江戸時代の日本の人口統計

江戸時代の日本の人口統計(えどじだいのにほんのじんこうとうけい)は、江戸時代人口統計、人口調査および推定人口をまとめたものである。その結果は、初期には戦国時代後期から続く顕著な増加が見られ、それに比べ、中期・後期には増加はわずかだった。

概要

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豊臣秀吉は天正19年(1591年)または文禄元年(1592年)に人掃令を出し、朝鮮出兵のための動員数把握の目的で全国規模の人口調査を命じた。この時の戸口調査がどの程度まで実施されたかは不明であるが、徳島藩で実施された「棟付改」、細川家領(小倉藩熊本藩)で実施された「人畜改」などは、秀吉の命を受けて実施された戸口調査が続いたものと考えられている。

江戸時代に入ると宗門人別改帳制度が成立し、各地域毎の人口がより正確に把握されるようになった。しかしキリシタン取り締まりの為に寺社毎に戸口をまとめた物で、全国人口調査と呼べるものではなかった。

全国人口調査は徳川吉宗によって享保6年(1721年)に開始され、享保11年(1726年)以降、6年毎(子午年)に改籍された。この調査によりある程度、日本の人口の概要が分かるようになった。しかし問題点も多い。まず第一に除外された者が多い。この調査は基本的に人別改によって把握された登録人口を反映しており、調査対象は御領(幕府直轄地である天領)、私領(大名旗本領)、寺社領、諸都市の有籍者のみであり、無籍者は対象外であるほか、武士、武家奉公人・従者(武家方奉公人並又者)や公家皇族の人口は初めより集計の対象外であった。第二に調査方法が不統一だった。幕府直轄領以外の私領の調査方法は各に任されたため、乳幼児人口や被差別階級、神社仏閣関連人口の扱いが各藩で異なっていた。例えば和歌山藩 (紀州藩)では数え8歳未満、金沢藩 (加賀藩)では数え15歳未満は含めていなかった。その結果、除外人口の問題が複雑化した。第三に意図的な過少申告・過大申告をする藩が多かった。これは藩の人口調査結果にみられる人為的操作、明治時代の戸籍人口との比較から判明している。これにより、調査結果は実際より約400万から500万人ほど少なくなっていたと推定されている。

速水融によると、少なくとも金沢藩 (加賀藩)、和歌山藩 (紀州藩)、徳島藩 (阿波藩)、広島藩 (芸州藩)、福岡藩 (筑前藩)、対馬府中藩/厳原藩 (対馬藩)、鹿児島藩 (薩摩藩)の領地は明らかに人口調査、もしくはその結果の幕府への報告が、実際の人口より過小であり、こういった過小評価が、奥羽、北陸、山陽、四国、九州に多く見られる。

現代の学者の推定では、江戸時代中期・後期を通じて、日本の人口は約3000万人前後であった。

なお以降本項では、断りの無い限り年齢は満年齢ではなく数え年である。元号西暦の対応に関しても、月日を記さない限り旧暦新暦の違いを考慮しないこととする。「藩」という呼称が大名の知行地、領知、領国を指すものとして使われるようになったのは明治維新前後からであるが、便宜上江戸時代を通じて「藩」という呼称を用いる。また、本項では武家方奉公人並又者などの人口を除外した、幕府に報告するべき域内人口を「領民人口」と呼ぶこととするが、域内総人口を「領民人口」とする場合もあり、定義の定まった学術用語ではない。

江戸時代前期の推定人口変遷

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大田南畝著『竹橋余筆別集』巻八「拾領ヘ相尋候 年久数人別書」によると、徳川吉宗は80年間所替のなかった10万石以上の外様大名に対して過去の領民人口を報告するように求め、江戸時代前期に関して以下の調査結果を得た。9藩中8藩で人口増加がみられ、全国人口調査の実施された江戸中期以降に比べ、江戸時代前期はかなりの人口増加があった。

なお岡山藩の貞享3年(1686年)の領民人口は、備中国分・備前国之内二郡・城下町分の人別帳が焼失または腐損したため、備前国六郡分のみの人口が報告されている。また岡山藩の宝永3年(1706年)の領民人口は、城下町の人別帳が焼失したため、備中・備前の在方のみの人口が報告されている。よって比較のために他の年度に関しても備前国六郡分のみの人口、城下町分を除く在方分の人口が併せて記述されており、本表ではそれぞれ斜体、括弧内の数字で示す。同様に津藩の寛文5年(1665年)と元禄7年(1694年)分の領民人口は、人別帳の紛失により伊勢国内寺領二ヶ村分の人口が計上されておらず、比較のために他の年度に関しても伊勢国内寺領二ヶ村分を除いた領民人口が併せて記述されており、本表では括弧内の数字で示す。同様に二本松藩の貞享2年(1685年)の領民人口は、人別帳の虫食腐損により七ヶ村の人口が計上されておらず、比較のために他の年度に関しても七ヶ村を除いた領民人口が併せて記述されており、本表では括弧内の数字で示す。

江戸時代前期の外様大藩の領民人口変遷
元号 西暦 松平加賀守
金沢藩
松平陸奥守
仙台藩
松平大隅守
鹿児島藩
松平大炊頭
岡山藩
藤堂大学頭
津藩
松平淡路守
徳島藩
酒井左衛門尉
庄内藩
丹羽左京大夫
二本松藩
南部修理大夫
盛岡藩
寛文5年 1665年 (252,061) 308,880
寛文9年 1669年 245,635
貞享2年 1685年 (73,351)
貞享3年 1686年 185,043
元禄元年 1688年 385,751
元禄3年 1690年 599,241
元禄7年 1694年 (284,126) 126,383
元禄11年 1698年 260,961
元禄15年 1702年 617,323 81,367
(76,130)
元禄16年 1703年 306,412
宝永3年 1706年 (337,661)
207,215
享保5年 1720年 551,754
享保17年 1732年 576,734 647,427 339,955 396,469
(368,680)
223,929
287,242
(287,096)
470,512 131,164 75,747
(70,614)
322,109
調査対象 15歳以上 当歳以上 当歳以上 2歳以上 当歳以上 2歳以上 当歳以上 当歳以上 当歳以上
領地 加賀
越中
能登
近江之内
陸奥
常陸
下総、
近江之内
薩摩
大隅一円、
日向之内
備前一円、
備中之内
伊賀一円、
伊勢
山城
大和
下総之内
淡路
阿波一円
出羽之内 陸奥之内 陸奥之内
領地高 1,025,000 620,056 605,000 340,200 333,950 257,000 140,077 100,700 100,000

ただし統計に限りがあり、江戸時代前期の推定人口の変遷について諸説ある。

吉田東伍(1910年)は1人1石という仮定に基づいて1598年の慶長石高から1600年の推定人口を1850万人と見積もり[1]、長らくこの説が受け入れられていた。

これに対し速水融(1966年)は元和2年(1622年)の小倉藩の人畜改帳を元に1石0.28~0.44人と石/人比を訂正し、1600年の推定人口を622万~980万人と推定した[2]。後に速水融(1973年)は太閤検地石高による推定人口を破棄し、江戸時代中期以降の幕府掌握人口から逆算して1600年の推定人口を求めた。即ち諏訪郡の人別改帳の研究などから150年で人口が3倍になる成長パターンを導き、1600年の推定人口を1230万人へ改訂した[3]

鬼頭宏(社会工学研究所編 1974年)の1600年から1750年までの推定人口は、速水融の学説をまとめたもので、江戸時代前半の人口成長パターンが150年間で3倍になるロジスティック関数によると仮定し(50年後に1.41倍、100年後に2.67倍、150年後に3倍)、寛延3年(1750年)の推定人口(江戸幕府調査人口に20%上乗せしたもの)から遡って計算している。その際全国を先進国(山城、大和、摂津、河内、和泉)、中進国(尾張、美濃伊賀伊勢近江丹波播磨)、後進国(その他)に分類し、人口成長の開始期をそれぞれ1500年、1550年、1600年と仮定する[4]。詳しくは#地域別推定人口の変遷を参照[5]。ジャン=ノエル・ビラベン (Jean-Noël Biraben)(1993年、2005年)の推定人口は、速水融(1987年)[6]フランシーヌ・エライユ (Francine Hérail)(1990年)[7]に依拠し、澤田吾一、社会工学研究所、速水融らの研究を踏襲している[8]

但し最近になって鬼頭宏(2000年)は速水融推計を過小とし、17世紀の人口増加率を0.58~0.65%/年に下方修正して1600年の推定人口を1432万~1547万人と上方修正している[5]

一方斎藤修(2000年)は1600~1721年の人口増加率をせいぜい0.51%と仮定して、1600年の推定人口を1700万人と算出している。ウィリアム・ウェイン・ファリス (William Wayne Farris)(2006年)の1600年の推定人口(1500万~1700万人)は、鬼頭宏(2000年)と斎藤修(2000年)の研究の折衷である[9]

また、藤野正三郎(2008年)は17世紀前半の大藩の人口増加率 (0.4%) から1600年の推定人口を1940万人、1650年の人口を2365万人、1700年の人口を2888万人と算出した[10]

以下に主な研究者による江戸時代前期の日本の推定人口変遷をまとめる。なおコリン・マッケヴェディ (Colin McEvedy) とリチャード・ジョーンズ (Richard Jones) の推定人口はアイリーン・トイバー (Irene B. Taeuber)(1958年)[11]に依拠するが、実質的には横山由清(1879年)による推定人口[12]を補間して人口を推定しており、鎌倉時代の推定人口(975万人)からの持続的な人口増加を仮定している[13]

複数の研究者による1600年~1750年の日本の推定人口
西暦 社会工学研究所
(1974年)[4]
McEvedy & Jones
(1978年)[13]
鬼頭宏
(1996年)[5]
Biraben
(1993, 2005年)[8]
Farris
(2006年)[9]
藤野正三郎
(2008年)[10]
1600年 12,273,000 22,000,000 12,273,000 12,000,000 15,000,000–
17,000,000
19,370,000
1650年 17,497,900 25,000,000 17,497,900 23,650,000
1700年 28,287,200 29,000,000 28,287,200 28,000,000 28,880,000
1721年 31,277,900 31,278,500 30,496,900 31,300,000 31,280,000
1750年 31,005,900 29,000,000 31,010,800 30,323,900 31,100,000

幕府人口調査と推定人口

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全国人口調査と推定人口

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全国の人口調査は享保の改革の一環として、享保6年(1721年)に始まった。享保6年旧暦6月21日付の布達には、「諸国領知之村々、田畑之町歩、郡切に書記、並百姓町人社人男女僧尼等其外之者に至る迄、人数都合領分限に書付、可被差出候。奉公人又者は不及書出候。惣而拝領高之外新田高は不及記、町歩計可被書出候。但無高に而反別計之新田も可為同前候云々。」とあり、田畑の面積調査と人口調査が同時に行われた[14]。しかしながらこの布達により再検地への疑念などの混乱が生じため、続く旧暦6月29日の布達で、田畑の面積調査に関しては結局公認町歩を書きあげれば良いとし(この時の調査結果に関しては石高#享保6年田畑数参照)、人口調査に関しては過去の詳しい調査で代用して良いこと、武家方である「奉公人並又者」は人口調査の対象外とし、何歳以上の調査であるかを記載すること(逆に言えば、乳幼児・未成年人口の除外は御領(幕府直轄領)の代官、私領の大名・旗本の裁量に委ねられた)などが定められた。調査結果の報告猶予は8月までと短期間であったが、地方への交通手段や伝達方法も限られていたため、度重なる遅延があったようである。

2回目の人口調査が実施された享保11年(1726年)では田畑面積調査は行われず、人口調査のみが6年毎に実施されるようになった。以降人口調査は6年毎の子午年に実施されたが、最初の享保6年(1721年)の人口調査は子午年に相当しない臨時のもの(辛丑)であるため、これを正式な第1回の諸国人数調査とみなさない識者もいる。

調査の結果は「諸国人数帳」としてまとめられた。例えば国立公文書館所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」に収録の「寛政十午年 諸国人数帳」では以下のように寛政10年(1798年)の人口が旧国別、男女別に集計されている。

   寛政十午年

[午改]諸国人数帳

              松浦越前守
              菅沼下野守

一諸国人数之儀御領は御代官私領は領主より
 去る子年之通当午年相改春中より十二月迄
 書付差出集之壱冊に成候事
一男女人数拾五歳迄之内領主にて相改候格例を以
 改出候に付年齢不同有之候事
一御朱印地除之寺社領人数も諸国人数
 之内に籠り候事
一江戸駿河京大坂奈良堺伏見大津長崎等之
 町屋地子免許之場所並諸国城下町地子
 免許之地之人数も勿論惣人数に不漏事
一朱書を以記候高は元禄年中国所より差出候
 御帳を以相記候事
一向後も相触候に不及子年より午年に前々之通
 相改差出候積之事
一武家方奉公人並又者は諸国人数之内除候事

       (朱書)高弐拾弐万四千弐百五拾七石余
一 人数四拾八万九百九拾三人    山城国
   内弐拾五万三百四拾三人  男
    弐拾三万六百五拾人   女

       (朱書)高五拾万四百九拾七石余
一 人数三拾四万四千四拾三人    大和国
   内拾七万六千九百八拾三人 男
    拾六万七千六拾人    女

(中略)

       (朱書)高無し
一 人数壱万三千七百八拾六人    対馬国
   内拾七千弐百七拾五人   男
    拾六千五百拾壱人    女

(朱書)高都合弐千五百七拾八万六千八百九拾五石余
 諸国人数都合弐千五百四拾七万壱千三拾三人
  内千三百三拾六万五百弐拾人 男
   千弐百拾壱万五百拾三人  女

    以上

   寛政十午年十二月

このような形式の諸国人数帳の写本は幾つか残っているが、前文として箇条書きでかかれている内容はほぼ毎回同じである。すなわち6年毎の人口調査に関し、実際の調査月日は春から11月(天明以降は12月)までとしか定められておらず、各代官・領主に任されている。未成年人口に関しては、15歳以下についてはそれぞれの調査地域での慣例に従って集計することになっており、「武家方奉公人並又者」が除外人口とされている。また、元禄郷帳の石高(天保11年以降は天保郷帳の石高)が併せて記載された。幕府での実際の集計作業は調査年の翌年にずれ込むことも多かったらしく、諸国人数帳に記載の年月が翌年となっている場合もある。

諸国人数帳は総ての年度で残っているわけではないが、諸国人数帳から抽出された人口データが転載されることで、必ずしも完全ではないにせよ一部の数字が残るケースがある。以下幕府の史料や雑記に記録として残っている幕府調査による総人口と男女別人口をまとめる[15]。実際の人口はこれらの幕府調査人口(領民人口)よりも多いはずだが、除外人口と脱漏人口を補正するために、幕府調査人口に対して17%(ビラベン, 1993年)[8]または20%(鬼頭, 1996年)[5]上乗して推計された総人口を参考までに列挙する。また『三暇謾録』には享保6年(1721年)から天保5年(1834年)まで、6年毎に調査された武蔵国の人口の記載があり[注 1]、弘化3年(1846年)までの武蔵国の領民人口の変遷を完全に再現できるため、参考までに本表に掲載する。第4回の元文3年(1738年)、第16回の文化7年(1810年)、第17回の文化13年(1816年)の人口調査に関しては、総人口の記録は残っていない。

江戸時代の全国人口調査[15]
調査回次 調査年次 西暦 総数 出典 Biraben
(1993年)[8]
推計総人口
鬼頭
(1996年)[5]
推計総人口
武蔵国
領民人口[注 1]
第1回 享保6年 1721年 26,065,422 「国中人数石高之事」(『三暇謾録』;須田昭義「徳川時代人口に関する新資料」引用)[注 1]
「享保六丑同十一午同十七子 年諸国人数高書付」(『竹橋余筆別集』巻八、国立公文書館所蔵212-0287)
30,496,900 31,278,500 1,903,316
第2回 享保11年 1726年 26,548,998 「享保六丑同十一午同十七子 年諸国人数高書付」(『竹橋余筆別集』巻八、国立公文書館所蔵212-0287)
「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻)
31,104,400 1,807,783
第3回 享保17年 1732年 26,921,816 14,407,107 12,514,709 「享保六丑同十一午同十七子 年諸国人数高書付」(『竹橋余筆別集』巻八、国立公文書館所蔵212-0287)
「享保十七子年十二月 日本国中十五歳以上人別高」(乙巳雑記』壱)
「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻)
31,498,500 1,850,599
第4回 元文3年 1738年 n.a. 1,737,205
第5回 延享元年 1744年 26,153,450 『官中秘策』巻之一[注 2] 30,599,500 1,787,021
第6回 寛延3年 1750年 25,917,830 13,818,654 12,099,176 『官中秘策』巻之一~巻之五[注 2]
「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻)
30,323,900 31,010,800 1,771,214
第7回 宝暦6年 1756年 26,061,830 13,833,311 12,228,519 「地理誌 第六」(『国史』巻二十三)[注 3]
『官中秘策』巻之一[注 2]
「日本国郡沿革考」(『吹塵録』上巻)
30,502,700 31,282,500 1,774,064
第8回 宝暦12年 1762年 25,921,458 13,785,400 12,136,058 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 30,328,100 1,737,158
第9回 明和5年 1768年 26,252,057 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 30,714,900 1,753,994
第10回 安永3年 1774年 25,990,451 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 30,408,800 1,707,719
第11回 安永9年 1780年 26,010,600 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 30,432,400 1,702,784
第12回 天明6年 1786年 25,086,466 13,230,656 11,855,810 「天明寛政人数帳」(『日本経済大典』第四十八巻)[注 4]
「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻)
29,351,200 30,103,800 1,626,968
第13回 寛政4年 1792年 24,891,441 13,034,521 11,856,920 「寛政四子年 諸国人数帳」(国立公文書館内閣文庫所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」)[注 5]
「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻)
甲子夜話』巻八十七
29,123,000 29,869,700 1,634,048
第14回 寛政10年 1798年 25,471,033 13,360,520 12,110,513 「寛政十午年 諸国人数帳」(国立公文書館内閣文庫所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」)[注 5]
『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(国文学研究資料館所蔵)[注 5]
「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻)
『甲子夜話』巻八十七
29,801,100 30,565,200 1,666,131
第15回 文化元年 1804年 25,621,957 13,427,249 12,194,708 「天明寛政人数帳」(『日本経済大典』第四十八巻)[注 6]
「文化元甲子年 諸国人数調」(『吹塵録』上巻)[注 6]
「諸国人数帳」(井上瑞枝「大日本国古来人口考 (第三)」引用等)[注 6]「諸国人数調」(国立公文書館所蔵172-0073)
29,977,690 30,746,400 1,654,368
第16回 文化7年 1810年 n.a. 1,674,669
第17回 文化13年 1816年 n.a. 1,675,300
第18回 文政5年 1822年 26,602,110 13,894,436 12,707,674 『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(国文学研究資料館所蔵)[注 7]
「諸国」『徳川理財会要』第五門 地方 巻三十一 戸口ノ部
31,124,500 31,913,500 1,694,255
第19回 文政11年 1828年 27,201,400 14,160,736 13,040,664 『嘉永五年壬子居闔国總人別寄帳写』(井上瑞枝「大日本国古来人口考 (第四)」引用)[注 8]
『武家必覧 泰平年表』巻之三十一
「諸国」『徳川理財会要』第五門 地方 巻三十一 戸口ノ部
『文恭公実録』巻之三
31,825,600 32,625,800 1,717,455
第20回 天保5年 1834年 27,063,907 14,053,455 13,010,452 篠崎亮「天保五年調査諸国人数帳」[注 9]
『諸国人数』(国立国会図書館所蔵)[注 9]
31,664,800 32,476,700 1,714,054
第21回 天保11年 1840年 25,918,412 13,359,384 12,559,028 『諸国人数帳』(東京大学法学部法制史料室所蔵)[注 10] 31,102,100 1,721,359
第22回 弘化3年 1846年 26,907,625 13,854,043 13,053,582 「弘化三丙午年 諸国人数調」(『吹塵録』上巻)[注 11] 31,481,900 32,297,200 1,777,371
明治3年7月 1870年 32,794,897 16,733,698 16,061,199 庚午年概算 (全身分対象)
明治5年1月29日 1872年3月8日 33,110,825 16,796,158 16,314,667 壬申戸籍 (全身分対象) 1,943,211

