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「山陰中央新報」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2023年2月}}
{{基礎情報 新聞
{{基礎情報 新聞
| 名称 = 山陰中央新報
| 名称 = 山陰中央新報
| 画像 = [[ファイル:San-in Chuo Shimpo.JPG|250px]]
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| 説明 = 山陰中央新報社が入居する山陰中央ビル
| 説明 = 山陰中央新報社が入居する山陰中央ビル
| タイプ = 日刊紙
| タイプ = 日刊紙
| サイズ = ブランケット判
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| 事業者 = 株式会社山陰中央新報社
| 事業者 = 株式会社山陰中央新報社
| 本社 = 〒690-8668 [[島根県]][[松江市]]殿町383番地
| 本社 = 〒690-8668 [[島根県]][[松江市]]殿町383番地
| 代表者 = 松尾倫男
| 代表者 = 松尾倫男
| 編集者 =
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| 1部 = (朝刊のみ)140
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| 月極 = 3,300
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| 言語 = 日本語
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| 発行数 = 183424(20194月、[[日本ABC協会]]調べ<ref name="shinnbunnjouhou">{{Cite news | url = | title = 194月ABC部数 | newspaper = 新聞情報 | date = 2019-05-18 }}</ref>)
| 発行数 = 173029(20226月、[[日本ABC協会]]調べ<ref name="shinnbunnjouhou">{{Cite news | url = | title = 226月ABC部数 | newspaper = 新聞情報 | date = 2019-05-18 }}</ref>)<br>16万5000部(2023年9月、山陰中央新報<ref name="山陰中央新報">[https://info.sanin-chuo.co.jp/koudoku/#:~:text=%E5%B1%B1%E9%99%B0%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%96%B0%E5%A0%B1%E3%81%AF%E3%80%81%E5%B1%B1%E9%99%B0,%E7%99%BA%E8%A1%8C%E9%83%A8%E6%95%B0%E3%82%92%E8%AA%87%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%25E3%2580%2582 山陰中央新報] 2024年6月閲覧</ref>)
| 公式サイト = https://www.sanin-chuo.co.jp/
| 公式サイト = https://www.sanin-chuo.co.jp/
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| 本社所在地 = [[島根県]][[松江市]]殿町383番地<br/>山陰中央ビル6階
| 本社所在地 = [[島根県]][[松江市]]殿町383番地<br/>山陰中央ビル6階
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| 設立 = 1882年(明治15年)5月1日
| 業種 = 5250
| 業種 = 5250
| 統一金融機関コード =
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| 代表者 = 代表取締役社長 松尾倫男
| 代表者 = 代表取締役社長 松尾倫男
| 資本金 = 1億8,690万円
| 資本金 = 1億8,690万円
| 売上高 = 731300万円(2019年9月期)
| 売上高 =74400万円(2022年9月期)
| 総資産 =
| 総資産 =
| 従業員数 = 321(20202月現在)
| 従業員数 = 296(20239月現在)
| 決算期 =
| 決算期 =
| 主要株主 =
| 主要株主 =
| 主要子会社 = 山陰中央新報製作センター<br/>[[山陰中央新報セールスセンター]]<br/>山陰中央新報松江南販売<br/>中央新報サービス<br/>山陰中央新報西部販売<br/>山陰中央新報いわみ開発<br/>SCアドクロス<br/>山陰中央新報事業団<br/>中央ビル<br/>山陰中央テレビジョン放送
| 主要子会社 = 山陰中央新報製作センター<br/>[[山陰中央新報セールスセンター]]<br/>山陰中央新報松江南販売<br/>中央新報サービス<br/>山陰中央新報いわみ開発<br/>SCアドクロス<br/>中央ビル<br/>山陰中央テレビジョン放送
| 関係する人物 = [[田部長右衛門 (23代)]](元社主)<br/ >[[正力松太郎]](島根新聞時代に会長)
| 関係する人物 = [[田部長右衛門 (23代)]](元社主)<br/ >[[正力松太郎]](島根新聞時代に会長)
| 外部リンク =
| 外部リンク =
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| 郵便番号 = 690-8668
| 郵便番号 = 690-8668
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}}
'''山陰中央新報'''(さんいんちゅうおうしんぽう)は、'''株式会社山陰中央新報社'''(さんいんちゅうおうしんぽうしゃ、''The San-in Chuo Shimpo Newspaper Co.,Ltd.'')が発行する[[新聞]]。朝刊のみで、発行部数は約185千部(2016)。
'''山陰中央新報'''(さんいんちゅうおうしんぽう)は、'''株式会社山陰中央新報社'''(さんいんちゅうおうしんぽうしゃ、''The San-in Chuo Shimpo Newspaper Co.,Ltd.'')が発行する[[新聞]]。朝刊のみで、発行部数は約173千部(20221 - 6月平均、2023年9月時点で16万5千部<ref name="山陰中央新報"/>


== 概要と沿革 ==
== 概要 ==
[[1882年]](明治15年)5月1日創刊。[[2022年]](令和4年)5月1日に創刊140周年を迎えた。
=== 概要 ===
創刊は、[[1882年]]([[明治]]15年)[[5月1日]]。[[2017年]]([[平成]]29年)[[5月1日]]に創刊135周年を迎えた。


