「呂明賜」の版間の差分
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{{Infobox baseball player |
{{Infobox baseball player |
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|選手名 = 呂 明賜 |
|選手名 = 呂 明賜 |
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|本名 = ル・ミンス |
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|英語表記 = Ro Ming-Soo |
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|所属球団 = 台北市成棒隊 |
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|背番号 = 97 |
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|写真のコメント = 2013年 |
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|出身地 = [[台湾省]][[高雄市 (省轄市)|高雄市]] |
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|打席 = 右 |
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|プロ入り年度 = |
|プロ入り年度 = 1988年 |
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|ドラフト順位 = |
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|初出場 = NPB /1988年6月14日<br />CPBL /1992年3月19日<br />TML /1997年 |
|初出場 = NPB /1988年6月14日<br />CPBL /1992年3月19日<br />TML /1997年 |
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|経歴 = |
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* {{仮リンク|華興中學|label=華興高等学校|zh|臺北市私立華興高級中學}} |
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* [[中国文化大学]] |
* [[中国文化大学]] |
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* [[読売ジャイアンツ]] (1988 - 1991) |
* [[読売ジャイアンツ]] (1988 - 1991) |
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* [[味全ドラゴンズ]] (1992 - 1996) |
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* [[高屏雷公|高屏生活雷公<br/>高屏年代雷公]] (1997 - 2000) |
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|経歴補足題 = コーチ歴 |
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* [[高屏雷公|高屏年代雷公]] (2001 - 2002) |
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* [[米迪亜ティー・レックス|誠泰コブラズ]] (2004 - 2005) |
* [[米迪亜ティー・レックス|誠泰コブラズ]] (2004 - 2005) |
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* [[ |
* [[楽天モンキーズ|La Newベアーズ]] (2006 - 2009) |
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* [[興農ブルズ]] (2010) |
* [[富邦ガーディアンズ|興農ブルズ]] (2010) |
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* 國訓中心棒球隊 |
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* 台北市成棒隊 |
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{{中華圏の人物 |
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|名前= 呂明賜 |
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|ピン音= Lǚ Míngcì |
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|和名= ろ めいし |
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|英語名= Ming-Soo |
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'''呂 明賜'''(ル・ミンス、ろ めいし、[[1964年]][[10月30日]] - )は、[[台湾]]([[中華民国]])の[[高雄市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]]・[[捕手]]、右投右打) |
'''呂 明賜'''(ル・ミンス、ろ めいし、[[1964年]][[10月30日]] - )は、[[台湾]]([[中華民国]])の[[高雄市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]]・[[捕手]]、右投右打)、野球指導者。 |
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[[読売ジャイアンツ]] |
