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{{基礎情報 過去の国 |
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{{出典の明記|date=2010年7月}} |
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|略名 = マジャパヒト王国 |
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[[画像:Dynastic Sequence of Singhasari and Majapahit.JPG|thumb|400px|right|シンガサリ=マジャパヒト歴代君主系図]] |
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|日本語国名 = マジャパヒト王国 |
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{{インドネシアの歴史}} |
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|公式国名 = |
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'''マジャパヒト王国'''(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は[[1293年]]から[[1478年]]まで[[ジャワ島]]中東部を中心に栄えた[[インドネシア]]最後の[[ヒンドゥー教]]王国。最盛期にはインドネシア諸島全域と[[マレー半島]]まで勢力下に置いたとの説がある一方、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。なお、表記に「マジャパイト」と書くこともある。綴りは"Majapahit"であるが、ジャワ語では、h音を発音しないからである。 |
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|建国時期 = [[1293年]] |
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|亡国時期 = [[1527年]] |
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|先代1 = シンガサリ王国 |
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|先旗1 = |
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|先代2 = |
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|先旗2 = |
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|次代1 = ドゥマク王国 |
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|次旗1 = |
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|次代2 = バリ王国 |
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|次旗2 = |
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|国旗画像 = Majapahit fictitious flag.svg |
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|国旗リンク = <!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --> |
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|国旗幅 = <!-- 初期値125px --> |
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|国旗縁 = <!-- no と入力すると画像に縁が付かない --> |
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|国章画像 = Surya Majapahit Gold.svg |
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|国章リンク = <!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --> |
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|国章幅 = <!-- 初期値85px --> |
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|標語 = |
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|標語追記 = |
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|国歌 = |
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|国歌追記 = |
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|位置画像 = Majapahit Empire.svg |
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|位置画像説明 = マジャパヒト王国の最盛期の支配領域 |
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|位置画像幅 = <!-- 初期値250px --> |
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|公用語 = 古マレー語、[[サンスクリット|サンスクリット語]] |
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|首都 = マジャパヒト |