なおこれらの人口は何れも琉球国の人口を含まない。また、『吹塵録』を編纂した勝海舟によると、第23回の諸国人数調査に当たる嘉永5年(1852年)の調査結果については、翌年の黒船来航徳川家慶崩御の混乱により最終的な集計が行われなかったという。但し藩によっては嘉永5年、安政5年(1858年)、元治元年(1864年)の領民人口調査結果も残っている。

旧国別調査人口の変遷

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以下記録として残っている旧国別人口を、明治5年(1872年)、明治6年(1873年)の本籍人口とともにまとめる[16]。旧国名は明治時代の五畿八道の順に従い並べてあるが、各年次をクリックすることにより、人口順に並べ替えることができる。明治5年、明治6年の戸籍人口に関しては、明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)と明治2年8月15日(西暦1869年9月20日)に陸奥国出羽国と蝦夷地・松前藩より分割・成立した旧国別人口を載せるほか、旧陸奥国、出羽国、蝦夷地の総人口を参考として斜体で示す。表の作成に当たっては『国勢調査以前日本人口統計集成』収録の速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」をベースとしたが、享保6年(1721年)に関しては須田昭義の論文により上総の人口と総人口を修正し[注 1]、寛延3年(1750年)に関しては『官中秘策』の諸写本により駿河・甲斐・美濃・但馬・備中・紀伊・阿波の人口を改訂し[注 2]、宝暦6年(1756年)に関しては井上瑞枝の論文や『国史』の諸写本により下野・隠岐・美作・豊後・対馬・蝦夷の人口を改訂し[注 3]、天明6年(1786年)に関しては男女別人口の合計を旧国別人口として用いることで下野の人口を改訂し[注 4]、寛政10年(1798年)に関しては国立公文書館所蔵『雑載』収録の「寛政十午年 諸国人数帳」により近江・陸奥・越中の人口を修正し[注 5]、文化元年(1804年)に関しては男女別人口の合計を旧国別人口として用いることで山城の人口を改訂し[注 6]、文政6年(1822年)に関しては男女別人口の合計を旧国別人口として用いることで摂津の人口を改訂し[注 7]、文政11年(1828年)に関しては高橋梵仙が『日本人口史之研究』でまとめたものを用い[注 8]、天保5年(1834年)に関しては国立国会図書館所蔵『諸国人数』により備後の人口を修正し[注 9]、弘化3年(1846年)に関しては男女人口の合計を旧国別人口として用いることで摂津、陸奥、出雲、石見の人口を改訂した[注 11]。このほか参考として明治14年(1881年)の旧国別面積[17]と天保5年(1834年)の『天保郷帳』記載の旧国別の郡数、村数と石高を掲載する[18]。明治6年(1873年)の旧国別身分人口に関しては壬申戸籍を参照。

江戸時代の全国国別人口[15]
旧国 享保6年[注 1]
(1721年)
寛延3年[注 2]
(1750年)
宝暦6年[注 3]
(1756年)
天明6年[注 4]
(1786年)
寛政4年[注 5]
(1792年)
寛政10年[注 5]
(1798年)
文化元年[注 6]
(1804年)
文政5年[注 7]
(1822年)
文政11年[注 8]
(1828年)
天保5年[注 9]
(1834年)
天保11年[注 10]
(1840年)
弘化3年[注 11]
(1846年)
明治5年[16]
(1872年)
明治6年[16]
(1873年)
面積[17]
(1881年)
方里
郡数[18]
(1834年)
村数[18]
(1834年)
石高[18]
(1834年)
(石)
畿内 2,249,792 2,139,480 2,170,087 2,041,309 2,027,334 2,048,799 2,017,308 2,074,967 2,099,644 2,077,269 1,935,301 1,998,736 2,023,652 2,036,842 445.59 55 3,651 1,615,527.199925
   山城 564,994 522,626 527,334 507,488 506,324 480,993 469,517 478,652 498,296 488,726 445,432 452,140 429,030 431,453 73.08 8 477 230,131.760865
   大和 413,331 374,041 367,724 336,254 329,286 344,043 340,706 346,319 356,627 360,071 338,571 361,157 418,326 423,004 201.42 15 1,354 501,361.691560
   河内 243,820 231,266 206,568 205,585 209,296 218,102 214,945 244,816 223,747 224,822 211,559 224,055 237,678 239,191 43.99 16 545 293,786.634500
   和泉 218,405 207,952 226,480 190,762 190,466 199,083 202,283 205,545 208,884 207,211 189,786 197,656 209,174 212,251 33.47 4 320 172,847.986000
   摂津 809,242 803,595 841,981 801,220 791,962 806,578 789,857 799,635 812,090 796,439 749,953 763,728 729,444 730,943 93.63 12 955 417,399.127000
東海道 6,612,785 6,605,014 6,522,189 6,031,917 5,864,119 6,061,401 6,032,987 6,182,091 6,384,212 6,169,363 6,192,155 6,425,259 7,392,413 7,451,669 2,660.63 129 15,323 6,652,134.556760
   伊賀 95,978 91,392 88,526 82,352 79,648 80,647 80,196 85,636 87,949 89,243 88,616 91,774 97,164 97,190 47.34 4 182 110,096.536000
   伊勢 543,737 523,037 519,187 478,906 462,682 477,899 476,500 494,640 498,171 499,958 480,032 499,874 585,988 581,669 231.15 13 1,325 716,451.492700
   志摩 31,856 34,068 34,261 37,184 36,888 38,617 37,875 40,401 40,919 41,888 39,210 40,693 37,439 46,943 19.74 2 56 21,470.398000
   尾張 554,561 553,340 576,363 595,264 582,183 605,084 605,686 631,809 646,555 643,977 622,539 653,678 727,437 731,974 104.18 8 1,008 545,875.793000
   三河[19] 416,204 419,283 425,745 419,349 360,795 423,893 420,697 437,019 439,635 440,264 421,432 431,800 482,931 485,470 208.62 8 1,292 466,080.746800
   遠江 342,663 333,744 341,724 332,100 334,246 352,033 342,398 386,581 361,236 360,818 350,967 363,959 414,928 416,543 196.44 12 1,094 369,552.575180
   駿河[19] 245,834 313,817 250,582 242,165 242,457 248,127 252,072 288,824 277,763 253,848 274,705 286,290 368,505 369,731 219.77 7 780 250,538.753090
   甲斐[19][注 12] 291,168 314,193 317,349 305,934 284,474 309,604 297,903 291,675 391,499 318,474 300,152 310,273 360,068 362,973 289.85 4 769 312,159.329490
   伊豆[18][19][注 12] 96,650 105,120 105,272 120,629 98,226 102,551 125,505 134,722 136,796 144,595 110,523 115,197 149,749 150,549 106.11 4 284 84,171.293620
   相模[18] 312,638 310,796 305,569 279,427 277,699 277,211 278,068 269,839 289,376 294,009 285,196 303,271 356,638 359,598 128.87 9 671 286,719.756890
   武蔵 1,903,316 1,771,214 1,774,064 1,626,968 1,634,048 1,666,131 1,654,368 1,694,255 1,717,455 1,714,054 1,721,359 1,777,371 1,943,211 1,968,753 391.63 22 3,042 1,281,431.068820
   安房 115,579 158,440 137,565 125,052 130,836 133,513 132,993 139,662 140,830 144,581 139,442 143,500 154,683 155,331 34.86 4 280 95,736.239070
   上総 407,553 453,460 438,788 388,542 376,441 368,831 364,560 372,347 362,411 364,240 358,714 360,761 419,969 423,596 140.69 9 1,194 425,080.453410
   下総[19] 542,661 567,603 565,614 483,526 468,413 484,641 478,721 419,106 497,758 402,093 499,507 525,041 645,029 648,394 206.50 12 1,623 681,062.631660
   常陸[18] 712,387 655,507 641,580 514,519 495,083 492,619 485,445 495,575 495,859 457,321 499,761 521,777 648,674 652,955 334.88 11 1,723 1,005,707.489030
東山道[注 12] 5,879,324 5,680,006 5,659,556 5,267,640 5,204,842 5,294,135 5,303,859 5,435,750 5,511,868 5,446,583 5,089,068 5,328,995 6,746,643 6,785,623 6,847.50 132 14,691 7,954,049.255308
   近江 602,367 575,216 573,797 583,940 573,617 538,442 532,968 557,491 547,724 511,948 527,412 541,732 576,564 578,099 257.15 12 1,516 853,095.305590
   美濃 545,919 533,091 543,510 556,165 536,904 563,863 566,355 598,580 609,459 607,269 570,807 583,137 660,896 668,148 402.87 21 1,602 699,764.321660
   飛騨 67,032 72,323 74,907 77,939 76,401 79,393 81,768 89,818 91,382 93,765 82,967 86,338 98,378 98,822 268.58 3 414 56,602.309000
   信濃 693,947 686,651 706,974 723,295 714,199 742,791 748,142 778,025 797,099 808,073 775,313 794,698 919,115 924,867 853.76 10 1,615 767,788.077600
   上野 569,550 576,075 579,987 522,869 513,915 514,172 497,034 456,950 464,226 451,830 426,073 428,092 507,235 509,941 407.25 14 1,217 637,331.633100
   下野 560,020 554,261 535,743 434,791 404,818 413,337 404,495 395,045 375,957 342,260 367,654 378,665 498,520 501,849 411.77 9 1,365 769,905.027038
   陸奥 1,962,839 1,836,134 1,806,192 1,563,719 1,568,218 1,589,178 1,602,948 1,650,629 1,680,102 1,690,509 1,506,193 1,603,881 2,294,915 2,305,961 2,956.76 51 4,519 2,874,239.059880
      磐城 348,608 349,594 429.83 14 963 613,924.675660
      岩代 427,933 430,163 497.52 9 1,305 755,703.961220
      陸前 534,609 539,614 525.92 14 702 697,838.180000
      陸中 510,521 513,273 830.98 10 537 423,134.490000
      陸奥 473,244 473,317 672.51 4 1,012 383,637.753000
   出羽 877,650 846,255 838,446 804,922 816,770 852,959 870,149 909,212 945,919 940,929 832,649 912,452 1,191,020 1,197,936 1,289.36 12 2,443 1,295,323.521440
      羽前 560,984 567,361 546.64 4 1,204 804,569.693740
      羽後 630,036 630,575 742.72 8 1,239 490,753.827700
北陸道 2,155,663 2,160,541 2,212,937 2,108,387 2,190,010 2,269,348 2,307,745 2,511,390 2,598,219 2,640,844 2,401,206 2,534,477 3,299,551 3,309,335 1,633.01 33 8,910 3,622,488.969650
   若狭 86,598 78,072 77,729 79,323 76,124 78,356 78,715 83,056 84,678 84,366 83,956 77,183 85,487 85,813 54.75 3 255 91,018.822200
   越前 367,652 348,052 344,830 332,019 335,813 350,833 354,038 375,572 386,071 397,823 328,217 353,674 461,032 454,229 217.67 8 1,533 689,304.819870
   加賀[19] 206,933 202,429 160,778 196,732 189,682 192,738 196,725 220,004 220,267 230,461 223,338 238,291 403,357 405,268 147.83 4 768 483,665.848700
   能登[19] 152,113 157,765 212,048 137,427 159,436 165,188 167,534 193,569 198,111 197,704 179,431 186,970 262,486 264,379 122.72 4 666 275,369.990210
   越中 314,158 313,562 313,710 317,265 327,327 337,129 345,419 383,265 413,888 402,411 383,583 403,121 615,663 623,977 266.41 4 1,376 808,008.461820
   越後 932,461 970,185 1,013,331 954,524 1,011,067 1,053,674 1,072,904 1,154,052 1,191,935 1,224,947 1,099,980 1,172,973 1,368,428 1,372,116 767.29 7 4,051 1,142,555.535850
   佐渡 95,748 90,476 90,511 91,097 90,561 91,430 92,410 101,872 103,269 103,132 102,701 102,265 103,098 103,553 56.34 3 261 132,565.491000
山陰道 1,263,340 1,306,567 1,340,875 1,368,649 1,362,540 1,427,610 1,441,698 1,519,467 1,544,033 1,569,651 1,430,878 1,487,122 1,628,561 1,634,188 1,109.83 53 4,214 1,499,296.436760
   丹波 284,893 276,336 282,018 281,356 275,038 281,234 282,493 290,243 291,869 292,808 276,117 280,947 295,359 295,681 206.67 6 880 324,136.268670
   丹後 125,276 134,476 135,392 141,191 141,364 146,762 147,403 154,763 157,401 159,211 149,063 154,308 160,932 162,084 77.10 5 388 147,614.804460
   但馬 149,732 156,612 154,980 158,455 160,030 164,764 167,549 179,408 181,052 184,323 162,243 173,573 187,086 187,980 165.92 8 623 144,313.084030
   因幡 122,030 125,085 125,091 123,622 123,532 126,695 128,643 132,670 135,969 136,204 120,879 127,797 162,842 162,920 98.59 8 553 177,844.624000
   伯耆 132,981 140,719 144,552 155,289 155,532 166,449 169,570 180,730 186,813 191,175 168,310 177,420 194,158 194,525 125.57 6 754 217,990.822280
   出雲 222,330 234,896 220,094 258,916 260,189 271,667 279,177 299,708 308,346 315,270 302,837 309,906 340,042 340,222 181.61 10 504 302,627.465000
   石見 207,965 219,512 259,202 229,113 225,783 248,076 245,203 257,508 257,349 264,948 225,657 236,963 259,611 262,035 232.32 6 451 172,209.768320
   隠岐 18,133 18,931 19,546 20,707 21,072 21,963 21,660 24,437 25,234 25,712 25,772 26,208 28,531 28,741 22.05 4 61 12,559.600000
山陽道 2,657,695 2,634,975 2,702,284 2,747,716 2,733,792 2,823,445 2,822,910 2,960,990 3,038,751 3,065,352 2,915,809 3,028,359 3,531,865 3,550,654 1,571.35 81 4,813 3,211,546.810710
   播磨 633,725 551,393 627,943 607,758 602,410 608,890 599,401 609,246 613,534 600,731 581,713 594,560 635,791 639,576 238.58 16 1,796 651,964.813500
   美作[19] 194,226 175,168 173,421 157,747 132,445 157,066 153,397 159,007 159,850 164,018 156,196 165,468 215,602 215,676 170.56 12 628 262,099.098000
   備前 338,523 322,982 325,550 321,627 316,881 321,221 318,273 318,203 318,771 318,647 304,229 310,576 331,878 333,714 94.25 8 673 416,581.854000
   備中 333,731 365,410 325,531 316,904 316,735 327,100 328,408 337,155 343,792 347,415 335,494 346,927 396,880 399,218 156.50 11 484 363,915.614210
   備後 321,008 306,818 310,989 303,731 307,029 315,363 318,577 342,184 351,597 360,656 344,919 360,832 456,461 459,109 234.03 14 494 312,054.932000
   安芸 361,431 396,878 414,209 454,112 466,261 491,278 499,081 547,296 564,271 578,516 527,849 553,708 667,717 673,301 286.72 8 436 310,648.489000
   周防 262,927 289,392 291,334 344,800 351,110 357,507 358,761 397,836 429,329 436,198 413,630 435,188 497,034 498,732 189.20 6 152 489,428.677000
   長門 212,124 226,934 233,307 241,037 240,921 245,020 247,012 250,063 257,607 259,171 251,779 261,100 330,502 331,328 201.51 6 150 404,853.333000
南海道 2,156,379 2,204,070 2,227,504 2,268,283 2,240,675 2,280,438 2,350,336 2,490,692 2,537,174 2,577,251 2,491,662 2,565,745 3,225,107 3,244,966 1,599.32 51 4,451 1,889,261.906450
   紀伊 519,022 508,674 512,898 500,621 478,499 473,609 477,361 508,112 516,478 520,902 489,036 499,826 613,925 620,241 381.17 7 1,337 440,858.377710
   淡路 105,226 107,113 107,120 106,161 104,352 104,269 112,449 119,327 123,748 123,500 119,147 122,773 164,939 165,485 36.73 2 251 97,164.784000
   阿波 342,386 362,905 363,254 369,280 368,536 375,358 425,304 446,291 454,120 459,244 431,050 448,287 586,046 590,048 271.13 10 455 268,894.329000
   讃岐[18] 334,153 357,326 362,874 384,851 386,062 396,122 395,980 409,815 422,508 432,648 419,969 433,880 559,712 564,351 113.74 11 377 291,320.256400
   伊予 504,045 499,860 508,592 514,773 516,186 531,378 529,829 563,669 574,847 585,651 580,589 599,948 775,974 778,556 341.56 14 955 460,997.639340
   土佐 351,547 368,192 372,766 392,597 387,040 399,702 409,413 443,478 445,473 455,306 451,871 461,031 524,511 526,285 454.99 7 1,076 330,026.520000
西海道 3,074,829 3,165,370 3,203,636 3,226,255 3,240,720 3,237,146 3,299,697 3,366,302 3,422,274 3,449,732 3,397,987 3,468,045 5,139,365 5,163,730 2,830.82 96 7,509 4,114,612.705576
   筑前 302,160 307,439 306,173 307,778 304,199 307,982 313,420 321,857 329,886 335,803 339,434 346,942 441,175 445,278 158.63 15 901 651,782.278440
   筑後 266,426 260,875 263,176 270,448 273,293 272,239 277,579 284,169 292,913 307,206 295,678 299,041 391,535 393,656 80.87 10 710 375,588.897800
   豊前 248,187 242,653 254,195 237,537 236,331 234,342 235,950 239,269 243,949 247,176 240,798 249,274 304,574 307,535 136.63 8 677 368,913.640500
   豊後 524,394 511,880 511,706 469,687 468,200 464,722 466,106 474,016 474,540 475,985 457,229 470,875 562,318 565,460 344.11 8 1,473 417,514.227150
   肥前 609,926 632,923 647,831 662,342 678,029 674,272 712,654 683,536 701,527 699,154 692,334 713,593 1,074,460 1,082,488 319.80 11 1,400 706,470.723196
   肥後 614,007 620,244 621,294 646,892 656,035 663,414 671,316 720,216 738,078 743,544 741,677 755,781 953,037 950,389 489.29 14 1,116 611,920.291100
   日向 211,614 225,421 225,713 230,133 228,691 229,624 230,783 241,310 243,412 245,476 249,955 247,621 376,527 382,564 511.40 5 483 340,128.861790
   大隅[17][注 13] 112,616 131,623 132,787 126,022 121,031 116,167 114,166 107,603 104,218 103,096 97,228 99,212 256,816 220,578 247.36 8 230 170,833.451000
   薩摩[17][注 13] 149,039 194,312 205,385 237,889 236,127 235,630 238,493 250,831 251,649 248,364 239,891 241,797 549,440 586,324 332.68 13 258 315,005.600120
   壱岐 19,993 23,200 23,404 23,391 24,771 24,968 25,368 26,532 27,624 27,215 27,210 27,005 33,010 32,929 8.81 2 50 32,742.921000
   対馬[19] 16,467 14,800 11,972 14,136 14,013 13,786 13,862 16,963 14,478 16,713 16,553 16,904 29,684 29,740 44.33 2 140 0.000000
   琉球[18][16][17][注 14] 166,789 166,789 156.91 0 71 123,711.813480
北海道[17][注 12] 15,615 21,807 22,632 26,310 27,409 28,711 45,417 61,948 65,023 67,862 64,346 70,887 123,668 123,668 6,093.93 0 128 0.000000
   蝦夷松前[18][16][17][注 15] 15,615 21,807 22,632 26,310 27,409 28,711 45,417 61,948 65,023 67,862 64,346 70,887 123,668 123,668 6,093.93 0 128 0.000000
      石狩[16] 6,003 6,003
      後志[16] 19,098 19,098
      胆振[16] 6,251 6,251
      渡島[16] 75,830 75,830
      日高[16] 6,574 6,574
      十勝[16] 1,464 1,464
      釧路[16] 1,734 1,734
      根室[16] 832 832
      千島[16] 437 437
      北見[16] 1,511 1,511
      天塩[16] 1,576 1,576
      樺太[16][17] 2,358 2,358
以上合計[注 16] 26,065,422 25,917,830 26,061,700 25,086,466 24,891,441 25,471,033 25,621,957 26,603,597 27,201,198 27,063,907 25,918,412 26,907,625 33,110,825 33,300,675 24,791.98 630 63,690 30,558,917.841139
総数[18][17] 26,065,422 25,917,830 26,061,830 25,086,466 24,891,441 25,471,033 25,621,957 26,602,110 27,201,400 27,063,907 25,918,412 26,907,625 33,110,825 33,300,675 24,796.63 630 63,690 30,558,917.841139