[[読売ジャイアンツ]]在籍時は[[登録名]]の読みを「'''ろ めいし'''」とし背ネームを「'''RO'''」としていた(これは[[王貞治]](OH)、[[阿井英二郎]](AI)、[[魚満芳]](UO)、[[植大輔]](UE)、呉憲助・[[呉俊宏]](GO)、[[呉念庭]](WU)、[[呂彦青]](LU)、[[ボー・タカハシ]](BO)と並び[[日本プロ野球]]史上一番短い背ネームである)。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 日本プロ野球時代 === |
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台湾の[[中国文化大学]]から、{{by|1988年}}に[[日本プロ野球]]の[[読売ジャイアンツ]]に入団。背番号”97”をつけた。入団時の体重が97kgだったことに由来する。 |
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ところが、6月に行われた[[阪神甲子園球場]]の対[[阪神タイガース]]戦で、クロマティが[[死球]]を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、初めて一軍に昇格すると、[[6月14日]]の[[明治神宮野球場]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦で、初回に[[ボブ・ギブソン (1957年生の投手)|ボブ・ギブソン]]から[[初打席本塁打|初打席初本塁打]]を記録。デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(またデビュー17試合で10本塁打)と大暴れし、その年の[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスターゲーム]]と[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]](監督推薦)の両方に出場する。当時はオールスターゲームの外国人枠は2人だったが、急遽3人に増設されたほどであった。後半戦は疲労や弱点(内角の速球)を読まれ始めたことが原因で成績が落ちたが、最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」(当時の[[日刊スポーツ]]コラムより)と評された。元々は捕手のため強肩で、同年には[[ゴロ|ライトゴロ]]で打者を一塁アウトにした事がある。 |
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ところが、6月13日の対[[阪神タイガース]]戦([[阪神甲子園球場|甲子園]])で、クロマティが[[死球]]を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、呂は初めて一軍に昇格(二軍での成績は、.387、12本、34点)。翌14日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦([[明治神宮野球場|神宮]])で、初回に[[ボブ・ギブソン (1957年生の投手)|ボブ・ギブソン]]から[[初打席本塁打|初打席初本塁打]]を記録した。その後もハイペースで本塁打を量産し、デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(デビュー17試合で打率.379、10本塁打)と大暴れする。新聞の見出しには、「呂効果」という文字が躍り、視聴率にも跳ね返っているとされた<ref>読売新聞1988年7月1日32面</ref>。 |
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しかし翌年の[[1989年]]には、クロマティが復帰し他にガリクソン('89年)や[[マイク・ブラウン (外野手)|マイク・ブラウン]]([[1990年]])といったほかの外国人選手との外国人枠の兼ね合い、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続き、出場機会に恵まれないまま[[ファーム日本選手権]]MVP獲得直後の[[1991年]]のシーズンオフに退団。 |
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この活躍を受けて、まず6月20日にセリーグ理事会で、それまでベンチ入りが1人までしか認められていなかった通訳が、2カ国語必要な場合は2人まで可能とされた<ref>読売新聞1988年6月21日19面</ref>。さらに、7月6日には[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]会長の[[川島廣守]]から会長特別賞が贈られ<ref>『プロ野球助っ人三国志』197頁</ref>、賞金10万円とメダルが贈られた<ref>読売新聞1988年7月7日19面</ref>。オールスターでは、その年の[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスターゲーム]]と[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]](監督推薦)の両方に出場することになった。当時、オールスターゲームの外国人枠は2人だったが、「出場を望むファンの声にこたえるため」<ref>読売新聞1988年7月15日19面</ref>急遽3人に増設(同時出場は2人まで)されたほどであった。 |
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[[1992年]]、母国のリーグ[[中華職業棒球大聯盟|中華職棒]]の[[味全ドラゴンズ]]に入団し、持ち前の長打力を遺憾なく発揮し主力打者として活躍した。[[1997年]]に台湾プロ野球が内部分裂し、[[台湾職業棒球大聯盟|台湾大聯盟]]に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受ける。[[2000年]]まで[[高屏雷公]]でプレーした後に引退、以後指導者の道を歩み始める。[[2003年]]に台湾大聯盟が中華職棒聯盟と合併し、一度は球界を離れざるを得なくなったが、1000万[[ニュー台湾ドル|元]]を聯盟に寄付し球界復帰が認められた。 |
