コンテンツにスキップ

「倭国造」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> web.archive.org (www.myj7000.jp-biz.net) (Botによる編集)
戻し:不要と判断。
タグ: 取り消し
 
(6人の利用者による、間の24版が非表示)
1行目: 1行目:
{{日本の氏族
{{日本の氏族
|家名=倭国造
|家名= 倭国造
<!-- |家紋= 家紋の画像 -->
<!-- |家紋= 家紋の画像 -->
|家紋名称=
|家紋名称=
|本姓=[[倭氏]]
|本姓= [[倭氏]]
|家祖=[[珍彦]](宇豆毘古)
|家祖= [[珍彦]](宇豆毘古)
|種別=[[神別]]([[天津神・国津神|地祇]])
|種別= [[神別]]([[天津神・国津神|地祇]])
|出身地=[[吉備国]]([[速吸門]]:古事記)?<br/>[[豊国]]([[速吸門]]:日本書紀)?
|出身地= [[吉備国]]([[速吸門]]:『[[古事記]]』)<br/>[[豊国]]([[速吸門]]:『[[日本書紀]]』)?
|根拠地=[[吉備国]]?<br/>[[豊国]]?<br/>穴磯邑大市長岡岬?<br/>[[大和国]][[城下郡]]大和郷?
|根拠地= 穴磯邑大市長岡岬<br/>[[大和国]][[城下郡]]大和郷
|人物=[[倭吾子籠]]<br/>[[倭手彦]]<br/>[[大和長岡]]
|人物= [[#人物]][[#子孫]]を参照
|支流= [[久比岐国造]]、[[明石国造]]、海氏、青海氏
|支流=
}}
}}
'''倭国造'''(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国([[大和国]])中央部にあたる領域を支配した[[国造]]。'''大倭国造'''や[[大和国造]]を称したともいわれるが不詳
'''倭国造'''(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国([[大和国]])中央部にあたる領域を支配した[[国造]]。'''大倭国造'''や'''大和国造'''とも表記される。


__TOC__
__TOC__
24行目: 24行目:
*『日本書紀』では日向を出発してすぐに出会った椎根津彦(珍彦)が、[[神武東征]]の功により、神武天皇2年に初めて倭国造に任じられたという。
*『日本書紀』では日向を出発してすぐに出会った椎根津彦(珍彦)が、[[神武東征]]の功により、神武天皇2年に初めて倭国造に任じられたという。
*『先代旧事本紀』「国造本紀」では大倭国で出会い、水先案内を行った[[彦火々出見尊]]の孫・椎根津彦命が後に大倭国造に任命されたと伝わる。
*『先代旧事本紀』「国造本紀」では大倭国で出会い、水先案内を行った[[彦火々出見尊]]の孫・椎根津彦命が後に大倭国造に任命されたと伝わる。
*系図史料では'''宇豆毘古'''(うずびこ)とも呼ばれ、'''[[綿津見神]]'''の子・[[布留多摩命]]の御子神とされる。


=== 氏族 ===
=== 氏族 ===
'''[[倭氏]]'''(やまとうじ、姓は[[直 (姓)|直]])で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。[[天武天皇]]10年([[681年]])に[[倭竜麻呂]]が[[連]]姓に、12年に一族が連に、14年に[[忌寸]]姓に、さらに[[奈良時代]]には[[大和長岡]]と水守が[[宿禰]]に昇格した。一般に[[綿津見神|綿積豊玉彦]]の孫とされ、[[神別]]の[[地祇]]に類別される。また[[八木氏]]や[[安曇氏]]と同族とされる、[[海人族]]の一族
'''[[倭氏]]'''(やまとうじ、[[カバネ|]]は[[直 (姓)|直]])で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。[[天武天皇]]10年([[681年]])に[[倭竜麻呂]]が[[連]]姓に、12年に一族が連に、14年に[[忌寸]]姓に、さらに[[奈良時代]]には[[大和長岡]]と水守が[[宿禰]]に昇格した。その遠祖・椎根津彦は伝承よれば[[彦火火出見命]]の孫とされる。後裔に[[久比岐国造]]や[[青海氏]]、[[明石国造]]などがある