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|元首等肩書 = 王 |
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|元首等年代始1 = 1293年 |
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|元首等年代終1 = 1309年 |
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|元首等氏名1 = {{仮リンク|ラデン・ウィジャヤ|en|Raden Wijaya|label=ウィジャヤ}} |
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|元首等年代始2 = 1309年 |
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|元首等年代終2 = 1328年 |
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|元首等氏名2 = {{仮リンク|ジャヤナガラ|en|Jayanegara}} |
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|元首等年代始3 = 1328年 |
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|元首等年代終3 = 1350年 |
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|元首等氏名3 = ラジャパトニ / トリブワナ |
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|元首等年代始4 = 1350年 |
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|元首等年代終4 = 1389年 |
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|元首等氏名4 = ハヤム・ウルク |
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|元首等年代始5 = 1466年 |
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|元首等年代終5 = 1478年 |
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|元首等氏名5 = {{仮リンク|ブラウィジャヤ|id|Brawijaya|label=ブラウィジャヤ5世}}(シンバ・ウィクラマワルダナ) |
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|首相等肩書 = |
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|首相等年代始1 = |
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|首相等年代終1 = |
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|首相等氏名1 = |
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|首相等年代始2 = |
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|首相等年代終2 = |
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|首相等氏名2 = |
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|面積測定時期1 = |
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|面積値1 = |
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|面積測定時期2 = |
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|面積値2 = |
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|人口測定時期1 = |
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|人口値1 = |
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|人口測定時期2 = |
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|人口値2 = |
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|変遷1 = 建国 |
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|変遷年月日1 = 1293年 |
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|変遷2 = 崩壊 |
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|変遷年月日2 = 1527年 |
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|通貨 = |
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|通貨追記 = |
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|時間帯 = |
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|夏時間 = |
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|時間帯追記 = |
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|ccTLD = |