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後半戦は、疲労(球宴期間中に休めなかった)、弱点(内角の速球)を攻められたこと、成績下降に伴うフォーム改造、が原因で急速に成績を落とす<ref>『プロ野球助っ人三国志』199頁</ref>。最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」<ref>当時の[[日刊スポーツ]]コラムより</ref>と評された。元々は捕手のため強肩で、同年8月16日の9回表には、広島カープの北別府学を[[ゴロ|ライトゴロ]]で一塁アウトにし、その回のサヨナラ勝ちに貢献した。 |
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{{by|1989年}}は背番号を'''12'''に変更。 |
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この年はクロマティが復帰したことに加え、前年から在籍のガリクソンが5月から8月まで起用されたため、[[外国人枠 (日本プロ野球)|外国人枠]]の関係で出場は18試合に終わった。それでも、二軍では.333、15本、57点の成績を残し、ガリクソンが帰国した9月以降は出場機会が増え、日本シリーズでも2試合に先発出場した。 |
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{{by|1990年}}は、ガリクソンに代わって呂と同じ右打ちの外野手[[マイク・ブラウン (外野手)|マイク・ブラウン]]が加入したため、さらに出場機会を減らした。二軍では.323、10本、45点の成績を残した。 |
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{{by|1991年}}は、クロマティとブラウンに変わって[[フィル・ブラッドリー]]と[[ヘクター・デラクルーズ]]が加入。デラクルーズは育成目的での獲得で二軍での出場がほとんどだったが、呂も二軍生活が中心だった。10月の[[ファーム日本選手権]]MVP獲得直後に退団。帰国にあたっては、早朝にもかかわらず、[[東京国際空港|羽田空港]]まで[[鴻野淳基]]・[[上田和明]]・[[佐藤洋]]らチームメイトが見送りに訪れたという<ref>『プロ野球助っ人三国志』200-201頁</ref>。 |
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=== 台湾野球界時代 === |
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[[1992年]]に母国台湾の[[中華職業棒球大聯盟|中華職棒]]でプレーする。呂は大学時代に味全棒球隊から活動経費の支援を受けていたことから、[[味全ドラゴンズ]]入りを希望して、選手兼任コーチとして契約。しかし、その後に行われたドラフトで、この契約に反発していた[[中信兄弟|兄弟エレファンツ]]から1位指名を受ける。結局、形式的に兄弟と契約し、味全の選手との交換トレード(三角トレード)で味全へ入団した<ref>『プロ野球助っ人三国志』201頁</ref>。台湾マスコミはこの経緯に批判的で、NPBの[[江川事件]]を引き合いに出して攻撃した。ところが、開幕戦(味全対[[統一ライオンズ]])に招待されていた元・巨人監督の[[王貞治]]が、試合前に呂を[[グラウンド]]に連れて行き、握手を交わして激励すると、観衆は万雷の拍手を送る。さらに、呂はこの試合で逆転2点本塁打を放ちいきなりヒーローとなった。王の激励と試合での活躍により、ブーイングは声援に代わってしまったという<ref>『プロ野球助っ人三国志』202頁</ref>。 |
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台湾でも持ち前の長打力を遺憾なく発揮し主力打者として活躍した。 |
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[[1997年]]に台湾プロ野球が内部分裂し、[[台湾職業棒球大聯盟|台湾大聯盟]]に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受ける。 |
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[[2000年]]まで[[高屏雷公]]でプレーした後に引退。 |
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=== 引退後 === |
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[[2003年]]に台湾大聯盟が中華職棒聯盟と合併し、一度は球界を離れざるを得なくなったが、1000万[[ニュー台湾ドル|元]]を聯盟に寄付し球界復帰が認められた。 |
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[[2012年]]に社会人野球チームである台北市成棒隊の監督に就任。2013年には台湾代表チームの監督に就任した。 |
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2016年11月20日に[[台中インターコンチネンタル野球場]]で開催された「台湾OB選抜 VS 巨人OB選抜 チャリティー試合」では、[[郭泰源]]とのバッテリーで代打・[[王貞治]]と対戦。打者としては[[鹿取義隆]]に打ち取られ同試合最後の打者となった(11-15で巨人OB選抜の勝利)。 |
2016年11月20日に[[台中インターコンチネンタル野球場]]で開催された「台湾OB選抜 VS 巨人OB選抜 チャリティー試合」では、[[郭泰源]]とのバッテリーで代打・[[王貞治]]と対戦。打者としては[[鹿取義隆]]に打ち取られ同試合最後の打者となった(11-15で巨人OB選抜の勝利)。 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1996}} |
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|97||415||360||71||122||25||1||16||197||66||13||7||0||4||51||0||0||31||10||.339||.417||.547||.964 |
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|41||170||153||28||51||8||2||2||69||23||1||0||0||1||15||0||1||23||4||.333||.394||.451||.845 |
