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[[Image:ImreNagyport.jpg|thumb|right|ナジ・イムレ]] |
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{{ハンガリー人の姓名|ナジ|イムレ}} |
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'''ナジ・イムレ'''(NAGY Imre, [[1896年]][[6月7日]] - [[1958年]][[6月16日]])は、[[ハンガリー]]の政治家。ハンガリー共産党によって首相に任命された。 |
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{{政治家 |
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しかし、[[ハンガリー動乱]]の末、処刑された。 |
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| 人名 = ナジ・イムレ |
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| 各国語表記 = Nagy Imre |
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| 画像 = Nagy Imre igazolványkép.jpg |
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| 画像説明 = ナジ・イムレ([[1945年]]頃撮影) |
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| 国略称 = {{HUN1949}} |
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| 生年月日 = [[1896年]][[6月7日]] |
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| 出生地 = {{AUT1867}}<br>{{HUN1867}} [[カポシュヴァール]] |
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| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1896|6|7|1958|6|16}} |
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| 死没地 = {{HUN1957}} [[ブダペスト]] |
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| 出身校 = |
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| 所属政党 = [[ハンガリー社会主義労働者党]] |
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| 称号・勲章 = |
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| 親族(政治家) = |
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| 配偶者 = |
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| 国旗 = HUN1949 |
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| 職名 = [[ハンガリー人民共和国]]第5代[[閣僚評議会議長]] |
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| 内閣 = ナジ内閣 |
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| 就任日 = [[1956年]][[10月24日]] |
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| 退任日 = 1956年[[11月4日]] |
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| 国旗2 = HUN1949 |
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| 職名2 = ハンガリー人民共和国外務大臣 |
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| 内閣2 = ナジ内閣 |
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| 就任日2 = 1956年11月2日 |
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| 退任日2 = 1956年11月4日 |
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| 元首職2 = 首相 |
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| 元首2 = ナジ・イムレ |
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| 国旗3 = HUN1949 |
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| 職名3 = ハンガリー人民共和国第3代閣僚評議会議長 |
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| 内閣3 = ナジ内閣 |
