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* [[Lamigoモンキーズ|La Newベアーズ]] (2006 - 2009)
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[[読売ジャイアンツ]]での[[登録名]]の読みは、「ろ めいし」。読売での背ネーム「'''RO'''」(これは[[王貞治]](OH)[[阿井英二郎]](AI)と並び[[日本プロ野球]]史上一番短い背ネームである)。
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== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 日本プロ野球時代 ===
台湾の[[中国文化大学|文化大学]]から[[1988年]]に[[ドラフト外入団|ドラフト外]]で[[日本野球機構]]の[[読売ジャイアンツ]]に入団。呂が1年目につけていた背番号97は、入団時の体重が97kgだったことに由来するが、読売ジャイアンツ在籍の2年目(1989年)以降、背番号を12に変更している。当時、巨人には[[ウォーレン・クロマティ]][[ビル・ガリクソン]]といった元[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]選手の[[外国人]]選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の[[日本プロ野球]]では、出場選手登録できる外国人は1球団につき2人まで)だった。そのため、初は[[読売ジャイアンツ (ファーム)|二軍]]生活を送った。
台湾の[[中国文化大学]]から、{{by|1988年}}に[[日本プロ野球]]の[[読売ジャイアンツ]]に入団。背番号”97”をつけた。入団時の体重が97kgだったことに由来する。


当時、巨人には[[ウォーレン・クロマティ]][[ビル・ガリクソン]]といった元[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]選手の[[外国人]]選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の[[日本プロ野球]]では、出場選手登録できる外国人は1球団につき2人まで)だった。そのため、入団年の1988年シーズン当初[[読売ジャイアンツ (ファーム)|二軍]]であった。
ところが、6月に行われた[[阪神甲子園球場]]の対[[阪神タイガース]]戦で、クロマティが[[死球]]を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、初めて一軍に昇格すると、[[6月14日]]の[[明治神宮野球場]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦で、初回に[[ボブ・ギブソン (1957年生の投手)|ボブ・ギブソン]]から[[初打席本塁打|初打席初本塁打]]を記録。デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(またデビュー17試合で10本塁打)と大暴れし、その年の[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスターゲーム]]と[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]](監督推薦)の両方に出場する。当時はオールスターゲームの外国人枠は2人だったが、急遽3人に増設されたほどであった。後半戦は疲労や弱点(内角の速球)を読まれ始めたことが原因で成績が落ちたが、最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」(当時の[[日刊スポーツ]]コラムより)と評された。元々は捕手のため強肩で、同年には[[ゴロ|ライトゴロ]]で打者を一塁アウトにした事がある。


ところが、6月13日の対[[阪神タイガース]]戦([[阪神甲子園球場|甲子園]])で、クロマティが[[死球]]を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、呂は初めて一軍に昇格(二軍での成績は、.387、12本、34点)。翌14日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦([[明治神宮野球場|神宮]])で、初回に[[ボブ・ギブソン (1957年生の投手)|ボブ・ギブソン]]から[[初打席本塁打|初打席初本塁打]]を記録した。その後もハイペースで本塁打を量産し、デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(デビュー17試合で打率.379、10本塁打)と大暴れする。新聞の見出しには、「呂効果」という文字が躍り、視聴率にも跳ね返っているとされた<ref>読売新聞1988年7月1日32面</ref>。
しかし翌年の[[1989年]]には、クロマティが復帰し他にガリクソン('89年)や[[マイク・ブラウン (外野手)|マイク・ブラウン]]([[1990年]])といったほかの外国人選手との外国人枠の兼ね合い、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続き、出場機会に恵まれないまま[[ファーム日本選手権]]MVP獲得直後の[[1991年]]のシーズンオフに退団。


