関実忠
関 実忠(せき さねただ、旧字:關實忠)は、鎌倉時代前期の武士、御内人。
時代 | 鎌倉時代前期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 文永2年(1265年)[1] |
別名 | 関大夫[2] |
官位 | 左近衛将監[2] |
主君 | 北条泰時 |
氏族 | 関氏 (旧字:關氏) |
父母 | 父:平盛国?[注 1][4][5][2]、平国房?[2]平資盛 |
兄弟 | 実忠、平盛綱[6] |
子 | 盛忠、盛秀、盛行[注 2][7]、資実 |
生涯
編集中世から近世に伊勢国で繁栄した関氏(關氏)の祖とみなされる。『系図纂要』では平盛綱の兄弟としており、ともに北条泰時の側近となっている。元久元年(1204年)の三日平氏の乱の平定に功があり、伊勢鈴鹿郡関谷の地頭職を与えられて、関氏を名乗るようになったという[4][8][9]。祖父とされる平資盛が流された平家累代の領地も伊勢鈴鹿郡久我荘である。
『吾妻鏡』の各所に関左近大夫将監実忠の名で、平盛綱ら北条氏重臣とともに記述されており、当時、鎌倉にあって、北条氏の重臣として活躍してたものと推察されている。承久3年(1221年)の承久の乱においては、北条泰時に従って上洛した18騎[10]のうちの一人として、兄弟とされる盛綱とともに『吾妻鏡』に記載が見られ、判官代という官位名で登場しており、主力となる東海道軍に加わり、宇治川の戦いでは北条時氏の軍にあって先駆けの功があったという[11]。貞応3年(1224年)に北条義時が死去すると、泰時は世情の混乱を回避するために私的な交際を避け、側近の平盛綱、尾藤景綱らわずかな近臣のみを側に置いたが、その中に実忠も含まれている[12]。同年の伊賀氏事件では泰時の側近として働いた[13]。『吾妻鏡』に尾藤景綱とともに泰時邸の郭内に邸宅を構えたとの記述がある[14](梶川貴子は、この泰時の邸郭内の実忠の宅は平盛綱に引き継がれた可能性が高いと見ている[15])。
宝治年間ころに領国に下り、初め久我(現亀山市関町)に館を構えた。後に地の利を求めて居を移そうとしたが、板渕氏の抵抗にあったため一旦山下(現亀山市山下町)を経て[16][17]、文永元年(1264年)に板渕氏と和睦して若山(現亀山市若山町)に移ったとされるが、これが後の亀山城の原型という[18][17][19]。
なお蒲生氏郷の家臣神戸政房が伊勢の諸家の記録を読み、子の神戸良政が地元の老人に聞き込みを行った上で編纂し、比較的信頼性が高い資料とされる伊勢の軍記物『勢州軍記』の序章に伊勢国の諸家に関する記載があり、関一党については、六波羅太政大臣平清盛の後胤で、幕紋は上羽蝶、世に言う殿下乗合事件で、13歳から6年間、平資盛が伊勢鈴鹿郡久我荘に流されており、伊勢・伊賀は平家累代の領地で、住人、平家一族、諸侍にもてはやされ、この時期に生まれた資盛の子が平実忠と盛綱兄弟の父である平盛国であり、その後、盛国は源頼朝の平氏追討軍に捕えられたが、平重盛に恩義を感じていた頼朝が助け、北条時政に預けられ、北条氏に仕えるようになり、盛国の長男の実忠は建仁4年の平家の謀叛(1204年の三日平氏の乱)の後、伊勢鈴鹿郡関谷の地頭職を与えられて関氏の祖となり、北条家与力となって鎌倉に住み、その弟の三郎左衛門尉盛綱は北条家の執事となり権威をふるい、北条家内管領長崎氏の祖となった旨が記されている。頼朝が池禅尼と重盛に恩義を感じていた事は、平頼盛が頼朝に厚遇された事や、平忠房が小松氏(重盛)旧恩により、助命されたエピソードで確認できる[20]。『系図纂要』にも寿永3年(1184年)に頼朝が小松氏旧恩のため北条氏に預けた旨が記載されている(『系図纂要』平盛国 関谷太夫 生于伊勢国鈴鹿郡久我庄 寿永三年平氏没落之時頼朝卿為報小松氏旧恩殊命預. 盛国於北条氏. 後薙髪号夢全. )。ただしいずれも時代がはるかに下った戦国時代から江戸時代の記録であることには注意を要する。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 柴田 1973, p. 14.