地域別推定人口の変遷

編集

鬼頭宏による江戸時代の国別推定人口を地域別にまとめると以下の通りである。1700年以前の推定人口は1750年の幕府調査人口から逆算したもので、1721年以降の推定人口は幕府の調査人口を一律2割増ししたものである[4][5]

江戸時代の地域別推定人口 (1650年と1700年の推定人口は社会工学研究所 (1974年)[4], 他は鬼頭宏 (1996年)[5]による)
地域[注 17] 1600年 1650年 1700年 1721年 1750年 1756年 1786年 1792年 1798年 1804年 1822年 1828年 1834年 1840年 1846年
北海道 (蝦夷) 7,100 10,000 19,000 18,700 26,200 27,200 31,600 32,900 34,500 54,500 74,300 78,000 81,400 77,200 85,100
東奥羽 (陸奥) 734,400 1,035,500 1,960,800 2,355,400 2,203,400 2,167,400 1,876,500 1,881,900 1,906,900 1,923,500 1,980,800 2,016,100 2,028,600 1,807,400 1,929,500
西奥羽 (出羽) 338,500 477,300 903,800 1,053,200 1,015,500 1,006,100 965,900 980,100 1,023,600 1,044,200 1,091,100 1,135,100 1,129,100 999,200 1,094,900
北関東[注 17] 714,300 1,007,200 1,907,200 2,210,300 2,143,000 2,106,400 1,766,600 1,696,600 1,704,200 1,664,400 1,617,100 1,603,300 1,501,700 1,552,200 1,594,200
南関東[注 17] 1,304,600 1,839,600 3,483,300 3,938,100 3,913,800 3,865,900 3,484,200 3,464,900 3,516,400 3,490,500 3,474,300 3,609,400 3,502,800 3,605,100 3,731,900
北陸[注 17] 864,200 1,218,500 2,307,500 2,586,800 2,592,600 2,655,500 2,530,100 2,628,000 2,723,300 2,769,300 3,013,700 3,117,900 3,169,000 2,881,400 3,041,400
東山[注 17] 428,100 603,500 1,143,000 1,262,600 1,284,200 1,319,100 1,328,600 1,290,100 1,358,100 1,353,400 1,391,400 1,536,000 1,464,400 1,390,100 1,429,600
東海[注 17] 1,081,300 1,821,000 2,555,100 2,642,200 2,710,100 2,691,800 2,718,800 2,585,800 2,754,700 2,775,300 2,973,000 2,950,100 2,940,900 2,821,100 2,920,900
畿内[注 17] 2,284,600 2,567,400 2,567,400 2,699,800 2,567,400 2,604,100 2,449,600 2,432,800 2,458,600 2,420,800 2,479,200 2,519,600 2,492,700 2,322,400 2,398,500
畿内周辺[注 17] 1,397,500 2,520,900 3,114,200 3,380,200 3,200,100 3,294,900 3,213,900 3,135,800 3,124,300 3,119,100 3,246,100 3,264,500 3,217,200 3,121,500 3,206,600
山陰[注 17] 412,100 581,100 1,100,200 1,174,100 1,236,300 1,270,600 1,304,800 1,305,000 1,375,700 1,391,000 1,475,100 1,502,600 1,532,200 1,385,700 1,450,700
山陽[注 17] 815,200 1,149,400 2,176,600 2,428,800 2,445,100 2,488,000 2,567,900 2,557,700 2,657,500 2,668,200 2,822,100 2,910,300 2,957,500 2,800,900 2,920,600
四国[注 17] 625,000 881,300 1,668,700 1,838,600 1,874,700 1,929,000 1,993,800 1,989,400 2,043,100 2,112,600 2,235,900 2,276,300 2,319,400 2,260,200 2,331,800
北九州[注 17] 797,500 1,124,400 2,129,300 2,385,100 2,392,500 2,434,100 2,382,400 2,398,600 2,390,800 2,453,900 2,455,600 2,501,900 2,531,100 2,483,100 2,548,400
南九州[注 17] 468,600 660,800 1,251,100 1,304,600 1,405,900 1,422,200 1,489,100 1,490,300 1,493,800 1,505,700 1,584,000 1,604,800 1,608,600 1,594,500 1,613,300
全国合計 (琉球を除く) 12,273,000 17,497,900 28,287,200 31,278,500 31,010,800 31,282,500 30,103,800 29,869,700 30,565,200 30,746,400 31,913,500 32,625,800 32,476,700 31,102,100 32,297,200

日本全体で見ると、江戸時代前期の急速な人口増加に比べ、幕府による調査人口が残っている1721年から1846年までは人口はほぼ横ばいといっていい状況だが、 享保(1730年代)、天明(1780年代)、天保(1830年代)の三大飢饉の時期には人口が減少し、平常年には多くの地域で人口が増大している。一方地域別で見ると、東奥羽と北関東は減少、北陸・東山・東海は増大、近畿は減少、中国・四国・九州は増大という傾向が見られる。

幕末の推定人口変遷

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幕府の調査人口は、個々の地域においては大きな人口変動が認められるが、日本全土の総領民人口に関しては、125年間にわたって余り大きな変化が認められない。これに対し明治時代に入ると急激な人口増加が起こっている。しかしながら弘化3年(1846年)の幕末最後の全国人口調査から壬申戸籍が成立する明治5年(1872年)までは、全国人口に関する統計が存在しない空白の四半世紀であるため、人口増加の転換点は不明である。

森田優三(1944年)は、明治時代の年齢別人口統計に生命表の生存率を適用し、弘化3年(1846年)以前の人口を3000万人と仮定することで、過去の出生率を推定し、明治期の人口成長は文政期(1818~1830年)頃に始動した可能性があると指摘した[20]

幕末の推定人口と推定出生率の変遷(森田優三, 1944年)[20]
元号 西暦 推定年首人口 推定出生率
(明治19年末基準),
推定出生率
(明治31年末基準),
弘化元年 1844年 30,000,000 28.0 27.7
弘化2年 1845年 30,000,000 29.7 29.8
弘化3年 1846年 30,024,000 26.6 26.0
弘化4年 1847年 30,195,000 29.8 29.9
嘉永元年 1848年 30,367,000 30.3 30.2
嘉永2年 1849年 30,540,000 31.4 31.7
嘉永3年 1850年 30,714,000 28.8 28.7
嘉永4年 1851年 30,890,000 27.1 26.8
嘉永5年 1852年 31,066,000 30.7 31.0
嘉永6年 1853年 31,243,000 30.2 30.1
安政元年 1854年 31,421,000 30.1 30.3
安政2年 1855年 31,599,000 29.2 29.2
安政3年 1856年 31,780,000 29.0 29.2
安政4年 1857年 31,961,000 29.5 29.8
安政5年 1858年 32,143,000 29.0 29.4
安政6年 1859年 32,327,000 26.9 26.9
万延元年 1860年 32,511,000 26.3 26.3
文久元年 1861年 32,696,000 23.1 22.6
文久2年 1862年 32,883,000 24.4 24.1
文久3年 1863年 33,070,000 25.7 25.6
元治元年 1864年 33,259,000 29.4 29.9
慶応元年 1865年 33,448,000 30.1 31.0
慶応2年 1866年 33,639,000 27.6 27.9
慶応3年 1867年 33,831,000 27.9 28.3
明治元年 1868年 34,024,000 29.9 30.7
明治2年 1869年 34,218,000 26.0 26.3
明治3年 1870年 34,413,000 25.2 25.8
明治4年 1871年 34,609,000 25.4 26.4
明治5年 1872年 34,806,000 27.5 28.2

一方弘化3年(1846年)の幕府調査人口と明治以降の戸籍人口を比較すると、江戸時代はむしろ人口減少地域であった両毛地域が明治初期には最大の人口増加地域へと変貌している。浜野潔らは、安政6年(1861年)の横浜港の開港が養蚕業の盛んな東北南部~北関東~東山地域に急速な経済の発展と人口増加をもたらし、日本全体の人口増加への転換となったと推定している。

辺境地域の人口変遷

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蝦夷地・松前藩(福山藩/館藩)・アイヌの人口変遷

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松前藩(蝦夷福山藩)はアイヌとの交易収入を独占するため(場所請負制)、和人地蝦夷地を設置して往来を取締しまったが、19世初頭まで蝦夷地は人口調査の対象外であった。宝暦10年(1760年)の幕府巡検使への報告において和人地の人口は和人2万1647人を数えたほか、東在47人、西在50人、合計97人のアイヌが和人地に暮らしていた。また、福山城下の人口は安永6年(1777年)において、諸士1526人、寺社方170人、町方4308人であった。

18世紀の松前藩和人地の和人の人口変遷
元号 西暦 和人人口
(領民人口)
城下 東在 西在
享保6年 1721年 15,615
寛延3年 1750年 21,807
宝暦6年 1756年 22,631
宝暦10年 (家中寺社共) 1760年 21,647 5,456 7,208 8,983
天明6年 1786年 26,310
寛政4年 1792年 27,409
寛政10年 1798年 28,711

通商を求め来航する外国船が後を絶たずロシアの南下を警戒した幕府は、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)に西蝦夷地を天領とし、アイヌに対しても人別帳の作成を行った[注 15]。文献ごとに数字が異なり、千島アイヌ北海道アイヌとまとめられているなど大まかな集計ではあるが、千島・樺太交換条約1875年)により北海道へ移住する前の樺太アイヌの人口を記録しているなど貴重な資料となっている。

19世紀の蝦夷地・松前藩の和人・アイヌ人の人口変遷
元号 西暦 蝦夷地・
松前藩全域
(領民人口)
和人 アイヌ
合計 北海道アイヌ 北蝦夷地
(樺太)
合計 六箇場所
(松前藩領内)
東蝦夷地
(千島を含む)
西蝦夷地
(樺太を除く)
文化元年(家中寺社共) 1804年 56,461 32,664 23,797 21,697 526 12,227 8,944 2,100
文化年中 1810年頃 58,540 31,740 26,800 450
文政5年 1822年 61,948 37,138 24,810 22,239 472 12,119 9,648 2,571
文政11年 1828年 65,023
天保5年 1834年 67,862
天保10年 1839年 65,263 41,886 23,377 20,771 422 12,900 7,449 2,606
天保11年 1840年 64,346
弘化3年 1846年 70,887
嘉永元年 1848年 20,627 395 10,912 9,320
安政元年 1854年 82,639 63,834 18,805 15,759 377 10,506 5,253 2,669
明治6年 (総人口) 1873年 123,688 105,058 18,630 16,272 259 12,532 3,481 2,358

蝦夷地が天領になってからは和人の人口は増加し始めるが、一方でアイヌの人口は減少の傾向を見せる。これは和人との接触により天然痘梅毒などの感染症が広がったことによる。文化4年(1821年)には蝦夷地の大藩が松前藩へ返却されたが、ペリー来航後の安政2年(1855年)には再び蝦夷地は天領となり、松前藩には陸奥国伊達郡と出羽国村山郡内の飛び地が与えられた。松前藩は慶応4年(1868年)に居城を福山城から館城に移した。明治3年(1870年)旧暦5月調の館藩の族籍別人口は以下の通りである。

館藩の族籍別人口
(明治3年旧暦5月調)
族籍 合計
士族 5,703 2,770 2,933
卒族 3,559 1,780 1,779
社家 122 68 54
僧・修験 459 410 49
平民 69,949 35,196 34,753
総人員 79,792 40,223 39,569

(典拠は葭田光三(1989年)[21]、白山友正 (1971年)[22]、関根達人(2010年)[23]、『新北海道史』)

鹿児島藩(薩摩藩)、奄美群島、琉球の人口変遷

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琉球[注 14]冊封国の建前上、江戸時代の全国人口調査の統計から除外されたが、その一方で鹿児島藩 (薩摩藩)によって琉球の宗門手札改が実施されていた。また、道之島(奄美群島)も明治に入って薩摩国(後に大隅国)に編入されるまで全国人口調査から除外されていたが、慶長18年(1613年)の琉球からの割譲以降鹿児島藩の直轄支配下にあった。これらの地域の人口は本土の人口と共に鹿児島藩の藩政史料として伝わっている。

以下鹿児島藩の総人口とともに奄美群島、「本琉球」[24]の人口をまとめる。幕府がまとめた旧国別人口(#旧国別調査人口の変遷記載の薩摩国、大隅国の人口)と幕府へ報告された領民人口(#江戸時代前期の推定人口変遷に示す『竹橋余筆別集』記載の元禄11年(1698年)と享保17年(1732年)の松平大隅守領人口)などは、鹿児島藩が幕府に報告した領民人口そのものであるが、本表では日向国諸県郡分の人口が判明している享保5年(1721年)分の領民人口のみを採用する。この一例を除き、他の統計はすべて武士、武家奉公人、従者などの除外人口を含む。なお鹿児島藩の人口調査は遺漏が多く、天保年間~幕末の遺漏人口は20万人以上とも推測されている。特に琉球は人頭税逃れのため遺漏が多く、沖縄県発足直後に調査人口がほぼ倍増している。

鹿児島藩、奄美群島、琉球の人口変遷
元号 西暦 鹿児島藩・
琉球国全域
薩隅日三ヶ国合計 道之島(奄美群島) 本琉球 他国
合計 薩摩国 大隅国 日向国
諸県郡
合計 合計
寛永9年 1632年 108,958 53,610 55,348
寛永13年[25] 1636年 302,021 174,911 126,063 148,477 89,821 63,723 111,669 54,496 57,173
万治2年 1659年 112,764 55,721 57,043
寛文5年 1665年 110,241 54,188 56,053
寛文年中 1670年頃 495,915 354,327 178,101 115,459 60,767 31,377 110,211 54,188 56,053
寛文12年 1672年 116,483 57,540 58,943
延宝4年[注 18] 1676年 369,062
延宝5年[注 19] 1677年 380,223 222,139 157,003 122,213 60,558 61,655
貞享元年 1684年 355,387 183,376 117,583 54,428 129,995 64,235 65,760
元禄3年 1690年 128,567 63,430 65,137
元禄11年
領民人口
1698年
 
 
260,961
元禄12年 1699年 141,187 69,195 71,992
宝永3年[注 20] 1706年 666,541 457,806 267,358 194,603 49,472 25,051 24,421 155,108 76,026 79,082 4,155
宝永4年 1707年 155,261
正徳3年 1713年 157,760
享保6年
領民人口
1721年
 
 
303,642
 
173,040
 
130,602
 
149,039
 
112,616
 
41,987
167,671
 
80,009
 
87,662
 
享保7年~享保12年
領民人口
1722年~1727年  
62,304
 
31,086
 
31,218
 
129,642
 
57,685
 
71,957
享保14年 1729年 173,969
享保17年
領民人口
1732年
 
 
339,955
元文2年 1737年 817,635
延享2年 1745年 843,808
宝暦3年 1753年 872,083
宝暦11年 1761年 879,539 188,530
明和9年 1772年 887,222 637,787 74,910 174,211 314
天明6,7年 1786,87年 842,406
寛政6年 1794年 623,627 338,765 284,862
寛政12年 1800年 857,562 626,856 372,573 177,312 76,971 74,593 155,650 463
文政9年 1826年 870,181 651,202 404,774 169,830 76,598 77,667 140,565 747
嘉永5年 1852年 843,906 625,365 393,527 157,111 74,727 85,125 132,678 738
明治4年[注 21] 1871年 727,634 364,427 362,088 457,213 191,334 79,087

諸士、郷士、私領士、及び下人・足軽等を含めた鹿児島藩の武家人口は、明治維新の頃には34万人に達している。

鹿児島藩の身分構成の変遷
身分・地域・職業 延宝5年

(1677年)

貞享元年

(1684年)

宝永3年

(1706年)

明和9年

(1772年)

寛政12年

(1800年)

文政9年

(1826年)

嘉永5年

(1852年)

薩隅日三ヶ国合計 380,223 355,387 457,806 637,787 626,856 651,202 625,365
   人躰士 諸士
72,877
15,061 直士
92,805
32,349 37,075 37,670 37,607
      城下士人躰 2,196 4,149 4,235 4,325 4,487
      郷士人躰 12,865 21,637 22,857 23,231 22,834
      私領家来人躰 6,563 9,983 10,114 10,286
   人躰外士・妻子 三州武士
(人躰士を除く)
61,919
130,666 129,361 134,477 133,087
      城下人躰外士・士妻娘 11,027 11,493 12,469 13,684
      人躰外郷士・郷士妻娘 87,323 83,360 84,908 82,077
      私領家来人躰外・家来妻娘 32,316 34,508 37,100 37,326
   諸士又内・又々内・諸座附 諸座附者
4,468
又内・又々者
74,353
寺社家付門前
13,346

92,167
諸士家来・
寺社家門前・
町・在郷等
278,407
諸士家来・
寺社家門前等
79,682
74,730 61,207 68,818 73,634
      城下士家来・足軽・諸座附・寺社門前 27,725 28,113 35,774 39,922
      郷士下人・足軽・中宿・諸座附・寺社門前 32,902 33,094 17,495 17,541
      私領士家中・足軽・私領居住・寺社門前末々 14,103 15,549 16,171
   福昌寺・飯隈山役人 8 4 101 119
   出家・寺社私領・妙音寺地神盲僧 1,767 1,118 1,742 1,177
   苗代川笠野原 911 1,446 1,413 2,148 1,989
   在郷 167,387 213,169 383,144 328,141 333,727 307,254
   町浜 43,861 56,610 79,681 64,579 67,298 64,591
      鹿児島城下三町 7,023 5,737 5,185 4,941 4,040
      野町・横井野町 9,326 10,700 9,622 10,167 10,433
      浦浜・荒田浜 40,261 62,546 49,772 51,475 49,393
      塩屋 698 510 531
      半浦 205 194
   流人・遠島者・赦免居附 2,850 192 6 97 166
   死苦・慶賀・行脚・乞食 1,081 3,228 3,958 5,024 5,339
   合計不一致[26] –3 –69,238 100 402
道之島 49,472 74,910 74,593 77,667 85,125
   郷士格 47 192 1,566
   寺社 2 1
   在郷 49,302 74,131 76,814 82,782
   流人・遠島者・赦免居附 170 719 660 777
   徳之島乞食 11
琉球国 122,213 129,995 155,108 174,211 155,650 140,565 132,678
   按司・親方・士 14,014 37,323 43,479 50,700 50,091
   家来・下人 13,134 13,409 112,158 14,332 14,656
   寺社 175 211 99 94
   在郷 127,780 123,254 75,418 67,821
   入墨流人 5
   行脚 14 13 16 16
他国 4,155 314 463 747 738
   他国(江戸・京・伏見・大坂・長崎)居付士分 3,109 314 463 747 738
   他国居付百姓 876
   他国牢人 170
総人口 666,541 887,222 857,562 870,181 843,906