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|ccTLD追記 = |
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|国際電話番号 = |
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|国際電話番号追記 = |
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|注記 = |
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'''マジャパヒト王国'''(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は、[[1293年]]から[[1478年]]まで<ref>アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳『インドネシアの独立と革命』19頁および171頁によれば、[[1292年]]から[[1520年]]まで。</ref>[[ジャワ島]]中東部を中心に栄えた[[インドネシア]]最後の[[ヒンドゥー教]]王国。最盛期にはインドネシア諸島全域と[[マレー半島]]まで勢力下に置いたとの説があるが一方で、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。なお、表記に「マジャパイト」と書くこともある。綴りは"Majapahit"であるが、ジャワ語では、h音を発音しないからである。 |
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== 成立 == |
== 成立 == |
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[[画像:Dynastic Sequence of Singhasari and Majapahit.JPG|thumb|300px|right|シンガサリ=マジャパヒト歴代君主系図]] |
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[[シンガサリ王国]]の{{仮リンク|シンガサリ王国のクルタナガラ|en|Kertanegara of Singhasari|label=クルタナガラ}}王のもとに[[モンゴル帝国]]の[[クビライ]]の使者が来て朝貢を求めたが、その顔に刺青を入れて送り返したので、[[1293年]]に{{仮リンク|モンゴルの遠征軍派遣|en|Mongol invasion of Java}}が行われたが、クルタナガラ王は[[クディリ王国|クディリ王家]]の末裔と呼ばれる当地の領主{{仮リンク|ジャヤカトワン|en|Jayakatwang}}の反乱によって前年[[1292年]]に殺されていた。クルタナガラ王の娘婿であった{{仮リンク|ラデン・ウィジャヤ|en|Raden Wijaya|label=ウィジャヤ}}はジャワ北岸の{{仮リンク|トゥバン|en|Tuban}}に上陸した元軍と同盟して、ジャヤカトワンが乗っ取ったシンガサリ王国を滅ぼし、さらに元軍をジャワから追い出して、[[:id:Aria Wiraraja]]と協力してマジャパヒト王国を建国した。ウィジャヤの即位名をクルタラジャサ=ジャヤワルダナ({{lang|id|Kertarajasa Jayawardhana}})という。王国の都はジャワ島東部プランタス川流域の{{仮リンク|トロウラン|en|Trowulan|label=マジャパヒト}}に置かれた。 |
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[[シンガサリ王国]]の[[クルタナガラ]]王のもとに[[モンゴル帝国]]の[[クビライ]]の使者が来て朝貢を求めたが、クルタナガラ王は使者の顔に刺青を入れて送り返した。この無礼に怒ったクビライにより[[1293年]]に[[モンゴルのジャワ侵攻|モンゴルのジャワ遠征]]が行われた。だがクルタナガラ王は[[クディリ王国|クディリ王家]]の末裔と呼ばれる当地の領主{{仮リンク|ジャヤカトワン|en|Jayakatwang}}の反乱によって、前年[[1292年]]に殺されていた。クルタナガラ王の娘婿であった{{仮リンク|ラデン・ウィジャヤ|en|Raden Wijaya|label=ウィジャヤ}}はジャワ北岸の{{仮リンク|トゥバン (インドネシア)|label=トゥバン|en|Tuban}}に上陸した元軍と同盟して、ジャヤカトワンが乗っ取ったシンガサリ王国を滅ぼした。さらに元軍をジャワから追い出して、{{仮リンク|アルヤ・ウィララジャ|id|Aria Wiraraja|Aria Wiraraja}}と協力してマジャパヒト王国を建国した。ウィジャヤの即位名をクルタラジャサ=ジャヤワルダナ({{lang|id|Kertarajasa Jayawardhana}})という。王国の都はジャワ島東部プランタス川流域の{{仮リンク|トロウラン|en|Trowulan|label=マジャパヒト}}に置かれた。 |
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マジャパヒトと元朝の関係は当然悪化したが、 |
マジャパヒトと元朝の関係は当然悪化したが、クビライが死去すると大きく好転し、1295年から1332年の間に10回の朝貢が行われた。 |
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[[1295年]]、ウィジャヤは |
[[1295年]]、ウィジャヤは建国時の闘争中の約束を守って国を二つに分割し、東部はアルヤ・ウィララジャが治めるようになった。東部の首都は現在のルマジャン([[:id:Kabupaten Lumajang|Lumajang]])にあった。 |
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[[1316年]]、ウィジャヤの息子の{{仮リンク|ジャヤナガラ|en|Jayanegara}}が、 |
[[1316年]]、ウィジャヤの息子の{{仮リンク|ジャヤナガラ|en|Jayanegara}}が、ルマジャンで現職のパティ([[:id:Patih|Patih]]、宰相)であったナンビ([[:id:Nambi|Nambi]])による反乱を鎮圧し、東部と西部は再び統一されたと{{仮リンク|ナーガラクルターガマ|en|Nagarakretagama}}の「{{仮リンク|王統史 (ジャワ)|en|Pararaton|label=王統史}}」に書かれている。 |
