鄒幹
生涯
編集鄒済と薛氏のあいだの子として生まれた。皇太子朱高熾が監国したときと、鄒幹は応天府学生となった。1439年(正統4年)、進士に及第した。兵部職方司主事に任じられた。1449年(正統14年)10月、兵部武選郎中から兵部右侍郎に抜擢された[1]。その才能のため于謙から頼りにされた。オイラトのエセン・ハーンが北京を包囲すると、北京城の九門は全て閉ざされた。このとき避難民が入城を求めたため、鄒幹は城門を開いてかれらを入城させた。
1451年(景泰2年)12月、鄒幹は礼部右侍郎に転じた。1452年(景泰3年)、左春坊左庶子を兼ね、山西の官吏を考査監察した[2]。布政使の侯復以下五十数人を降格させた。河南と鳳陽の洪水被害を巡視し、王竑とともに振恤を請願した。また諸生に命じて穀物の輸送と納入を監視させるよう請願した。1466年(成化2年)、北京周辺で飢饉が起こると、畿内を巡視して振恤にあたった。
1467年(成化3年)9月、鄒幹は南京礼部尚書に任じられた。1469年(成化5年)8月、礼部尚書となった。1478年(成化14年)2月、太子少保の位を加えられた。1479年(成化15年)12月、弾劾を受けて帰休を請願し、致仕した。1492年(弘治5年)4月、死去した[3]。享年は84。太子太保の位を追贈された。諡は康靖といった。
子女
編集- 鄒煜(長男)
- 鄒煥(次男)
- 鄒氏(長女、葛某にとついだ)
- 鄒氏(次女、鴻臚寺序班の蘇和にとついだ)
- 鄒氏(三女、処州衛指揮使の牛洪にとついだ)