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|78||308||286||36||86||14||6||4||124||29||6||5||1||1||20||0||0||26||8||.301||.345||.434||.779 |
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|406||1692||1466||241||429||89||4||50||676||207||32||19||10||10||202||8||4||152||39||.293||.378||.461||.839 |
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|289||1172||1089||139||328||62||11||13||451||140||10||7||1||10||66||0||6||110||23||.301||.342||.414||.756 |
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|695||2864||2555||380||757||151||15||63||1127||347||42||26||11||20||268||8||10||262||62||.296||.363||.441||.804 |
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|} |
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=== 背番号 === |
=== 背番号 === |
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* '''97''' (1988年) |
* '''97''' (1988年、2006年 - 2009年) |
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* '''12''' (1989年 - 1991年) |
* '''12''' (1989年 - 1991年) |
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* '''39''' (1992年) |
* '''39''' (1992年) |
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* '''1''' (1993年 - 2000年) |
* '''1''' (1993年 - 2000年) |
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* '''66''' (2001年 - 2002年、2004年 - 2005年) |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*[[さいとうたかを]]『呂明賜がゆく』[[読売新聞社]]、1989年 |
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*小川勝『プロ野球助っ人三国志』[[毎日新聞社]]、1994年 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[読売ジャイアンツの選手一覧]] |
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]] |
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* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]] |
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]] |
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* [[アジア・オセアニア出身の日本プロ野球外国人選手一覧#台湾 |
* [[アジア・オセアニア・アフリカ出身の日本プロ野球外国人選手一覧#台湾]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*{{NPB|11913866}} |
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*[http://www.cpbl.com.tw/Personal_Rec/pbat_personal.aspx?Pno=D001&Role=1&Gno=01 CPBLでの成績] |
*[http://www.cpbl.com.tw/Personal_Rec/pbat_personal.aspx?Pno=D001&Role=1&Gno=01 CPBLでの成績] |
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* {{YouTube|gEg3fzjKIKg|【巨人 豪華助っ人集】"呂 明賜" アジアの大砲}}([[DRAMATIC BASEBALL]]) |
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{{ |
{{楽天モンキーズ歴代監督|La newベアーズ|2008}} |
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{{2006 ワールド・ベースボール・クラシック・チャイニーズタイペイ代表}} |
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{{北京オリンピック野球チャイニーズタイペイ代表}} |
{{北京オリンピック野球チャイニーズタイペイ代表}} |
2024年8月4日 (日) 01:56時点における最新版
台北市成棒隊 監督 #97 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 中華民国 |
出身地 | 台湾省高雄市 |
生年月日 | 1964年10月30日(60歳) |
身長 体重 |
178 cm 86 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、捕手 |
プロ入り | 1988年 |