なお、和氏は[[百済]]の国王・[[武寧王]]の子孫なので、別系統である。
なお、和氏は[[百済]]の国王・[[武寧王]]の子孫なので、別系統である。
40行目: 39行目:
*'''[[大和坐大国魂神社]]'''(やまとにますおおくにたまじんじゃ、[[大和神社]])
*'''[[大和坐大国魂神社]]'''(やまとにますおおくにたまじんじゃ、[[大和神社]])
*:あるいは、[[大和大国魂神社]]。斎主だった皇女[[渟名城入媛命|渟名城入姫]]は、髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなり、崇神天皇7年([[紀元前91年]])に[[倭迹迹日百襲媛命]]が夢で「市磯長尾市をもって、[[倭大国魂神]]を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受け、[[垂仁天皇|垂仁]]朝に[[市磯長尾市]]が[[倭大国魂神]]を祭って創建された。
*:あるいは、[[大和大国魂神社]]。斎主だった皇女[[渟名城入媛命|渟名城入姫]]は、髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなり、崇神天皇7年([[紀元前91年]])に[[倭迹迹日百襲媛命]]が夢で「市磯長尾市をもって、[[倭大国魂神]]を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受け、[[垂仁天皇|垂仁]]朝に[[市磯長尾市]]が[[倭大国魂神]]を祭って創建された。

=== 墓 ===
*'''[[中山大塚古墳]]'''
*:古墳時代初頭に築造された[[前方後円墳]]で、その被葬者として[[御物宿禰]]が想定される。
*'''[[波多塚古墳]]'''
*:古墳時代前期に築造された[[前方後方墳]]で、その被葬者として[[市磯長尾市]]が想定される。
*'''[[下池山古墳]]'''
*:古墳時代前期に築造された前方後方墳で、その被葬者として[[五十野宿禰]]が想定される。


== 人物 ==
== 人物 ==
* '''[[御物宿禰]]'''
* '''[[御物宿禰]]'''(みもののすくね)
*:[[古墳時代]]の人物で[[崇神天皇|崇神朝]]の国造。
*:[[古墳時代]]の人物で[[崇神天皇|崇神朝]]の国造。[[椎根津彦]]の5世孫
* '''[[市磯長尾市]]'''
* '''[[市磯長尾市]]'''(いちしのながおち)
*:古墳時代の人物で[[垂仁天皇|垂仁朝]]の国造。御物宿禰の子
*:古墳時代の人物で[[垂仁天皇|垂仁朝]]の国造。
* '''[[五十野宿禰]]'''
* '''[[倭吾子籠]]'''(やまとのあごこ)
*:古墳時代の人物。市磯長尾市の子。
* '''[[倭吾]]'''
*:古墳時代の人物で[[仁徳天皇|仁徳朝]]から[[雄略天皇|雄略朝]]の国造。皇位継承争いに絡んで[[履中天皇]]に殺されかけたが、妹の[[日之媛]]を[[釆女]]として献上したことによって助命された。以後、倭氏は大王家に釆女を献上することが恒例になった。
*:古墳時代の人物で[[仁徳天皇|仁徳朝]]から[[雄略天皇|雄略朝]]の国造。皇位継承争いに絡んで[[履中天皇]]に殺されかけたが、妹の[[日之媛]]を[[釆女]]として献上したことによって助命された。以後、倭氏は大王家に釆女を献上することが恒例になった。
* '''[[倭手彦]]'''
* '''[[倭手彦|手彦直]]'''(てひこのあたい)
*:古墳時代の将軍で[[欽明天皇|欽明朝]]の国造。対[[新羅]]戦で活躍した。
*:古墳時代の将軍で[[欽明天皇|欽明朝]]の国造。対[[新羅]]戦で活躍した。