この活躍を受けて、まず6月20日にセリーグ理事会で、それまでベンチ入りが1人までしか認められていなかった通訳が、2カ国語必要な場合は2人まで可能とされた<ref>読売新聞1988年6月21日19面</ref>。さらに、7月6日には[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]会長の[[川島廣守]]から会長特別賞が贈られ<ref>『プロ野球助っ人三国志』197頁</ref>、賞金10万円とメダルが贈られた<ref>読売新聞1988年7月7日19面</ref>。オールスターでは、その年の[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスターゲーム]]と[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]](監督推薦)の両方に出場することになった。当時、オールスターゲームの外国人枠は2人だったが、「出場を望むファンの声にこたえるため」<ref>読売新聞1988年7月15日19面</ref>急遽3人に増設(同時出場は2人まで)されたほどであった。
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後半戦は、疲労(球宴期間中に休めなかった)、弱点(内角の速球)を攻められたこと、成績下降に伴うフォーム改造、が原因で急速に成績を落とす<ref>『プロ野球助っ人三国志』199頁</ref>。最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」<ref>当時の[[日刊スポーツ]]コラムより</ref>と評された。元々は捕手のため強肩で、同年8月16日の9回表には、広島カープの北別府学を[[ゴロ|ライトゴロ]]で一塁アウトにし、その回のサヨナラ勝ちに貢献した。
[[2006年]]からは、[[La Newベアーズ]]の打撃コーチに就いている。また[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]や[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の台湾代表チーム([[チャイニーズタイペイ]])の打撃コーチを務めていた。


{{by|1989年}}は背番号を'''12'''に変更。
2013年には、台湾代表チーム監督に就任した。[[2014年アジア競技大会|2014年仁川アジア大会]]では[[野球大韓民国代表|韓国]]との決勝戦で敗れ準優勝となった
この年はクロマティが復帰したことに加え、前年から在籍のガリクソンが5月から8月まで起用されたため、[[外国人枠 (日本プロ野球)|外国人枠]]の関係で出場は18試合に終わった。それでも、二軍では.333、15本、57点の成績を残し、ガリクソンが帰国した9月以降は出場機会が増え、日本シリーズでも2試合に先発出場した。

{{by|1990年}}は、ガリクソンに代わって呂と同じ右打ちの外野手[[マイク・ブラウン (外野手)|マイク・ブラウン]]が加入したため、さらに出場機会を減らした。二軍では.323、10本、45点の成績を残した。

{{by|1991年}}は、クロマティとブラウンに変わって[[フィル・ブラッドリー]]と[[ヘクター・デラクルーズ]]が加入。デラクルーズは育成目的での獲得で二軍での出場がほとんどだったが、呂も二軍生活が中心だった。10月の[[ファーム日本選手権]]MVP獲得直後に退団。帰国にあたっては、早朝にもかかわらず、[[東京国際空港|羽田空港]]まで[[鴻野淳基]]・[[上田和明]]・[[佐藤洋]]らチームメイトが見送りに訪れたという<ref>『プロ野球助っ人三国志』200-201頁</ref>。

=== 台湾野球界時代 ===
[[1992年]]に母国台湾の[[中華職業棒球大聯盟|中華職棒]]でプレーする。呂は大学時代に味全棒球隊から活動経費の支援を受けていたことから、[[味全ドラゴンズ]]入りを希望して、選手兼任コーチとして契約。しかし、その後に行われたドラフトで、この契約に反発していた[[中信兄弟|兄弟エレファンツ]]から1位指名を受ける。結局、形式的に兄弟と契約し、味全の選手との交換トレード(三角トレード)で味全へ入団した<ref>『プロ野球助っ人三国志』201頁</ref>。台湾マスコミはこの経緯に批判的で、NPBの[[江川事件]]を引き合いに出して攻撃した。ところが、開幕戦(味全対[[統一ライオンズ]])に招待されていた元・巨人監督の[[王貞治]]が、試合前に呂を[[グラウンド]]に連れて行き、握手を交わして激励すると、観衆は万雷の拍手を送る。さらに、呂はこの試合で逆転2点本塁打を放ちいきなりヒーローとなった。王の激励と試合での活躍により、ブーイングは声援に代わってしまったという<ref>『プロ野球助っ人三国志』202頁</ref>。

台湾でも持ち前の長打力を遺憾なく発揮し主力打者として活躍した。

[[1997年]]に台湾プロ野球が内部分裂し、[[台湾職業棒球大聯盟|台湾大聯盟]]に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受ける。

[[2000年]]まで[[高屏雷公]]でプレーした後に引退。

=== 引退後 ===
[[2003年]]に台湾大聯盟が中華職棒聯盟と合併し、一度は球界を離れざるを得なくなったが、1000万[[ニュー台湾ドル|元]]を聯盟に寄付し球界復帰が認められた。

