馬愉
生涯
編集馬士賢と劉氏のあいだの子として生まれた。1427年(宣徳2年)、進士及第を賜り、状元となった。翰林院修撰に任じられた。1434年(宣徳9年)秋、特別な選抜で史官と庶吉士37人が文淵閣に進学することになると、馬愉はその首席となった。1436年(正統元年)、経筵講官とされた。1437年(正統2年)、侍読学士となった。1438年(正統3年)、侍講学士となった。楊栄が引退を望み、後任として苗衷・曹鼐・馬愉が推薦された。1440年(正統5年)2月、馬愉は侍講学士のまま内閣に入り、枢機に参与した。1445年(正統10年)10月、礼部右侍郎に進んだ。1446年(正統11年)3月、帰省した[1]。1447年(正統12年)9月乙未、死去した[2]。享年は53。翰林院学士・資善大夫・礼部尚書の位を追贈された。諡は襄敏といった。著書に『澹軒文集』8巻があった。
馬愉墓
編集馬愉の墓は臨朐県東城街道朱位村にある。
子女
編集- 馬徴(字は廷召、号は敬斎、汜水知県)
- 馬徽(河南布政司検校)
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻148 列伝第36
- 贈学士礼部尚書馬公神道碑銘(馬愉神道碑)
- 礼部侍郎兼翰林侍講学士贈翰林学士礼部尚書馬公墓誌銘(馬愉墓誌)