年(706年)春[1]、烏質勒が懐徳郡王に封ぜられることが決定された。12月、烏質勒は安西大都護の郭元振と軍事を議していたが、厳しい風雪と老齢のため、死去してしまう。中宗は詔によって烏質勒を懐徳郡王に封じるため、御史大夫の解琬を烏質勒のもとへ赴かせて冊立させようとしたが、すでに烏質勒が死去していたので、烏質勒の子である娑葛を嗢鹿州都督・左驍衛大将軍とし、父の封爵を襲名させた。
脚注
[編集]参考資料
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