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[[1328年]]に{{仮リンク|ジャヤナガラ|en|Jayanegara}}が死去すると後継男子がいなかったので、故クルタナガラ王の末娘ラ |
[[1328年]]に{{仮リンク|ジャヤナガラ|en|Jayanegara}}が死去すると後継男子がいなかったので、故クルタナガラ王の末娘ラジャパトニに後を継がせたが、ラジャパトニは熱心な仏教徒で出家していたので、娘の{{仮リンク|トリブワナ・ウィジャヤトゥンガデウィ|en|Tribhuwana Wijayatunggadewi|label=トリブワナ}}を摂政として政務を執らせた(インドネシアの歴史教科書『インドネシア国史』 (Sejarah Nasional Indonesia) では、トリブワナが王位に登ったとする。)。この頃、親衛隊長から宰相に抜擢された[[ガジャ・マダ]]がマジャパヒト王国を最盛期に導くことになる。 |
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== 最盛期 == |
== 最盛期 == |
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宰相ガジャ・マダは1342年に[[バリ島]]に侵攻したのを皮切りに、インドネシア各地に対する遠征を行い、[[スマトラ島]]の[[シュリーヴィジャヤ王国]]を滅ぼして南海の海上交易ルートを掌中に収めた。 |
宰相ガジャ・マダは1342年に[[バリ島]]に侵攻したのを皮切りに、インドネシア各地に対する遠征を行い、[[スマトラ島]]の[[シュリーヴィジャヤ王国]]を滅ぼして南海の海上交易ルートを掌中に収めた。 |
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最盛期の支配領域はマレー半島の[[パタニ]]やトゥマシク([[シンガポール]])、[[ボルネオ島|カリマンタン島]]に及び、東西交通の要衝である[[マラッカ海峡]]と[[スンダ海峡]]を制圧した。また[[タイ王国|タイ]]の[[アユタヤ王朝]]や[[カンボジア]]、[[ベトナム]]とも友好関係を持った。 |
最盛期の支配領域はマレー半島の[[パタニ]]やトゥマシク([[シンガポール]])、[[ボルネオ島|カリマンタン島]]に及び、東西交通の要衝である[[マラッカ海峡]]と[[スンダ海峡]]を制圧した。また[[タイ王国|タイ]]の[[アユタヤ王朝]]や[[カンボジア]]、[[ベトナム]]とも友好関係を持った。 |
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[[1350年]]、ラ |
[[1350年]]、ラジャパトニが死去するとトリブワナの息子{{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}}がラージャサナガラとして即位した。 |
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[[1357年]]、{{仮リンク|ブバットの戦い|en|Battle of Bubat}}では{{仮リンク|スンダ王国|en|Sunda Kingdom}}を破ったが、両国関係は険悪になった。 |
[[1357年]]、{{仮リンク|ブバットの戦い|en|Battle of Bubat}}では{{仮リンク|スンダ王国|en|Sunda Kingdom}}を破ったが、両国関係は険悪になった。 |
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== 衰亡 == |
== 衰亡 == |
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{{インドネシアの歴史}} |
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「{{仮リンク|王統史 (ジャワ)|en|Pararaton|label=王統史}}」によると、[[1376年]]に新しい王国({{lang|id|gunung baru}})が誕生した。[[明]]の[[:id:Berita Cina|中国年代記]]によると、[[1377年]]にジャワ島の二つの王国から朝貢が行なわれている。西の王国が{{lang|id|Wu-lao-po-wu}}、東の王国が{{lang|id|Wu-lao-wang-chieh}}と記録されている。西の王国は、{{lang|id|Bhra Prabu}}({{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}})が治めていた。一方、東の王国は、[[:id:Dyah Wiyat|Rajadewi]]の夫の{{lang|id|Bhre Wengker}}({{lang|id|Wijayarajasa}})が治めていた。 |
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「{{仮リンク|王統史 (ジャワ)|en|Pararaton|label=王統史}}」によると、[[1376年]]に新しい王国({{lang|id|gunung baru}})が誕生した。「[[明史]]」によると、[[1377年]]にジャワ島の二つの王国から朝貢が行なわれており、西の王が勿労波務、東の王が勿院労網結という名前であったと記録されている。西の王国は、{{lang|id|Bhra Prabu}}(「国王陛下」の意、つまり{{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}}のこと<ref name=A66>青山、p. 66</ref>)が治めていた。一方、東の王国は、ハヤム・ウルクの叔母ディア・ウィヤット([[:id:Dyah Wiyat|Dyah Wiyat]]、ラージャ・デーヴィー)の夫の{{lang|id|Bhre Wengker}}(「ウンクル殿下」の意、つまりウンクル侯ラージャサワルダナのこと<ref name=A66 />)が治めていた。 |