[[島根県]]と[[鳥取県]]([[山陰地方]])[[広島市]]を主要なサービスエリアとする<ref name="moushikomi">{{Cite web||url=https://www.sanin-chuo.co.jp/hanbai/koudoku.html|title=ご購読・試読申し込み|accessdate=2020-04-27|publisher=山陰中央新報社}}</ref>2006年から[[広島バスセンター]]でも販売されている<ref>当初は7・8番乗り場後ろの新聞・雑誌売店で販売されていたが、バスセンター内の改装に伴い、現在はコンコース内の[[コンビニ]]「B-コンショップ」で販売されている</ref>。なお新聞の月極め定期購読者(直接配達地域<島根県全域と鳥取県一部>限定)は、[[朝日新聞]]の有料電子版「[[朝日新聞デジタル]]」とのダブルコース申込みをすること可能であ<ref>{{Cite web||url=https://digital.asahi.com/info/sanin/|title=朝日新聞デジタルダブルコースのお申し込み受付中!|accessdate=2020-04-27|publisher=山陰中央新報社}}</ref>。
[[島根県]]と[[鳥取県]]([[山陰地方]])[[広島市]]を主要なサービスエリアと<ref name="moushikomi">{{Cite web|和書|url=https://www.sanin-chuo.co.jp/hanbai/koudoku.html|title=ご購読・試読申し込み|accessdate=2020-04-27|publisher=山陰中央新報社}}</ref>2006年から[[広島バスセンター]]でも販売されている<ref group="注">当初は7・8番乗り場後ろの新聞・雑誌売店で販売されていたが、バスセンター内の改装に伴い、現在はコンコース内の[[コンビニ]]「B-コンショップ」で販売されている</ref>。かつては[[朝日新聞社]]と提携して、本紙の月極め定期購読者(直接配達地域<島根県全域と鳥取県一部>限定)を対象に[[朝日新聞]]の有料電子版である「[[朝日新聞デジタル]]」とのダブルコース申込みをすること可能であったが、2023年5月で終了した<ref>{{Cite web|和書|title=朝日新聞デジタル・提携新聞ダブルコース サービス終了のお知らせ |url=http://digital.asahi.com/info/information/articles/SDI202303160001.html |website=朝日新聞デジタル |access-date=2023-09-09 |date=2023-03-31}}</ref>。


[[4コマ漫画]]は[[フジヤマジョージ]]の[[カンちゃん]]([[佐賀新聞]]、[[熊本日日新聞]]など複数の地方紙にも掲載)と、[[倉田真由美]]の[[わらびん]]([[デーリー東北]]にも掲載)が毎日連載されている。
[[4コマ漫画]]は[[フジヤマジョージ]]の[[カンちゃん]]([[佐賀新聞]]、[[熊本日日新聞]]など複数の地方紙にも掲載)と、[[倉田真由美]]の[[わらびん]]([[デーリー東北]]にも掲載)が毎日連載されている。
<!-- [[社説]]は[[共同通信]]が配信する物を題名だけ変えてそのまま使用することがある。社説かコラムか確認が必要 -->
<!-- [[社説]]は[[共同通信]]が配信する物を題名だけ変えてそのまま使用することがある。社説かコラムか確認が必要 -->


=== 受賞歴 ===
== 沿革 ==
前身は、[[自由民権運動]]の機関紙として創刊された『山陰新聞』(1882年-1941年)と[[岡崎運兵衛]]によって創刊された『松陽新報』(1901年-1941年)。当時は隔日刊だった『山陰新聞』に対し『松陽新報』は日刊紙として挑み、政治的にも[[立憲政友会|政友会]]系の『山陰新聞』・[[立憲民政党|民政党]]系の『松陽新報』と激しく競争した。
* [[1991年]](平成3年)7月3日 - 企画記事「命─医療現場から」が第10回アップジョン医学記事賞を受賞。
* [[1997年]](平成9年)10月20日 - 「香りの広告シリーズ」で日本新聞協会新聞広告賞奨励賞を受賞
* [[2003年]](平成15年)10月20日 - 「しまね子ども環境バンク」で日本新聞協会新聞広告賞奨励賞を受賞
* [[2013年]](平成25年)10月16日 - 「環りの海」(琉球新報社との合同企画)で日本新聞協会新聞協会賞を受賞<ref name="enkaku">{{Cite web||url=https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1580707501901/index.html|title=社史|accessdate=2020-04-27|publisher=山陰中央新報社}}</ref>


ところが、昭和10年代に入り、『山陰新聞』の経営がおかしくなった。そこに目を付けたのが[[読売新聞社|読売]]だった{{Sfn|境|2020|p=276}}。読売は[[朝日新聞社|朝日]]、[[毎日新聞社|毎日]]に対抗するために、[[福岡県|福岡]]、[[長崎県|長崎]]、[[静岡県|静岡]]などで地元紙に資本注入し、傘下に収める戦略を取っていた{{Sfn|境|2020|p=276}}。島根に関しても同様で、本音は『松陽新報』を手に入れたかったが、時運かなわず、『山陰新聞』に手を出し{{Sfn|境|2020|p=276}}、[[1940年]](昭和15年)8月、[[正力松太郎]]が代表取締役会長に就任し傘下に収めた<ref>{{Cite news|title=山陰新聞並に九州日報 読売新聞社と合併す|newspaper=山陰新聞社|date=1940-08-14}}</ref>。この直後の10月14日には、[[読売ジャイアンツ|巨人]]対[[オリックス・バファローズ|阪急]]のプロ野球興業(松江体育協会主催、山陰新聞後援)が[[松江市営球場 (初代)|松江野球場]]で開催され<ref group="注">この試合は連盟の公式戦ではなく、現在の規定では練習試合に位置づけられる試合であった。そのため、[[日本野球機構]]には公式の試合記録が残っていない。</ref>、「独伊軍事映画の夕」なども催された。
=== 沿革 ===
前身は、[[自由民権運動]]の機関紙として創刊された『山陰新聞』(1882年-1941年)と[[岡崎運兵衛]]によって創刊された『松陽新報』(1901年-1941年)。当時は隔日刊だった『山陰新聞』に対し『松陽新報』は日刊紙として挑み、政治的にも[[立憲政友会|政友会]]系の『山陰新聞』・[[立憲民政党|民政党]]系の『松陽新報』と激しく競争した。山林地主である田部家が『松陽新報』の経営に参画する一方で、『山陰新聞』も戦時下の報道使命の完遂を理由として[[1940年]]8月に[[読売新聞]]傘下となり、代表取締役会長に[[正力松太郎]]が就任した<ref>{{Cite news|title=山陰新聞並に九州日報 読売新聞社と合併す|newspaper=山陰新聞社|date=1940-08-14}}</ref>。直後の10月14日には[[読売ジャイアンツ|巨人]]対[[オリックス・バファローズ|阪急]]のプロ野球興業(松江体育協会主催、山陰新聞後援)を松江野球場で開催した<ref>この試合は連盟の公式戦ではなく、現在の規定では練習試合に位置づけられる試合であった。そのため、[[日本野球機構]]には公式の試合記録が残っていない。</ref>。また、「独伊軍事映画の夕」などを開催した。