初出場 |
NPB /1988年6月14日 CPBL /1992年3月19日 TML /1997年 |
最終出場 |
NPB /1991年 CPBL /1996年10月21日 TML /2000年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
|
呂明賜 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1964年10月30日 |
出身地: | 台湾 |
職業: | 元プロ野球選手(外野手) |
各種表記 | |
繁体字: | 呂明賜 |
簡体字: | 呂明赐 |
拼音: | Lǚ Míngcì |
和名表記: | ろ めいし |
発音転記: | ル・ミンス |
英語名: | Ro Ming-Soo |
呂 明賜(ル・ミンス、ろ めいし、1964年10月30日 - )は、台湾(中華民国)の高雄市出身の元プロ野球選手(外野手・捕手、右投右打)、野球指導者。
読売ジャイアンツ在籍時は登録名の読みを「ろ めいし」とし背ネームを「RO」としていた(これは王貞治(OH)、阿井英二郎(AI)、魚満芳(UO)、植大輔(UE)、呉憲助・呉俊宏(GO)、呉念庭(WU)、呂彦青(LU)、ボー・タカハシ(BO)と並び日本プロ野球史上一番短い背ネームである)。
経歴
[編集]日本プロ野球時代
[編集]台湾の中国文化大学から、1988年に日本プロ野球の読売ジャイアンツに入団。背番号”97”をつけた。入団時の体重が97kgだったことに由来する。
当時、巨人にはウォーレン・クロマティやビル・ガリクソンといった元メジャーリーグ選手の外国人選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の日本プロ野球では、出場選手登録できる外国人は1球団につき2人まで)だった。そのため、入団初年の1988年シーズンは当初二軍であった。
ところが、6月13日の対阪神タイガース戦(甲子園)で、クロマティが死球を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、呂は初めて一軍に昇格(二軍での成績は、.387、12本、34点)。翌14日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)で、初回にボブ・ギブソンから初打席初本塁打を記録した。その後もハイペースで本塁打を量産し、デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(デビュー17試合で打率.379、10本塁打)と大暴れする。新聞の見出しには、「呂効果」という文字が躍り、視聴率にも跳ね返っているとされた[1]。
この活躍を受けて、まず6月20日にセリーグ理事会で、それまでベンチ入りが1人までしか認められていなかった通訳が、2カ国語必要な場合は2人まで可能とされた[2]。さらに、7月6日にはセ・リーグ会長の川島廣守から会長特別賞が贈られ[3]、賞金10万円とメダルが贈られた[4]。オールスターでは、その年のジュニアオールスターゲームとオールスターゲーム(監督推薦)の両方に出場することになった。当時、オールスターゲームの外国人枠は2人だったが、「出場を望むファンの声にこたえるため」[5]急遽3人に増設(同時出場は2人まで)されたほどであった。
後半戦は、疲労(球宴期間中に休めなかった)、弱点(内角の速球)を攻められたこと、成績下降に伴うフォーム改造、が原因で急速に成績を落とす[6]。最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」[7]と評された。元々は捕手のため強肩で、同年8月16日の9回表には、広島カープの北別府学をライトゴロで一塁アウトにし、その回のサヨナラ勝ちに貢献した。
1989年は背番号を12に変更。 この年はクロマティが復帰したことに加え、前年から在籍のガリクソンが5月から8月まで起用されたため、外国人枠の関係で出場は18試合に終わった。それでも、二軍では.333、15本、57点の成績を残し、ガリクソンが帰国した9月以降は出場機会が増え、日本シリーズでも2試合に先発出場した。
1990年は、ガリクソンに代わって呂と同じ右打ちの外野手マイク・ブラウンが加入したため、さらに出場機会を減らした。二軍では.323、10本、45点の成績を残した。
1991年は、クロマティとブラウンに変わってフィル・ブラッドリーとヘクター・デラクルーズが加入。デラクルーズは育成目的での獲得で二軍での出場がほとんどだったが、呂も二軍生活が中心だった。10月のファーム日本選手権MVP獲得直後に退団。帰国にあたっては、早朝にもかかわらず、羽田空港まで鴻野淳基・上田和明・佐藤洋らチームメイトが見送りに訪れたという[8]。
台湾野球界時代
[編集]1992年に母国台湾の中華職棒でプレーする。呂は大学時代に味全棒球隊から活動経費の支援を受けていたことから、味全ドラゴンズ入りを希望して、選手兼任コーチとして契約。しかし、その後に行われたドラフトで、この契約に反発していた兄弟エレファンツから1位指名を受ける。結局、形式的に兄弟と契約し、味全の選手との交換トレード(三角トレード)で味全へ入団した[9]。台湾マスコミはこの経緯に批判的で、NPBの江川事件を引き合いに出して攻撃した。ところが、開幕戦(味全対統一ライオンズ)に招待されていた元・巨人監督の王貞治が、試合前に呂をグラウンドに連れて行き、握手を交わして激励すると、観衆は万雷の拍手を送る。さらに、呂はこの試合で逆転2点本塁打を放ちいきなりヒーローとなった。王の激励と試合での活躍により、ブーイングは声援に代わってしまったという[10]。
台湾でも持ち前の長打力を遺憾なく発揮し主力打者として活躍した。
1997年に台湾プロ野球が内部分裂し、台湾大聯盟に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受ける。
引退後
[編集]2003年に台湾大聯盟が中華職棒聯盟と合併し、一度は球界を離れざるを得なくなったが、1000万元を聯盟に寄付し球界復帰が認められた。
2006年からは、La Newベアーズの打撃コーチに就いている。またWBCや北京オリンピックの台湾代表チーム(チャイニーズタイペイ)の打撃コーチを務めていた。
2012年に社会人野球チームである台北市成棒隊の監督に就任。2013年には台湾代表チームの監督に就任した。
2014年仁川アジア大会では韓国との決勝戦で敗れたが、準優勝に輝く。