(典拠は尾口義男(1998年, 2000年)[27]、『鹿児島県史』)

主な藩の人口調査

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江戸時代中期以降の諸藩の領民人口調査は様々な形で残っているが、調査様式が各藩に任されたため内容・質に差がある。以下武家人口を含めた詳しい人員調査が残っている例として、金沢藩(加賀藩)、仙台藩、熊本藩(肥後藩)、萩藩/山口藩(長州藩)、佐賀藩(肥前藩)、岡山藩(備前藩)、若松藩(会津藩)、高知藩 (土佐藩)、久保田藩/秋田藩、盛岡藩(南部藩)、米沢藩宇和島藩弘前藩(津軽藩)、津和野藩を取り上げる。なお廃藩置県直前の明治初期の藩の人口に関しては、府藩県三治制下の日本の人口統計を参照。また、鹿児島藩(薩摩藩)に関しては、上述の#琉球、奄美群島、鹿児島藩(薩摩藩)の人口変遷を参照。

金沢藩(加賀藩)

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享保6年(1721年)に金沢藩領内(支藩の大聖寺藩富山藩領を除く)の15歳以上の人口を調べた「今津甚四郎書出候人数一巻」によると、金沢藩の15歳以上人口は左下のような身分構成となっている。これに対し幕府へ提出した15歳以上領民人口の構成は右下の通りで、多数の15歳未満人口のほか、御家中6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)、寺社方1万9785人のみならず、百姓・町人人口の内、寺社門前地の百姓・町人、藤内など合計6万6234人も除外人口となっていた実態がうかがえる。

金沢藩の身分別領内人口構成
(享保6年, 15歳以上)
身分 合計
御家中 67,302 37,716 29,586
寺社方 19,785 11,580 8,205
加越能三ヶ国百姓・町人 618,750 314,671 304,079
加越能三ヶ国領内人口 705,837 363,967 341,870
近江国高島郡之内三ヶ村 1,840 918 922
領内人口 707,677 364,885 342,792
金沢藩の旧国別領民人口構成
(享保6年, 15歳以上)
旧国 合計
加賀国三郡 178,392 93,585 84,807
越中国三郡 237,667 123,005 114,662
能登国四郡 136,457 67,582 68,875
近江国高島郡之内三ヶ村 1,840 918 922
領民人口 554,356 285,090 269,266

15歳以上の百姓・町民人口の変遷は以下の通りである。金沢城下町の町方人口については金沢市参照。

金沢藩の百姓・町人人口変遷(15歳以上)
年号 西暦 合計 備考
寛文4年 1664年 514,864 15歳未満を含む
寛文7年 1667年 518,864 15歳未満を含む
享保5年 1720年 551,754
享保6年 1721年 707,677 364,885 342,792 領内人口
554,356 285,090 269,266
享保17年 1732年 576,734
文化10年 1813年 844,054 領内人口
文政11年 1828年 664,934 338,628 326,306
天保5年 1834年 680,938 345,562 335,376
天保11年 1840年 639,592 322,490 317,102
弘化3年 1846年 679,920 343,486 336,434
嘉永5年 1852年 696,307 349,532 346,775

15歳未満の人口も含む明治3年旧暦閏10月10日(西暦1870年12月02日)の金沢藩の族籍別人口は以下の通りで、金沢藩は明治維新の頃に人口が100万人を超えていた唯一の藩である。

金沢藩の族籍別人口
(明治3年旧暦閏10月10日付)
族籍 合計
華族 11 3 8
士族 28,683 13,907 14,776
卒族 27,038 14,655 12,383
中間小者 5,938 3,567 2,371
社人 1,799 953 846
寺院 13,326 9,320 4,006
百姓・町人 997,669 498,585 499,084
藤内等 11,695 5,846 5,849
領内人口 1,086,159 546,836 539,323

(典拠は『加賀藩史料』、土屋喬雄『封建社会崩壊過程の研究』弘文堂(1927年)、『石川県史』)

仙台藩

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以下に支藩の一関藩を含む仙台藩の身分別人口の変遷を示す。仙台藩は中世の地方知行制が幕末まで存続し、万石以上の家臣も5家存在した。その結果「一門・諸士・諸組・諸職人」と称される武家には相当数の陪臣が含まれる。なお享保2年(1717年)の陸奥領と一関藩領の郡方人口は、武家等除外人口を含めたものを掲載している。

仙台・一関藩の身分構成の変遷
身分・地域 寛文8年
(1668年)
延宝2年
(1674年)
貞享3年
(1686年)
元禄3年
(1690年)
元禄8年
(1695年)
元禄15年
(1702年)
享保2年
(1717年)
享保17年
(1732年)
寛保2年
(1742年)
宝暦7年
(1757年)
天明6年
(1786年)
寛政元年
(1789年)
享和2年
(1802年)
文政8年
(1825年)
文政11年
(1828年)
一門・諸士・諸組・諸職人 151,211 176,057 194,203 205,916 185,570 133,174 143,208 149,465
   仙台藩 202,541 182,678 171,639 130,509 140,438 146,352
   一関藩(支藩) 3,375 2,892 2,665 2,770 3,113
仙台町方 18,493 20,073 22,501 22,706 20,374 11,610 13,302 13,749
仙台寺院方 9,209 9,224 2,554 2,884 6,249 4,007 4,496 4,695
郡方 428,955 515,472 557,009 599,241 588,251 617,323 647,427 603,868 447,491 478,064 519,893
   陸奥領 473,892 512,941 507,900 542,268 819,162 559,204 534,901 411,496 409,632 440,799 481,180 490,571
   一関藩領 41,580 25,756 26,694 31,314 26,293 21,877 20,259 21,671 23,032
   近江領 8,332 9,095 9,380 8,917 7,982 8,089 8,129
   常陸領 9,980 10,194 9,840 9,299 7,611 7,358 7,402
   下総領(正徳2年以降)   150 155 143 147 150
総数[26] 607,868 720,826 776,277 819,749 869,846 816,061 596,282 598,001 639,070 687,802 699,334
349,841 414,558 443,060 498,846 464,356 317,460 340,762 363,225
258,027 306,268 333,217 371,000 351,705 278,822 298,308 324,577

城下町仙台以外の地方の町方、寺社方や穢多の人口は郡方人口に含まれる。なお仙台藩陸奥領内郡方人口に関しては、『伊達家勘定方』、『御分領惣人高調』などに寛保2年(1742年)より天保3年(1832年)までほぼ毎年分記載されている。以下一関藩を含め、記録に残っている郡方人口の変遷をまとめる。天明の大飢饉により大幅な人口減少が起こっている。

仙台藩陸奥領内郡方人口、一関藩村方人口の変遷
元号 西暦 陸奥領 一関藩 元号 西暦 陸奥領 一関藩 元号 西暦 陸奥領 一関藩
寛文8年 1668年 428,955 明和元年 1764年 525,391 享和3年 1803年 440,769 21,753
延宝2年 1674年 473,892 明和2年 1765年 525,067 文化元年 1804年 436,763
天和2年 1682年 25,436 明和3年 1766年 524,845 文化2年 1805年 438,237 21,670
貞享3年 1686年 538,697 25,756 明和4年 1767年 525,595 文化3年 1806年 438,658
元禄3年 1690年 507,900 明和5年 1768年 524,023 22,290 文化4年 1807年 436,468
元禄8年 1695年 542,268 26,694 明和6年 1769年 522,759 文化5年 1808年 435,967 21,359
元禄11年 1698年 26,597 明和7年 1770年 520,485 文化8年 1811年 453,070
宝永元年 1704年 26,836 明和8年 1771年 519,557 文化9年 1812年 457,301
宝永3年 1706年 27,785 安永元年 1772年 522,346 文化10年 1813年 458,876
正徳元年 1711年 27,571 安永2年 1773年 519,714 文化11年 1814年 463,724
正徳2年 1712年 27,733 安永3年 1774年 518,691 文化12年 1815年 468,149
正徳4年 1714年 27,759 安永4年 1775年 516,062 22,737 文化13年 1816年 472,030
正徳5年 1715年 28,020 安永5年 1776年 516,481 文化14年 1817年 475,481
享保元年 1716年 28,307 安永6年 1777年 510,249 文政元年 1818年 477,013
享保9年 1724年 27,679 安永7年 1778年 509,112 文政2年 1819年 478,654
享保10年 1725年 27,694 安永8年 1779年 505,798 文政3年 1820年 478,372
享保13年 1728年 27,998 安永9年 1780年 503,931 文政4年 1821年 479,211
元文5年 1740年 26,569 天明元年 1781年 502,124 文政5年 1822年 477,637
寛保2年 1742年 559,204 26,293 天明2年 1782年 22,435 文政6年 1823年 480,670
寛保3年 1743年 26,130 天明3年 1783年 493,245 文政7年 1824年 482,200
延享2年 1745年 26,106 天明4年 1784年 478,894 文政8年 1825年 481,190 23,032
延享4年 1747年 556,887 天明5年 1785年 413,191 文政9年 1826年 482,884
寛延元年 1748年 551,796 天明6年 1786年 411,496 20,259 文政10年 1827年 486,640
寛延2年 1749年 550,158 天明7年 1787年 410,974 文政11年 1828年 490,571
寛延3年 1750年 551,875 25,009 天明8年 1788年 410,196 文政12年 1829年
宝暦元年 1751年 551,000 寛政元年 1789年 409,632 天保元年 1830年 495,744
宝暦2年 1752年 551,367 24,665 寛政2年 1790年 410,401 天保2年 1831年 494,080
宝暦3年 1753年 550,001 寛政3年 1791年 411,173 天保3年 1832年 495,501 23,180
宝暦4年 1754年 541,110 寛政6年 1794年 20,995 天保12年 1841年 19,305
宝暦6年 1756年 539,036 寛政7年 1795年 411,823 嘉永4年 1851年 21,541
宝暦7年 1757年 534,901 21,877 寛政8年 1796年 415,054 嘉永5年 1852年 478,613 21,654
宝暦8年 1758年 517,263 21,875 寛政9年 1797年 423,074 嘉永6年 1853年 486,609 22,227
宝暦9年 1759年 515,430 寛政10年 1798年 425,786 安政元年 1854年 492,988 22,418
宝暦10年 1760年 514,576 寛政11年 1799年 431,488 安政2年 1855年 500,149 22,751
宝暦11年 1761年 512,641 寛政12年 1800年 437,204 文久3年 1863年 540,176
宝暦12年 1762年 513,625 享和元年 1801年 439,125 慶応3年 1867年 556,983
宝暦13年 1763年 530,252 享和2年 1802年 440,799 21,671

以下に一関藩を含めた仙台藩の構成別人口の変遷を示すが、宗門改帳の研究により天保の大飢饉の際の大幅な人口減も示されている[28]

 
仙台藩の陸奥領郡方人口(一関藩を除く)、仙台・一関藩総人口の変遷

戊辰戦争による処分により仙台藩は内高28万石に減封となる。幕末の仙台藩士分(藩主家族、一関藩を除く)は直参家中9854家(一門11家、上士78家、中士(大番士)3314家、下士(諸組士)987家、卒族5464家)、陪隷2万4296家(一門陪臣9028家、上士陪臣8793家、中士陪臣6475家)、合計3万4150家という構成になっていたが[29]、明治2年(1869年)5月の段階で士分3万3128家17万2239人(家中9651家5万6468人、陪隷2万3477家11万5771人)の内、家中1993家9965人と陪隷全員が帰農となった。明治3(1870)年の族籍別人口は以下の通りである。

仙台藩・一関藩の族籍別人口
(明治3年)
族籍 二藩合計 仙台藩 一関藩
華族 10 6 4
士族 31,066 29,408 1,658
14,240 13,091 1,149
神職 830 683 147
僧尼 4,383 4,327 56
平民 214,357 191,244 23,113
穢多 427 396 31
非人 781 742 39
合計 266,094 239,897 26,197

(典拠は玉山勇(1942年)[30]、『岩手県史』、『宮城県史』、高木正朗, 新屋均(2006年)[31]

熊本藩(肥後藩)

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文政11年(1828年)と明治2年(1869年)の熊本藩の身分別・族籍別人口は以下のとおりである。

熊本藩身分別人口(文政11年)
身分構成 人口
士席以上 4,052
独礼以下帯刀以上 15,393
士席浪人格・子弟支配人 272
士席以上育 312
士席支配浪人 279
士席譜代の家来 4,085
独礼以下育・支配 401
社人 722
寺社支配・家来 1,170
坊主・山伏 30,843
百姓 558,257
五ヶ町 32,491
総数 648,277
熊本藩族籍別人口(明治2年)
族籍 合計
知事家族 10 5 5
士族 16,050 8,050 8,000
卒族 71,733 37,219 34,514
従前陪臣 15,867 8,259 7,608
両末家士族卒族 3,354 1,700 1,654
社家 1,785 865 920
僧家 5,416 3,167 2,249
盲人・瞽女 1,208 685 523
商家 36,891 18,738 18,153
農家 557,430 278,846 278,584
穢多 7,073 3,495 3,578
物貰 3,183 1,639 1,544
総数 720,000 362,668 357,332

また、領民人口の変遷は以下の通りである。文政11年の身分別人口と比較すると、総人口64万8277人中百姓55万8257人と五ヶ町(熊本八代川尻高瀬高橋)町方3万2491人の合計59万0748人が幕府へ報告される領民人口として扱われ、武家、寺社方合計5万7529人が計外人口として扱われていたことが分かる。

熊本藩領民人口の変遷
年号 西暦 合計 肥後領 豊後領
寛永10年 1633年 203,678 132,921 101,356
寛永11年 1634年 223,578
寛永年中 1635年頃 223,834 207,209 16,625
寛永14年 1637年 234,277 132,921 101,356 215,019 19,258
天和2年 1682年 394,985
延宝・天和年中 1680年頃 432,032
享保6年 1721年 547,514
享保11年 1726年 559,131 304,313 254,818
享保17年 1734年 560,546
享保19年 1736年 531,248 285,364 245,884 491,911 39,337
元文3年 1738年 536,986
宝暦4年 1754年 520,545
宝暦11年 1761年 525,547 283,415 242,132 480,597 44,950
宝暦12年 1762年 537,102 284,958 252,144 498,034 39,068
明和5年 1768年 547,590 289,851 257,739 506,528 41,062
安永3年 1774年 549,687 289,672 260,015 509,588 40,099
安永9年 1780年 550,404 289,821 260,583 510,541 39,863
天明6年 1786年 528,788 277,472 251,316 489,640 39,148
寛政4年 1792年 532,174 278,509 253,665 493,275 38,899
寛政10年 1798年 535,543 278,535 257,008 496,482 39,061
文化元年 1804年 541,393 281,163 260,230 502,135 39,258
文化5年 1808年 512,575 461,809 50,766
文化7年 1810年 553,351 286,803 266,548 512,891 40,460
文化13年 1816年 569,729 293,954 275,775 528,561 41,168
文政5年 1822年 577,788 298,217 279,571 536,412 41,376
文政11年
総数
1828年
 
590,748
648,277
303,645
 
287,103
 
548,780
 
41,968
 
天保5年 1834年 593,661 304,095 289,566
天保11年 1840年 593,651 303,923 289,728
天保13年 1842年 553,871 282,141 271,730 503,833 50,038
弘化3年 1846年 606,967 309,615 297,352
嘉永5年 1852年 615,520 312,112 303,408
安政5年 1858年 622,869 315,206 307,663 579,931 42,938
明治2年
総数
1869年
 
594,321
720,000
297,584
362,668
296,737
357,332

(典拠は『熊本県史』、『肥後読史総覧』、鎌田浩『熊本藩の法と政治』創文社(1998年)、『新熊本市史』)

萩藩/山口藩(長州藩)

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元禄7年(1694年)の萩藩の身分別人口と、防長領国を構成する各藩(萩藩と、その支藩である長府藩清末藩徳山藩岩国藩)の町在共人口を以下にまとめる。

萩藩の身分別人口 (元禄7年)
身分 合計
家中 54,295 29,122 25,173
   諸士 9,883 5,433 4,450
   足軽中間 7,394 4,018 3,376
   又家来 37,018 19,671 17,347
寺社方 4,013 n.a. n.a.
   寺持出家 1,018 n.a. n.a.
   同宿 1,598 n.a. n.a.
   道心者 741 n.a. n.a.
   比丘尼 179 n.a. n.a.
   社人 271 n.a. n.a.
   山伏 80 n.a. n.a.
   座頭 35 n.a. n.a.
   地神経座頭 68 n.a. n.a.
   後施(瞽女) 23 n.a. n.a.
町在共 275,511 148,617 126,894
   萩町町方 13,284 7,109 6,175
   在方百姓 262,227 141,508 120,719
穢多 1,748 995 753
総人口 335,567 178,734 152,820
防長両国の藩別町在共人口構成(元禄7年)
本藩・
支藩
町在共人口 在方 町方
合計 合計 合計
萩藩 275,511 148,617 126,894 262,227 141,508 120,719 13,284 7,109 6,175
長府藩 56,960 29,968 26,992 54,835 28,802 26,033 2,125 1,166 959
清末藩 10,715 5,595 5,120 10,200 5,320 4,880 515 275 240
徳山藩 23,164 12,502 10,662 15,670 8,443 7,227 7,494 4,059 3,435
岩国藩 52,477 26,179 26,298 45,958 22,936 23,022 6,519 3,243 3,276
防長合計 418,827 222,861 195,966 388,890 207,009 181,881 29,937 15,852 14,085

