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「日清戦争凱旋碑」の版間の差分

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2024年12月11日 (水) 04:42時点における最新版

座標: 北緯34度22分23.60秒 東経132度27分50.23秒 / 北緯34.3732222度 東経132.4639528度 / 34.3732222; 132.4639528

平和塔(日清戦争凱旋碑)
平和塔(日清戦争凱旋碑)
背面から。左奥に交差点が見える(「#歴史」節を参照)。右の建物が皆実西部集会所
背面から。左奥に交差点が見える(「#歴史」節を参照)。右の建物が皆実西部集会所
画像外部リンク
広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。
広島宇品凱旋記念碑 見通しのきいた場所であったとわかる。
地図
地図

日清戦争凱旋碑(にっしんせんそうがいせんひ)は、広島県広島市南区皆実町にある、日清戦争勝利を記念して建てられた。なお、現在の正式名称は平和塔[1]であるが、本表題では便宜上、旧称を用いる。「鷹の記念碑」[1]とも。

概要

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1896年(明治29年)竣工、全高16メートルで、頂部に金属製のトビ金鵄(きんし)[注釈 1]の像が飾られている[3]。側面にモルタルを額縁状に整形し[4]「平和塔」と刻んである。

皆実および宇品を縦断し広島電鉄宇品線が通る現在のメインロードである宇品通り(国道487号)の一本西側の道である「宇品御幸通り」(市道南4区557号線)沿いの、「皆実町緑地」と呼ばれる小さな公園内にあり、広島南警察署皆実交番の南側および皆実西部集会所[注釈 2]の東側にある。公園の交差点側に「東松原停車場通」と刻んだ石の旧道標が立つ[6]

少し南へ行くと千田廟公園がある。

歴史

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御幸通りは、1885年(明治18年)明治天皇が広島に行幸した際に、広島からの出発地点となった宇品港(現広島港)へ向かう通り道となったことから、御幸橋とともにその名がついた[7]。当時はこの通りが宇品のメインロードであり、終点である南端には御幸松が植えられた。

1888年(明治21年)広島を拠点に第5師団発足。1894年(明治27年)日清戦争が勃発すると、第5師団は第3師団とともに第1軍として先鋒となり[3]、宇品港は兵站基地となり、御幸通りを多くの兵士が通って戦地へと向かった。

1895年(明治28年)日清戦争に勝利すると、全国各地にそれを祝って戦争記念施設である記念碑・凱旋門・凱旋碑・忠魂碑が造られた[3]。広島でも第5師団帰還を盛大に祝っており、御幸通りに仮設ではあるが凱旋門が作られ[1]、西練兵場(現中区基町広島城南側、旧広島市民球場から広島県庁舎一帯)の片隅には砲弾形状の全高約20メートル規模の「日清戦勝記念碑」が造られた[3]。この凱旋碑もこの時に造られ、費用は中国5県から集まった義援金を充てた[8]

1896年(明治29年)軍・官・民の寄付により「日清戦争凱旋碑」が竣工された[9]。名称は「出雲石見隠岐備中備後安芸周防長門八カ国連合凱旋碑」とする資料もある[注釈 3]。建築費4,988円72銭4厘[10]。この地が選ばれた理由は、ここが御幸通りを左折し御幸橋を渡り広島大本営や第5師団司令部のある市中心部へ続く北西方面への道と、御幸通りを直進し明治天皇にゆかりのある比治山から東京を起点とする鉄道網の西端(当時)であった広島駅へと続く北方向への道の分岐点にあたり[6]、建物はなく見通しの利く場所だったからである[9]。また、このころは比治山通りと御幸通りの分岐点でもあった[11]

太平洋戦争中、金属類回収令により市内の公共施設の金属部品が次々と外されたものの、碑の頂部の金属像は保たれた。

1945年(昭和20年)広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地からの距離約2.5キロメートルに位置しながら、倒壊はしなかった。ちなみに、西練兵場の記念碑は爆心に近かった[12]こともあり全壊[3]している。

1947年(昭和22年)進駐軍からの糾弾を恐れ、「凱旋碑」と書かれていた部分をセメントで塗りつぶし「平和塔」に刻み変えられた[1][13][注釈 4]