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[[1377年]]、[[ガジャ・マダ]]は既に死んでいたが、マジャパヒト王国は[[パレンバン]]に兵を送り、[[シュリーヴィジャヤ王国]]を滅亡させた。この時、最後の王子{{仮リンク|パラメスワラ (マラッカ王)|en|Parameswara (sultan)|label=パラメスワラ}}が脱出してマレー半島に逃れ、後に[[マラッカ王国]]を建国する。 |
[[1377年]]、[[ガジャ・マダ]]は既に死んでいたが、マジャパヒト王国は[[パレンバン]]に兵を送り、[[シュリーヴィジャヤ王国]]を滅亡させた。この時、最後の王子{{仮リンク|パラメスワラ (マラッカ王)|en|Parameswara (sultan)|label=パラメスワラ}}が脱出してマレー半島に逃れ、後に[[マラッカ王国]]を建国する。 |
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[[1389年]]に{{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}}が死んで、{{仮リンク|ウィクラマワルダナ|en|Wikramawardhana}}が跡を継いだ。[[1398年]]に |
[[1389年]]に{{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}}が死んで、{{仮リンク|ウィクラマワルダナ|en|Wikramawardhana}}が跡を継いだ。一方、東の王国では[[1398年]]にラージャサワルダナが死ぬと、ハヤム・ウルクの庶子でラージャサワルダナの娘インドゥ・デーヴィーの養子となった<ref>深見、p. 306</ref>ウィラブミが跡を継いだ。 |
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[[1404年]]から[[1406年]]にかけて、マジャパヒトの宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦になった({{仮リンク|パルグルグ戦争|id|Perang Paregreg}})。[[中国]]の[[明]]王朝は15世紀前半[[鄭和]]艦隊を7回にわたって南海に派遣し、ジャワのマジャパヒト王国にも来航し、内戦に巻込まれた。鄭和艦隊の保護下に[[マラッカ王国]]が成立すると、[[南海貿易]]の中心はマラッカに移り、マジャパヒト王国はこの趨勢を食い止めることができなかった。 |
[[1404年]]から[[1406年]]にかけて、マジャパヒトの宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦になった({{仮リンク|パルグルグ戦争|id|Perang Paregreg}})。[[中国]]の[[明]]王朝は[[15世紀]]前半[[鄭和]]艦隊を7回にわたって南海に派遣し、ジャワのマジャパヒト王国にも来航し、内戦に巻込まれた。鄭和艦隊の保護下に[[マラッカ王国]]が成立すると、[[南海貿易]]の中心はマラッカに移り、マジャパヒト王国はこの趨勢を食い止めることができなかった。 |
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15世紀以降はイスラム教が浸透して、マラッカ王国がイスラム化したのを始め、[[マタラム王国]]がジャワ北岸のトゥバン、{{仮リンク|グレシク県|en|Gresik Regency|label=グレシク}}などにもイスラム教国が成立する。 |
15世紀以降はイスラム教が浸透して、マラッカ王国がイスラム化したのを始め、[[マタラム王国]]がジャワ北岸のトゥバン、{{仮リンク|グレシク県|en|Gresik Regency|label=グレシク}}などにもイスラム教国が成立する。 |
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マジャパヒト王国でも{{仮リンク|クルタウィジャヤ|id|Kertawijaya}}が、息子の{{仮リンク|ブラウィジャヤ|id|Brawijaya|label=ブラウィジャヤ5世}}(シン |
マジャパヒト王国でも{{仮リンク|クルタウィジャヤ|id|Kertawijaya}}が、息子の{{仮リンク|ブラウィジャヤ|id|Brawijaya|label=ブラウィジャヤ5世}}(シンバ・ウィクラマワルダナ)の妃に[[チャンパ王国]]からムスリムの公主を迎え、内政でもイスラームへの[[改宗]]を容認した。 |
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ブラウィジャヤ5世の息子{{仮リンク|ラデン・パタハ|id|Raden Patah}}が[[ドゥマク王国]]を建国し、[[サムドラ・パサイ王国]]と友好関係を築き、[[ワリ・サンガ]]によるイスラム教布教によって急速に国力を増大した。[[1478年]]、ドゥマク王国はマジャパヒト王国のブラウィジャヤ5世に[[宗主権]]を認めさせた。 |
ブラウィジャヤ5世の息子{{仮リンク|ラデン・パタハ|id|Raden Patah}}が[[ドゥマク王国]]を建国し、[[サムドラ・パサイ王国]]と友好関係を築き、[[ワリ・サンガ]]によるイスラム教布教によって急速に国力を増大した。[[1478年]]、ドゥマク王国はマジャパヒト王国のブラウィジャヤ5世に[[宗主権]]を認めさせた。 |
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==遺跡調査その他== |
==遺跡調査その他== |
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*ジャワ島東部には、マジャパヒト王国の遺跡が見つかっているが、発掘調査は資金や人材不足で進んでいない。遺跡発掘への支援を呼びかけるため、インドネシア政府と日本の民間団体<ref>[http://www.j-majapahit.com/ 日本マジャパヒト協会]</ref>とが当時の技術で木造船を復元した。船は壁画などをもとに、 |
*ジャワ島東部には、マジャパヒト王国の遺跡が見つかっているが、発掘調査は資金や人材不足で進んでいない。遺跡発掘への支援を呼びかけるため、インドネシア政府と日本の民間団体<ref>[http://www.j-majapahit.com/ 日本マジャパヒト協会]{{リンク切れ|date=2019-5}}</ref>とが当時の技術で木造船を復元した。船は壁画などをもとに、釘を使わず作られた帆船である。2010年7月4日、日本人関係者とインドネシア軍の水兵など14人のせた復元木造船が、アジア各国に向けて出航した<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100704/t10015531241000.html NHKニュース]{{リンク切れ|date=2019-5}}</ref>。 |