さらに約100年後の寛政4年(1797年)の萩藩の身分別人口と、防長領国を構成する各藩の家中人口を以下にまとめる。

萩藩の身分別人口(寛政4年)
身分 合計
領内家中 44,349 23,369 20,980
   諸士 10,813 5,374 5,439
   足軽中間 9,752 5,329 4,423
      手職人 508 265 243
      足軽 1,732 920 812
      中間 7,512 4,144 3,368
   又家来 23,784 12,666 11,118
寺社方 9,531 6,444 3,087
   寺院知行寺地下寺僧 3,876 3,876
   寺院方支配俗人 2,470 850 1,620
   社家社料持並下社家地下社人 2,131 1,113 1,018
   山伏盲僧他支配山伏 463 301 162
   代官所宗門者 591 304 287
萩町町方 11,107 5,859 5,248
町在方 403,257 208,053 195,204
   町方(浜崎・山口三田尻 10,674 5,316 5,358
   百姓 392,583 202,737 189,846
      地方本百姓 224,021 116,133 107,888
      地方門男男女    139,849 71,859 67,990
      浦方本百姓 15,045 7,806 7,239
      浦方門男男女 13,668 6,939 6,729
旅人 2,416 1,437 979
穢多 3,226 1,697 1,529
宮番 757 384 373
茶筅 748 387 361
非人 1,114 593 521
萩藩内総数 476,505 248,223 228,282
江戸定居 212 52 160
大坂定居 87 43 44
萩藩総数 476,804 248,318 228,486
防長両国の藩別家中人口構成(寛政4年)
身分 防長合計 萩藩 長府藩 清末藩 徳山藩 岩国藩
合計 合計 合計 合計 合計 合計
領内家中 64,789 34,000 30,599 44,349 23,369 20,980 6,200 3,201 2,999 1,527 777 750 4,515 2,350 2,165 8,198 4,303 3,705
   諸士 17,025 8,547 8,478 10,813 5,374 5,439 1,614 833 781 780 399 381 1,519 767 752 2,299 1,174 1,125
   弓之者 614 318 296 614 318 296
   手職人 830 426 404 508 265 243 177 90 87 145 71 74
   足軽 6,668 3,441 3,227 1,732 920 812 1,669 858 811 317 164 153 640 334 306 2,310 1,165 1,145
   中間 10,540 5,613 4,737 7,512 4,144 3,368 1,616 847 769 326 159 167 896 463 433 190
   荒仕子 457 250 207 457 250 207
   又家来 28,655 15,405 13,250 23,784 12,666 11,118 1,301 663 638 104 55 49 826 446 380 2,640 1,575 1,065
江戸定居 473 135 236 212 52 160 92 44 48 13 7 6 54 32 22 102
   諸士 273 71 185 174 30 144 37 17 20 7 4 3 38 20 18 17
   手職人 44 25 19 38 22 16 6 3 3
   足軽 118 38 30 52 26 26 6 3 3 10 9 1 50
   中間 38 1 2 3 1 2 35
   又家来 41 25 16 19 10 9 22 15 7
大坂定居 118 57 43 77 43 34 9 5 4 0 0 0 14 9 5 18
   諸士 32 15 12 19 11 8 3 1 2 5 3 2 5
   足軽 69 34 27 58 32 26 3 2 1 8
   中間 12 4 3 7 4 3 5
   又家来 5 4 1 3 2 1 2 2 0
家中総数 65,380 34,192 30,878 44,638 23,464 21,174 6,301 3,250 3,051 1,540 784 756 4,583 2,391 2,192 8,318 4,303 3,705

明治2年(1869年)の族籍別人口は以下の通りで、萩藩陪臣2万5487人[32]はこの段階では士族か卒族か決まってなかった。しかしながら明治5年(1872年)の壬申戸籍では山口県全体で士族の人口は7万1776人となっており、最終的に足軽・中間・陪臣を含め、ほぼ全ての旧武家階級が士族になっている。

防長両国の族籍別人口(明治2年)
族籍 防長合計 山口藩 豊浦藩 清末藩 徳山藩 岩国藩
華族 26 7 3 9 4 3
士族 20,710 11,589 2,556 844 2,003 3,718
22,575 10,362 4,910 677 2,147 4,479
神職 3,356 2,277 412 85 150 432
僧尼 8,727 6,131 1,037 122 345 1,092
平民 729,289 524,322 66,999 9,199 50,547 78,222
穢多 13,239 10,419 509 38 649 1,624
非人 1,631 261 461 78 8 823
合計 799,553 565,368 76,887 11,052 55,853 90,393

また、防長二ヶ国の領民人口の変遷を以下にまとめる。享保6年(1721年)以降、6年毎に幕府へ支藩を含めた領民人口を報告することが義務付けられ(享保6年分として萩藩より報告されているものは実際は享保5年(1720年)の人口)、萩藩には幕府が人口集計を中断した嘉永5年(1852年)以降の分の集計も残っている。萩藩の場合、武家・武家奉公人等家中、寺社方・寺社方支配場、萩町町方、乞食・非人、領内に籍を置かない旅人の人口は除外したが、浜崎・山口三田尻の町方、農民(地方)・漁民(浦方)の本百姓・門男(水呑百姓)、穢多・宮番・茶筅の人口は領民人口に含めていた。また、人口の減少の責を免れるため、藩主の了解のもと幕府報告の際に度々人口を改竄していたことが『公儀事諸控』の記録より判明している。例えば延享3年(1750年)には6000人の人口水増しを行っている。その6年後の宝暦6年(1756年)の領民人口も、各藩の合計48万2278人と幕府報告人口52万4646人が一致しない。

防長両国の領民人口の変遷
年号 西暦 防長合計 旧国別 藩別
合計 長門 周防 萩/山口藩 長府/豊浦藩 清末藩 徳山藩 岩国藩
寛文3年 1663年 204,331
元禄7年
総数
1694年
 
418,827
 
222,861
 
195,966
 
275,511
335,567
56,960
 
10,715
 
23,164
 
52,477
 
享保5年 1720年 475,051 251,425 223,626 212,124 262,927
享保11年 1726年 461,040 252,293 208,747 200,218 260,822
享保17年 1732年 486,485 266,182 220,303 216,395 270,090
元文3年 1738年 475,845 255,693 220,152 207,424 268,421
延享元年 1744年 521,531 276,212 245,319 228,384 293,147
寛延3年
改竄前
1750年
 
516,326
510,326
274,934
271,707
241,392
238,619
226,934
225,005
289,392
285,321
宝暦6年 1756年 524,646 277,542 247,104 233,312 291,334 366,665 54,953 8,339 39,099 68,175
宝暦12年 1762年 505,599 268,637 236,962 216,249 289,350
明和5年 1768年 524,912
安永3年 1774年 524,072 279,758 244,314 223,204 300,868 40,112
安永8年 1779年 424,404
安永9年
総数
1780年
 
549,072
612,479
284,413
 
264,659
 
226,995
 
322,077
 
38,959
 
天明3年 1783年 421,500
天明6年 1786年 585,837 304,918 280,919 241,037 344,800 416,826 52,163 7,868 39,389 69,591
天明8年 1788年 402,637
寛政2年 1790年 402,249
寛政3年 1791年 403,082
寛政4年
総数
1792年
 
592,031
 
309,058
 
282,973
 
240,921
 
351,110
 
403,257
476,505
40,082
 
寛政9年 1797年 406,479
寛政10年 1798年 602,527 314,266 288,261 245,020 357,507 52,191 8,312 42,048
文化元年 1804年 605,773 318,910 286,863 247,012 358,761 52,325 8,385 40,826
文化4年 1807年 408,620
文化7年 1810年 622,165 52,556 8,197
文化9年 1812年 420,953
文化13年 1816年 647,451 44,215
文化14年 1817年 434,187
文政5年 1822年 647,899 339,812 308,087 250,063 397,836 435,381
文政6年 1823年 436,291
文政7年 1824年 436,403
文政8年 1825年 438,538
文政9年 1826年 439,296
文政10年 1827年 465,887
文政11年 1828年 686,936 358,279 328,658 257,607 429,329
天保2年 1831年 469,198
天保3年 1832年 472,482
天保4年 1833年 473,714
天保5年 1834年 695,369 363,180 332,189 259,171 436,198 475,609 47,156
天保6年 1835年 476,764
天保8年 1837年 472,580
天保10年 1839年 466,342
天保11年 1840年 665,549 346,562 318,987 251,779 413,630 467,285
天保13年 1842年 459,204
天保14年 1843年 461,166
弘化元年 1844年 464,118
弘化3年 1846年 696,288 364,591 331,697 261,100 435,188
弘化4年 1847年 471,327
嘉永5年 1852年 706,888 367,758 339,130 266,165 440,723 477,576
安政2年 1855年 482,636
安政3年 1856年 484,937
安政4年 1857年 486,157
安政5年 1858年 720,630 375,015 345,615 271,887 448,743 488,885 61,657 8,130
文久元年 1861年 489,238
文久2年 1862年 485,973
文久3年 1863年 480,381
元治元年 1864年 476,121
慶応元年 1865年 496,575
慶応2年 1866年 497,885
慶応3年 1867年 487,401
慶応4年 1868年 488,655
明治2年
総数
1869年
 
 
799,553
490,095
565,368
 
76,887
 
11,052
 
55,853
 
90,393
明治3年 1870年 500,841

(典拠は石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』山五青写真工業(2005年))

佐賀藩(肥前藩)

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佐賀藩では本藩と小城藩蓮池藩鹿島藩の各支藩を含めた領地について、武家人口を含めた領内総人口の統計を残している。天明6年(1786年)、安政元年(1854年)、元治元年(1864年)については幕府へ届け出た領民人口が分かっており、計外人口は、天明6年に約14万2500人、安政元年に19万5606人、元治元年に18万3683人と求まる。また、享保17年(1732年)の享保の大飢饉を挟む享保16年(1731年)と享保19年(1734年)の間に6万人前後の人口減少が起こっている。記録によると、享保18年(1730年)3月までに多久領で3866人、鹿島藩領で1359人の餓死者が出たとされる。

佐賀本藩・支藩領内総人口変遷
元号 西暦 合計
延宝3年 1675年 305,040
延宝4年 1676年 307,669 190,986 116,683
貞享4年 1687年 329,881 203,628 126,266
元禄12年 1699年 352,470
元禄13年 1700年 354,961 217,004 137,957
宝永3年 1706年 363,107 220,248 142,859
宝永4年 1707年 360,840 218,762 142,078
正徳3年 1713年 365,381 220,714 144,667
享保8年 1723年 367,619 219,792 147,827
享保15年 1730年 373,196
享保16年 1731年 371,956 220,555 151,401
享保19年 1734年 292,110 165,884 126,226
宝暦10年 1760年 352,804 201,184 151,620
明和3年 1766年 361,644 205,576 156,068
天明6年 (領民人口) 1786年 219,571 120,697 96,874
寛政3年 1791年 362,294 201,302 160,992
文政4年 1821年 366,877 197,862 169,015
天保15年 1844年 392,100
弘化2年 1845年 402,039 211,530 190,509
安政元年
領民人口
1854年
 
440,932
245,326
元治元年
領民人口
1864年
 
434,764
251,081
225,405
130,294
209,359
120,787
明治3年 1870年 513,449 265,950 247,499

初期の佐賀藩では出入国を禁じる政策を取っていたが、炭鉱の開発が進んだ天保年中より他国からの人口流入が引き起こり、安政元年(1854年)の頃には領内本籍者40万2769人に対し、他国者が3万8163人に増えていた。急激な人口増加傾向は幕末から明治維新まで続いている。

佐賀本藩・支藩領内人口(安政元年)
内訳 人口
武家 155,487
   御城下 6,373
   諸方詰人 600
   諸家来 148,514
寺社家 1,956
百姓・町人人口 245,326
   町屋 (佐賀町方) 13,711
   諸津 14,239
   農工商 217,376
本領 402,769
他領者 38,163
総人口 440,932
佐賀本藩・支藩領内人口(明治3年)
族籍 本藩・支藩合計 佐賀藩 小城藩 蓮池藩 鹿島藩
合計 合計 合計 合計 合計
士族 30,278 15,247 15,031 23,823 12,072 11,751 3,041 1,532 1,509 1,770 865 905 1,644 778 866
卒族 53,386 27,399 25,987 43,488 22,334 21,154 4,488 2,334 2,154 3,562 1,810 1,752 1,848 921 927
社家 1,113 543 570 850 418 432 126 64 62 90 38 52 47 23 24
僧尼 4,952 3,583 1,369 4,412 3,190 1,222 173 131 42 219 151 68 148 111 37
修験 70 28 42 23 11 12 47 17 30
百姓・町人 423,395 219,012 204,383 354,450 183,517 170,933 33,332 17,556 15,776 25,624 12,897 12,727 9,989 5,042 4,947
穢多 218 116 102 97 57 40 84 40 44 37 19 18
非人 37 22 15 5 3 2 32 19 13
合計 513,449 265,950 247,499 427,023 221,531 205,492 41,285 21,688 19,597 31,349 15,801 15,548 13,792 6,930 6,862

(典拠は城島正祥(1973年)[33]

岡山藩(備前藩)

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宝永4年(1707年)旧暦6月15日の支藩(生坂藩鴨方藩)を含めた岡山藩の身分別人口は以下の通りである。なお岡山藩の人別は年齢2歳以上で集計されており、当歳新生児は除外されている。

岡山藩の身分構成(宝永4年, 2歳以上)
内訳 合計
御城女中 70 0 70
家中 10,027 5,137 4,890
在中 334,668 175,246 159,422
鹿久居流人・郡方牢舎人 187 168 19
町中 28,298 14,299 13,999
乞食 346 184 162
寺社 7,932 4,598 3,334
御国者合計 381,528 199,632 181,896
他国者 1,497 926 571
惣人数 383,025 200,558 182,467

岡山藩では以上のような本籍地による宗門改帳からの人口集計とは別に、現住地による人別帳からの人口集計も実施していた。

使用人を含めた武家人口は、家中人口1万0027人に町方・在方帳面者、他国者を加えた2万2628人である。

岡山藩の家中・又者人口(宝永4年, 2歳以上)
内訳 家中・又者人口 家中帳面者 町方・在方帳面者 他国者
合計 合計 合計 合計
峰千代丸家来中・
年寄中五人家来中・
善太郎家来中
5,537 3,125 2,412 2,676 1,341 1,335 2,768 1,735 1,033 93 49 44
番頭より中小姓格まで知行取・無足753家 9,012 4,743 4,269 3,944 1,945 1,999 4,833 2,668 2,165 235 130 105
士鉄砲・忍び・御徒等762家 3,453 1,676 1,777 2,211 1,173 1,038 1,209 479 730 33 24 9
足軽・楫取・加子・小人等436家 3,130 2,682 448 603 332 271 2,511 2,337 174 16 13 3
丹波守(生坂藩)家来中・
内匠(鴨方藩)家来中・
主膳家来中
1,496 984 512 593 346 247 849 589 260 54 49 5
惣人数 22,628 13,210 9,418 10,027 5,137 4,890 12,170 7,808 4,362 431 265 166

武家屋敷と寺社地を除く岡山城下の人口は、城下に居住しない町方帳面者を含めて3万0635人であり(両山乞食346人を除く)、城下町を除く備前・備中国内領地の郡村の人口は、武家や町中に居住している在方帳面者を含めて33万5462人である。寺社方を含めた在町人口の総計は、37万5724人で、以下その内訳をまとめる。

岡山藩城下町町方人口(宝永4年, 2歳以上)
内訳 人口
内訳 人口
町方帳面者 28,298 14,299 13,999
   町中居住 24,448 12,631 11,817
   家子 35 17 18
   奉公人 2,981 1,412 1,569
      足軽・中間等 223 223
      諸家中奉公人 1,803 676 1,127
      寺社方奉公人 27 21 6
      在方奉公人 160 77 83
      町方奉公人 753 403 350
      他所奉公人 15 12 3
   奉公人家族 834 239 595
町中居住在方帳面者 353 169 184
召抱下人 1,984 1,259 725
   家中帳面者(町中賃貸居住) 16 13 3
   在方帳面者 1,810 1,114 696
   他国者 158 132 26
惣人数 30,635 15,727 14,908
両山乞食 346 184 162
合計 30,981 15,911 15,070
岡山藩の寺社地・宗教関係者人口(宝永4年, 2歳以上)
内訳 人口
僧・神官・修験 7,926 4,594 3,332
   出家 1,008 1,008
   社務・祠官・祝部・神職・禰宜・神人 543 543
   山伏・陰陽師 246 246
   神子・比丘尼 457 457
   家内 5,672 2,797 2,875
穢多 6 4 2
寺社方帳面者合計 7,932 4,598 3,334
客僧 50 50 0
下人 1,299 1,072 227
   町方帳面者 1,222 1,007 215
   他国者 77 65 12
惣人数 9,281 5,720 3,561
岡山藩の在方居住人口(宝永4年, 2歳以上)
内訳 人口
作方 260,119 131,584 128,535
譜代家子 2,609 1,348 1,261
奉公人 32,672 20,501 12,171
   足軽等 2,269 2,174 95
   諸家中奉公人 6,288 4,105 2,183
   町方・在方奉公人 23,590 13,932 9,658
   賃貸居住者 525 290 235
商人・諸職人 12,629 7,164 5,465
漁猟師等 21,201 11,626 9,575
座頭・瞽女・盲目 399 307 92
医者・針立 199 199 0
寺社方不入の道心者・比丘尼・陰陽師 31 12 19
穢多・こんねん 4,822 2,505 2,317
在方帳面者 334,681 175,246 159,435
他国者 794 414 367
在方居住者 335,462 175,660 159,802

以上、岡山藩の武家人口が判明しているのは宝暦4年(1707年)分のみである。以下に岡山藩の領民人口の変遷をまとめる。備前八郡とは御野郡上道郡邑久郡和気郡磐梨郡赤坂郡津高郡児島郡、備中五郡とは浅口郡の内、窪屋郡の内、下道郡の内、都宇郡の内、賀陽郡の内である。

岡山藩の領民人口変遷
年号 西暦 町在共人口 在方人口 備考
合計 合計 備前八郡 備中五郡
明暦元年 1655年 250,096
寛文5年 1665年 307,241 159,101 148,140
延宝3年 1675年 316,019 163,275 152,744
延宝7年 1679年 279,765 146,527 133,238 244,180 35,585
延宝8年 1680年 317,096
宝永3年 1706年 337,661 2歳以上
宝永4年 1707年 375,724 197,293 178,431 335,462 175,660 159,802 290,721 44,741 2歳以上
享保6年 1721年 366,867 192,743 174,124 338,513 28,354 2歳以上
享保11年 1726年 374,453 197,055 177,398 345,068 28,914 2歳以上
享保17年 1732年 396,469 368,680 2歳以上
元文3年 1738年 368,343 194,439 173,904 2歳以上
明和2年頃 1765年頃 357,007 189,855 167,152 2歳以上
寛政10年 1798年 369,778 199,036 170,742 2歳以上
文化元年/文化9年 1804年/1812年 366,665 198,262 168,403 2歳以上(町方人口は文化9年の分)
天保5年 1834年 346,866 186,449 160,417 318,207 28,219 2歳以上
明治2年 1869年 341,235 179,734 161,501

(典拠は『岡山市史』、『岡山県史』、金井圓(1953年)[34]谷口澄夫『岡山藩政史の研究』塙書房(1964年))

若松藩(会津藩)

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以下に若松藩の身分別人口の変遷をまとめる。若松藩は奥越両地域(陸奥国会津郡耶麻郡大沼郡河沼郡安積郡、越後国蒲原郡など)に領地を有するほか、越後、陸奥(南山御蔵蔵入地)に預地を有していた。この内越後御預地については、享保9年(1724年)以降越後国魚沼郡蒲原郡の内7万石を預かっていたが、文化8年(1811年)に幕府直領となり、その後小千谷を中心とする1万石を再び越後国御預地として受領することとなる。一方南山御蔵入地は陸奥国大沼郡、会津郡、岩瀬郡及び下野国塩谷郡に広がっていた。なお文化2年(1805年)の諸士・諸奉公人・諸士家来人口は『会津家世実記』記載の概数である。

若松藩の身分構成の変遷
身分・地域 延宝5年
(1677年)
延宝6年
(1678年)
正徳2年
(1712年)
正徳3年
(1713年)
享保17年
(1732年)
宝暦元年
(1751年)
宝暦8年
(1758年)
天明7年
(1787年)
天明8年
(1788年)
文化2年
(1805年)
文政2年
(1819年)
天保7年
(1836年)
安政5年
(1858年)
領内総人口 196,125 185,604 158,973
会津差置諸士・諸奉公人・諸士家来 14,239 14,719 23,136 18,689
   諸士 3,026 3,158 独礼以上
7,350
   給知之諸士 487 717
   通目見之者 1,471 1,710 1,750
   通目見以下之者 8,665 8,638 年割以下
軽々迄
13,972
   無格扶持方為取候類 64 27
   見禰屋山社家 69 56
   諸士之家来 457 400
   奥方女 13 60
郷中・金山 161,912
(内、郷村
154,766)
郷村のみ
156,706
郷村のみ
166,550
181,886
(内、郷村
159,849)
154,807
(内、郷村
150,066)
郷村のみ
139,418
郷村のみ
116,421
郷村のみ
116,441
郷村のみ
122,433
129,674
   陸奥国領 137,012 郷村
128,284,
非人1,084
   越後国領 17,631
   金山 164 306
若松城下町町方 20,832 16,078 11,700 11,670 10,610
江戸差置諸士・奥方 1,569
御預地 52,572 59,948 59,237 145,561 141,254
   陸奥御預地(南山御蔵入領) 52,572 59,948 59,237 56,916 53,759 49,365 40,174 39,970 41,722 41,815
   越後御預地   88,696 87,495
総人口 341,686 328,427 225,774

