「携王」の版間の差分
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{{基礎情報 中国君主 |
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'''携王'''(けいおう、生年不詳 - [[紀元前759年]]、在位:[[紀元前772年]] - [[紀元前759年]])は、[[周]]王朝第12代[[幽王]]の子。名は不詳。詳しい出自も一切明らかではない。 |
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|名 =携王 |
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|代数 = |
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|呼称 =王 |
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|画像 = |
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|説明 = |
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|王朝 =周 |
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|在位期間 =[[紀元前770年|前770年]] - [[紀元前750年|前750年]] |
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|都城 =鎬京 |
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|諱 =姫余臣 |
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|字 = |
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|諡号 =恵王 |
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|廟号 = |
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|生年 =不詳 |
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|没年 =[[紀元前750年|前750年]] |
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|父 =[[宣王 (周)|宣王]] |
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|母 = |
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|皇后 = |
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|陵墓 = |
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|年号 = |
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|注釈 = |
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'''携王'''(けいおう)は、[[周]]の東遷期に立った周王。従来は[[平王 (周)|平王]]と同時期に在位した二王並立があったと見られてきたが、『[[清華簡]]』繋年の発見と研究によりその評価は変わりつつある。 |
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==『竹書紀年』の携王== |
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携王についての記述は『[[史記]]』に存在せず、『[[竹書紀年]]』にある携王の記述を『史記』と合わせ解釈することで通説が形成されていた。[[紀元前771年]]、周の[[幽王 (周)|幽王]]と太子伯盤([[姫伯服|伯服]])は犬戎の攻撃を受けて戯で死去した。申侯と許の[[文公 (許)|文公]]・[[魯]]の[[孝公 (魯)|孝公]]らがもとの太子であった宜臼を申で平王として擁立した。いっぽう[[虢公翰]]が携で王子余臣を擁立し、東西の二王並立の情勢となった。「二十一年」(従来は[[晋 (春秋)|晋]]の[[文侯 (晋)|文侯]]の21年、つまり[[紀元前760年]]と解釈されてきた)、携王は晋の文侯によって殺害された。嫡子でなかったため携王と称した<ref>『春秋左伝正義』所引『竹書紀年』</ref>。 |
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==『清華簡』繋年の携恵王== |
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紀元前772年、異民族[[犬戎]](けんじゅう)出身の申皇后の冷遇に反感を持った父申侯は |
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[[2008年]]に[[清華大学]]が入手した『清華簡』繋年に見える新たな記述によって、従来の通説は書き換えを迫られている。紀元前771年、周の幽王と太子伯盤が犬戎や繒人の攻撃を受けて滅び、周が潰滅すると、周の邦君諸侯たちは幽王の弟である余臣を虢で擁立した。これが携恵王である。「立二十又一年」(携恵王の21年、つまり[[紀元前750年]])、恵王は晋の文侯によって殺害された。周が王を失って9年([[紀元前741年]])、邦君諸侯たちは周に朝見しなくなった。晋の文侯は少鄂に平王を迎え、これを京師に擁立した。3年([[紀元前738年]])、平王は東遷して成周にとどまった<ref>『清華簡』繋年第2章。紀年は吉本(2013)p.15に依る。</ref>。繋年の記述は平王と携王の二王並立があったとする『竹書紀年』の記述と食い違っているが、どちらが正しいかは判明していない<ref>佐藤(2016)p.145</ref>。[[水野卓]]によると、紀元前771年に幽王と伯盤が殺害されると直後に携王が擁立され、9年目の[[紀元前762年]]に平王が擁立され、晋の文侯の21年となる紀元前760年に携王が文侯に殺害されたとされる<ref>佐藤(2018)pp.166-167</ref>。 |
