阿島傘
阿島傘の伝承
編集阿島傘の由来は、江戸時代中期に幕府の旗本で、慶長6年(1601年)以来江戸幕府の命で浪合の関所を守っていた知久氏が知行していた信濃国伊那郡阿島村(現代の喬木村)において、ある春の日に当地を訪れた僧侶が阿島氏の関所の前で倒れ、関守がこれを看病したため、その謝礼として和傘の製法を伝え、知久氏の家臣の内職として奨励され、やがて農家の副業として今日の喬木村の特産物となったというものである。
知行していた知久氏は、阿島傘を製作するうえで必要な材料の全てが知行地内に産することに着目し、この地の産業として普及に努めた。阿島傘の精度は高く、名声はしだいに遠隔の地まで届くようになった。
大正時代には家内工業として発展し、最盛期には100戸ほどで年間30万本が製作された。昭和に入ると生産地の不況と産地間競争、戦後は洋傘の普及によって次第に生産本数を減らし、現在ではわずかに1軒を残すのみで、3000本程度の年間出荷量である。
「阿島傘の会」は、阿島傘の研究、伝承、保存活動を進めており、会員は50人ほど。同地区にある阿島傘伝承館の展示や管理をしている。
その他
編集脚注
編集- ^ 長野県商工会連合会 公式サイト 「信州我が市町村、日本一自慢」(2005年12月28日、Internet Archive)
- ^ 喬木村公式サイト「阿島傘伝承館・資料館」案内(写真2枚目の右上の傘)
参考文献
編集- 『長野県百科事典』(1974年 信濃毎日新聞社)