== 子孫 ==
== 子孫 ==
* [[大倭五百足]]
* [[大倭五百足]]
*:[[大倭竜麻呂]]の子とする系図がある(鈴木真年『百家系図稿』巻21)。大倭國造・氏上、刑部少輔。
* [[大和長岡]]
* [[大和長岡]]
*:[[奈良時代]]の法律家。大倭五百足(いおたり)の子。『[[養老律令]]』撰定に関与した。初名は大倭忌寸小東人。のち大倭宿禰、大養徳宿禰、再び大倭宿禰を経て、大和宿禰長岡。刑部少輔、民部大輔兼坤宮大忠、摂津亮・三河守・河内守、西海道巡察使次官、左京大夫。大和國造、正四位下。刪定律令編纂。
*:[[奈良時代]]の法律家。『[[養老律令]]』撰定に関与した。初名は大倭忌寸小東人。のち大倭宿禰、大養徳宿禰、再び大倭宿禰を経て、大和宿禰長岡。刑部少輔、民部大輔兼坤宮大忠、摂津亮・三河守・河内守、西海道巡察使次官、左京大夫。大和國造、正四位下。刪定律令編纂。
* [[大和舘子]]
* [[大和舘子]]
*:仁明朝の掌侍。朝臣姓を賜う。のち典侍・従四位上。
*:仁明朝の掌侍。朝臣姓を賜う。のち典侍・従四位上。

== 系譜 ==


== 脚注 ==
== 脚注 ==
80行目: 86行目:


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/20100528074836/http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02140.htm 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 大倭国造]
* [https://web.archive.org/web/20100528074836/http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02140.htm 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 大倭国造]


{{DEFAULTSORT:やまとのくにのみやつこ}}
{{DEFAULTSORT:やまとのくにのみやつこ}}

2024年4月17日 (水) 12:23時点における最新版

倭国造
本姓 倭氏
家祖 珍彦(宇豆毘古)
種別 神別地祇
出身地 吉備国速吸門:『古事記』)
豊国速吸門:『日本書紀』)?
主な根拠地 穴磯邑大市長岡岬
大和国城下郡大和郷
著名な人物 #人物#子孫を参照
支流、分家 久比岐国造明石国造、海氏、青海氏
凡例 / Category:日本の氏族

倭国造(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国(大和国)中央部にあたる領域を支配した国造大倭国造大和国造とも表記される。

概要

[編集]

表記

[編集]

古事記』、『日本書紀』では倭国造、『先代旧事本紀』「国造本紀」では大倭国造と表記される。

祖先

[編集]
  • 『古事記』では若御毛沼命吉備国の高嶋宮を出発した後、速吸門[注釈 1]で出会い、水先案内や献策などを行った国津神槁根津日子を倭国造に任命したとされる。
  • 『日本書紀』では日向を出発してすぐに出会った椎根津彦(珍彦)が、神武東征の功により、神武天皇2年に初めて倭国造に任じられたという。
  • 『先代旧事本紀』「国造本紀」では大倭国で出会い、水先案内を行った彦火々出見尊の孫・椎根津彦命が後に大倭国造に任命されたと伝わる。

氏族

[編集]

倭氏(やまとうじ、)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。その遠祖・椎根津彦は伝承によれば彦火火出見命の子孫とされる。後裔に久比岐国造青海氏明石国造などがある。

なお、和氏は百済の国王・武寧王の子孫なので、別系統である。

本拠

[編集]

穴磯邑大市長岡岬(大和神社旧社地)か。

支配領域

[編集]

国造の支配領域は当時倭国と呼ばれていた地域で、後の大和国城下郡大和郷、現在の奈良県天理市周辺にあたる。6~7世紀には磯城・十市地方(奈良盆地東部)も支配していたという。

氏神

[編集]

[編集]

人物

[編集]

子孫

[編集]
  • 大倭五百足
  • 大和長岡
    奈良時代の法律家。『養老律令』撰定に関与した。初名は大倭忌寸小東人。のち大倭宿禰、大養徳宿禰、再び大倭宿禰を経て、大和宿禰長岡。刑部少輔、民部大輔兼坤宮大忠、摂津亮・三河守・河内守、西海道巡察使次官、左京大夫。大和國造、正四位下。刪定律令編纂。
  • 大和舘子
    仁明朝の掌侍。朝臣姓を賜う。のち典侍・従四位上。

系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 豊予海峡、明石海峡、吉備等と考えられる。

関連項目

[編集]

出典

[編集]

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]