Wikipedia:空が青いということに出典は要らない

それで、一体あなたは何を検証したいのでしょうか?

検証可能性はウィキペディアの柱となるきわめて重要な方針です。ウィキペディアの記事は、常にその内容について信頼できる情報源をもとにしていることが確認可能な状態である必要があります。つまり記事の内容や記述の仕方は、学術論文の形で提示されたり世間知として一般化されていなければなりません。その意味において、出典がフリー百科事典としてのウィキペディアの価値を大いに高めることは間違いありません。

しかし、ウィキペディアにおける出典とは何よりも情報を検証するための手段である、ということをほとんど理解していない編集者は珍しくないようです。つまり、編集合戦をするなかで特定の観点を押しつけたり、補強したり、あるいは疑問を投げかけるための道具こそが出典であるかのように考えがちですし、ひいては出典をめぐって、避けるべき妨害的編集の一歩手前に行き着くケースさえ見受けられます。理想論だけでいえば、すべてを常識で判断するべきなのでしょうが、ウィキペディアの歴史が証明するところではそんなやり方は非現実的もいいところです。そこで、この私論ではなるべく実践的なアドバイスをしてみたいと思います。

知識自慢あるいは教えたがり

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往々にしてウィキペディアの編集者が記事の中身に出典を要求するのは、単にそこに書かれた情報が気にくわなかったり別の情報を書き込みたい時であって、ある情報を何らかの形で検証する必要があるからではありません。例えば過去には、ほとんどの人の手は左右どちらも5本指であるという記述に出典が要求されたことさえあります(ええ、これは本当にあったことです[1])。 それなら別の編集者が、空の色は実際には青色というよりむしろ水色であるという信念から、分光分析やカラーチャートといった検証のための道具を取り揃えて自分の見解が正しいことを示そうとし、空は実際に青いという元々の記述を維持するためには自分以外の編集者が自分と同じくらい信頼できる情報源を提示する必要があると言い出すことだってありえます。この種の衒学的な議論が必要になったり役に立つ場合もありますが、多くの場合それは単なる問題行動であって、言うまでもないほど明らかな記述をわざわざ検証する必要はない、と単純に指摘するだけで反論としては十分です。検証可能性以外の方針やガイドラインに従って記事に取り入れるに値する代替案が示されたのであれば、もちろん記事には取り入れるべきでしょう。だとしてもこの記述は出典付だから他の記述より目立たせるべきだ、なんて話はありえませんよね。

タグ爆撃

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ウィキペディアには、検証を必要とする記事だというタグをつけるためのテンプレートがいくつも用意されています。特定の行や節単位で貼るためのインラインテンプレートから記事全体を対象として貼るテンプレートまで様々です(Wikipedia:主要なテンプレートを参照してみてください)。だから時として、ある記事に立ち寄った編集者が山のようなインラインテンプレートを記事に追加するだけでなく、節単位、記事単位でテンプレートを貼りつけタグだらけにして、まったく読めたものではなくしてしまうことがあります(Wikipedia:タグ爆撃)。一般論ですが、ある記事の文章にインラインで貼るべきタグは2個か3個が上限で、それ以上のタグが貼られていたら除去して節単位のタグに変更するべきですし、一つの節にタグが2個以上ついているのであれば、これも除去して「複数の問題」タグが1個貼られている状態にするべきです。節単位でタグが2個も3個もついている場合は、これらのタグは除去して記事全体を対象にしたテンプレートによってタグ付けをするべきです。

検証を求めるタグは腕ずくで解決する方法として用いられるべきではありません。これらのタグは記事の問題点をわかりやすく説明するために必要な場合にのみ使用し、詳細についてはノートで議論をするようにして下さい。

脚注過剰

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出典は量ではなく質によって評価されるべきです。つまり、その出典がどんな価値を記事にもたらしているのかこそが重要なのです。文章の検証性を補強するための出典が1つか2つであれば有益ですが、それ以上の数の出典がつけられていても何だか喧嘩腰にさえ感じられないでしょうか。出典をつける目的は、記事で展開されている見解について読者が自身で外部の情報源にあたり検証できるようにすることであって、自分以外の編集者にその見解のパワフルさを示すことではない、ということを忘れないでください。ある見解に対して一定量以上の情報源を示したい場合は「関連項目」や「参考文献」、「外部リンク」などのセクションを活用すべきであって、本文に引用して、ことさらに明示する必要はありません。

完璧主義

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記事の品質を向上させたい時、特に良質な記事を目指している時には、あらゆる文章にインラインで出典をつけなければならない、という考え方にとらわれがちです。だからといって律儀に出典を追加していっても「3つめのパラグラフの文末に出典がない」というコメントを呼び込むだけなのは目に見えています(しかも、それの何が問題なのかは示されないまま!)。もしあなたがそんな間違った完璧主義にとらわれてしまった時には、出典をつける手を休めてWikipedia:良質な記事の「良質な記事の基準」を再読することをお勧めします。そこには果たして、句点があるごとに、そこに何が書かれていようと出典をつけなければいけないといったことが書かれていたでしょうか。

脚注

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関連項目

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