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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[紀州藩]]の家臣団・[[鎌田鍬蔵]]の子として、[[紀伊国]]に生まれる。同世代に[[津田出]]、[[陸奥宗光]]、[[桑山覚三]][[北畠道竜]]など。
[[紀州藩]]の家臣団・鎌田鍬蔵の子として、[[紀伊国]]に生まれる。同世代に[[津田出]]、[[陸奥宗光]]、桑山覚三、北畠道竜など。


[[藩校]]・[[学習館]]に入り兵学・漢籍を学び、南竜院([[徳川茂承]])の命により藩の選抜を経て[[東京|東都]]遊学の命を受け[[谷井保]]らと共に慶應義塾に入る。[[1875年]](明治8年)卒業し慶應義塾で教鞭を取る。紀州藩の藩政改革時に津田出が多額の藩金を費して、紀州に仏蘭西式の陸軍を持とうとしたことに反対し、人物養成の必要性を主張して対立した。
[[藩校]]・[[学習館]]に入り[[兵学]][[漢籍]]を学び、南竜院([[徳川茂承]])の命により藩の選抜を経て[[東京|東都]][[遊学]]の命を受け谷井保らと共に[[慶應義塾]]に入る。[[1875年]](明治8年)卒業し慶應義塾で教鞭を取る。紀州藩の[[藩政改革]]時に津田出が多額の藩金を費して、紀州に[[フランス陸軍|仏蘭西式の陸軍]]を持とうとしたことに反対し、人物養成の必要性を主張して対立した。


[[1877年]](明治10年)に[[西南戦争]]が起こると塾生の多くが旧藩に帰郷したため財政難となるが、日夜寝食を忘れて身を教職に捧げる。[[1881年]](明治14年)に設立された公立鹿児島学校(後の[[中学造士館|鹿児島県立中学造士館]])の教頭として聘せられる<ref>慶應義塾機関誌『三田評論』2017年8・9月合併号「【福澤諭吉をめぐる人々】鎌田栄吉」([https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201708-1.html Online版] 2019年3月3日閲覧)</ref>。[[1884年]](明治17年)[[内務省 (日本)|内務省]]御用掛となる<ref name=鎌田栄吉>{{アジア歴史資料センター|A06051178200|鎌田栄吉}}</ref>。[[1886年]](明治19年)[[大分県立大分上野丘高等学校|大分中学校長]]に就任し、[[1887年]](明治20年)[[大分師範学校|大分県尋常師範学校長]]に転じ[[1889年]](明治22年)まで在任した<ref name=鎌田栄吉/>。
[[1877年]](明治10年)に[[西南戦争]]が起こると塾生の多くが旧藩に帰郷したため財政難となるが、日夜寝食を忘れて身を教職に捧げる。[[1881年]](明治14年)に設立された公立鹿児島学校(後の[[中学造士館|鹿児島県立中学造士館]])の教頭として聘せられる<ref>慶應義塾機関誌『三田評論』2017年8・9月合併号「【福澤諭吉をめぐる人々】鎌田栄吉」([https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201708-1.html Online版] 2019年3月3日閲覧)</ref>。[[1884年]](明治17年)[[内務省 (日本)|内務省]]御用掛となる<ref name=鎌田栄吉>{{アジア歴史資料センター|A06051178200|鎌田栄吉}}</ref>。[[1886年]](明治19年)[[大分県立大分上野丘高等学校|大分中学校長]]に就任し、[[1887年]](明治20年)[[大分師範学校|大分県尋常師範学校長]]に転じ[[1889年]](明治22年)まで在任した<ref name=鎌田栄吉/>。
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[[1894年]](明治27年)には[[第3回衆議院議員総選挙]]で和歌山1区から[[衆議院|衆議院議員]]に当選。その後、[[1898年]](明治31年)に慶應義塾長(1922年まで)、高等教育会議員となり、[[1906年]](明治39年)5月17日に[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]に勅選される<ref>『官報』第6863号、明治39年5月18日。</ref>。慶應義塾では、臨時教育会に端を発する学校教練首唱者の[[山川健次郎]]([[東京大学|東京帝大]]総長)と共に軍事予備教育を確立するよう提言し[[兵式体操]]を改善して、退役下士官に代え現役将校を起用。
[[1894年]](明治27年)には[[第3回衆議院議員総選挙]]で和歌山1区から[[衆議院|衆議院議員]]に当選。その後、[[1898年]](明治31年)に慶應義塾長(1922年まで)、高等教育会議員となり、[[1906年]](明治39年)5月17日に[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]に勅選される<ref>『官報』第6863号、明治39年5月18日。</ref>。慶應義塾では、臨時教育会に端を発する学校教練首唱者の[[山川健次郎]]([[東京大学|東京帝大]]総長)と共に軍事予備教育を確立するよう提言し[[兵式体操]]を改善して、退役下士官に代え現役将校を起用。