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| 就任日3 = [[1953年]][[7月4日]] |
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| 退任日3 = [[1955年]][[4月18日]] |
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| 国旗4 = HUN1946 |
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| 職名4 = [[ハンガリー第二共和国|ハンガリー共和国]]下院議長 |
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| 内閣4 = ディンニェーシュ内閣 <small>(1947-1948)</small><br />ドビ内閣 <small>(1948-1949)</small> |
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| 就任日4 = [[1947年]][[9月16日]] |
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| 退任日4 = [[1949年]][[6月8日]] |
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| 元首職4 = 首相 |
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| 元首4 = [[ディンニェーシュ・ラヨシュ]] <small>(1947-1948)</small><br />[[ドビ・イシュトヴァーン]] <small>(1948-1949)</small> |
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| 国旗5 = |
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| 職名5 = [[ファイル:Flag of Hungary 1940.svg|border|25x20px|ハンガリー王国の旗]] [[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]]内務大臣<br />{{Flagicon|HUN1946}} ハンガリー共和国内務大臣 |
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| 内閣5 = ティルディ内閣 <small>(1945-1946)</small><br />ナジ内閣 <small>(1946)</small> |
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| 就任日5 = [[1945年]][[11月15日]] |
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| 退任日5 = [[1946年]][[3月20日]] |
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| 元首職5 = 首相 |
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| 元首5 = [[ティルディ・ゾルターン]] <small>(1945-1946)</small><br />[[ナジ・フェレンツ]] <small>(1946)</small> |
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| その他職歴1 = [[ファイル:Flag of Hungary 1940.svg|border|25x20px|ハンガリー王国の旗]] [[ハンガリー臨時国民政府]]農業大臣 |
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| 就任日6 = [[1944年]][[12月22日]] |
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| 退任日6 = [[1945年]][[11月15日]] |
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[[ファイル:1956. október 13., középen Nagy Imre miniszterelnök, az egykori Győrffy kollégisták találkozóján a Kossuth klubban. Fortepan 74229.jpg|サムネイル|ナジ・イムレ(1956年)]] |
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'''ナジ・イムレ'''('''Nagy Imre''', [[1896年]][[6月7日]] - [[1958年]][[6月16日]])は、[[ハンガリー人民共和国]]の政治家。同国第3・第5代[[ハンガリーの首相一覧#ハンガリー人民共和国|閣僚評議会議長]](首相:[[1953年]] - [[1955年]]・[[1956年]])。 |