一方、『松陽新報』では岡崎家も代替りして、三代目(正臣)は祖父運兵衛ほど新聞経営に熱意がなく、『松陽新報』を手放したいと思っていた{{Sfn|境|2020|p=276}}。そこに読売が触角を伸ばしかかったが、これを敢然と遮断したのが[[田部長右衛門 (23代)]](朋之)だった{{Sfn|境|2020|p=277}}。朋之は、「郷土人による郷土紙」という地元の期待、さらには新聞は社会の公器であり、立派な県政のあるところ必ず立派な郷土新聞がなければならないという自らの信条から、独断で田部家の田、山林を処分して『松陽新報』を買収した{{Sfn|立石|1991|p=29}}。1940年10月、社長の座に就き、[[竹下勇造]]らにも資本参加を求め、経営基盤を固めた{{Sfn|境|2020|p=277}}。
やがて戦時報道統制によって[[1941年]]12月に『山陰新聞』と『松陽新報』が合併して島根新聞社となり、[[1942年]]1月から題号が『島根新聞』に。終戦後の[[1945年]]12月に読売新聞との資本関係が解消<ref>翌[[1946年]]2月には[[正力松太郎]]も島根新聞会長を辞任。その後[[1952年]]に『大阪讀賣新聞』(現在の[[読売新聞大阪本社]])が創刊されると、島根県内でも販売を開始して現在に至る。</ref>されたことで、田部家が経営権を掌握した。また[[1949年]][[10月]]に夕刊島根新聞社が設立<ref>当時は同一企業による夕刊の発行が認められていなかったため、名目上は島根新聞の子会社として創刊。[[1950年]]に「夕刊山陰」に改題。[[1952年]]の山陰新報改題と共に夕刊山陰を吸収する</ref>。


[[1942年]](昭和17年)1月、戦時報道統制で『山陰新聞』と『松陽新報』は統合され、『島根新聞』となった。社長は朋之で株のシェアは55%、会長は正力で株シェアは45%だった{{Sfn|境|2020|p=279}}。以来朋之は、1959年(昭和34年)4月に[[島根県知事]]に就任するまで、『島根新聞』の代表取締役社長、会長であり続けた{{Sfn|立石|1991|p=30}}。
[[1952年]]に『山陰新報』に改題し、さらに[[1957年]][[10月]]に『島根新聞』に復題した後、[[1973年]][[3月25日]]に現在の題号となる。1973年3月改題当時のページ数は16ページ建て。
*改題の背景には、山陰地区のテレビジョン放送相互乗り入れが関係している。山陰中央新報が出資する[[山陰中央テレビジョン放送]](TSK)は、当初『島根放送』(通称:テレビしまね)として開局したが、[[1972年]]に鳥取県にエリアを広げたことから現社名となった。
この動きに歩調を合わせる形で当紙も『島根新聞』から『山陰中央新報』へと改題、それまで島根県のみであった発行エリアを鳥取県にも拡大した。この動きは短期的には功を奏し、[[1975年]]には競合となる鳥取の地元紙『[[日本海新聞]]』は発行会社が倒産、休刊に追い込まれた。ただ、同紙が[[新日本海新聞社|別法人]]にて再建され短期間で復刊したこともあり、鳥取県内での部数拡大計画は失敗に終わった。現在、鳥取県内では島根県出身者を中心に根強い読者を持ち、島根県側に近い[[米子市]]や[[境港市]]では一定数の読者を獲得しているものの、県内全体でのシェアは1割以下にも満たないわずかなものである。ちなみに改題直後から8年間「山陰は一つ」をスローガンとして題字のすぐ下に入れていた。


=== 戦後 ===
[[1978年]]の段階で超高速オフセット輪転機を導入したことや[[1981年]]から一面にカラー写真を毎日掲載するなど新聞の印刷技術においては先駆的存在である。
終戦直後、読売では[[読売争議]]が発生し、正力ら全役員に退陣要求が突きつけられ、紙面は赤化した{{Sfn|境|2020|p=279}}。このため朋之は影響が『島根新聞』に及ぶのを怖れ、読売の持ち株をすべて買い取ることにし{{Sfn|境|2020|p=279}}、[[1946年]](昭和21年)2月、正力は会長を辞任した<ref group="注">[[1952年]](昭和27年)に『大阪讀賣新聞』(現在の[[読売新聞大阪本社]])が創刊されるが、その折には島根県内でも販売が開始された。</ref>。


[[1949年]](昭和24年)10月、当時は同一企業による夕刊の発行が認められていなかったため、夕刊島根新聞社を設立し<ref group="注">島根新聞の子会社として創刊。1950年に「夕刊山陰」に改題。1952年の山陰新報改題と共に夕刊山陰を吸収する。</ref>、[[1952年]](昭和27年)に『山陰新報』に改題、1957年10月に『島根新聞』に復題した。
[[2000年]](平成12年)8月1日、[https://www.sanin-chuo.co.jp/www/index.html ホームページ]を開設。