[[1919年]](大正8年)には[[国際労働機関]]開催の第1回国際労働会議に政府代表として出席。[[1922年]](大正11年)には[[文政審議会]]委員、[[教育評議会]]会長となり、[[加藤友三郎内閣]]の[[文部大臣]]となった。[[1927年]](昭和2年)より[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]を務め、同年に[[帝国教育会]]長に就任した。次いで[[臨時ローマ字調査会]]委員、[[教科書調査会]]会長となる。1930年12月15日に発足した臨時ローマ字調査会では、[[田中舘愛橘]]に対抗してヘボン式ローマ字の使用を主張。
[[1919年]](大正8年)には[[国際労働機関]]開催の第1回国際労働会議に政府代表として出席。[[1922年]](大正11年)には[[文政審議会]]委員、[[教育評議会]]会長となり、[[加藤友三郎内閣]]の[[文部大臣]]となった。[[1927年]](昭和2年)より[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]を務め、同年に帝国教育会長に就任した。次いで臨時ローマ字調査会委員、教科書調査会会長となる。1930年12月15日に発足した臨時ローマ字調査会では、[[田中舘愛橘]]に対抗してヘボン式ローマ字の使用を主張。


死去に際して[[満国]]建国功労章を贈られる。また、紀州徳川家第15代当主の[[徳川頼倫]]の指南役(教育係)を務め、南葵育英会を設立するにあたって序文を担当した。
死去に際して[[満国]]建国功労章を贈られる。また、紀州徳川家第15代当主の[[徳川頼倫]]の指南役(教育係)を務め、南葵育英会を設立するにあたって序文を担当した。


== 栄典 ==
== 栄典 ==
; 位階
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; 外国勲章佩用允許
; 外国勲章佩用允許
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== 著書 ==
== 著書 ==
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** 収録:第一部(先生の生涯, 先生の人物風韻, 先生の病から葬送まで, 自伝を語る, 慶義塾に関する論説, 福先生に就て), 第二部(欧米漫遊雑記, 欧米漫遊所感, 南の旅)
** 収録:第一部(先生の生涯, 先生の人物風韻, 先生の病から葬送まで, 自伝を語る, 慶義塾に関する論説, 福先生に就て), 第二部(欧米漫遊雑記, 欧米漫遊所感, 南の旅)
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** 収録:独立自尊, 教育と実業, 進取論
** 収録:独立自尊, 教育と実業, 進取論

2024年11月6日 (水) 08:54時点における最新版

鎌田かまた 栄吉えいきち
鎌󠄁田 榮吉
肖像写真
生年月日 1857年2月15日
安政4年1月21日
出生地 日本の旗 紀伊国
没年月日 (1934-02-06) 1934年2月6日(76歳没)
出身校 慶應義塾
所属政党 交友倶楽部
称号 正三位
勲一等旭日大綬章

日本の旗 第30代 文部大臣
内閣 加藤友三郎内閣
在任期間 1922年6月12日 - 1923年9月2日

選挙区 貴族院勅選議員
在任期間 1906年5月17日 - 1927年12月24日
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鎌田 栄吉(かまた えいきち、旧字体鎌󠄁田 榮吉1857年2月15日安政4年1月21日[注 1]) - 1934年昭和9年)2月6日)は、紀州藩出身の明治期官僚政治家枢密顧問官貴族院議員衆議院議員文部大臣慶應義塾長、帝国教育会長。交詢社理事長[1]正三位勲一等は竹堂。

経歴

[編集]

紀州藩の家臣団・鎌田鍬蔵の子として、紀伊国に生まれる。同世代に津田出陸奥宗光、桑山覚三、北畠道竜など。

藩校学習館に入り兵学漢籍を学び、南竜院(徳川茂承)の命により藩の選抜を経て東都遊学の命を受け谷井保らと共に慶應義塾に入る。1875年(明治8年)に卒業し慶應義塾で教鞭を取る。紀州藩の藩政改革時に津田出が多額の藩金を費して、紀州に仏蘭西式の陸軍を持とうとしたことに反対し、人物養成の必要性を主張して対立した。

1877年(明治10年)に西南戦争が起こると塾生の多くが旧藩に帰郷したため財政難となるが、日夜寝食を忘れて身を教職に捧げる。1881年(明治14年)に設立された公立鹿児島学校(後の鹿児島県立中学造士館)の教頭として聘せられる[2]1884年(明治17年)内務省御用掛となる[3]1886年(明治19年)大分中学校長に就任し、1887年(明治20年)大分県尋常師範学校長に転じ1889年(明治22年)まで在任した[3]

1894年(明治27年)には第3回衆議院議員総選挙で和歌山1区から衆議院議員に当選。その後、1898年(明治31年)に慶應義塾長(1922年まで)、高等教育会議員となり、1906年(明治39年)5月17日に貴族院議員に勅選される[4]。慶應義塾では、臨時教育会に端を発する学校教練首唱者の山川健次郎東京帝大総長)と共に軍事予備教育を確立するよう提言し兵式体操を改善して、退役下士官に代え現役将校を起用。