また、若松藩の郷村人口の変遷が『会津家世実記』に長年に渡って断続的に記載されている。これらの人口は若松藩直領地の郷村の人口のみを含み、郷中の計外人口(寺社方・賤民)や家中人口、若松城下町町方人口、諸預地(南山御蔵入領・越後御預地)の人口は含まれない。

若松藩郷村人口の変遷
元号 西暦 合計 元号 西暦 合計 元号 西暦 合計
慶安元年 1648年 113,000 享保13年 1728年 163,119 88,775 74,344 明和8年 1771年 135,413 70,556 64,857
慶安2年 1649年 103,628 56,645 46,988 享保14年 1729年 163,293 88,673 74,620 安永元年 1772年 134,375 70,239 64,136
慶安3年 1650年 106,423 58,104 48,319 享保15年 1730年 162,917 88,366 74,551 安永2年 1773年 134,567 70,490 64,077
寛文8年 1668年 141,024 享保16年 1731年 161,282 安永3年 1774年 134,803 70,565 64,238
寛文9年 1669年 142,527 79,212 66,315 享保17年 1732年 159,849 86,571 73,278 安永4年 1775年 134,745 70,394 64,351
延宝2年 1674年 149,485 83,233 66,252 享保18年 1733年 160,422 86,686 73,736 安永5年 1776年 134,538 70,409 64,129
延宝3年 1675年 152,271 84,882 67,389 享保19年 1734年 160,187 86,589 73,598 安永6年 1777年 131,180 68,547 62,633
延宝4年 1676年 153,526 85,125 68,401 享保20年 1735年 159,297 85,929 73,368 安永7年 1778年 130,768 68,292 62,476
延宝5年 1677年 154,766 85,688 69,078 元文元年 1736年 159,055 85,756 73,299 安永8年 1779年 130,575 68,223 62,352
延宝6年 1678年 156,706 86,924 69,782 元文3年 1738年 157,721 84,547 73,174 安永9年 1780年 130,570 68,221 62,349
延宝7年 1679年 157,935 87,477 70,458 元文4年 1739年 156,258 83,718 72,540 天明元年 1781年 129,123 67,190 61,933
延宝8年 1680年 158,630 87,973 70,657 元文5年 1740年 156,718 83,851 72,867 天明2年 1782年 128,034 66,448 61,586
天和元年 1681年 158,827 寛保元年 1741年 154,806 82,699 72,107 天明3年 1783年 127,868 66,362 61,506
天和2年 1682年 158,847 寛保2年 1742年 153,448 天明4年 1784年 126,998 65,944 61,054
貞享元年 1684年 157,228 87,347 69,881 寛保3年 1743年 153,472 81,877 71,595 天明5年 1785年 117,937 60,305 57,632
貞享2年 1685年 157,836 87,764 70,072 延享元年 1744年 153,461 81,160 71,701 天明6年 1786年 116,993 59,655 57,338
貞享3年 1686年 159,003 88,408 70,595 延享2年 1745年 153,616 81,935 71,681 天明7年 1787年 116,421 59,359 57,062
貞享4年 1687年 160,021 89,039 70,982 延享3年 1746年 153,634 81,859 71,775 天明8年 1788年 116,441 59,473 56,968
元禄2年 1689年 161,912 延享4年 1747年 152,805 81,330 71,475 寛政元年 1789年 116,924 59,696 57,228
元禄4年 1691年 163,334 90,851 72,483 寛延元年 1748年 150,996 80,322 70,674 寛政2年 1790年 118,325 60,973 57,352
元禄5年 1692年 163,821 91,171 72,650 寛延2年 1749年 150,220 79,926 70,294 寛政3年 1791年 117,498 60,509 56,989
元禄7年 1694年 165,970 寛延3年 1750年 150,253 80,015 70,238 寛政4年 1792年 117,746 60,487 57,259
元禄10年 1697年 163,838 91,276 72,562 宝暦元年 1751年 150,066 79,777 70,289 寛政5年 1793年 121,052 62,428 58,624
元禄11年 1698年 163,886 91,326 72,560 宝暦2年 1752年 150,027 79,707 70,320 寛政6年 1794年 121,953 62,902 59,051
元禄12年 1699年 165,134 91,959 73,175 宝暦3年 1753年 150,013 79,803 70,210 寛政7年 1795年 122,489 63,225 59,264
元禄13年 1670年 164,462 91,670 72,792 宝暦4年 1754年 148,281 78,949 69,332 寛政8年 1796年 123,218 63,538 59,680
宝永3年 1706年 167,144 93,002 74,142 宝暦5年 1755年 147,046 78,059 68,987 寛政9年 1797年 123,254 63,499 59,755
宝永4年 1707年 167,532 93,191 74,341 宝暦6年 1756年 146,546 77,702 68,844 寛政10年 1798年 122,683 63,161 59,522
宝永5年 1708年 167,829 92,459 75,370 宝暦7年 1757年 142,165 74,957 67,208 寛政11年 1799年 123,003 63,114 59,889
正徳3年 1713年 166,550 宝暦8年 1758年 139,418 73,496 65,922 寛政12年 1800年 123,922 63,614 60,308
享保元年 1716年 168,879 宝暦9年 1759年 135,940 71,359 64,581 享和元年 1801年 124,253 63,821 60,432
享保2年 1717年 168,879 92,768 76,111 宝暦10年 1760年 131,808 68,538 63,270 享和2年 1802年 124,449 63,955 60,494
享保3年 1718年 169,217 92,912 76,305 宝暦11年 1761年 133,138 69,656 63,482 享和3年 1803年 124,442 63,954 60,488
享保4年 1719年 167,618 宝暦12年 1762年 133,319 69,695 63,624 文化元年 1804年 122,419 63,147 59,272
享保5年 1720年 165,785 宝暦13年 1763年 133,489 69,614 63,875 文化2年 1805年 122,433 63,069 59,364
享保6年 1721年 165,486 明和元年 1764年 132,839 69,263 63,576 文化12年 1815年 127,097
享保7年 1722年 165,375 明和2年 1765年 133,232 69,381 63,851 文化14年 1817年 126,945
享保8年 1723年 165,859 明和3年 1766年 133,864 69,864 64,000 文政2年 1819年 128,284
享保9年 1724年 166,224 明和4年 1767年 134,189 69,913 64,276 天保4年 1833年 129,476
享保10年 1725年 163,914 89,387 74,527 明和5年 1768年 134,730 70,401 64,329 天保5年 1834年 129,912
享保11年 1726年 163,174 89,201 73,973 明和6年 1769年 135,073 70,480 64,593 天保6年 1835年 128,674
享保12年 1727年 163,044 88,823 74,221 明和7年 1770年 135,267 70,611 64,656

会津藩士は蛤御門で27人、戊辰戦争で2977人(農兵や非戦闘要員を含む)、合計3004人が戦死・殉難している。戊辰戦争による処分により、旧南山御蔵入領を含む若松藩領には若松県が設置され、越後御預地は隣接する各県に分割された。明治3年(1870年)の若松県の人口は19万9211人(神職2942人、僧尼1160人、平民19万4260人、穢多788人、非人61人)。一方明治3年(1870年)5月の若松県からの上申書によると、旧若松藩藩士約2万人の内、新たに陸奥国北郡三戸郡二戸郡に設置された斗南藩へ移住した者は約1万4800人、若松県内で帰農した者は約2000人、東京に上京した者約1200人、態度保留約2000人とされている。一方青森県側の資料によると、4332戸1万7327人が斗南へ移住したとされる。移住先の明治3年(1870年)の斗南藩の人口は7万5467人である。

(典拠は『会津藩家世実紀』、『会津鑑』、『若松市史』、『会津若松市史』、『野辺地町史』、佐瀬剛『戊辰殉難名簿』戊辰殉難者七十年祭典 (1937年)、松枝茂『会津藩の人口政策』山一書房 (1943年)、川口洋 (1998年)[35]

高知藩 (土佐藩)

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高知藩の総人口は『土佐史料』の「楠目氏覚書」を始めとして、天和元年(1681年)から寛政10年(1798年)までの連続118年分等が伝わっている。高知藩は明暦2年(1656年)から元禄2年(1689年)まで分藩していた中村藩幡多郡を再併合することにより、以降幕末まで土佐一国全土のみを領有する藩となる。よって今日の高知県県境内の本籍人口が元禄2年(1689年)まで遡ることができる。

高知藩(土佐国)の総人口の変遷
元号 西暦 総人口 元号 西暦 総人口 元号 西暦 総人口 元号 西暦 総人口
天和元年 1681年 327,971 正徳元年 1711年 395,892 寛保3年 1743年 413,194 安永4年 1775年 434,909
天和2年 1682年 315,412 正徳2年 1712年 400,378 延享元年 1744年 412,621 安永5年 1776年 436,510
天和3年 1683年 316,587 正徳3年 1713年 402,495 延享2年 1745年 411,297 安永6年 1777年 435,098
貞享元年 1684年 324,086 正徳4年 1714年 401,079 延享3年 1746年 409,938 安永7年 1778年 438,071
貞享2年 1685年 329,856 正徳5年 1715年 400,144 延享4年 1747年 409,124 安永8年 1779年 440,344
貞享3年 1686年 336,513 享保元年 1716年 397,525 寛延元年 1748年 407,907 安永9年 1780年 439,078
貞享4年 1687年 341,097 享保2年 1717年 397,121 寛延2年 1749年 406,812 天明元年 1781年 441,832
元禄元年 1688年 346,272 享保3年 1718年 398,804 寛延3年 1750年 408,417 天明2年 1782年 442,917
元禄2年
中村藩
合計
1689年
 
 
357,948
21,181
379,129
享保4年 1719年 399,921 宝暦元年 1751年 408,422 天明3年 1783年 442,991
享保5年 1720年 399,167 宝暦2年 1752年 408,904 天明4年 1784年 445,828
享保6年 1721年 404,573 宝暦3年 1753年 411,633 天明5年 1785年 432,907
元禄3年 1690年 387,933 享保7年 1722年 407,980 宝暦4年 1754年 411,782 天明6年 1786年 432,203
元禄4年 1691年 393,116 享保8年 1723年 409,263 宝暦5年 1755年 412,898 天明7年 1787年 430,075
元禄5年 1692年 387,404 享保9年 1724年 413,390 宝暦6年 1756年 418,365 天明8年 1788年 425,422
元禄6年 1693年 394,734 享保10年 1725年 417,911 宝暦7年 1757年 416,069 寛政元年 1789年 422,437
元禄7年 1694年 402,059 享保11年 1726年 419,922 宝暦8年 1758年 420,146 寛政2年 1790年 421,840
元禄8年 1695年 406,899 享保12年 1727年 422,640 宝暦9年 1759年 422,662 寛政3年 1791年 425,216
元禄9年 1696年 409,715 享保13年 1728年 421,462 宝暦10年 1760年 425,401 寛政4年 1792年 427,181
元禄10年 1697年 411,428 享保14年 1729年 420,070 宝暦11年 1761年 427,998 寛政5年 1793年 430,415
元禄11年 1698年 409,596 享保15年 1730年 421,756 宝暦12年 1762年 431,446 寛政6年 1794年 431,772
元禄12年 1699年 405,006 享保16年 1731年 418,174 宝暦13年 1763年 432,810 寛政7年 1795年 434,765
元禄13年 1700年 408,626 享保17年 1732年 418,498 明和元年 1764年 435,083 寛政8年 1796年 438,306
元禄14年 1701年 409,035 享保18年 1733年 406,991 明和2年 1765年 435,787 寛政9年 1797年 438,111
元禄15年 1702年 405,265 享保19年 1734年 401,156 明和3年 1766年 428,810 寛政10年 1798年 440,362
元禄16年 1703年 393,500 享保20年 1735年 404,236 明和4年 1767年 426,767 文政5年 1822年 479,281
宝永元年 1704年 388,884 元文元年 1736年 407,000 明和5年 1768年 429,651 天保12年 1841年 501,877
宝永2年 1705年 387,267 元文2年 1737年 410,607 明和6年 1769年 432,035 天保13年 1842年 502,079
宝永3年 1706年 390,596 元文3年 1738年 413,994 明和7年 1770年 431,090 弘化元年 1844年 504,334
宝永4年 1707年 395,844 元文4年 1739年 414,441 明和8年 1771年 431,756 弘化2年 1844年 507,095
宝永5年 1708年 394,495 元文5年 1740年 415,922 安永元年 1772年 434,134 安政元年 1854年 511,392
宝永6年 1709年 390,814 寛保元年 1741年 417,268 安永2年 1773年 433,533 安政2年 1855年 505,483
宝永7年 1710年 392,355 寛保2年 1742年 417,851 安永3年 1774年 433,487

17世紀の延宝年間の人口に関しては、15歳以上の成人男子の身分別人口が残っている。

延宝年間の高知藩の身分別人口
元号 西暦 15歳以上男子 御家中・
諸奉公人・
又者
郷中 浦中 町中
延宝5年 1677年 111,842
延宝7年 1679年 113,084 15,903 77,199 14,631 5,351
延宝8年 1680年 116,970

また、19世紀幕末の高知藩の身分別人口は以下の通りである。領民人口との比較から、幕末に幕府へ報告した人口には郷中、浦中、町中人口が含まれ、武家や僧侶の人口が含まれないことがうかがえる。

19世紀の高知藩の身分別人口
身分構成 文政2年 (1819年) 文政12年 (1829年) 天保14年 (1843年) 弘化元年 (1844年) 弘化2年 (1845年) 嘉永6年 (1852年)
合計 合計 合計 合計 合計 合計
諸組上下・御家老預郷士 24,123 12,315 11,808 24,237 12,281 11,956
頭支配郷士・諸奉公人以下 20,920 10,870 10,050 20,976 10,858 10,118
僧侶 (町郷浦) 797 797 795 795
領民人口 427,228 229,995 197,233 440,972 237,953 203,019 451,890 242,999 208,891 458,494 247,135 211,359 461,087 248,513 212,574 457,053 246,449 210,604
   町中 13,985 7,739 6,246 14,442 8,370 6,072 15,292 8,692 6,600 15,680 8,892 6,788 15,846 8,930 6,916 15,895 8,971 6,924
   郷中 366,906 198,208 168,698 376,454 203,107 173,347 386,067 207,700 178,367 389,954 210,155 179,799 392,119 211,350 180,769 389,366 210,199 179,167
   浦中 46,337 24,048 22,289 50,076 26,476 23,600 50,531 26,607 23,924 52,860 28,088 24,772 53,122 28,233 24,889 51,792 27,279 24,513
総人口 504,334 271,117 233,217 507,095 272,447 234,648

なお享保11年(1726年)に幕府へ報告した領民人口(37万2522人)では、御侍中・諸奉公人・又者が除外され、百姓、町人、社人、僧尼等その他の者が含まれるとしている。僧侶を領民人口に含むかどうかは時期によって異なるが、その人数は1000人未満であり、総人口と領民人口との差である計外人口は凡そ武家人口に相当するといえる。明治3年(1870年)における高知藩の華士卒族人口は総人口51万6545人中4万9422人(華族8人、士族3万0506人、卒族1万8908人)である。

高知藩(土佐国)の領民・計外人口
元号 西暦 総人口 領民人口 計外人口
享保6年 1721年 404,573 351,547 53,026
享保11年 1726年 419,922 372,522 47,400
寛延3年 1750年 408,417 368,192 40,225
宝暦6年 1756年 418,365 372,766 45,599
天明6年 1786年 432,203 392,597 39,606
寛政4年 1792年 427,181 387,040 40,141
寛政10年 1798年 440,362 399,702 40,660
文化元年 1804年 409,413
文政2年 1819年 427,228
文政5年 1822年 479,281 443,478 35,803
文政11年 1828年 445,473
文政12年 1829年 440,972
天保5年 1834年 455,306
天保11年 1840年 451,871
天保12年 1841年 501,877
天保13年 1842年 502,079
天保14年 1843年 451,890
弘化元年 1844年 504,334 458,494 45,840
弘化2年 1845年 507,095 461,087 46,008
弘化3年 1846年 461,031
嘉永6年 1852年 457,053
安政元年 1854年 511,392
安政2年 1855年 505,483

(典拠は建山生 (1919年)[36]、武市佐一郎 (1930年)[37]、高橋梵仙 『日本人口史之研究』三友社刊 (1941年)、平尾道雄 『高知藩財政史』 (1953年))

久保田藩/秋田藩

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『新編北羽発達史』収録の「嘉永二年調家中並領内百姓男女人数」記載の久保田藩の嘉永2年(1849年)の身分別人口は、年間出生数(当生)を記録する例としてしばしば取り上げられる。なお武家人口を除き、出羽の秋田六郡(雄勝郡平鹿郡仙北郡河辺郡秋田郡山本郡)のみが集計対象となっており、下野国二郡(河内郡都賀郡)の領民人口が集計より漏れている。なお『秋田沿革史大成』収録の「嘉永三年戌五月六郡人員調」記載の嘉永2年の久保田藩の人口は36万1928人であり、「嘉永二年調家中並領内百姓男女人数」記載の人口37万2154人に比べて1万0226人ほど人口が少ないが、その差は主に町人人口の取り扱いにある。「嘉永三年戌五月六郡人員調」では秋田郡久保田(2130軒)と土崎湊(519軒)のみが調査対象であるのに対し、「嘉永二年調家中並領内百姓男女人数」では秋田郡大館(407軒)、十二所(79軒)、山本郡能代(1293軒)、檜山(102軒)、平鹿郡横手(541軒)、仙北郡角館(356軒)、雄勝郡湯沢(235軒)の町方人口も加算されている。

久保田藩の身分構成 (嘉永2年)
身分・職業 人口 当生
家中諸士、
江戸・京都・大阪・下野国に差置候分共
36,453 18,746 17,707 158
修験・社人・寺院 7,256 5,033 2,223 7
座頭・行人・寺社門前・比丘尼、
其他金・銀・銅・鉛山人数共
15,720 8,629 7,091 70
百姓 284,384 150,320 134,064 2,340
町人 27,852 13,819 14,033 152
非人 16 7 9 0
穢多 473 240 233 0
総数 372,154 196,794 175,360 2,727

また、久保田藩秋田六郡領内人口の変遷は以下の通りである。久保田藩は天保の大飢饉による被害が甚大で、天保5年(1834年)には凶作飢饉のために領内死亡者5万0464人を数えた。天保4年(1833年)と10年後の天保14年(1843年)の領内人口を比較すると、総人口のほぼ1/4に相当する11万人の人口が失われている。