2016年11月20日に台中インターコンチネンタル野球場で開催された「台湾OB選抜 VS 巨人OB選抜 チャリティー試合」では、郭泰源とのバッテリーで代打・王貞治と対戦。打者としては鹿取義隆に打ち取られ同試合最後の打者となった(11-15で巨人OB選抜の勝利)。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988 | 巨人 | 79 | 312 | 274 | 38 | 70 | 12 | 0 | 16 | 130 | 40 | 4 | 5 | 3 | 2 | 32 | 2 | 1 | 43 | 10 | .255 | .333 | .474 | .808 |
1989 | 18 | 41 | 39 | 3 | 11 | 0 | 0 | 2 | 17 | 6 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | .282 | .300 | .436 | .736 | |
1990 | 7 | 14 | 13 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .308 | .357 | .308 | .665 | |
1991 | 9 | 20 | 16 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 7 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | 5 | 0 | .250 | .350 | .438 | .788 | |
1992 | 味全 | 85 | 347 | 287 | 49 | 74 | 15 | 1 | 10 | 121 | 33 | 9 | 3 | 1 | 1 | 57 | 2 | 1 | 38 | 11 | .258 | .382 | .422 | .803 |
1993 | 82 | 342 | 297 | 44 | 87 | 22 | 1 | 7 | 132 | 42 | 6 | 3 | 2 | 1 | 39 | 4 | 3 | 24 | 7 | .293 | .379 | .444 | .824 | |
1994 | 54 | 221 | 196 | 17 | 39 | 7 | 1 | 2 | 54 | 16 | 1 | 4 | 5 | 0 | 20 | 0 | 0 | 31 | 6 | .199 | .273 | .276 | .549 | |
1995 | 88 | 367 | 326 | 60 | 107 | 20 | 0 | 15 | 172 | 50 | 3 | 2 | 2 | 4 | 35 | 2 | 0 | 28 | 5 | .328 | .389 | .528 | .917 | |
1996 | 97 | 415 | 360 | 71 | 122 | 25 | 1 | 16 | 197 | 66 | 13 | 7 | 0 | 4 | 51 | 0 | 0 | 31 | 10 | .339 | .417 | .547 | .964 | |
1997 | 雷公 | 41 | 170 | 153 | 28 | 51 | 8 | 2 | 2 | 69 | 23 | 1 | 0 | 0 | 1 | 15 | 0 | 1 | 23 | 4 | .333 | .394 | .451 | .845 |
1998 | 99 | 423 | 395 | 50 | 119 | 25 | 2 | 5 | 163 | 66 | 2 | 1 | 0 | 5 | 19 | 0 | 4 | 39 | 8 | .301 | .336 | .413 | .748 | |
1999 | 71 | 271 | 255 | 25 | 72 | 15 | 1 | 2 | 95 | 22 | 1 | 1 | 0 | 3 | 12 | 0 | 1 | 22 | 3 | .282 | .314 | .373 | .686 | |
2000 | 78 | 308 | 286 | 36 | 86 | 14 | 6 | 4 | 124 | 29 | 6 | 5 | 1 | 1 | 20 | 0 | 0 | 26 | 8 | .301 | .345 | .434 | .779 | |
NPB:4年 | 113 | 387 | 342 | 41 | 89 | 13 | 1 | 18 | 158 | 49 | 6 | 5 | 4 | 3 | 36 | 2 | 2 | 57 | 12 | .260 | .332 | .462 | .794 | |
CPBL:5年 | 406 | 1692 | 1466 | 241 | 429 | 89 | 4 | 50 | 676 | 207 | 32 | 19 | 10 | 10 | 202 | 8 | 4 | 152 | 39 | .293 | .378 | .461 | .839 | |
TML:4年 | 289 | 1172 | 1089 | 139 | 328 | 62 | 11 | 13 | 451 | 140 | 10 | 7 | 1 | 10 | 66 | 0 | 6 | 110 | 23 | .301 | .342 | .414 | .756 | |
台湾:9年 | 695 | 2864 | 2555 | 380 | 757 | 151 | 15 | 63 | 1127 | 347 | 42 | 26 | 11 | 20 | 268 | 8 | 10 | 262 | 62 | .296 | .363 | .441 | .804 |
表彰
[編集]- NPB
- ジュニア日本選手権MVP:1回 (1991年)
- CPBL
- 月間MVP:1回 (1995年7月)
記録
[編集]- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1988年6月14日、対ヤクルトスワローズ10回戦(明治神宮野球場)、6番・右翼手として先発出場
- 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、1回表にボブ・ギブソンから3ラン ※史上24人目の初打席本塁打
- NPBその他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1988年)
背番号
[編集]- 97 (1988年、2006年 - 2009年)
- 12 (1989年 - 1991年)
- 39 (1992年)
- 1 (1993年 - 2000年)
- 66 (2001年 - 2002年、2004年 - 2005年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 呂明賜 - NPB.jp 日本野球機構
- CPBLでの成績
- 【巨人 豪華助っ人集】"呂 明賜" アジアの大砲 - YouTube(DRAMATIC BASEBALL)