1919年(大正8年)には国際労働機関開催の第1回国際労働会議に政府代表として出席。1922年(大正11年)には文政審議会委員、教育評議会会長となり、加藤友三郎内閣文部大臣となった。1927年(昭和2年)より枢密顧問官を務め、同年に帝国教育会長に就任した。次いで臨時ローマ字調査会委員、教科書調査会会長となる。1930年12月15日に発足した臨時ローマ字調査会では、田中舘愛橘に対抗してヘボン式ローマ字の使用を主張。

死去に際して満洲国建国功労章を贈られる。また、紀州徳川家第15代当主の徳川頼倫の指南役(教育係)を務め、南葵育英会を設立するにあたって序文を担当した。

栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著書

[編集]
  • 『欧米漫遊雑記』博文館、1899年6月。 NCID BN04781941全国書誌番号:40005727 
  • 『独立自尊』実業之日本社、1911年9月。 NCID BN04847926全国書誌番号:41017224 
  • 『教育と実業』北文館、1913年9月。 NCID BA35842878全国書誌番号:43044827 
  • 『進取論』広文堂書店、1915年4月。 NCID BA32016762全国書誌番号:43022927 
  • 『南洋視察談』貴族院定例午餐会〈貴族院定例午餐会講演集 第18〉、1927年5月。 NCID BB0306922X全国書誌番号:22213914 
  • 『南のたび』徳川侯爵家、1927年11月。 NCID BA35808519全国書誌番号:47021109 
  • 『国民の三大要道』国民工業学院、1933年10月。 NCID BN08680491全国書誌番号:44000178 全国書誌番号:77102524 

全集

[編集]
  • 『鎌田栄吉全集』 第1巻(伝記篇)、鎌田栄吉先生伝記及全集刊行会、1935年2月。 NCID BN01524374全国書誌番号:58008458 
    • 『鎌田栄吉全集 第一巻 伝記篇』(復刻版)大空社〈伝記叢書 366〉、2012年1月。ISBN 9784283008434NCID BN01524374全国書誌番号:58008458 
    • 収録:第一部(先生の生涯, 先生の人物風韻, 先生の発病から葬送まで, 自伝を語る, 慶応義塾に関する論説, 福沢先生に就て), 第二部(欧米漫遊雑記, 欧米漫遊所感, 南の旅)
  • 『鎌田栄吉全集』 第2巻(著作篇)、鎌田栄吉先生伝記及全集刊行会、1934年6月。 NCID BN01524374全国書誌番号:58008458 
    • 収録:独立自尊, 教育と実業, 進取論
  • 『鎌田栄吉全集』 第3巻(諸作篇)、鎌田栄吉先生伝記及全集刊行会、1934年10月。 NCID BN01524374全国書誌番号:58008458 
    • 収録:修養、道徳に関する諸論, 時事問題諸論, 旅行論その他, 詩、歌、句集

脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ アジア歴史資料センター『鎌田栄吉』では「安政4年1月21日」であるが、鎌田本人は、それは戸籍の日付で実際には「安政4年8月26日」生まれであると語っている。

出典

[編集]
  1. ^ 鎌田栄吉『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  2. ^ 慶應義塾機関誌『三田評論』2017年8・9月合併号「【福澤諭吉をめぐる人々】鎌田栄吉」(Online版 2019年3月3日閲覧)
  3. ^ a b 鎌田栄吉」 アジア歴史資料センター Ref.A06051178200 
  4. ^ 『官報』第6863号、明治39年5月18日。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 鎌田栄吉」 アジア歴史資料センター Ref.A06051178200 
  6. ^ 『官報』第2965号「叙任及辞令」1922年6月21日。
  7. ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1928年10月10日。
  8. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  9. ^ 『官報』第1499号・附録「辞令二」1931年12月28日。
  10. ^ 『官報』第2130号「叙任及辞令」1934年2月9日。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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ウィキメディア・コモンズには、鎌田栄吉に関するカテゴリがあります。

公職
先代
林博太郎
日本の旗 教科書調査会会長
1932年 - 1934年
次代
永田秀次郎
先代
中橋徳五郎
日本の旗 航空評議会会長
1922年 - 1923年
次代
犬養毅
先代
岡野敬次郎
日本の旗 教育評議会会長
1922年
次代
林博太郎
先代
村上田長
大分県師範学校長
大分県尋常師範学校長
1887年 - 1889年
次代
小野楨一郎
先代
村上田長
大分中学校長
大分県尋常中学校
1886年 - 1887年
大分中学校長
1886年
次代
衣斐鉸太郎
その他の役職
先代
西園寺公望
ローマ字ひろめ会会頭
1927年 - 1934年
次代
門野幾之進
先代
林博太郎
帝国教育会会長
1932年 - 1934年
次代
永田秀次郎