[[1970年]](昭和45年)4月、島根新聞を核とする田部グループなどの出資によって、[[田部長右衛門 (24代)|田部智久]]が社長に就き、「島根放送」(TSK テレビしまね)が開局した。初めは、島根県のみをカバーしていたが、1971年7月、島根県・鳥取県を一つのサービスエリアにする二県三波の相互乗り入れが決定し{{Sfn|境|2020|p=275}}、放送エリアが拡大したことを受け、1972年4月、社名を[[山陰中央テレビジョン放送]]に変更した{{Sfn|境|2020|p=275}}。
[[2004年]]1月から[[島根大学]]漫画研究会と連携し、週1回学生による[[4コマ漫画]]または[[1ページ漫画]]を連載するという試みを行なっていた。日刊の新聞で学生による漫画の連載は非常にまれなことであった。なお、現在は連載されていない。


この動きに合わせ、[[1973年]](昭和48)3月、親会社の「島根新聞社」も「山陰中央新報社」に改称し{{Sfn|境|2020|p=282}}、題号も『山陰中央新報』に改題した。当時のページ数は16ページ建てで、それまで島根県のみだった発行エリアを鳥取県にまで拡大した。この攻勢は短期的には成功し、[[1975年]](昭和50年)には鳥取県内での競合地元紙『[[日本海新聞]]』を休刊(発行会社が倒産)にまで追い込む。ただ、同紙が[[新日本海新聞社|別法人]]にて再建され短期間で復刊、巻き返しを図ったことで鳥取県への進出計画は事実上失敗に終わった。
[[2005年]]以降、[[竹島の日]]、[[竹島_(島根県)|竹島の領有権]]に関する報道を積極的に行っている。


[[1978年]](昭和53年)の段階で超高速[[オフセット印刷|オフセット]][[輪転機]]を導入し、1981年から一面にカラー写真を毎日掲載した。
[[2007年]]8月22日、移動編集車「サンちゃん号」導入<ref name="moushikomi"/>。


;2000年代
[[2007年]]10月からは、ひかわ制作センターのカラー[[輪転機]]増設によって、カラー面を大幅に増やし、また、紙面の一新を図った(題字も新たに島根県出身の[[東寺]]長者・砂原秀遍氏の揮毫によるものに改めた)。
[[2000年]](平成12年)8月1日、公式ウェブサイトを開設した。2004年1月から[[島根大学]]漫画研究会と連携し、週1回学生による[[4コマ漫画]]または[[1ページ漫画]]を連載するという試みを行なっていた。日刊の新聞で学生による漫画の連載は非常にまれなことだった。2005年以降、[[竹島の日]]、[[竹島_(島根県)|竹島の領有権]]に関する報道を積極的に行っている。


[[2007年]](平成19年)8月22日、移動編集車「サンちゃん号」導入<ref name="moushikomi"/>。10月からは、ひかわ制作センターのカラー輪転機増設によって、カラー面を大幅に増やし、併せて紙面の一新を図り、題字も新たに島根県出身の[[東寺]]長者・砂原秀遍の[[揮毫]]によるものに改めた。
[[2014年]](平成26年)4月1日、無料会員組織「さんさんクラブ」スタート。同年11月5日、子ども向けの無料新聞「週刊さんいん学聞」を創刊。毎週水曜日発行している。


[[2015年]](平成27)1125日、製作センターに見学者ホールん学聞が完成<ref name="enkaku"/>
[[2014年]](平成26)41日、無料会員組織「さんさんクラブ」スタート。11月5日は子ども向けの無料新聞週刊さん学聞」を創刊し、毎週水曜日発行している


[[2015年]](平成27)年11月25日、製作センターに見学者ホール「しんぶん学聞館」が完成した<ref name="enkaku"/>。
== ネットワーク ==
;本社
*島根県松江市殿町383 山陰中央ビル6階
:本社ビルの低層階(1~4階)は元々[[一畑百貨店]](旧)松江店新館であった。現在は複合ビルとなっており、系列文化センターやその他テナント、さらには[[みしまや]]ヴェルデ中央店(1階)も入居する。以前は[[エフエム山陰]]が4階に本社を構えていたが、[[2020年]][[2月10日]]より[[くにびきメッセ]]2階に移転している。
;印刷所
*山陰中央新報製作センター([[出雲市|出雲市斐川町上庄原1318]])


== 受賞歴 ==
;支社
* 1991年(平成3年)7月3日 - 企画記事「命─医療現場から」が第10回アップジョン医学記事賞を受賞。
*東京
* 1997年(平成9年)10月20日 - 「香りの広告シリーズ」で日本新聞協会新聞広告賞奨励賞を受賞。
*大阪
* 2003年(平成15年)10月20日 - 「しまね子ども環境バンク」で日本新聞協会新聞広告賞奨励賞を受賞。
*広島
* 2013年(平成25年)10月16日 - 「環りの海」(琉球新報社との合同企画)で日本新聞協会新聞協会賞を受賞<ref name="enkaku">{{Cite web|和書|url=https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1580707501901/index.html|title=社史|accessdate=2020-04-27|publisher=山陰中央新報社 |url-status=dead |url-status-date=2024-09-21}}</ref>。


== 鳥取県での購読者 ==
;総局
鳥取県内では島根県出身者を中心に根強い購読者を持ち、島根側に近い[[米子市]]や[[境港市]]に限れば一定数の読者を獲得しているものの、県内全体でのシェアは1割にも満たない。改題直後から8年間「山陰は一つ」をスローガンとして題字のすぐ下に入れていた。鳥取市内での発行部数が極小にもかかわらず、「鳥取総局」を置いているのはこの時の名残である。
※は、本社以外で発行所を兼ねる。
*[[出雲]]
*[[益田]]※
*[[鳥取]]※
*[[米子]]※