秋田六郡領内人口の変遷
元号 西暦 合計 六郡惣人口
(穢多・非人を除く)
武家 町人 寺社 鉱山 六郡百姓 穢多・
非人
備考
合計
元禄5年 1692年 346,411 346,122 29,095 2,449 309,112 289 武家人口は不明
享保6年 1721年 326,673 187,911 138,762 下野二郡の百姓人口4024人
(男2203人、女1821人)
享保15年 1730年 341,614 341,260 6,184 20,833 12,504 6,342 295,397 168,057 127,340 354 武家人口は成人男子のみ
町人人口は久保田・湊のみ
延享3年 1746年 384,592
延享4年 1747年 382,845 382,405 36,075 21,313 10,464 7,422 307,131 172,269 134,862 440 町人人口は久保田・湊のみ
宝暦6年 1756年 300,013 167,422 132,591 下野二郡の百姓人口3370人
(男1845人、女1525人)
安永元年 1772年 410,600
天明元年 1781年 320,000 領内人口とされるが、百姓人口の可能性あり
天明6年 1786年 270,706 領内人口とされるが、百姓人口の可能性あり
文化13年 1816年 314,000 領内人口とされるが、百姓人口の可能性あり
天保4年 1833年 435,262
天保14年 1843年 322,999
天保15年 1844年 326,473 326,027 6,589 16,387 11,103 10,971 280,977 147,557 133,420 446 武家人口は成人男子のみ
町人人口は久保田・湊のみ
嘉永2年 1849年 372,154 371,665 36,453 27,852 22,976 284,384 150,320 134,064 489 武家人口は三都・下野在中を含む
嘉永3年 1850年 364,436 363,943 35,744 16,990 10,833 11,878 288,498 152,772 135,726 493 町人人口は久保田・湊のみ
安政2年 1855年 376,509 376,008 36,730 17,636 11,103 11,721 298,818 158,573 140,245 501 町人人口は久保田・湊のみ
安政4年 1857年 382,284 381,758 36,957 17,693 11,402 11,872 303,834 161,195 142,639 526 町人人口は久保田・湊のみ
安政6年 1859年 388,803 388,278 37,601 18,082 11,353 12,326 308,916 163,856 145,060 525 町人人口は久保田・湊のみ

(典拠は『秋田沿革史大成』、『新編北羽発達史』、『天樹院佐竹義公』、『綜合郷土研究』、『秋田県史』)

盛岡藩 (南部藩)

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盛岡藩には天和3年(1683年)より断続的に詳細な人口調査が残っているが、宝暦2年(1752年)以降は極端に人口変動幅が少なくなり、ほぼ35万人前後に固定している。一方で官所から提出された報告書によると、宝暦5年(1755年)には餓死者5万2094人・明家7043軒、天明3年(1783年)には餓死者4万0850人・疫病死者2万3848人・明家1万0545軒・出領者3330人が発生したとする記録も残されており、幕府に報告するための藩の公式記録に虚偽な記載がなされたと考えられる。特に安永6年(1777年)から寛政2年(1790年)の間は性比が112.9に固定されているなど、明らかな人為操作が見受けられる。但し宝暦元年(1751年)以前の人口変遷のパターンは他の東北諸藩のものとと一致し、ある程度信用できると考えられる。[38][31]

以下に盛岡藩の人口構成の変遷をまとめる。十郡とは岩手郡、志和郡 (紫波郡)、稗貫郡和賀郡閉伊郡鹿角郡二戸郡三戸郡九戸郡北郡であり、四町とは盛岡花巻郡山三戸である。個々の四町人員については近代以前の日本の都市人口統計を参照。理想的には 人口 = 前年の人口 + 出生数 + 入領者数 - 出領者数 - 死亡数 が成立するはずだが、実際には一致しない場合が多い。また、身分別人口の合計と人口総数が一致しない場合も多々ある。享保17年(1732年)の領内総人口34万5825人と幕府へ報告した領民人口32万2109人を比較すると、侍方2万3121人と水主・閉伊浦等595人の合計2万3716人が計外人口であったことがうかがえる。

盛岡藩の人口構成の変遷
年号 西暦 領内総人口 動態統計 侍方 四町 出家・
行人・
山伏・
座頭
寺社領・
門前
金山師 水主・
閉伊浦等
十郡百姓
合計 出生 入領者 出領者 死亡 合計 侍手廻 侍召仕 歩行 足軽 長柄・小道具・
陸尺・馬付・
台所・餌差
承応2年 1653年 292,028
寛文9年
領民人口
1669年
 
 
245,635
延宝8年 1680年 301,936 164,181 137,755
天和元年 1681年 307,641 167,810 139,831 4,469 432 420 3,493
天和2年 1682年 308,664 168,183 140,481 5,560 216 692 4,061
天和3年 1683年 306,032 167,869 138,163 4,272 434 692 6,646 21,748 5,666 11,430 353 3,591 708 20,636 3,234 11,076 1,628 657 247,053
貞享元年[39] 1684年 304,368 167,087 137,281 5,094 352 585 6,525 21,683 5,676 11,380 353 3,541 733 20,450 3,201 10,876 1,527 669 249,406
貞享2年 1685年 306,056 167,829 138,227 6,602 347 346 4,915 21,769 5,745 11,432 341 3,461 790 12,988 3,230 367 268,485
貞享3年 1686年 306,056 167,804 138,252
貞享4年 1687年 307,260 167,900 139,360 5,645 333 154 4,620 21,801 5,757 11,452 341 3,461 790 13,167 3,349 367 268,576
元禄元年 1688年 296,229 162,735 133,494
元禄2年 1689年 294,276 160,490 133,786 4,789 322 11 7,053 20,790 5,741 10,617 321 3,497 614 13,293 3,186 393 255,990
元禄3年 1690年 299,717 164,146 135,571 5,788 594 17 3,886 21,881 6,083 11,473 331 3,465 529 21,558 3,161 9,508 3,004 700 239,905
元禄4年 1691年 303,915 166,927 136,988 7,936 683 15 6,247 23,114 6,280 12,024 348 3,764 698 21,574 3,168 9,508 3,235 712 242,604
元禄5年 1692年 306,344 168,156 138,188 7,933 327 18 5,813 23,114 6,280 12,024 348 3,764 698 13,691 3,168 421 265,950
元禄6年 1693年 322,539 176,743 145,796 8,117 206 0 5,401 23,945 6,667 12,467 333 3,784 694 22,339 3,141 10,333 2,984 522 259,275
元禄7年 1694年 331,787 181,094 150,693 8,686 655 31 3,925 22,939 7,382 10,838 348 3,826 545 23,686 3,288 10,370 3,575 442 267,487
元禄8年 1695年 334,887 184,485 150,402 8,206 787 32 5,861 23,664 7,237 11,667 352 3,806 602 22,781 3,397 9,914 2,310 431 272,390
元禄9年 1696年 335,690 183,584 152,106 6,632 430 55 6,204 24,389 7,500 12,397 331 3,586 575 22,331 3,310 9,845 2,270 455 273,090
元禄10年 1697年 334,199 182,312 151,887
元禄11年 1698年 339,160 185,033 154,127 7,819 496 566 2,788 25,499 8,196 12,370 346 3,908 679 13,736 3,250 454 296,221
元禄12年 1699年 342,548 186,855 155,693 6,719 624 388 3,567 24,969 8,225 11,908 331 3,946 559 23,370 3,344 10,127 2,051 490 278,197
元禄13年 1700年 343,499 187,409 156,090 4,520 123 62 3,630 25,033 8,418 11,686 336 3,958 635 23,274 3,337 10,036 2,241 514 279,064
元禄14年 1701年 345,938 188,793 157,145 5,253 475 257 3,032 24,807 8,271 11,743 352 3,914 527 23,279 3,302 10,169 1,938 511 281,932
元禄16年
領民人口
1703年
 
350,111
322,109
188,141
 
161,970
 
306,142
 
宝永元年 1704年 349,765 188,895 160,870 6,717 592 1,925 5,730 24,204 8,375 11,290 334 3,710 495 13,676 3,107 512 308,266
宝永2年 1705年 350,005 189,027 160,978 6,823 1,140 1,263 6,460 25,218 8,423 11,940 325 4,013 517 13,857 3,294 547 307,089
宝永3年 1706年 350,033 188,784 161,249 5,845 386 395 5,808 25,105 8,416 11,915 317 3,984 473 13,905 3,278 550 307,195
宝永4年 1707年 349,976 188,753 161,223 3,734 573 468 3,896
宝永5年 1708年 350,028 189,795 160,233 7,135 1,605 1,108 6,154
宝永6年 1709年 347,196 188,600 158,596
宝永7年[39] 1710年 350,072 190,497 159,575 8,678 1,349 720 6,431 33,309 8,082 20,462 309 4,053 403 25,636 3,222 10,029 553 277,323
正徳元年 1711年 348,750 187,977 160,773 8,771 842 887 6,852 23,695 8,437 10,329 351 4,168 410 24,235 3,311 8,031 2,482 650 286,346
正徳2年 1712年 351,193 190,481 160,712 10,365 1,280 751 6,981 24,063 8,135 10,877 304 4,128 619 23,922 3,165 5,560 2,727 642 291,114
正徳3年 1713年 361,787 196,313 165,474 9,462 1,117 559 6,933 24,189 8,390 10,773 314 4,201 511 24,549 3,204 7,497 2,786 556 299,006
享保2年 1717年 375,243 202,741 172,502
享保3年 1718年 365,697 198,258 167,439 9,477 438 597 18,864 23,191 8,690 8,728 342 4,917 514 23,989 3,115 6,218 1,526 598 307,060
享保4年 1719年 364,541 197,450 167,091
享保5年 1720年 366,577 198,929 167,648 8,741 457 392 6,770 21,522 9,404 6,642 345 4,633 498 24,360 2,986 6,093 1,421 601 309,594
享保11年 1726年 357,300 194,208 163,092
享保12年 1727年 360,053 196,001 164,052 8,390 473 452 5,658 21,392 9,428 5,714 366 5,411 473 24,966 3,022 6,122 2,213 612 301,726
享保13年 1728年 344,912 187,875 157,037 1,769 150 1,976 7,759
享保14年 1729年 341,954 186,934 155,020 4,843 363 1,076 9,265
享保15年 1730年 343,031 187,893 155,138 6,348 610 536 6,173
享保16年 1731年 333,681 183,143 150,538 273,409
享保17年 1732年 345,825 190,530 155,295 23,121 9,645 6,842 399 5,647 588 16,438 551 512 595 304,515
享保18年 1733年 355,420 193,210 162,210 22,908 9,993 6,209 406 5,847 453 24,284 3,116 7,398 2,933 583 294,198
享保19年 1734年 358,926 196,945 161,981 26,144 9,684 10,989 413 4,570 488 29,616 3,117 6,261 3,039 618 290,131
元文元年 1736年 365,961 200,927 165,034 29,265 11,348 10,894 436 5,956 631 25,561 3,007 5,803 3,183 638 298,504
元文2年 1737年 368,526 204,840 163,686 7,343 157 260 7,822 29,646 11,848 11,396 394 5,472 536 26,753 3,173 5,665 3,091 654 299,544
元文3年 1738年 368,588 201,463 167,125 6,518 217 1,073 6,047 27,671 10,452 10,773 425 5,366 655 26,718 3,048 6,784 3,044 647 300,676
元文4年 1739年 367,413 195,273 172,140 5,640 530 1,284 6,061 27,582 10,449 10,775 413 5,358 587 26,751 3,015 6,378 2,874 678 300,135
元文5年 1740年 367,403 196,297 171,106 7,857 160 582 5,176 28,507 11,046 10,880 411 5,582 588 26,560 3,210 6,234 2,875 675 299,342
寛保元年 1741年 367,397 197,440 169,957 6,268 288 934 5,938 28,308 10,982 10,733 401 5,496 696 26,278 3,176 6,128 2,853 663 299,621
寛保2年 1742年 365,862 196,766 169,096 5,784 392 832 6,479 28,124 10,912 10,612 384 5,616 600 26,211 3,241 6,195 2,989 683 298,519
寛保3年 1743年 366,772 205,473 161,299 8,659 216 682 6,964 25,760 11,070 8,063 429 5,642 556 25,069 3,209 5,921 3,380 683 302,750
延享元年 1744年 366,735 201,368 165,367 9,076 230 1,261 7,223 26,587 11,023 8,408 429 6,137 590 731 339,417
延享2年 1745年 376,387 206,653 169,734 7,437 692 738 7,975 28,837 10,459 10,540 421 6,827 590 24,893 3,241 8,220 3,133 745 307,318
延享3年 1746年 376,650 206,740 169,910 6,223 232 566 4,522 29,187 10,794 10,590 433 6,820 550 24,883 3,248 7,420 3,233 754 307,925
延享4年 1747年 374,623 205,917 168,706 6,774 235 549 7,556 29,522 10,870 11,511 405 6,274 462 24,842 3,358 6,920 3,036 724 306,221
寛延元年 1748年 369,426
寛延2年 1749年 364,355 198,778 165,577 6,764 417 2,473 9,779 28,505 11,007 10,743 431 5,874 450 22,704 3,180 5,963 2,757 746 300,500
寛延3年 1750年 358,488 195,536 162,952 4,740 167 2,186 8,930 28,588 11,028 10,690 434 6,005 431 24,264 3,207 5,931 2,563 669 293,266
宝暦元年[39] 1751年 348,491 189,764 158,727 4,142 347 1,246 11,611 29,312 11,297 10,098 420 6,955 542 24,238 3,360 5,989 2,385 652 282,555
宝暦2年 1752年 353,725 193,582 160,443 7,600 1,196 618 5,818 29,411 11,802 9,743 420 6,946 500 24,770 3,390 5,905 2,692 680 286,877
宝暦3年 1753年 355,980 194,224 161,756 6,009 209 217 6,923 32,143 11,777 13,279 402 5,811 874 25,049 3,230 6,103 2,653 835 285,897
宝暦4年 1754年 356,829 195,638 161,191
宝暦5年 1755年 358,222 196,612 161,610 7,191 142 199 5,741 29,935 12,184 10,556 391 6,179 625 25,542 3,201 5,843 2,576 701 290,424
宝暦6年 1756年 356,005 194,980 161,025 2,047 85 917 5,830 29,836 12,275 10,383 381 6,199 598 24,717 3,079 5,821 2,470 569 289,513
宝暦7年[39] 1757年 351,755 192,643 159,112 2,697 104 1,267 8,350 29,545 12,208 10,270 368 6,125 574 23,970 3,036 5,630 2,300 551 286,723
宝暦8年 1758年 352,755 193,343 159,412 4,004 108 96 3,986 27,119 11,912 9,004 379 5,263 561 20,529 2,685 4,032 2,112 444 295,834
宝暦9年 1759年 354,778 194,425 160,353 5,024 101 70 3,032 27,990 12,177 9,387 374 5,474 578 21,560 2,741 4,262 2,104 453 295,668
宝暦10年 1760年 355,935 195,165 160,770 6,113 169 123 4,058 25,471 11,699 8,547 369 4,339 517 21,930 2,504 4,264 2,147 300 299,319
宝暦11年 1761年 356,513 195,452 161,061 4,361 63 121 3,725 25,453 10,699 8,016 377 5,760 601 21,639 2,694 4,486 2,036 305 299,900
宝暦12年 1762年 356,978 195,738 161,240 99 157 3,254 26,963 11,993 8,297 391 5,661 621 21,888 3,155 3,858 2,027 306 298,784
宝暦13年 1763年 357,945 194,969 162,976 105 238 3,682 28,470 12,415 8,611 399 6,425 620 22,737 3,118 3,938 1,927 316 297,442
明和元年 1764年 358,857 193,434 165,423 4,853 158 225 3,877 28,457 12,299 8,795 411 6,375 577 23,079 2,826 5,802 2,100 609 295,984
明和2年 1765年 359,039 193,458 165,581 3,965 107 223 3,667 28,454 12,307 8,783 417 6,382 565 23,093 2,865 5,869 2,147 603 296,008
明和3年 1766年 358,786 193,368 165,418
明和4年 1767年 359,028 193,532 165,496 6,872 128 253 6,505 27,764 11,998 8,243 434 6,492 597 23,891 2,925 5,176 2,452 352 296,468
明和5年 1768年 358,927 193,517 165,410 6,714 240 253 6,802 27,744 11,966 8,262 459 6,441 616 23,547 3,035 5,323 2,589 366 296,323
明和6年 1769年 358,803 190,856 167,947 6,782 362 356 6,912 27,797 11,989 8,231 438 6,511 628 23,429 3,092 5,156 2,696 373 296,260
明和7年 1770年 358,855 190,071 168,784 6,846 289 273 6,810 27,920 12,053 8,288 449 6,491 639 23,555 3,013 5,160 2,498 382 296,332
明和8年 1771年 358,736 190,032 168,704 6,869 253 148 7,093 27,922 12,035 8,328 435 6,479 645 23,609 3,002 5,129 2,587 397 296,090
安永元年 1772年 358,702 189,989 168,713 6,631 247 133 6,779 27,900 12,129 8,192 448 6,489 642 23,641 2,962 5,045 2,609 348 296,197
安永2年 1773年 358,081 189,641 168,440 6,567 209 159 7,238 27,926 12,156 8,203 441 6,478 648 23,665 2,954 5,007 2,637 339 295,553
安永3年[39] 1774年 357,640 189,590 168,050 7,866 214 134 8,387 28,285 12,358 8,338 448 6,485 656 25,287 3,316 3,176 2,715 328 294,533
安永4年 1775年 358,125 189,779 168,346 7,583 198 119 7,177 28,182 12,319 8,312 448 6,456 647 25,044 3,315 3,427 2,687 335 295,135
安永5年 1776年 357,678 189,761 167,917 7,675 197 121 8,198 28,205 12,323 8,321 448 6,461 652 25,047 3,320 3,348 2,698 337 294,733
安永6年 1777年 357,959 189,794 168,165 7,853 223 142 7,653 28,273 12,335 8,375 453 6,455 655 25,072 3,318 3,355 2,672 332 294,937
安永7年 1778年 357,652 189,628 168,024 7,618 211 157 7,979 28,212 12,317 8,343 437 6,473 642 25,019 3,306 3,338 2,690 348 294,739
安永8年 1779年 357,929 189,797 168,132 8,225 274 136 8,086 28,281 12,343 8,369 444 6,483 642 25,130 3,268 3,314 2,690 366 294,880
安永9年 1780年 357,705 189,671 168,034 8,215 284 274 8,225 28,257 12,332 8,364 443 6,478 640 25,092 3,257 3,301 2,679 365 294,754
天明元年[39] 1781年 357,899 189,783 168,116 8,379 314 304 8,389 28,291 12,340 8,371 449 6,488 643 25,120 3,259 3,305 2,686 369 294,869
天明2年 1782年 357,650 189,655 167,995 8,443 321 188 8,576 28,291 12,332 8,379 449 6,488 643 25,117 3,296 3,305 2,686 369 294,586
天明3年 1783年 357,896 189,803 168,093 8,539 348 202 8,685 28,352 12,363 8,388 453 6,499 649 25,153 3,319 3,308 2,693 372 294,699
天明4年 1784年 356,402 188,955 167,447 7,914 226 324 9,310 28,127 12,320 8,336 431 6,414 626 24,958 3,190 3,243 2,611 361 293,912
天明5年 1785年 357,029 189,319 167,710 8,519 328 226 8,621 28,378 12,442 8,392 448 6,453 643 25,140 3,251 3,256 2,626 369 294,009
天明6年 1786年 356,447 188,987 167,460 8,259 297 257 8,881 28,265 12,389 8,377 437 6,438 624 25,074 3,209 3,243 2,609 354 293,693
天明7年 1787年 357,251 189,421 167,830 8,976 384 292 9,068 28,377 12,412 8,397 454 6,475 639 25,182 3,245 3,260 2,632 374 294,181
天明8年 1788年 356,617 189,075 167,544 8,672 372 282 8,762 28,274 12,378 8,368 448 6,448 632 25,094 3,211 3,228 2,609 371 293,830
寛政元年 1789年 357,357 189,468 167,889 9,013 401 322 9,092 28,446 12,421 8,415 465 6,487 658 25,208 3,253 3,246 2,628 377 294,199
寛政2年 1790年 356,987 189,290 167,697 8,703 341 261 8,783 28,487 12,478 8,410 462 6,483 654 25,260 2,672 3,239 2,619 374 294,336
寛政3年 1791年 357,505 189,628 167,877 9,652 432 314 9,252 28,540 12,494 8,423 469 6,493 661 25,300 2,758 3,247 2,619 379 294,662
寛政4年 1792年 356,306 188,555 167,751 9,623 461 421 9,663 27,995 12,267 8,266 436 6,402 624 28,448 2,759 2,630 2,609 322 291,542
寛政5年 1793年 357,433 188,926 168,507 10,643 818 497 9,837 28,081 12,297 8,288 446 6,420 630 28,503 2,749 2,637 2,617 326 292,520
寛政6年 1794年 356,191 188,263 167,928 9,597 777 529 11,087 27,944 12,248 8,249 441 6,386 620 28,311 2,744 2,608 2,588 321 291,675
寛政7年 1795年 357,323 188,839 168,484 10,547 957 514 9,860 28,033 12,283 8,269 448 6,402 631 28,378 2,762 2,623 2,601 326 292,600
寛政8年 1796年 356,483 188,325 168,158 9,641 833 624 10,590 27,990 12,268 8,257 441 6,397 627 28,293 2,751 2,598 2,581 320 291,950
寛政9年 1797年 356,636 188,783 167,853
寛政10年 1798年 356,636 188,301 168,335 10,420 1,154 577 10,997 28,060 12,295 8,278 441 6,417 629 28,400 2,756 2,578 2,545 322 291,975
享和2年 1802年 357,853 189,476 168,377
享和3年 1803年 357,810 188,971 168,839 11,293 1,435 858 11,913 28,272 12,385 8,312 469 6,459 647 28,576 2,797 2,607 2,595 328 292,635
文化13年 1816年 326,262 171,907 154,355
天保8年 1837年 350,295 184,853 165,442
天保9年[39] 1838年 351,332 185,351 165,981 11,237 1,414 797 10,817 28,105 12,341 8,264 455 6,413 632 28,385 2,715 326 291,801
天保10年 1839年 357,207 188,503 168,704 11,290 1,436 845 10,896 28,224 12,377 8,288 468 6,441 650 28,465 2,761 2,605 2,521 338 292,294
天保11年 1840年 355,548 187,274 168,274 11,214 1,400 832 10,872 28,005 12,298 8,226 459 6,384 638 28,402 2,738 2,593 2,511 331 291,735