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[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[衛星国]]であったハンガリー人民共和国において、スターリンの死によって失脚した[[ラーコシ・マーチャーシュ]]の後任として第3代閣僚評議会議長に就任し、経済政策の見直しに着手するも、ラーコシなど[[スターリン主義]]派の巻き返しに遭い一旦は辞任を余儀なくされる。その後、1956年の[[ハンガリー動乱]]勃発時に復権して第5代閣僚評議会議長に就任し、[[一党独裁]]体制の解体・[[ワルシャワ条約機構]]からの脱退とハンガリーの中立表明といった民主化・自由化政策を推進したが、それを阻止しようとしたソ連軍が同年11月4日に[[ブダペスト]]市内へ突入し、ハンガリー軍や市民義勇軍と市街戦を展開した。 同日中にはソ連を後ろ盾とする[[カーダール・ヤーノシュ|カーダール]]政権の誕生が宣言され、ハンガリー国内の抵抗も約1週間で鎮圧された。ナジ自身も国家転覆罪に問われ、2年後の1958年6月16日に処刑された<ref>{{Cite web|和書|title=ハンガリー動乱1956 写真特集:時事ドットコム |url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=hug024-jlp04530870&d=d4_oldnews |website=時事ドットコム |access-date=2022-05-29 |language=ja}}</ref>。 |
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== 経歴 == |
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[[1953年]]6月、[[ソビエト連邦]]の影響力が強かったハンガリーにおいて、首相に任命される。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の死後、緩み始めた[[ハンガリー]]の[[共産主義]]に対し、民衆は低賃金問題や食糧難に喘ぐ組織的なストライキを決行。更に、[[ブダペスト]]重工業、軽工業地帯でもストライキが相次いだ。こうした自国の危機的状況を重く見た彼は政策の路線を一新した。まず、困窮する国民の生活を改善しようとし、[[社会主義]]の象徴の一つでもあった農業集団化制度を緩める。更に、締め付けの厳しかった宗教を緩和。強制収容所を廃止した。しかし、その西側資本主義陣営的なやり方はすぐに[[スターリン主義]]者達との対立を招いた。その結果、[[1955年]]4月に首相退陣に追い込まれる。同年11月、[[勤労者党]]から除名される。 |
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== 第二次世界大戦前 == |
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ところが、徐々に民主化、言論の自由を求める声が高まっていく中、再びナジを政権に戻そうという意見が国民に広まる。[[1956年]]に党に復帰すると同年、首相に復職。早速、民主化、自由化へと彼はハンガリーを導いていく。[[一党独裁]]体制の解体、連立内閣、[[ワルシャワ条約機構]]からの脱退とハンガリー中立の表明と次々政策を打ち出す。しかし、一度は手を引いていたソ連軍が再び侵攻、[[ブタペスト]]を占領するという暴挙に至った。ナジは[[ユーゴスラヴィア]]の[[大使館]]に逃れる。その後、交渉のため安全と自由を保障された上で、大使館を出たところをソ連大使館に拘束されてしまい、[[ルーマニア]]にその身柄を移される。そして、ナジに取って代わったカーダールは、デモ隊など自由民主化を求める動きを徹底弾圧する。そして、ナジは処刑された。 |
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ナジはハンガリー西部の[[カポシュヴァール]]で日雇い農家の家に生まれた。[[石工]]見習いを経て[[第一次世界大戦]]に従軍、[[東部戦線]]に赴くが[[ロシア]]の捕虜となり[[ロシア革命]]を経験した。これを機縁として[[赤軍]]に参加し、([[チェーカー]]の内部資料によれば)[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の処刑にも関与したと言われている。 |
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1919年には[[クン・ベーラ]]率いる[[ハンガリー評議会共和国]]の樹立に関与するが、[[ソビエト連邦|ソ連]]に戻って農業調査にかかわりながら[[コミンテルン]]のハンガリー代表を務める。 |
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== 第二次世界大戦後からハンガリー動乱まで == |
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戦後ソ連軍によってハンガリーが占領されつつある中、ナジは[[ハンガリー共産党]]の一員として[[ハンガリー臨時国民政府]]に参加して農業大臣を務めた。共産党はハンガリー民主党を吸収して[[ハンガリー勤労者党]]と改組され、[[ハンガリー人民共和国]]の指導政党となった。 |
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[[1953年]]6月、[[ヨシフ・スターリン]]の死によって失脚した[[ラーコシ・マーチャーシュ]]の後任として首相に就任した。スターリンの死後、緩み始めたハンガリーの[[共産主義]]に対し、民衆は低賃金問題や食糧難に喘ぐ組織的な[[ストライキ]]を決行。更に、[[ブダペスト]]重工業、軽工業地帯でもストライキが相次いだ。こうした自国の危機的状況を重く見たナジは政策の路線を一新した。まず困窮する国民の生活を改善しようとし、[[社会主義]]の象徴の一つでもあった[[集団農場|農業集団]]化制度を緩める。更に、[[宗教]]に対する厳しい締め付けを緩和。[[強制収容所]]を廃止した。しかし、その西側資本主義陣営的なやり方はすぐに[[スターリン主義]]者達との対立を招いた。その結果、[[1955年]]4月に首相退陣に追い込まれ同年11月、[[ハンガリー社会主義労働者党|勤労者党]]から除名されてしまう。 |
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ところが徐々に[[民主化]]、[[言論の自由]]を求める声が高まっていく中、再びナジを政権に戻そうという意見が国民に広まった。[[1956年]]に党に復帰し、同年[[ハンガリー動乱]]が勃発すると首相に復職。社会主義者や反共民族主義者との[[連立政権]]を組織し、[[一党独裁]]体制の解体・[[ワルシャワ条約機構]]からの脱退とハンガリー中立の表明など次々と民主化・自由化政策を打ち出した。しかし、一度は手を引いていたソ連軍が再び侵攻を開始しブダペストを占領するという暴挙に至った。結果、ナジは[[ユーゴスラヴィア]]の[[大使館]]に逃れた。 |