== ネットワーク ==
;支局
; 本社
*[[雲南]]
:* 島根県松江市殿町383 山陰中央ビル6階
*[[安来]]
: 本社ビルの低層階(1 - 4階)は元々[[一畑百貨店]](旧)松江店新館であった。現在は複合ビルとなっており、系列文化センターやその他テナント、さらには[[みしまや]]ヴェルデ中央店(1階)も入居する。[[1986年]](昭和61年)10月に開局した[[エフエム山陰]]は4階に本社を構えていたが、2020年([[令和]]2年) に[[島根県立産業交流会館]]2階へ移転している。
*[[隠岐]]
; 印刷所
*[[大田]]
:* 山陰中央新報製作センター([[出雲市|出雲市斐川町上庄原1318]])
*[[江津]]
; 支社
*[[川本]]
:* 東京
*[[津和野]]
:* 大阪
*[[境港]]
:* 広島
; 総局
: ※は、本社以外で発行所を兼ねる。
:* [[出雲市|出雲]]
:* [[益田市|益田]]※
:* [[鳥取市|鳥取]]※
:* [[米子市|米子]]※
; 支局
:* [[雲南市|雲南]]
:* [[安来市|安来]]
:* [[隠岐郡|隠岐]]
:* [[大田市|大田]]
:* [[江津市|江津]]
:* [[川本]]
:* [[津和野町|津和野]]
:* [[境港市|境港]]
; 通信部
:* ひらた
:* 邑南


== 番組表(2024年1月現在) ==
;通信部
* 最終面(メインテレビ面)
*ひらた
** フルサイズ(左から):[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]([[NHK松江放送局|松江放送局]])、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]](同)、[[山陰中央テレビジョン放送|TSK さんいん中央]]、[[山陰放送|BSS 山陰]]、[[日本海テレビジョン放送|NKT 日本海]]
*[[邑南]]
** ハーフサイズ(Eテレの横、上から):[[広島ホームテレビ]]、[[テレビせとうち|TSCテレビせとうち]]、[[サンテレビジョン|サンテレビ]]
** ハーフサイズ(最左側、上から):[[NHK BS]]、[[NHK BSプレミアム4K|NHK BSP4K]]
※鳥取県向けは、NHK総合の欄に一部、[[NHK鳥取放送局|鳥取放送局]]の番組も併記される。<br>
※島根・鳥取県外の一部テレビ局が最終面および中面に載っているのは、[[ケーブルテレビ局]]で一部再放送されている(山陰では[[テレビ朝日]]・[[テレビ東京]]の系列局と独立局が現存していない)ことを配慮したものである。なお、2010年頃まで関西広域局の[[朝日放送テレビ|ABCテレビ]]の番組表もハーフサイズで掲載されていたが、山陰放送等との協議の関係で、テレビ朝日系列の再放送がABCテレビ以外の系列局へ変更となったため掲載取りやめとなった。


* 中面(第2テレビ・ラジオ面)
== 番組表 ==
** 上段(BS、左から):[[BS日本|BS日テレ]]、[[BS朝日]]、[[BS-TBS]]、[[BSテレビ東京|BSテレ東]]、[[BSフジ]]、[[日本BS放送|BS11 イレブン]]、[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|BS12 トゥエルビ]]、[[BS松竹東急]]、[[放送大学 (基幹放送)|放送大学テレビ]]
*[[番組表|テレビ番組表]]は最終面掲載のメインテレビ面と、中面掲載の第2テレビ・ラジオ面に分かれている。
** 中段(BS・CS、左から):[[WOWOW]]ライブ、同シネマ、同プライム、FOX、[[時代劇専門チャンネル]]、[[スペースシャワーTV]]、[[ゴルフネットワーク]]、[[GAORA|GAORA SPORTS]]、[[スカイA]]
**メインテレビ面 - [[NHK松江放送局]]([[NHK総合テレビジョン|総合]]、[[NHK教育テレビジョン|Eテレ]])、[[山陰中央テレビジョン放送|さんいん中央テレビ]]、[[山陰放送|BSSテレビ]]、[[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]]の各局をフルサイズ、また[[NHK BS1]]、[[NHK BSプレミアム]]、[[WOWOWプライム]]、[[BSスカパー!]]と、[[広島県]]の[[広島ホームテレビ]]、[[岡山県]]・[[香川県]]の[[テレビせとうち|TSCテレビせとうち]]をハーフサイズで掲載。ただし、鳥取県向けは、NHK総合の欄に一部、[[NHK鳥取放送局|鳥取放送局]]の番組も併記される。広島・岡山の一部テレビ局が最終面に載っているのは、[[ケーブルテレビ局]]で一部再放送されている(山陰では[[テレビ朝日]]・[[テレビ東京]]の系列局が現存していない)ことを配慮したものである。なお、2010年頃まで関西広域局の[[朝日放送テレビ|ABCテレビ]]の番組表もハーフサイズで掲載されていたが、ケーブルテレビ局や地元放送局などとの協議の関係で、テレビ朝日系列の再放送がKSB[[瀬戸内海放送]]や[[広島ホームテレビ]]へ変更となったため、現在は広告欄となっている。
** 下段(地デジ・ラジオ・BS、左から):[[山口朝日放送|山口朝日]]、[[瀬戸内海放送]]、[[エフエム山陰|FM山陰]]、[[NHK-FM放送|NHK-FM]]、BSSラジオ、[[NHKラジオ第1放送|NHK第1]]、[[NHKラジオ第2放送|NHK第2]]、[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]、[[NHK BS8K]]
**第2テレビ・ラジオ面 - テレビ局は周辺地域の[[広島県]]、[[山口県]]([[中国放送|RCCテレビ]]、[[広島テレビ放送|広島テレビ]]、[[テレビ新広島]]、[[山口放送]]、[[テレビ山口]]、[[山口朝日放送]])、[[兵庫県]]の[[サンテレビジョン|サンテレビ]]、[[岡山県]]・[[香川県]]の[[瀬戸内海放送|KSB瀬戸内海放送]]、BSデジタル放送、CSデジタル放送、NHK松江(ラジオ第1、第2、FM)、BSSラジオ、[[エフエム山陰|FM山陰]]、[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]と広島県のRCCラジオ、[[中海テレビ放送]]、[[山陰ケーブルビジョン|マーブル]]、[[山陰ケーブルビジョン|やすぎどじょっこテレビ]]、[[ひらたCATV]]、[[出雲ケーブルビジョン]]、[[石見銀山テレビ放送]]、[[石見ケーブルビジョン]]、[[萩ケーブルネットワーク|ひとまろTV]]の自主放送番組、翌日の山陰地区と衛星放送のテレビ番組を掲載している(すべて小サイズ)。
※サイズは地デジとFM山陰、BSSラジオ、NHK第1はハーフサイズ。BS、CS、NHK第2、ラジオNIKKEIはクォーターサイズ。<br>
*1973年3月25日 - [[1976年]]3月は[[RSKテレビ|山陽テレビ]]と[[岡山放送|テレビ岡山(現:OHKテレビ)]]の番組表も掲載されていた。
※以前は周辺地域(広島県、山口県)の民放局のうち、テレビ朝日およびテレビ東京系列以外の放送局、RCCラジオ、山陰両県をサービスエリアとするケーブルテレビ局<!--[[中海テレビ放送]]、[[山陰ケーブルビジョン|マーブル]]、[[山陰ケーブルビジョン|やすぎどじょっこテレビ]]、[[ひらたCATV]]、[[出雲ケーブルビジョン]]、[[石見銀山テレビ放送]]、[[石見ケーブルビジョン]]、[[萩ケーブルネットワーク|ひとまろTV]]-->の自主放送番組表、翌日の山陰地区と衛星放送のテレビ番組表を掲載していたが、現在は掲載を終了している。<br>
※1973年3月25日 - 1976年3月は[[RSKテレビ|山陽テレビ]]と[[岡山放送|テレビ岡山(現:OHKテレビ)]]の番組表も掲載されていた。