[[2006年]]からは、[[楽天モンキーズ|La Newベアーズ]]の打撃コーチに就いている。また[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]や[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の台湾代表チーム([[チャイニーズタイペイ]])の打撃コーチを務めていた。

[[2012年]]に社会人野球チームである台北市成棒隊の監督に就任。2013年には台湾代表チームの監督に就任した。

[[2014年アジア競技大会|2014年仁川アジア大会]]では[[野球大韓民国代表|韓国]]との決勝戦で敗れたが、準優勝に輝く


2016年11月20日に[[台中インターコンチネンタル野球場]]で開催された「台湾OB選抜 VS 巨人OB選抜 チャリティー試合」では、[[郭泰源]]とのバッテリーで代打・[[王貞治]]と対戦。打者としては[[鹿取義隆]]に打ち取られ同試合最後の打者となった(11-15で巨人OB選抜の勝利)。
2016年11月20日に[[台中インターコンチネンタル野球場]]で開催された「台湾OB選抜 VS 巨人OB選抜 チャリティー試合」では、[[郭泰源]]とのバッテリーで代打・[[王貞治]]と対戦。打者としては[[鹿取義隆]]に打ち取られ同試合最後の打者となった(11-15で巨人OB選抜の勝利)。
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=== 背番号 ===
=== 背番号 ===
* '''97''' (1988年)
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* '''12''' (1989年 - 1991年)
* '''12''' (1989年 - 1991年)
* '''39''' (1992年)
* '''39''' (1992年)
* '''1''' (1993年 - 2000年)
* '''1''' (1993年 - 2000年)
* '''66''' (2001年 - 2002年、2004年 - 2005年)

== 脚注 ==
{{reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 『呂明賜がゆく』([[さいとうたかを]](著)、[[読売新聞社]]
*[[さいとうたかを]]『呂明賜がゆく』[[読売新聞社]]、1989年
*小川勝『プロ野球助っ人三国志』[[毎日新聞社]]、1994年


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
131行目: 185行目:
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]]
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]]
* [[アジア・オセアニア出身の日本プロ野球外国人選手一覧#台湾|アジア・オセアニア出身の日本プロ野球外国人選手一覧]]
* [[アジア・オセアニア・アフリカ出身の日本プロ野球外国人選手一覧#台湾]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*{{NPB|11913866}}
*{{NPB|11913866}}
*[http://www.cpbl.com.tw/Personal_Rec/pbat_personal.aspx?Pno=D001&Role=1&Gno=01 CPBLでの成績]
*[http://www.cpbl.com.tw/Personal_Rec/pbat_personal.aspx?Pno=D001&Role=1&Gno=01 CPBLでの成績]
* {{YouTube|gEg3fzjKIKg|【巨人 豪華助っ人集】"呂 明賜" アジアの大砲}}([[DRAMATIC BASEBALL]])


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2024年8月4日 (日) 01:56時点における最新版

呂 明賜(ル・ミンス)
Ro Ming-Soo
台北市成棒隊 監督 #97
基本情報
国籍 中華民国の旗 中華民国
出身地 台湾省高雄市
生年月日 (1964-10-30) 1964年10月30日(60歳)
身長
体重
178 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手捕手
プロ入り 1988年
初出場 NPB /1988年6月14日
CPBL /1992年3月19日
TML /1997年
最終出場 NPB /1991年
CPBL /1996年10月21日
TML /2000年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
呂明賜
プロフィール
出生: 1964年10月30日
出身地: 中華民国の旗 台湾
職業:プロ野球選手外野手
各種表記
繁体字 呂明賜
簡体字 呂明赐
拼音 Lǚ Míngcì
和名表記: ろ めいし
発音転記: ル・ミンス
英語名 Ro Ming-Soo
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呂 明賜(ル・ミンス、ろ めいし、1964年10月30日 - )は、台湾中華民国)の高雄市出身の元プロ野球選手外野手捕手、右投右打)、野球指導者。

読売ジャイアンツ在籍時は登録名の読みを「ろ めいし」とし背ネームを「RO」としていた(これは王貞治(OH)、阿井英二郎(AI)、魚満芳(UO)、植大輔(UE)、呉憲助・呉俊宏(GO)、呉念庭(WU)、呂彦青(LU)、ボー・タカハシ(BO)と並び日本プロ野球史上一番短い背ネームである)。