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*マジャパヒト王国は |
*マジャパヒト王国は[[13世紀]]から[[16世紀]]にかけてインドネシアを中心に栄え、[[琉球王国]]とも交易を行っていた。 |
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==脚注== |
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{{Reflist}} |
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==参考文献== |
==参考文献== |
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*池端雪浦編 『東南アジア史II 島嶼部』山川出版社、1999年 |
*池端雪浦編 『東南アジア史II 島嶼部』 山川出版社、1999年 |
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*大林太良 |
*大林太良(編)『民族の世界史6 東南アジアの民族と歴史』 山川出版社、1984年 |
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*石井米雄・桜井由躬雄 |
*石井米雄・桜井由躬雄 『《ビジュアル版》世界の歴史12 東南アジア世界の形成』 講談社、1985年 |
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*綾部恒雄・石井米雄(編)『もっと知りたいインドネシア(第 |
*綾部恒雄・石井米雄(編)『もっと知りたいインドネシア(第2版)』 弘文堂、1995年 |
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*アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳『インドネシアの独立と革命』龍渓書舎、1973年 |
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*青山亨 「14世紀末における「ジャワ東西分割」の再解釈」『東南アジア-歴史と文化-』 No.21、1992年、pp. 65 - 87 |
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*深見純生 訳 「マジャパヒト諸王伝」 『国際文化論集』 No.29、pp. 305 - 324 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://www.j-majapahit.com/ 日本マジャパヒト協会] |
*[http://www.j-majapahit.com/ 日本マジャパヒト協会] |
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{{Normdaten}} |
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==脚注== |
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{{DEFAULTSORT:ましやはいとおうこく}} |
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[[Category:マレーシアの歴史]] |
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[[Category:インドネシアの歴史]] |
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[[Category:かつて存在したアジアの君主国]] |
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[[Category:港市国家]] |
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2024年6月26日 (水) 08:27時点における最新版
マジャパヒト王国(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は、1293年から1478年まで[1]ジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いたとの説があるが一方で、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。なお、表記に「マジャパイト」と書くこともある。綴りは"Majapahit"であるが、ジャワ語では、h音を発音しないからである。
成立
[編集]シンガサリ王国のクルタナガラ王のもとにモンゴル帝国のクビライの使者が来て朝貢を求めたが、クルタナガラ王は使者の顔に刺青を入れて送り返した。この無礼に怒ったクビライにより1293年にモンゴルのジャワ遠征が行われた。だがクルタナガラ王はクディリ王家の末裔と呼ばれる当地の領主ジャヤカトワンの反乱によって、前年1292年に殺されていた。クルタナガラ王の娘婿であったウィジャヤはジャワ北岸のトゥバンに上陸した元軍と同盟して、ジャヤカトワンが乗っ取ったシンガサリ王国を滅ぼした。さらに元軍をジャワから追い出して、アルヤ・ウィララジャと協力してマジャパヒト王国を建国した。ウィジャヤの即位名をクルタラジャサ=ジャヤワルダナ(Kertarajasa Jayawardhana)という。王国の都はジャワ島東部プランタス川流域のマジャパヒトに置かれた。
マジャパヒトと元朝の関係は当然悪化したが、クビライが死去すると大きく好転し、1295年から1332年の間に10回の朝貢が行われた。
1295年、ウィジャヤは建国時の闘争中の約束を守って国を二つに分割し、東部はアルヤ・ウィララジャが治めるようになった。東部の首都は現在のルマジャン(Lumajang)にあった。