== 関連紙・雑誌 ==
== 関連紙・雑誌 ==
* 山陰経済ウイークリー
* 山陰経済ウイークリー』毎週火曜日発行。
* さんいん学聞
* 『週刊さんいん学聞』毎週水曜日発行。
* 生活応援情報紙りびえーる
* 生活応援情報紙りびえーる』第2・4日曜日に新聞折込。


== 関連団体 ==
== 関連団体 ==
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* [[テレビ新広島]](産経新聞・中国新聞・日本経済新聞とも関係が深い)
* [[テレビ新広島]](産経新聞・中国新聞・日本経済新聞とも関係が深い)
* [[エフエム山陰]](山陰中央新報提供ニュースを放送中)
* [[エフエム山陰]](山陰中央新報提供ニュースを放送中)
* [[山陰中央新報セールスセンター]](広告代理業、新聞折込、ポスティング)
* [[山陰中央新報セールスセンター]](直系の広告代理業、新聞折込、ポスティング)
* [http://www.scac.co.jp/ SCアドクロス](広告代理店)
* [http://www.scac.co.jp/ SCアドクロス](広告代理店)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[立石泰則]]|title=地方の王国|publisher=[[プレジデント社]]|year=1991|month=12|isbn=978-4833414296|ref={{sfnref|立石泰則|1991}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[境政郎]]|title=そして、フジネットワークは生まれた|publisher=[[扶桑社]]|year=2020|month=1|isbn=978-4594084028|ref={{sfnref|境政郎|2020}}}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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[[Category:山陰中央テレビジョン放送]]
[[Category:読売新聞の歴史]]
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[[Category:1973年設立の企業]]

2024年9月21日 (土) 13:40時点における最新版

山陰中央新報
山陰中央新報社が入居する山陰中央ビル
種類 日刊紙
サイズ ブランケット判

事業者 株式会社山陰中央新報社
本社 〒690-8668 島根県松江市殿町383番地
代表者 松尾倫男
創刊 1973年3月25日(現在の紙名に改題)
前身 山陰新聞
(1882年 - 1941年)
島根新聞
(1942年1月1日 - 1952年)
山陰新報
(1952年 - 1957年9月30日)
島根新聞
(1957年10月1日 - 1973年3月24日)
言語 日本語
価格 1部 150円
月極 3,900円
発行数 17万3029部(2022年6月、日本ABC協会調べ[1]
16万5000部(2023年9月、山陰中央新報[2]
ウェブサイト https://www.sanin-chuo.co.jp/
テンプレートを表示
株式会社山陰中央新報社
The San-in Chuo Shimpo Newspaper Co.,Ltd.
種類 株式会社
略称 山陰中央新報
本社所在地 日本の旗 日本
690-8668
島根県松江市殿町383番地
山陰中央ビル6階
設立 1882年(明治15年)5月1日
業種 情報・通信業
代表者 代表取締役社長 松尾倫男
資本金 1億8,690万円
売上高 74億400万円(2022年9月期)
従業員数 296名(2023年9月現在)
主要子会社 山陰中央新報製作センター
山陰中央新報セールスセンター
山陰中央新報松江南販売
中央新報サービス
山陰中央新報いわみ開発
SCアドクロス
中央ビル
山陰中央テレビジョン放送
関係する人物 田部長右衛門 (23代)(元社主)
正力松太郎(島根新聞時代に会長)
テンプレートを表示

