白浜仁吉
白浜 仁吉(しらはま にきち、1908年8月1日 - 1985年1月4日[1])は、日本の政治家。位階は正三位。
白浜仁吉 しらはま にきち | |
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生年月日 | 1908年8月1日 |
出生地 | 日本 長崎県南松浦郡若松村 |
没年月日 | 1985年1月4日(76歳没) |
出身校 | 東京慈恵会医科大学 |
前職 |
医師 社会福祉法人博仁会理事長 |
所属政党 |
(改進党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等瑞宝章 衆議院永年在職議員 |
第39代 郵政大臣 | |
内閣 | 第1次大平内閣 |
在任期間 | 1978年12月7日 - 1979年11月9日 |
選挙区 | 長崎県第2区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1983年11月28日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1947年4月23日 - 1952年9月5日 |
来歴
編集長崎県南松浦郡若松村(のち若松町、現在の新上五島町)に生まれる[1]。旧制海星中学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業[1]。
陸軍軍医として長崎勤務中に長崎市への原子爆弾投下により被爆し、妻と2人の子供を失う[1]。終戦後は実家の五島に戻り漁業に従事する[1]。
1947年より長崎県議会議員を2期務めたのち、1952年の衆議院議員選挙に改進党から立候補し当選、以後当選12回(当選同期に大平正芳・黒金泰美・内田常雄・植木庚子郎・丹羽喬四郎・宇都宮徳馬・灘尾弘吉・加藤精三・山崎巌・今松治郎・重政誠之・町村金五・古井喜実など)[1]。保守合同後は河野一郎の派閥春秋会に属していたが、河野派分裂に際しては森清、園田直らと行動を共にし、後に福田赳夫の派閥清和会に合流する。
通産、防衛、建設の各政務次官や衆議院決算、予算各委員長を経て、1978年第1次大平正芳内閣の郵政大臣として初入閣[1]した。
1985年1月4日に76歳で没した。没後、正三位に叙された。
人物
編集脚注
編集公職 | ||
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先代 服部安司 |
郵政大臣 第39代 :1978年 - 1979年 |
次代 大西正男 |
議会 | ||
先代 荒舩清十郎 |
衆議院予算委員長 1976年 |
次代 坪川信三 |
先代 津雲國利 |
衆議院決算委員長 1963年 - 1964年 |
次代 堀川恭平 |