コンテンツにスキップ

「北川宣勝」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
 
(3人の利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:
{{基礎情報 武士
'''北川 宣勝'''(きたがわ のぶかつ、生没年不詳)は戦国時代江戸時代初期の武将。治郎兵衛。[[伊達氏]]家臣・[[浜田景隆]]の長男
| 氏名 = 北川宣勝
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]初期
| 生誕 = 不明
| 死没 = 不明
| 改名 =
| 別名 = 治郎兵衛
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[豊臣秀頼]]→[[大村純頼]]
| 藩 =
| 氏族 = [[浜田氏]]→[[北川氏]]
| 父母 = 父:[[浜田景隆]]
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
}}


'''北川 宣勝'''(きたがわ のぶかつ)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]][[豊臣秀頼]]の家臣
==歴==

諸事情で伊達家を出奔、北川宣勝と名乗り、[[豊臣秀頼]]に仕える。
== ==
[[伊達氏]]の家臣・[[浜田景隆]]の長男とされる。諸事情で伊達家を出奔、北川宣勝と名乗り、豊臣秀頼に仕える。


[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では[[大坂城]]八町目口を守って奮戦。秀頼より[[長宗我部盛親]]を指揮下に置くよう命ぜられるが、「私が盛親の下に付くのが道理」と固辞した。
[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では[[大坂城]]八町目口を守って奮戦。秀頼より[[長宗我部盛親]]を指揮下に置くよう命ぜられるが、「私が盛親の下に付くのが道理」と固辞した。
9行目: 36行目:


[[徳川家康]]の死後は[[大村純頼]]に仕えた。
[[徳川家康]]の死後は[[大村純頼]]に仕えた。

{{japanese-history-stub}}
{{people-stub}}
{{DEFAULTSORT:きたかわ のふかつ}}
{{DEFAULTSORT:きたかわ のふかつ}}
[[Category:戦国武将]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:陸奥国の人物]]
[[Category:仙台藩の人物]]
[[Category:大村藩の人物]]
[[zh:北川宣勝]]
[[Category:生没年不詳]]

2018年1月18日 (木) 14:02時点における最新版

 
北川宣勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 不明
別名 治郎兵衛
主君 豊臣秀頼大村純頼
氏族 浜田氏北川氏
父母 父:浜田景隆
テンプレートを表示

北川 宣勝(きたがわ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将豊臣秀頼の家臣。

略歴

[編集]

伊達氏の家臣・浜田景隆の長男とされる。諸事情で伊達家を出奔、北川宣勝と名乗り、豊臣秀頼に仕える。

大坂冬の陣では大坂城八町目口を守って奮戦。秀頼より長宗我部盛親を指揮下に置くよう命ぜられるが、「私が盛親の下に付くのが道理」と固辞した。

大坂夏の陣では道明寺の戦い天王寺・岡山の戦いで奮戦するも力及ばず。大坂城落城後は山川賢信と共に八幡滝本坊に隠れたがのちに投降、命は助けられた。

徳川家康の死後は大村純頼に仕えた。