山陰中央新報(さんいんちゅうおうしんぽう)は、株式会社山陰中央新報社(さんいんちゅうおうしんぽうしゃ、The San-in Chuo Shimpo Newspaper Co.,Ltd.)が発行する新聞。朝刊のみで、発行部数は約17万3千部(2022年1 - 6月平均)、2023年9月時点で16万5千部[2]

概要

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1882年(明治15年)5月1日創刊。2022年(令和4年)5月1日に創刊140周年を迎えた。

島根県鳥取県山陰地方)、広島市を主要なサービスエリアとし[3]、2006年から広島バスセンターでも販売されている[注 1]。かつては、朝日新聞社と提携して、本紙の月極め定期購読者(直接配達地域<島根県全域と鳥取県一部>限定)を対象に朝日新聞の有料電子版である「朝日新聞デジタル」とのダブルコース申込みをすることも可能であったが、2023年5月で終了した[4]

4コマ漫画フジヤマジョージカンちゃん佐賀新聞熊本日日新聞など複数の地方紙にも掲載)と、倉田真由美わらびんデーリー東北にも掲載)が毎日連載されている。

沿革

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前身は、自由民権運動の機関紙として創刊された『山陰新聞』(1882年-1941年)と岡崎運兵衛によって創刊された『松陽新報』(1901年-1941年)。当時は隔日刊だった『山陰新聞』に対し『松陽新報』は日刊紙として挑み、政治的にも政友会系の『山陰新聞』・民政党系の『松陽新報』と激しく競争した。

ところが、昭和10年代に入り、『山陰新聞』の経営がおかしくなった。そこに目を付けたのが読売だった[5]。読売は朝日毎日に対抗するために、福岡長崎静岡などで地元紙に資本注入し、傘下に収める戦略を取っていた[5]。島根に関しても同様で、本音は『松陽新報』を手に入れたかったが、時運かなわず、『山陰新聞』に手を出し[5]1940年(昭和15年)8月、正力松太郎が代表取締役会長に就任し傘下に収めた[6]。この直後の10月14日には、巨人阪急のプロ野球興業(松江体育協会主催、山陰新聞後援)が松江野球場で開催され[注 2]、「独伊軍事映画の夕」なども催された。

一方、『松陽新報』では岡崎家も代替りして、三代目(正臣)は祖父運兵衛ほど新聞経営に熱意がなく、『松陽新報』を手放したいと思っていた[5]。そこに読売が触角を伸ばしかかったが、これを敢然と遮断したのが田部長右衛門 (23代)(朋之)だった[7]。朋之は、「郷土人による郷土紙」という地元の期待、さらには新聞は社会の公器であり、立派な県政のあるところ必ず立派な郷土新聞がなければならないという自らの信条から、独断で田部家の田、山林を処分して『松陽新報』を買収した[8]。1940年10月、社長の座に就き、竹下勇造らにも資本参加を求め、経営基盤を固めた[7]

1942年(昭和17年)1月、戦時報道統制で『山陰新聞』と『松陽新報』は統合され、『島根新聞』となった。社長は朋之で株のシェアは55%、会長は正力で株シェアは45%だった[9]。以来朋之は、1959年(昭和34年)4月に島根県知事に就任するまで、『島根新聞』の代表取締役社長、会長であり続けた[10]

戦後

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終戦直後、読売では読売争議が発生し、正力ら全役員に退陣要求が突きつけられ、紙面は赤化した[9]。このため朋之は影響が『島根新聞』に及ぶのを怖れ、読売の持ち株をすべて買い取ることにし[9]1946年(昭和21年)2月、正力は会長を辞任した[注 3]

1949年(昭和24年)10月、当時は同一企業による夕刊の発行が認められていなかったため、夕刊島根新聞社を設立し[注 4]1952年(昭和27年)に『山陰新報』に改題、1957年10月に『島根新聞』に復題した。

1970年(昭和45年)4月、島根新聞を核とする田部グループなどの出資によって、田部智久が社長に就き、「島根放送」(TSK テレビしまね)が開局した。初めは、島根県のみをカバーしていたが、1971年7月、島根県・鳥取県を一つのサービスエリアにする二県三波の相互乗り入れが決定し[11]、放送エリアが拡大したことを受け、1972年4月、社名を山陰中央テレビジョン放送に変更した[11]

この動きに合わせ、1973年(昭和48)3月、親会社の「島根新聞社」も「山陰中央新報社」に改称し[12]、題号も『山陰中央新報』に改題した。当時のページ数は16ページ建てで、それまで島根県のみだった発行エリアを鳥取県にまで拡大した。この攻勢は短期的には成功し、1975年(昭和50年)には鳥取県内での競合地元紙『日本海新聞』を休刊(発行会社が倒産)にまで追い込む。ただ、同紙が別法人にて再建され短期間で復刊、巻き返しを図ったことで鳥取県への進出計画は事実上失敗に終わった。

1978年(昭和53年)の段階で超高速オフセット輪転機を導入し、1981年から一面にカラー写真を毎日掲載した。

2000年代

2000年(平成12年)8月1日、公式ウェブサイトを開設した。2004年1月から島根大学漫画研究会と連携し、週1回学生による4コマ漫画または1ページ漫画を連載するという試みを行なっていた。日刊の新聞で学生による漫画の連載は非常にまれなことだった。2005年以降、竹島の日竹島の領有権に関する報道を積極的に行っている。

2007年(平成19年)8月22日、移動編集車「サンちゃん号」導入[3]。10月からは、ひかわ制作センターのカラー輪転機増設によって、カラー面を大幅に増やし、併せて紙面の一新を図り、題字も新たに島根県出身の東寺長者・砂原秀遍の揮毫によるものに改めた。