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ナジはその後、交渉のため安全と自由を保障された上で大使館を出たところをソ連軍によって拘束され、[[ルーマニア]]にその身柄を移された後[[ソビエト連邦閣僚会議付属国家保安委員会|KGB]]による秘密裁判で[[1958年]][[6月16日]]、[[絞首刑]]に処された。満62歳没。ナジの遺体はブダペスト郊外の[[市立]][[墓苑]]に埋葬された。 |
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== 処刑後 == |
== 処刑後 == |
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ナジに取って代わった[[カーダール・ヤーノシュ]]は、デモ隊など自由民主化を求める動きを徹底弾圧した。動乱が収まった後、カーダール政権は自主管理の導入など融和政策を取ったものの、ナジはあくまで共産主義を裏切った反党分子として扱われていた。彼が名誉回復されるのは、ソ連での[[ペレストロイカ]]とその影響による[[ハンガリー民主化運動]]を待たなければならなかった。 |
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その後、カーダール政権は融和の道を辿り、ついに民主化が実現した。[[1989年]]に再埋葬式が執り行われ、現在は彼の銅像が建てられるまでに至っている。 |
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[[1989年]][[6月16日]]にナジの遺体の再埋葬式が執り行われ<ref>{{Cite web|和書|title=ナジ・イムレ改葬式とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%AC%E6%94%B9%E8%91%AC%E5%BC%8F-158296|website=コトバンク|accessdate=2021-06-15}}</ref>、その際にハンガリー社会主義労働者党は、「ハンガリー史において重要な人物であり、国家救済の為に闘い[[スターリン主義]]を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した」と声明を発し、事実上ナジの名誉回復を行った。 |
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ブダペストのマートリスト広場にナジの銅像が建てられていたが、2019年5月に、同市内のヤーサイ・マリ広場に移設された。また[[パリ]]の[[ペール・ラシェーズ墓地]]には、ナジの[[慰霊碑]]が建てられている。 |
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== 著書 == |
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* 共産主義について(1958年、鏡浦書房、翻訳:小山田義文、有田昌哉) |
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
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* [[ハンガリー動乱]] |
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== 外部リンク == |
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* {{Kotobank|ナジ}} |
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| title = {{flagicon|HUN1949}} [[ハンガリーの首相一覧|ハンガリー人民共和国]][[閣僚評議会議長]] |
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| before = [[ヘゲデューシュ・アンドラーシュ]]<br />[[ラーコシ・マーチャーシュ]] |
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[[Category:ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の軍人]] |
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[[Category:ソビエト連邦共産党の党員]] |
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[[Category:1896年生]] |
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[[Category:1958年没]] |
2024年11月29日 (金) 15:28時点における最新版
ナジ・イムレ Nagy Imre | |
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ナジ・イムレ(1945年頃撮影) | |
生年月日 | 1896年6月7日 |
出生地 |
オーストリア=ハンガリー帝国 ハンガリー王国 カポシュヴァール |
没年月日 | 1958年6月16日(62歳没) |
死没地 | ハンガリー ブダペスト |
所属政党 | ハンガリー社会主義労働者党 |
内閣 | ナジ内閣 |
在任期間 | 1956年10月24日 - 1956年11月4日 |
内閣 | ナジ内閣 |
在任期間 | 1956年11月2日 - 1956年11月4日 |
首相 | ナジ・イムレ |
内閣 | ナジ内閣 |