経歴

[編集]

日本プロ野球時代

[編集]

台湾の中国文化大学から、1988年日本プロ野球読売ジャイアンツに入団。背番号”97”をつけた。入団時の体重が97kgだったことに由来する。

当時、巨人にはウォーレン・クロマティビル・ガリクソンといった元メジャーリーグ選手の外国人選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の日本プロ野球では、出場選手登録できる外国人は1球団につき2人まで)だった。そのため、入団初年の1988年シーズンは当初二軍であった。

ところが、6月13日の対阪神タイガース戦(甲子園)で、クロマティが死球を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、呂は初めて一軍に昇格(二軍での成績は、.387、12本、34点)。翌14日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)で、初回にボブ・ギブソンから初打席初本塁打を記録した。その後もハイペースで本塁打を量産し、デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(デビュー17試合で打率.379、10本塁打)と大暴れする。新聞の見出しには、「呂効果」という文字が躍り、視聴率にも跳ね返っているとされた[1]

この活躍を受けて、まず6月20日にセリーグ理事会で、それまでベンチ入りが1人までしか認められていなかった通訳が、2カ国語必要な場合は2人まで可能とされた[2]。さらに、7月6日にはセ・リーグ会長の川島廣守から会長特別賞が贈られ[3]、賞金10万円とメダルが贈られた[4]。オールスターでは、その年のジュニアオールスターゲームオールスターゲーム(監督推薦)の両方に出場することになった。当時、オールスターゲームの外国人枠は2人だったが、「出場を望むファンの声にこたえるため」[5]急遽3人に増設(同時出場は2人まで)されたほどであった。

後半戦は、疲労(球宴期間中に休めなかった)、弱点(内角の速球)を攻められたこと、成績下降に伴うフォーム改造、が原因で急速に成績を落とす[6]。最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」[7]と評された。元々は捕手のため強肩で、同年8月16日の9回表には、広島カープの北別府学をライトゴロで一塁アウトにし、その回のサヨナラ勝ちに貢献した。

1989年は背番号を12に変更。 この年はクロマティが復帰したことに加え、前年から在籍のガリクソンが5月から8月まで起用されたため、外国人枠の関係で出場は18試合に終わった。それでも、二軍では.333、15本、57点の成績を残し、ガリクソンが帰国した9月以降は出場機会が増え、日本シリーズでも2試合に先発出場した。

1990年は、ガリクソンに代わって呂と同じ右打ちの外野手マイク・ブラウンが加入したため、さらに出場機会を減らした。二軍では.323、10本、45点の成績を残した。

1991年は、クロマティとブラウンに変わってフィル・ブラッドリーヘクター・デラクルーズが加入。デラクルーズは育成目的での獲得で二軍での出場がほとんどだったが、呂も二軍生活が中心だった。10月のファーム日本選手権MVP獲得直後に退団。帰国にあたっては、早朝にもかかわらず、羽田空港まで鴻野淳基上田和明佐藤洋らチームメイトが見送りに訪れたという[8]

台湾野球界時代

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1992年に母国台湾の中華職棒でプレーする。呂は大学時代に味全棒球隊から活動経費の支援を受けていたことから、味全ドラゴンズ入りを希望して、選手兼任コーチとして契約。しかし、その後に行われたドラフトで、この契約に反発していた兄弟エレファンツから1位指名を受ける。結局、形式的に兄弟と契約し、味全の選手との交換トレード(三角トレード)で味全へ入団した[9]。台湾マスコミはこの経緯に批判的で、NPBの江川事件を引き合いに出して攻撃した。ところが、開幕戦(味全対統一ライオンズ)に招待されていた元・巨人監督の王貞治が、試合前に呂をグラウンドに連れて行き、握手を交わして激励すると、観衆は万雷の拍手を送る。さらに、呂はこの試合で逆転2点本塁打を放ちいきなりヒーローとなった。王の激励と試合での活躍により、ブーイングは声援に代わってしまったという[10]

台湾でも持ち前の長打力を遺憾なく発揮し主力打者として活躍した。

1997年に台湾プロ野球が内部分裂し、台湾大聯盟に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受ける。