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その犬戎と共に軍を率いて周都鎬京(こうけい)を攻めて娘婿幽王を敗死させた。 |
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== 脚注 == |
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竹書紀年によれば、混乱に陥った周の首脳や諸侯は個々の思惑を持ちつつ、幽王の子、[[平王]]と携王のそれぞれの陣営に分かれて、周朝立て直しの大義名分の下争った。 |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist}} |
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== 参考文献 == |
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すなわち平王派は東の洛邑(らくゆう)で幽王の元太子宜臼(ぎきゅう)を平王として即位させ、鎬京で携王は即位した。ただこの混乱・危険状況のなかでどうやって携王勢力が鎬京で陣営を張ったか、その過程は史書にはみえない。史上かつてない同族による政権並立状況となった。 |
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* [[吉本道雅]]「清華簡繋年考」(『京都大学文学部研究紀要第52号』所収,[[2013年]]) |
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* 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝』([[中公新書]],[[2016年]]) |
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* 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』([[星海社新書]],[[2018年]]) |
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{{周の王}} |
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そして十数年の政争の下、紀元前759(平王14年)年ついに携王勢力を打倒し、携王もその過程で殺された。戦禍で荒廃した鎬京は以後秦の都になるまでしばらく表舞台から去ることとなり、周の政治の舞台は東の洛邑となった。これを[[周の東遷]]といい、それまでを[[西周]]、これ以降を[[東周]]と呼んで時代を区別している。 |
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{{DEFAULTSORT:けいおう}} |
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[[Category:周の王]] |
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こうして周は再統一をなしたわけだが、周朝自身の力によるものではなく、配下の諸侯によるものだと内外に露見した格好となった。 |
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[[Category:紀元前750年没]] |
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[[Category:生年不明]] |
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その平王の孫、14代[[桓王]]はその流れを止めようと無礼を行った、かつて幽王を守り死んだ[[桓公]]の封国、鄭の孫になる第3代君主[[荘公]]に軍事遠征をかけたが撃退されてしまい、皮肉にもかつての懐刀にも見下され、周朝衰微を止められず拍車をかける形となってしまった。 |
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この周の分裂事件は、権威失墜が明らかとなったと同時に西周以来の諸侯で没落する者も続出し、平王を護衛した新興国の秦のように新たに生まれでた諸侯もあり、諸侯の淘汰・再編の流れ周朝からの更なる自立をもたらした歴史的にも重要な意義をもつ。 |
2021年3月29日 (月) 08:33時点における最新版
携王 | |
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周 | |
王 | |
王朝 | 周 |
在位期間 | 前770年 - 前750年 |
都城 | 鎬京 |
姓・諱 | 姫余臣 |
諡号 | 恵王 |
生年 | 不詳 |
没年 | 前750年 |
父 | 宣王 |
携王(けいおう)は、周の東遷期に立った周王。従来は平王と同時期に在位した二王並立があったと見られてきたが、『清華簡』繋年の発見と研究によりその評価は変わりつつある。
『竹書紀年』の携王
[編集]携王についての記述は『史記』に存在せず、『竹書紀年』にある携王の記述を『史記』と合わせ解釈することで通説が形成されていた。紀元前771年、周の幽王と太子伯盤(伯服)は犬戎の攻撃を受けて戯で死去した。申侯と許の文公・魯の孝公らがもとの太子であった宜臼を申で平王として擁立した。いっぽう虢公翰が携で王子余臣を擁立し、東西の二王並立の情勢となった。「二十一年」(従来は晋の文侯の21年、つまり紀元前760年と解釈されてきた)、携王は晋の文侯によって殺害された。嫡子でなかったため携王と称した[1]。
『清華簡』繋年の携恵王
[編集]2008年に清華大学が入手した『清華簡』繋年に見える新たな記述によって、従来の通説は書き換えを迫られている。紀元前771年、周の幽王と太子伯盤が犬戎や繒人の攻撃を受けて滅び、周が潰滅すると、周の邦君諸侯たちは幽王の弟である余臣を虢で擁立した。これが携恵王である。「立二十又一年」(携恵王の21年、つまり紀元前750年)、恵王は晋の文侯によって殺害された。周が王を失って9年(紀元前741年)、邦君諸侯たちは周に朝見しなくなった。晋の文侯は少鄂に平王を迎え、これを京師に擁立した。3年(紀元前738年)、平王は東遷して成周にとどまった[2]。繋年の記述は平王と携王の二王並立があったとする『竹書紀年』の記述と食い違っているが、どちらが正しいかは判明していない[3]。水野卓によると、紀元前771年に幽王と伯盤が殺害されると直後に携王が擁立され、9年目の紀元前762年に平王が擁立され、晋の文侯の21年となる紀元前760年に携王が文侯に殺害されたとされる[4]。