1316年、ウィジャヤの息子のジャヤナガラが、ルマジャンで現職のパティ(Patih、宰相)であったナンビ(Nambi)による反乱を鎮圧し、東部と西部は再び統一されたとナーガラクルターガマの「王統史」に書かれている。
1328年にジャヤナガラが死去すると後継男子がいなかったので、故クルタナガラ王の末娘ラジャパトニに後を継がせたが、ラジャパトニは熱心な仏教徒で出家していたので、娘のトリブワナを摂政として政務を執らせた(インドネシアの歴史教科書『インドネシア国史』 (Sejarah Nasional Indonesia) では、トリブワナが王位に登ったとする。)。この頃、親衛隊長から宰相に抜擢されたガジャ・マダがマジャパヒト王国を最盛期に導くことになる。
最盛期
[編集]宰相ガジャ・マダは1342年にバリ島に侵攻したのを皮切りに、インドネシア各地に対する遠征を行い、スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国を滅ぼして南海の海上交易ルートを掌中に収めた。
最盛期の支配領域はマレー半島のパタニやトゥマシク(シンガポール)、カリマンタン島に及び、東西交通の要衝であるマラッカ海峡とスンダ海峡を制圧した。またタイのアユタヤ王朝やカンボジア、ベトナムとも友好関係を持った。
1350年、ラジャパトニが死去するとトリブワナの息子ハヤム・ウルクがラージャサナガラとして即位した。
1357年、ブバットの戦いではスンダ王国を破ったが、両国関係は険悪になった。
衰亡
[編集]インドネシアの歴史 |
---|
初期王国 |
クタイ王国 (4世紀末-5世紀初め頃) |
タルマヌガラ王国 (358-723) |
スンダ王国 (669-1579) |
シュリーヴィジャヤ王国 (7世紀–14世紀) |
シャイレーンドラ朝 (8世紀–9世紀) |
古マタラム王国 (752–1045) |
クディリ王国 (1045–1221) |
シンガサリ王国 (1222–1292) |
サムドラ・パサイ王国 (1267-1521) |
マジャパヒト王国 (1293–1500) |
イスラーム王朝の勃興 |
マラッカ王国 (1400–1511) |
ドゥマク王国 (1475–1518) |
アチェ王国 (1496–1903) |
バンテン王国 (1526–1813) |
パジャン王国 (1568年-1586) |
マタラム王国 (1500年代-1700年代) |
ヨーロッパ植民地主義 |
オランダ東インド会社 (1602–1800) |
オランダ領東インド (1800–1942) |
インドネシアの形成 |
日本占領下 (1942–1945) |
独立戦争 (1945–1950) |
オランダ・インドネシア円卓会議 (1949) |
インドネシアの独立 |
9月30日事件 (1965–1966) |
「王統史」によると、1376年に新しい王国(gunung baru)が誕生した。「明史」によると、1377年にジャワ島の二つの王国から朝貢が行なわれており、西の王が勿労波務、東の王が勿院労網結という名前であったと記録されている。西の王国は、Bhra Prabu(「国王陛下」の意、つまりハヤム・ウルクのこと[2])が治めていた。一方、東の王国は、ハヤム・ウルクの叔母ディア・ウィヤット(Dyah Wiyat、ラージャ・デーヴィー)の夫のBhre Wengker(「ウンクル殿下」の意、つまりウンクル侯ラージャサワルダナのこと[2])が治めていた。
1377年、ガジャ・マダは既に死んでいたが、マジャパヒト王国はパレンバンに兵を送り、シュリーヴィジャヤ王国を滅亡させた。この時、最後の王子パラメスワラが脱出してマレー半島に逃れ、後にマラッカ王国を建国する。
1389年にハヤム・ウルクが死んで、ウィクラマワルダナが跡を継いだ。一方、東の王国では1398年にラージャサワルダナが死ぬと、ハヤム・ウルクの庶子でラージャサワルダナの娘インドゥ・デーヴィーの養子となった[3]ウィラブミが跡を継いだ。
1404年から1406年にかけて、マジャパヒトの宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦になった(パルグルグ戦争)。中国の明王朝は15世紀前半鄭和艦隊を7回にわたって南海に派遣し、ジャワのマジャパヒト王国にも来航し、内戦に巻込まれた。鄭和艦隊の保護下にマラッカ王国が成立すると、南海貿易の中心はマラッカに移り、マジャパヒト王国はこの趨勢を食い止めることができなかった。
15世紀以降はイスラム教が浸透して、マラッカ王国がイスラム化したのを始め、マタラム王国がジャワ北岸のトゥバン、グレシクなどにもイスラム教国が成立する。
マジャパヒト王国でもクルタウィジャヤが、息子のブラウィジャヤ5世(シンバ・ウィクラマワルダナ)の妃にチャンパ王国からムスリムの公主を迎え、内政でもイスラームへの改宗を容認した。
ブラウィジャヤ5世の息子ラデン・パタハがドゥマク王国を建国し、サムドラ・パサイ王国と友好関係を築き、ワリ・サンガによるイスラム教布教によって急速に国力を増大した。1478年、ドゥマク王国はマジャパヒト王国のブラウィジャヤ5世に宗主権を認めさせた。
遺跡調査その他
[編集]- ジャワ島東部には、マジャパヒト王国の遺跡が見つかっているが、発掘調査は資金や人材不足で進んでいない。遺跡発掘への支援を呼びかけるため、インドネシア政府と日本の民間団体[4]とが当時の技術で木造船を復元した。船は壁画などをもとに、釘を使わず作られた帆船である。2010年7月4日、日本人関係者とインドネシア軍の水兵など14人のせた復元木造船が、アジア各国に向けて出航した[5]。
- マジャパヒト王国は13世紀から16世紀にかけてインドネシアを中心に栄え、琉球王国とも交易を行っていた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 池端雪浦編 『東南アジア史II 島嶼部』 山川出版社、1999年
- 大林太良(編)『民族の世界史6 東南アジアの民族と歴史』 山川出版社、1984年
- 石井米雄・桜井由躬雄 『《ビジュアル版》世界の歴史12 東南アジア世界の形成』 講談社、1985年
- 綾部恒雄・石井米雄(編)『もっと知りたいインドネシア(第2版)』 弘文堂、1995年
- アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳『インドネシアの独立と革命』龍渓書舎、1973年
- 青山亨 「14世紀末における「ジャワ東西分割」の再解釈」『東南アジア-歴史と文化-』 No.21、1992年、pp. 65 - 87
- 深見純生 訳 「マジャパヒト諸王伝」 『国際文化論集』 No.29、pp. 305 - 324