2000年まで高屏雷公でプレーした後に引退。

引退後

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2003年に台湾大聯盟が中華職棒聯盟と合併し、一度は球界を離れざるを得なくなったが、1000万を聯盟に寄付し球界復帰が認められた。

2006年からは、La Newベアーズの打撃コーチに就いている。またWBC北京オリンピックの台湾代表チーム(チャイニーズタイペイ)の打撃コーチを務めていた。

2012年に社会人野球チームである台北市成棒隊の監督に就任。2013年には台湾代表チームの監督に就任した。

2014年仁川アジア大会では韓国との決勝戦で敗れたが、準優勝に輝く。

2016年11月20日に台中インターコンチネンタル野球場で開催された「台湾OB選抜 VS 巨人OB選抜 チャリティー試合」では、郭泰源とのバッテリーで代打・王貞治と対戦。打者としては鹿取義隆に打ち取られ同試合最後の打者となった(11-15で巨人OB選抜の勝利)。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1988 巨人 79 312 274 38 70 12 0 16 130 40 4 5 3 2 32 2 1 43 10 .255 .333 .474 .808
1989 18 41 39 3 11 0 0 2 17 6 1 0 1 0 1 0 0 7 2 .282 .300 .436 .736
1990 7 14 13 0 4 0 0 0 4 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .308 .357 .308 .665
1991 9 20 16 0 4 1 1 0 7 3 1 0 0 1 2 0 1 5 0 .250 .350 .438 .788
1992 味全 85 347 287 49 74 15 1 10 121 33 9 3 1 1 57 2 1 38 11 .258 .382 .422 .803
1993 82 342 297 44 87 22 1 7 132 42 6 3 2 1 39 4 3 24 7 .293 .379 .444 .824
1994 54 221 196 17 39 7 1 2 54 16 1 4 5 0 20 0 0 31 6 .199 .273 .276 .549
1995 88 367 326 60 107 20 0 15 172 50 3 2 2 4 35 2 0 28 5 .328 .389 .528 .917
1996 97 415 360 71 122 25 1 16 197 66 13 7 0 4 51 0 0 31 10 .339 .417 .547 .964
1997 雷公 41 170 153 28 51 8 2 2 69 23 1 0 0 1 15 0 1 23 4 .333 .394 .451 .845
1998 99 423 395 50 119 25 2 5 163 66 2 1 0 5 19 0 4 39 8 .301 .336 .413 .748
1999 71 271 255 25 72 15 1 2 95 22 1 1 0 3 12 0 1 22 3 .282 .314 .373 .686
2000 78 308 286 36 86 14 6 4 124 29 6 5 1 1 20 0 0 26 8 .301 .345 .434 .779
NPB:4年 113 387 342 41 89 13 1 18 158 49 6 5 4 3 36 2 2 57 12 .260 .332 .462 .794
CPBL:5年 406 1692 1466 241 429 89 4 50 676 207 32 19 10 10 202 8 4 152 39 .293 .378 .461 .839
TML:4年 289 1172 1089 139 328 62 11 13 451 140 10 7 1 10 66 0 6 110 23 .301 .342 .414 .756
台湾:9年 695 2864 2555 380 757 151 15 63 1127 347 42 26 11 20 268 8 10 262 62 .296 .363 .441 .804

表彰

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NPB
CPBL

記録

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NPB初記録
NPBその他の記録

背番号

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  • 97 (1988年、2006年 - 2009年)
  • 12 (1989年 - 1991年)
  • 39 (1992年)
  • 1 (1993年 - 2000年)
  • 66 (2001年 - 2002年、2004年 - 2005年)

脚注

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  1. ^ 読売新聞1988年7月1日32面
  2. ^ 読売新聞1988年6月21日19面
  3. ^ 『プロ野球助っ人三国志』197頁
  4. ^ 読売新聞1988年7月7日19面
  5. ^ 読売新聞1988年7月15日19面
  6. ^ 『プロ野球助っ人三国志』199頁
  7. ^ 当時の日刊スポーツコラムより
  8. ^ 『プロ野球助っ人三国志』200-201頁
  9. ^ 『プロ野球助っ人三国志』201頁
  10. ^ 『プロ野球助っ人三国志』202頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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