- ^ a b c d 『大日本史料』4-8, p. 87.
- ^ 『大日本史料』4-1, pp. 500–503.
- ^ a b 『三重県の地名』, §鈴鹿郡.
- ^ 『大日本史料』4-1, pp. 504–505.
- ^ 奥富 1989.
- ^ 太田 1963, §関-5.
- ^ 『三重県の地名』, §久我村.
- ^ 『大日本史料』4-8, p. 90.
- ^ 『吾妻鏡』に記載される18騎は、北条時氏(泰時長男)、北条有時(義時四男)、北条実義(義時六男)、尾藤景綱(左近将監)、関実忠(判官代)、平盛綱(兵衛尉)、南条時員、安東藤内(左衛門尉)、伊具盛重、武村次郎(兵衛尉)、佐久間家盛、葛山小次郎、勅使河原則直、横溝資重、安藤左近将監、塩河中務丞、内島忠俊に泰時を加えた18騎。
- ^ 柴田 1973, p. 12.
- ^ 『大日本史料』5-2, p. 360.
- ^ 『大日本史料』5-2, p. 362.
- ^ 『大日本史料』5-2, p. 344.
- ^ 梶川貴子は、元仁元年(1224年)6月18日に義時が死去し、6月27日に泰時が鎌倉の邸宅(小町通り西北)に移った際の『吾妻鏡』の記事に、関実忠と尾藤景綱両人の宅がこの郭内にあったとあり、この時点では泰時の被官の中心は実忠と景綱と考えられるが、実忠は北条政子の御前で行われた伊賀氏一族の処分についての条が終出となり、同年閏7月3日、泰時は「家令(後見)」に尾藤景綱を任命し、8月28日には景綱とともに平盛綱が「家務条々」の制定にあたっていることから、実忠の地位に平盛綱がおさまっていることがうかがえるとしている。また嘉禄2年(1226年)12月13日には、政所前からの失火により、尾藤景綱と平盛綱らの家が焼亡しており、泰時邸郭内の実忠の宅も、盛綱に引き継がれた可能性が高いと見ている。
- ^ 『三重県の地名』, §関実忠館跡.
- ^ a b 柴田 1973, pp. 13–14.
- ^ 家令 1983.
- ^ 『三重県の地名』, §若山城跡.
- ^ 忠房については『吾妻鏡』の文治元年(1185年)12月17日の項には「小松内府息丹後侍從忠房。後藤兵衛尉基淸預之。」とあり、後藤基清が囚人として身元を預かったと書かれているが、『吉記』では、文治元年(1185年)12月8日の項に「同日、小松内府息忠房招引関東事」とあり、16日に「忠房被切首事」との記述がある。『平家物語』では、平家の残党が忠房の元に集い、3ヶ月の篭城という徹底抗戦するも、「重盛には旧恩があり、その息子は助命する」という頼朝の偽りの誘いを受けて降人となり、鎌倉に出頭する。頼朝に面会した後、京に送還されるが、その途上の近江の勢多で斬られたとある。忠房と共に戦い、平家の残党として著名な平盛嗣、平忠光、藤原景清らは、頼朝を倒す機会を窺い再び潜伏している。重盛の孫にあたる平高清(六代)は文覚の嘆願もあり、頼朝に助命されている。
参考文献
編集- 家令俊雄 著「亀山城」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 3巻、吉川弘文館、1983年。ISBN 9784642005036。
- 奥富敬之 著「長崎氏」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 10巻、吉川弘文館、1989年。ISBN 9784642005104。
- 平松令三 編『三重県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1983年。ISBN 9784582910391。
- 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年。ISBN 9784040302003。
- 柴田厚二郎 編『鈴鹿郡野史』名著出版、1973年。
- 『大日本史料 第四編』 1巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 9784130901512。
- 『大日本史料 第四編』 8巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 9784130901581。
- 『大日本史料 第五編』 2巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 9784130902021。