2014年(平成26年)4月1日、無料会員組織「さんさんクラブ」スタート。11月5日には子ども向けの無料新聞「週刊さんいん学聞」を創刊し、毎週水曜日発行している。

2015年(平成27)年11月25日、製作センターに見学者ホール「しんぶん学聞館」が完成した[13]

受賞歴

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  • 1991年(平成3年)7月3日 - 企画記事「命─医療現場から」が第10回アップジョン医学記事賞を受賞。
  • 1997年(平成9年)10月20日 - 「香りの広告シリーズ」で日本新聞協会新聞広告賞奨励賞を受賞。
  • 2003年(平成15年)10月20日 - 「しまね子ども環境バンク」で日本新聞協会新聞広告賞奨励賞を受賞。
  • 2013年(平成25年)10月16日 - 「環りの海」(琉球新報社との合同企画)で日本新聞協会新聞協会賞を受賞[13]

鳥取県での購読者

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鳥取県内では島根県出身者を中心に根強い購読者を持ち、島根側に近い米子市境港市に限れば一定数の読者を獲得しているものの、県内全体でのシェアは1割にも満たない。改題直後から8年間「山陰は一つ」をスローガンとして題字のすぐ下に入れていた。鳥取市内での発行部数が極小にもかかわらず、「鳥取総局」を置いているのはこの時の名残である。

ネットワーク

[編集]
本社
  • 島根県松江市殿町383 山陰中央ビル6階
本社ビルの低層階(1 - 4階)は元々一畑百貨店(旧)松江店新館であった。現在は複合ビルとなっており、系列文化センターやその他テナント、さらにはみしまやヴェルデ中央店(1階)も入居する。1986年(昭和61年)10月に開局したエフエム山陰は4階に本社を構えていたが、2020年(令和2年) に島根県立産業交流会館2階へ移転している。
印刷所
支社
  • 東京
  • 大阪
  • 広島
総局
※は、本社以外で発行所を兼ねる。
支局
通信部
  • ひらた
  • 邑南

番組表(2024年1月現在)

[編集]

※鳥取県向けは、NHK総合の欄に一部、鳥取放送局の番組も併記される。
※島根・鳥取県外の一部テレビ局が最終面および中面に載っているのは、ケーブルテレビ局で一部再放送されている(山陰ではテレビ朝日テレビ東京の系列局と独立局が現存していない)ことを配慮したものである。なお、2010年頃まで関西広域局のABCテレビの番組表もハーフサイズで掲載されていたが、山陰放送等との協議の関係で、テレビ朝日系列の再放送がABCテレビ以外の系列局へ変更となったため掲載取りやめとなった。

※サイズは地デジとFM山陰、BSSラジオ、NHK第1はハーフサイズ。BS、CS、NHK第2、ラジオNIKKEIはクォーターサイズ。
※以前は周辺地域(広島県、山口県)の民放局のうち、テレビ朝日およびテレビ東京系列以外の放送局、RCCラジオ、山陰両県をサービスエリアとするケーブルテレビ局の自主放送番組表、翌日の山陰地区と衛星放送のテレビ番組表を掲載していたが、現在は掲載を終了している。
※1973年3月25日 - 1976年3月は山陽テレビテレビ岡山(現:OHKテレビ)の番組表も掲載されていた。

関連紙・雑誌

[編集]
  • 『山陰経済ウイークリー』毎週火曜日発行。
  • 『週刊さんいん学聞』毎週水曜日発行。
  • 『生活応援情報紙りびえーる』第2・4日曜日に新聞折込。

関連団体

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 当初は7・8番乗り場後ろの新聞・雑誌売店で販売されていたが、バスセンター内の改装に伴い、現在はコンコース内のコンビニ「B-コンショップ」で販売されている。
  2. ^ この試合は連盟の公式戦ではなく、現在の規定では練習試合に位置づけられる試合であった。そのため、日本野球機構には公式の試合記録が残っていない。
  3. ^ 1952年(昭和27年)に『大阪讀賣新聞』(現在の読売新聞大阪本社)が創刊されるが、その折には島根県内でも販売が開始された。
  4. ^ 島根新聞の子会社として創刊。1950年に「夕刊山陰」に改題。1952年の山陰新報改題と共に夕刊山陰を吸収する。

出典

[編集]
  1. ^ “22年6月ABC部数”. 新聞情報. (2019年5月18日) 
  2. ^ a b 山陰中央新報 2024年6月閲覧
  3. ^ a b ご購読・試読申し込み”. 山陰中央新報社. 2020年4月27日閲覧。
  4. ^ 朝日新聞デジタル・提携新聞ダブルコース サービス終了のお知らせ”. 朝日新聞デジタル (2023年3月31日). 2023年9月9日閲覧。
  5. ^ a b c d 境 2020, p. 276.
  6. ^ “山陰新聞並に九州日報 読売新聞社と合併す”. 山陰新聞社. (1940年8月14日) 
  7. ^ a b 境 2020, p. 277.
  8. ^ 立石 1991, p. 29.
  9. ^ a b c 境 2020, p. 279.
  10. ^ 立石 1991, p. 30.
  11. ^ a b 境 2020, p. 275.
  12. ^ 境 2020, p. 282.
  13. ^ a b 社史”. 山陰中央新報社. 2020年4月27日閲覧。[リンク切れ]

参考文献

[編集]
  • 立石泰則『地方の王国』プレジデント社、1991年12月。ISBN 978-4833414296 
  • 境政郎『そして、フジネットワークは生まれた』扶桑社、2020年1月。ISBN 978-4594084028 

外部リンク

[編集]