鷹島 (長崎県)
鷹島(たかしま)は、伊万里湾口にある島。全島が松浦市[2]に属する。
鷹島 | |
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鷹島東岸(神崎免)周辺 | |
所在地 | 日本(長崎県) |
所在海域 | 玄界灘、伊万里湾 |
座標 | 北緯33度26分2.5秒 東経129度45分21.2秒 / 北緯33.434028度 東経129.755889度座標: 北緯33度26分2.5秒 東経129度45分21.2秒 / 北緯33.434028度 東経129.755889度 |
面積 | 16.18[1] km² |
最高標高 | 牧ノ岳:117 m |
プロジェクト 地形 |
地理
編集概要
編集東西約5km、南北約13km。島の南北にほぼ同じ標高の山がある(南部:牧ノ岳(117m)、北部:宮地岳(116.6m))。
地盤は第三紀砂岩層を基礎としその上に平均標高約50mの玄武岩の溶岩台地が載る。海岸線は多くリアス式海岸をなし、海食崖もみられる。
産業
編集主な産業は農業と漁業。台地上は比較的平坦で農耕地に利用されている。また、溶岩台地を構成する玄武岩から切り出される石材は「阿翁石」と称され、主に北部九州において墓石として用いられている。
交通
編集島へのアクセス
編集島の東端部と佐賀県唐津市肥前町との間の日比水道に鷹島肥前大橋が建設され、2009年(平成21年)4月18日に開通した。これによりバスまたは自家用車などを用い、陸路で島へ直接アクセスできるようになった。昭和自動車により唐津市肥前町(入野)と鷹島(鷹島支所・阿翁浦)を結ぶ路線バスが運行されている。入野で乗り換えることにより、唐津市中心部や玄海町と鷹島の間を路線バスで移動することも可能である。
島内で定期フェリーが発着する港は島北部の阿翁(あおう)港、島中央部南側の殿ノ浦(とののうら)港、島南西部の船唐津(ふなとうづ)港の3か所である。島発着の定期フェリーとして、松浦市今福港(最寄り駅は松浦鉄道鷹島口駅)と殿ノ浦港を飛島経由で結ぶ航路と、松浦市御厨港(最寄り駅は松浦鉄道御厨駅)と船唐津・阿翁港を青島・黒島経由で結ぶ航路がある。いずれも鷹島汽船が運航する。鷹島肥前大橋開通以前には唐津市肥前町の星賀港と鷹島の日比港の間を結ぶ松尾フェリーが運航する航路もあった。
島内交通
編集上記の昭和自動車の路線バスが島中部・北部を通っており、島内のみの利用も可能である。
ほかに、鷹島タクシーが予約制乗合タクシーを運行している。予約に応じて定期船に合わせたダイヤで運行する。島内のみの利用も可能。2014年4月30日までは旧鷹島町から引き継いだ松浦市営バスが路線バスを運行していた。
名所・観光スポット
編集- 広久山 満福寺跡:松浦久が開山。子の直が父を祀るため創建した今宮神社、元寇で活躍した第14代 松浦答の墓および共に戦死した者を弔う五輪塔・宝筐印塔がある[4] [5]。
- 鷹島モンゴル村
- 元寇遺跡
- 白浜海水浴場
- 龍面庵:1281年弘安の役で鎮西奉行少弐経資の弟、少弐景資が本陣を構えたところと伝えられている。
- 対馬小太郎の墓:文永の役の際、対馬から元軍の襲来を大宰府へ報告するという使命を果たし、鷹島襲撃の知らせに少弐景資の配下として奮戦中、自刃した。「我が屍を埋めるに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と言い残したので、鷹島から対馬を望む地に祭られている。
- 開田の七人塚(悲墳塚):「ニワトリがいるなら人も住んでいるはずだ」と元軍は山の中を捜し一軒家を発見。8人家族のうち7人が殺され、灰だめに隠れていたお婆さん1人が助かった。以来、開田ではニワトリを飼わないと伝えられている。
元寇終焉の地
編集鷹島は2度の元寇と深いかかわりを持つ。文永の役では元軍が鷹島に上陸して住民を虐殺している。
続く、弘安の役では平戸島から鷹島に進出してきた元軍に対して、集結した日本軍が攻撃を仕掛けて海戦となる(鷹島沖海戦)。
『心史』によれば、元軍は鷹島に上陸すると、日本軍の襲来に備えて、塁を築いて防備を固めたとされる。当初、平戸島から太宰府目指して進撃する計画を立てていた元軍であったが、『元史』相威伝によれば、躊躇して進撃できなかったという。このような中、台風が襲来し元軍は大損害を被った。元軍諸将は軍議を開き、継戦か撤退か議論し、最終的に撤退に決する。
諸将は頑丈な船を選び、兵卒を船から無理矢理下ろすと、乗船して兵卒を見捨て逃走した。鷹島に残された約10万の元軍は船を建造して撤退することにする。ところが鷹島に日本軍が襲来し、元軍は2、3万の捕虜を出し壊滅した(鷹島掃蕩戦)。鷹島には、この鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、首除(くびのき)・首崎・血崎・血浦・刀の元・胴代・死浦・地獄谷・遠矢の原・前生死岩・後生死岩・供養の元・伊野利(祈り)の浜などの地名に名残をとどめている。
この際に沈没した元軍船を巡って水中考古学の立場から調査が行われ、パスパ文字で作成された「管軍総把印」を始め船舶に関する遺物や武器・武具などが多く発見されており、遺物がある南岸一帯(汀線から沖合200m、延長7.5km)は埋蔵文化財包蔵地として周知されている[6]。その一部は「元寇終焉の地」として松浦市立鷹島歴史民俗資料館や鷹島埋蔵文化財センターで見ることができる。
また、2011年には琉球大学教授池田榮史によって海底遺跡(鷹島神崎遺跡)の発掘調査が行われ、沈没した軍船の竜骨と外板が初めて発見された[7]。
2024年10月11日、長崎県松浦市教育委員会は、鷹島沖の海底遺跡で2023年秋、見つかった船の一部とみられる木材が元寇で沈没したモンゴル(元)軍の船と確認した、と発表した。同じ場所からは、短刀や陶磁器類も出土した[8]。
脚注・出典
編集- ^ “第8表 島しょ一覧”. 長崎県. 2018年3月19日閲覧。
- ^ 2005年12月31日までは北松浦郡鷹島町。
- ^ 鎌田泰彦, 近藤寛, 堤由美子「九州北西部伊万里湾・大村湾の底質とCHN組成」『長崎大学教育学部自然科学研究報告』第31巻、長崎大学教育学部、1980年、63-82頁、ISSN 0386-443X、NAID 120006972349、2022年8月17日閲覧。
- ^ “今宮神社・広久山満福寺”. 松恋_松浦市の観光情報サイト~松浦のうみ、ひと、まちに恋~
- ^ “広久山満福寺跡”. 松浦市教育委員会
- ^ 長崎県|遺跡大辞典
- ^ 鷹島海底遺跡で元の軍船発見!! - 松浦市
- ^ “元寇の沈没船を発見 長崎沖海底遺跡から3隻目 短刀や陶磁器も出土:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞. 2024年10月11日閲覧。
参考文献
編集- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 42 長崎県』角川書店、1987年 ISBN 9784040014203
- 瀬野精一郎「鷹島」『国史大辞典 15』吉川弘文館、1996年 ISBN 9784642005159
- 鷹島歴史民俗資料館の展示物