交通

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脚注

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注釈

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  1. ^ 金鵄勲章の「金鵄」を指す[2]
  2. ^ 集会所の1階に広島市安佐区南消防団皆実分団[5]の車庫を置く。
  3. ^ 「出雲石見隠岐備中備後安芸周防長門八カ国連合凱旋碑」[10]は「いずも いわみ おき びっちゅう びんご あき すおう ながと はっかこく れんごう がいせんひ」と読み、いずれも旧令制国の一つ。
  4. ^ レファレンス協同データベースより、占領軍を意識して「日清戦争凱旋碑」の碑銘[14][15]は1947年(昭22年)の夏、上にモルタルを塗って、「平和塔」の文字を彫り込んだ[8][16][2])。

出典

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  1. ^ a b c d 【平和塔】(鷹の記念碑)”. こむねっとひろしま. 2014年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月12日閲覧。
  2. ^ a b ヒロシマの今から過去を見て回る会, 「20. 日清戦争凱旋碑」.
  3. ^ a b c d e 西尾 2006, pp. 71–88.
  4. ^ 広島の建築 arch-hiroshima 2006, 「写真#3:全然平和の使者っぽくない。(戦時中の金属供出を免れ、往事の姿を保つ).
  5. ^ 別表 (第2条関係)”. www.city.hiroshima.lg.jp. 広島市消防団の組織に関する規則・規則第58号. 広島市 (1955年11月10日). 2021年12月16日閲覧。2016年(平成28年)1月18日施行。
  6. ^ a b 広島の建築 arch-hiroshima 2006, 「写真#4:「東松原停車場通」とある。」.
  7. ^ 宇品御幸通りと御幸松記念”. こむねっとひろしま. 2014年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月12日閲覧。
  8. ^ a b 被爆建造物調査研究会(編)「平和塔」『ヒロシマの被爆建造物は語る』広島平和記念資料館、1996年、p.210。レファレンス協同データベースより。
  9. ^ a b 広島の歴史的風景” (PDF). 広島県立文書館. 2014年5月12日閲覧。
  10. ^ a b 志熊直人 著、広島県庁 編『広島臨戦地日誌』1899年、773-776頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991470/12014年5月12日閲覧 
  11. ^ 薄田 1973, p. 117.
  12. ^ 藤井 1925, 「ひろしま戦前の風景」より「産業奨励館の横から相生通りに出て、日清戦勝記念碑へ歩き、ピクニックをする親子の姿」.
  13. ^ 令和元年度 第2回収蔵文書の紹介展 築港130周年 ー広島港のあゆみ』(プレスリリース)広島県、2019年https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/zuroku/r1zuroku_130.pdf2021年2月5日閲覧 
  14. ^ 広島県(編)『廣嶋臨戦地日誌』溪水社、1984年、写真、774頁。戦前の写真を掲載(口絵)、「凱旋碑」の文字が判読できる。レファレンス協同データベースより。
  15. ^ 広島市市民局文化スポーツ部文化財課(編)「凱旋碑」『日清戦争と広島城』広島市文化財団広島城、2009年、42頁。「凱旋碑」の文字が判読できる。レファレンス協同データベースより。
  16. ^ 広島の建築 arch-hiroshima 2006, 「写真#2:平和塔の文字が読める。」.

参考資料

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本文の典拠。主な執筆者名の順。

書籍
  • 薄田太郎 著「宇品町界わい」、薄田純一郎 編『がんす横丁』 続々、たくみ出版、広島、1973年、103-117頁。doi:10.11501/9572792NCID BA47641829 題名は第3巻『がんす夜話』とも。コマ番号0056.jp2-、国立国会図書館/図書館送信参加館内公開。
  • 西尾林太郎「碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争 ―新たな教材と資料を求めて―」(PDF)『現代社会研究科研究報告』第1巻、愛知淑徳大学、2006年3月、71頁-88頁、ISSN 1881-0373NAID 1200050380532014年5月12日閲覧 
小冊子
  • うじな通検定実行委員会(編)『うじな通になろう』[平成22年度版]、広島市宇品公民館出版。
ウェブサイト

関連項目

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関連資料

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本文の典拠ではないもの。発行年順。

  • 田淵実夫(編)「79 日清戦争凱旋碑」『写真集明治大正昭和広島 : ふるさとの想い出200』国書刊行会、1981年、52頁。doi:10.11501/9574683、国立国会図書館限定公開。

外部リンク

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