在任期間 | 1953年7月4日 - 1955年4月18日 |
ハンガリー共和国下院議長 | |
内閣 |
ディンニェーシュ内閣 (1947-1948) ドビ内閣 (1948-1949) |
在任期間 | 1947年9月16日 - 1949年6月8日 |
首相 |
ディンニェーシュ・ラヨシュ (1947-1948) ドビ・イシュトヴァーン (1948-1949) |
内閣 |
ティルディ内閣 (1945-1946) ナジ内閣 (1946) |
在任期間 | 1945年11月15日 - 1946年3月20日 |
首相 |
ティルディ・ゾルターン (1945-1946) ナジ・フェレンツ (1946) |
その他の職歴 | |
ハンガリー臨時国民政府農業大臣 (1944年12月22日 - 1945年11月15日) |
ナジ・イムレ(Nagy Imre, 1896年6月7日 - 1958年6月16日)は、ハンガリー人民共和国の政治家。同国第3・第5代閣僚評議会議長(首相:1953年 - 1955年・1956年)。
ソ連の衛星国であったハンガリー人民共和国において、スターリンの死によって失脚したラーコシ・マーチャーシュの後任として第3代閣僚評議会議長に就任し、経済政策の見直しに着手するも、ラーコシなどスターリン主義派の巻き返しに遭い一旦は辞任を余儀なくされる。その後、1956年のハンガリー動乱勃発時に復権して第5代閣僚評議会議長に就任し、一党独裁体制の解体・ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立表明といった民主化・自由化政策を推進したが、それを阻止しようとしたソ連軍が同年11月4日にブダペスト市内へ突入し、ハンガリー軍や市民義勇軍と市街戦を展開した。 同日中にはソ連を後ろ盾とするカーダール政権の誕生が宣言され、ハンガリー国内の抵抗も約1週間で鎮圧された。ナジ自身も国家転覆罪に問われ、2年後の1958年6月16日に処刑された[1]。
第二次世界大戦前
[編集]ナジはハンガリー西部のカポシュヴァールで日雇い農家の家に生まれた。石工見習いを経て第一次世界大戦に従軍、東部戦線に赴くがロシアの捕虜となりロシア革命を経験した。これを機縁として赤軍に参加し、(チェーカーの内部資料によれば)ニコライ2世の処刑にも関与したと言われている。
1919年にはクン・ベーラ率いるハンガリー評議会共和国の樹立に関与するが、ソ連に戻って農業調査にかかわりながらコミンテルンのハンガリー代表を務める。
第二次世界大戦後からハンガリー動乱まで
[編集]戦後ソ連軍によってハンガリーが占領されつつある中、ナジはハンガリー共産党の一員としてハンガリー臨時国民政府に参加して農業大臣を務めた。共産党はハンガリー民主党を吸収してハンガリー勤労者党と改組され、ハンガリー人民共和国の指導政党となった。
1953年6月、ヨシフ・スターリンの死によって失脚したラーコシ・マーチャーシュの後任として首相に就任した。スターリンの死後、緩み始めたハンガリーの共産主義に対し、民衆は低賃金問題や食糧難に喘ぐ組織的なストライキを決行。更に、ブダペスト重工業、軽工業地帯でもストライキが相次いだ。こうした自国の危機的状況を重く見たナジは政策の路線を一新した。まず困窮する国民の生活を改善しようとし、社会主義の象徴の一つでもあった農業集団化制度を緩める。更に、宗教に対する厳しい締め付けを緩和。強制収容所を廃止した。しかし、その西側資本主義陣営的なやり方はすぐにスターリン主義者達との対立を招いた。その結果、1955年4月に首相退陣に追い込まれ同年11月、勤労者党から除名されてしまう。
ところが徐々に民主化、言論の自由を求める声が高まっていく中、再びナジを政権に戻そうという意見が国民に広まった。1956年に党に復帰し、同年ハンガリー動乱が勃発すると首相に復職。社会主義者や反共民族主義者との連立政権を組織し、一党独裁体制の解体・ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリー中立の表明など次々と民主化・自由化政策を打ち出した。しかし、一度は手を引いていたソ連軍が再び侵攻を開始しブダペストを占領するという暴挙に至った。結果、ナジはユーゴスラヴィアの大使館に逃れた。
ナジはその後、交渉のため安全と自由を保障された上で大使館を出たところをソ連軍によって拘束され、ルーマニアにその身柄を移された後KGBによる秘密裁判で1958年6月16日、絞首刑に処された。満62歳没。ナジの遺体はブダペスト郊外の市立墓苑に埋葬された。
処刑後
[編集]ナジに取って代わったカーダール・ヤーノシュは、デモ隊など自由民主化を求める動きを徹底弾圧した。動乱が収まった後、カーダール政権は自主管理の導入など融和政策を取ったものの、ナジはあくまで共産主義を裏切った反党分子として扱われていた。彼が名誉回復されるのは、ソ連でのペレストロイカとその影響によるハンガリー民主化運動を待たなければならなかった。
1989年6月16日にナジの遺体の再埋葬式が執り行われ[2]、その際にハンガリー社会主義労働者党は、「ハンガリー史において重要な人物であり、国家救済の為に闘いスターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した」と声明を発し、事実上ナジの名誉回復を行った。
ブダペストのマートリスト広場にナジの銅像が建てられていたが、2019年5月に、同市内のヤーサイ・マリ広場に移設された。またパリのペール・ラシェーズ墓地には、ナジの慰霊碑が建てられている。
著書
[編集]- 共産主義について(1958年、鏡浦書房、翻訳:小山田義文、有田昌哉)
脚注
[編集]- ^ “ハンガリー動乱1956 写真特集:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2022年5月29日閲覧。
- ^ “ナジ・イムレ改葬式とは”. コトバンク. 2021年6月15日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 ヘゲデューシュ・アンドラーシュ ラーコシ・マーチャーシュ |
ハンガリー人民共和国閣僚評議会議長 第5代:1956年 第3代:1953年 - 1955年 |
次代 カーダール・ヤーノシュ ヘゲデューシュ・アンドラーシュ |