八戸藩は、同じ南部氏族の藩で、三戸郡、志和郡、九戸郡に領地を有していた。

八戸藩の人口構成の変遷
年号 西暦 領内総人口 侍方人口 寺社方人口 領民人口
合計 合計 八戸家中
(手廻・
召使)・
江戸常府
志和衆
足軽
鉄砲方
出家・
山伏・
社人・
座頭・
諸役人
手廻
寺社領
百姓
合計 諸百姓・
町人
八戸
町人
職人 会所番人・
鐘付・
浪人・
牧場係
享保15年 1730年 56,401 29,104 27,297
元文3年 1738年 56,851 29,394 27,557
延享4年 1747年 55,651 29,060 26,591
寛延2年 1749年 71,352 2,833 2,121 712 2,001 387 66,131 61,997 4,075 59
宝暦5年 1755年 65,613 2,453 1,754 699 1,608 492 61,060 56,793 3,852 358 57
宝暦12年 1762年 51,289
明和2年 1765年 58,476 30,359 28,117 1,817
天保3年 1832年 50,551
天明4年 1784年 45,349 3,015 2,363 652 407 2,121 39,806 34,990 4,122 455 239
文化7年 1810年 51,396 27,186 24,210

幕末には七戸藩が支藩として成立した。戊辰戦争の処分により、盛岡藩は白石に転封となったが、半年後に盛岡に復帰した。しかしながら財政難により廃藩置県を待たずに廃藩を希望し、盛岡県となった。明治3年(1870年)~明治4年(1871年)頃の八戸藩、七戸藩、盛岡県の族籍別人口は以下の通り。また、没収された領地の内、斗南藩の人口は7万5467人、江刺県の人口は23万7550人(旧仙台藩領を含む)。

八戸藩・七戸藩・盛岡県の
族籍別人口
(明治3年~明治4年)
族籍 八戸藩 七戸藩 盛岡県
華族 2 3
士族 2,927 1,680 10,893
1,041 350 1,958
神職 437 84 998
僧尼 360 54 733
平民 63,374 13,346 123,054
穢多 54 13 189
合計 68,195 15,530 137,825

(典拠は『盛岡藩雑書』、高橋梵仙『日本人口史之研究』日本学術振興会 (1955年)、森嘉兵衛『日本僻地の史的研究』法政大学出版 (1969年))

米沢藩

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米沢藩の総人口は、『秘庫存書』(上杉文書)に元禄5年(1692年)から慶応3年(1867年)まで176年分が伝わっており、もっとも長期に渡って年毎の人口変遷が保存されている。慶応2年(1866年)に人口が急増しているが、これは屋代郷3万石の加増による。18世紀に人口は減少したが、宝暦の大飢饉後の上杉鷹山の治世の頃に人口増加に転じている。その後の天明の大飢饉、天保の大飢饉の際にも人口が減少しているが、他の東北諸藩に比べると飢饉の影響は少ない。

米沢藩総人口の変遷[40]
元号 西暦 総人口 出家・
修験・
座頭
元号 西暦 総人口 出家・
修験・
座頭
元号 西暦 総人口 出家・
修験・
座頭
元号 西暦 総人口 出家・
修験・
座頭
元禄5年 1692年 133,259 77,825 54,002 1,432 元文元年 1736年 114,307 65,337 47,672 1,298 安永9年 1780年 103,628 56,052 46,527 1,049 文政7年 1824年 110,183 56,990 52,343 850
元禄6年 1693年 132,189 77,304 53,462 1,423 元文2年 1737年 113,983 65,078 47,617 1,278 天明元年 1781年 103,789 56,139 46,637 1,013 文政8年 1825年 110,341 56,990 52,499 852
元禄7年 1694年 131,966 77,254 53,268 1,444 元文3年 1738年 113,314 64,606 47,424 1,284 天明2年 1782年 103,569 55,887 46,717 964 文政9年 1826年 110,859 57,150 52,856 853
元禄8年 1695年 132,187 77,412 53,304 1,471 元文4年 1739年 112,315 63,895 47,129 1,291 天明3年 1783年 103,991 55,991 47,030 970 文政10年 1827年 111,710 57,541 53,315 854
元禄9年 1696年 131,973 77,375 53,117 1,481 元文5年 1740年 112,378 63,753 47,339 1,286 天明4年 1784年 103,281 55,418 46,188 975 文政11年 1828年 112,854 58,095 53,914 845
元禄10年 1697年 130,568 76,622 52,406 1,480 寛保元年 1741年 111,578 63,246 47,061 1,271 天明5年 1785年 100,946 53,954 46,048 944 文政12年 1829年 113,619 58,426 54,343 850
元禄11年 1698年 130,102 76,410 52,196 1,496 寛保2年 1742年 111,458 62,938 47,261 1,214 天明6年 1786年 100,381 53,645 45,805 934 天保元年 1830年 113,860 58,437 54,566 857
元禄12年 1699年 129,734 76,282 51,942 1,510 寛保3年 1743年 111,283 63,054 46,967 1,260 天明7年 1787年 99,985 53,405 45,661 921 天保2年 1831年 113,651 58,306 54,477 868
元禄13年 1700年 128,696 75,773 51,429 1,494 延享元年 1744年 111,118 62,784 47,072 1,262 天明8年 1788年 99,508 53,121 45,467 920 天保3年 1832年 114,373 58,666 54,833 874
元禄14年 1701年 128,407 75,705 51,206 1,496 延享2年 1745年 110,178 62,124 46,796 1,258 寛政元年 1789年 99,123 52,868 45,338 917 天保4年 1833年 114,999 59,052 55,071 876
元禄15年 1702年 128,031 75,475 51,055 1,501 延享3年 1746年 110,064 62,069 46,752 1,243 寛政2年 1790年 99,296 52,919 45,421 956 天保5年 1834年 115,300 59,112 55,313 875
元禄16年 1703年 127,062 75,014 50,575 1,473 延享4年 1747年 110,232 62,159 46,842 1,230 寛政3年 1791年 99,119 52,852 45,366 901 天保6年 1835年 114,109 58,452 54,777 880
宝永元年 1704年 126,513 74,707 50,316 1,490 寛延元年 1748年 109,882 61,836 46,813 1,233 寛政4年 1792年 99,085 52,759 45,427 899 天保7年 1836年 115,085 58,977 55,239 867
宝永2年 1705年 125,954 74,394 50,093 1,467 寛延2年 1749年 108,885 61,105 46,549 1,231 寛政5年 1793年 99,785 53,106 45,793 886 天保8年 1837年 114,983 58,890 55,223 870
宝永3年 1706年 124,893 73,846 49,624 1,423 寛延3年 1750年 108,859 60,996 46,625 1,238 寛政6年 1794年 101,124 53,703 46,527 894 天保9年 1838年 113,404 57,912 54,534 878
宝永4年 1707年 124,540 73,663 49,452 1,425 宝暦元年 1751年 108,623 60,828 46,549 1,246 寛政7年 1795年 102,236 54,188 47,142 906 天保10年 1839年 113,113 57,834 54,411 868
宝永5年 1708年 123,852 73,368 49,077 1,407 宝暦2年 1752年 108,858 60,869 46,746 1,243 寛政8年 1796年 101,507 53,700 46,913 894 天保11年 1840年 112,968 57,787 54,334 847
宝永6年 1709年 123,403 73,157 48,869 1,377 宝暦3年 1753年 109,068 60,887 46,945 1,236 寛政9年 1797年 103,721 54,768 48,053 900 天保12年 1841年 113,973 58,297 54,824 852
宝永7年 1710年 122,245 72,535 48,369 1,341 宝暦4年 1754年 107,996 60,196 46,580 1,220 寛政10年 1798年 104,395 55,044 48,463 888 天保13年 1842年 114,974 58,787 55,325 862
正徳元年 1711年 122,385 72,708 48,361 1,315 宝暦5年 1755年 107,317 59,722 46,378 1,217 寛政11年 1799年 105,047 55,303 48,958 786 天保14年 1843年 115,010 58,788 55,354 868
正徳2年 1712年 122,110 72,441 48,380 1,289 宝暦6年 1756年 106,390 58,912 46,266 1,202 寛政12年 1800年 106,213 56,238 50,010 841 弘化元年 1844年 115,695 59,135 55,683 877
正徳3年 1713年 120,705 71,598 47,785 1,304 宝暦7年 1757年 102,628 56,381 45,059 1,188 享和元年 1801年 107,110 56,238 50,010 863 弘化2年 1845年 116,598 59,547 56,169 882
正徳4年 1714年 120,711 71,503 47,874 1,331 宝暦8年 1758年 100,900 55,354 44,382 1,163 享和2年 1802年 106,965 56,070 50,037 858 弘化3年 1846年 117,689 60,105 56,715 869
正徳5年 1715年 121,194 71,663 48,200 1,331 宝暦9年 1759年 100,007 54,862 43,980 1,165 享和3年 1803年 106,121 55,529 49,744 848 弘化4年 1847年 118,799 60,673 57,261 865
享保元年 1716年 120,606 71,287 47,961 1,358 宝暦10年 1760年 99,369 54,575 43,640 1,154 文化元年 1804年 105,888 55,529 49,744 839 嘉永元年 1848年 119,995 61,270 57,855 870
享保2年 1717年 120,650 71,261 48,058 1,331 宝暦11年 1761年 99,552 54,667 43,706 1,159 文化2年 1805年 106,760 55,895 50,015 850 嘉永2年 1849年 119,804 61,189 57,746 869
享保3年 1718年 120,609 71,179 48,086 1,344 宝暦12年 1762年 100,024 54,871 44,013 1,140 文化3年 1806年 107,547 56,292 50,410 845 嘉永3年 1850年 120,638 61,544 58,228 866
享保4年 1719年 120,099 70,825 47,932 1,342 宝暦13年 1763年 100,560 55,091 44,360 1,109 文化4年 1807年 107,192 56,075 50,265 852 嘉永4年 1851年 121,856 62,035 58,930 891
享保5年 1720年 118,615 69,811 47,404 1,330 明和元年 1764年 101,489 55,559 44,783 1,127 文化5年 1808年 107,052 55,908 50,303 841 嘉永5年 1852年 122,361 62,236 59,244 881
享保6年 1721年 118,537 69,129 48,039 1,369 明和2年 1765年 101,845 55,759 44,960 1,126 文化6年 1809年 107,453 56,092 50,505 856 嘉永6年 1853年 123,355 62,745 59,732 878
享保7年 1722年 118,209 68,902 47,933 1,374 明和3年 1766年 102,434 56,065 45,278 1,091 文化7年 1810年 108,313 56,387 51,023 904 安政元年 1854年 124,128 63,174 60,060 894
享保8年 1723年 117,881 68,674 47,826 1,386 明和4年 1767年 102,485 56,094 45,290 1,101 文化8年 1811年 108,949 56,782 51,285 882 安政2年 1855年 124,709 73,440 50,376 893
享保9年 1724年 117,134 68,192 47,589 1,353 明和5年 1768年 102,020 55,869 45,063 1,088 文化9年 1812年 108,998 56,693 51,432 873 安政3年 1856年 125,130 63,652 60,571 907
享保10年 1725年 116,702 67,811 47,468 1,354 明和6年 1769年 102,434 56,065 45,278 1,091 文化10年 1813年 108,985 56,634 51,496 855 安政4年 1857年 125,685 63,890 60,875 920
享保11年 1726年 115,660 67,242 47,079 1,345 明和7年 1770年 102,905 56,246 45,578 1,081 文化11年 1814年 109,126 56,688 51,573 865 安政5年 1858年 126,207 64,076 61,231 900
享保12年 1727年 115,096 66,773 46,984 1,340 明和8年 1771年 103,818 56,700 46,041 1,077 文化12年 1815年 109,773 57,008 51,890 875 安政6年 1859年 127,080 64,503 61,688 889
享保13年 1728年 115,015 65,593 44,074 1,348 安永元年 1772年 104,042 56,773 46,190 1,079 文化13年 1816年 110,511 57,308 52,328 875 万延元年 1860年 127,860 64,730 62,221 909
享保14年 1729年 114,207 65,199 46,857 1,351 安永2年 1773年 103,961 56,636 46,234 1,071 文化14年 1817年 110,947 57,512 52,563 873 文久元年 1861年 128,313 65,037 62,383 893
享保15年 1730年 114,429 65,954 47,097 1,378 安永3年 1774年 103,901 56,573 46,297 1,067 文政元年 1818年 111,107 57,645 52,603 859 文久2年 1862年 129,003 65,415 62,692 896
享保16年 1731年 114,051 65,654 47,043 1,350 安永4年 1775年 104,154 56,646 46,444 1,064 文政2年 1819年 110,998 57,585 52,574 839 文久3年 1863年 127,773 64,937 61,946 890
享保17年 1732年 113,711 65,313 47,055 1,343 安永5年 1776年 104,498 56,766 46,655 1,082 文政3年 1820年 109,602 56,825 51,946 921 元治元年 1864年 127,588 64,967 62,243 890
享保18年 1733年 113,975 65,308 47,333 1,343 安永6年 1777年 103,625 56,279 46,277 1,069 文政4年 1821年 109,603 56,791 51,980 832 慶応元年 1865年 128,103 64,967 62,243 893
享保19年 1734年 113,772 65,341 47,117 1,314 安永7年 1778年 103,702 56,380 46,263 1,059 文政5年 1822年 109,557 56,742 51,984 851 慶応2年 1866年 143,126
享保20年 1735年 113,762 65,042 47,415 1,305 安永8年 1779年 103,605 56,102 46,458 1,045 文政6年 1823年 109,726 56,816 52,076 834 慶応3年 1867年 144,153 73,091 70,084 638

また、米沢藩の身分別人口は以下の通りである。なお安永5年(1776年)の身分別人口の合計(下表)と総人口(上表)が一致しないが、おそらく町方人口などの身分別人口の数値に誤りがあると思われる。

米沢藩の身分構成の変遷
元号 西暦 合計 諸奉公人
・又者
城下町人 226ヶ村
在方
出家・修験
・座頭
元禄5年 1692年 133,259 31,173 12,129 88,525 1,432
元禄6年 1693年 132,189 31,145 12,078 87,543 1,423
元禄14年 1701年 128,407 29,960 11,481 85,470 1,496
安永5年 1776年 121,730 24,061 16,099 80,488 1,082
天保11年 1840年 112,968 25,608 6,667 79,846 847
天保12年 1841年 113,973 25,899 6,678 80,544 852
天保13年 1842年 114,974 26,220 6,696 81,196 862
天保14年 1843年 115,010 26,236 6,717 81,189 868
天保15年 1844年 115,695 26,476 6,728 81,614 877
弘化2年 1845年 116,598 26,651 6,761 82,304 882
弘化3年 1846年 117,689 26,964 6,773 83,083 869
弘化4年 1847年 118,799 27,398 6,802 83,734 865
嘉永元年 1848年 119,995 27,782 6,840 84,503 870
嘉永2年 1849年 119,804 27,821 6,809 84,305 869
嘉永3年 1850年 120,638 28,115 6,920 84,737 866
嘉永4年 1851年 121,856 28,481 6,962 85,522 891
嘉永5年 1852年 122,361 28,642 6,972 85,866 881
嘉永6年 1853年 123,355 28,864 6,947 86,666 878
嘉永7年 1854年 124,128 29,097 6,973 87,164 894
安政2年 1855年 124,709 29,397 6,998 87,421 893
安政3年 1856年 125,130 29,764 6,871 87,588 907
安政4年 1857年 125,685 30,091 6,896 87,778 920
安政5年 1858年 126,207 30,388 6,881 88,038 900
安政6年 1859年 127,080 30,763 6,888 88,540 889
万延元年 1860年 127,860 31,098 6,969 88,884 909
文久元年 1861年 128,313 31,474 6,979 88,967 893
文久2年 1862年 129,003 32,036 6,943 89,128 896

(典拠は『山形県史』、吉田義信『置賜民衆生活史』国書刊行会 (1973年))

宇和島藩

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元禄3年(1690年)から慶応3年(1867年)までの身分別人口の変遷が断続的に『宇和島藩主伊達家文書』へ記録されている。武家人口に関しては、国許、大坂、江戸屋敷の家中・使用人人口も記録されている。なお江戸屋敷の人口は、例えば明和9年(1772年)の明和の大火で明和8年(1771年)以前の書類が焼失するなどにより、一部の統計を欠く。

宇和島藩の身分構成の変遷
元号 西暦 国許・大坂・江戸合計 国許人口 国許
家中
大坂
家中
江戸
屋敷
家中
国許
家中
奉公人・
長屋借
大坂
奉公人
江戸
屋敷
奉公人
町方 町方
寺中・
山伏
在浦方 在浦方
寺中・
山伏
被差別民
合計 合計
元禄3年 1690年 84,105 45,136 38,969 84,018 45,089 38,929 4,532 79 2,532 8 4,397 453 71,567 537
元禄4年 1691年 85,609 46,032 39,577 85,507 45,978 39,529 4,468 88 2,632 14 4,254 474 73,140 539
宝暦11年 1761年 106,315 57,444 48,871 106,246 57,409 48,837 4,363 63 1,461 6 3,407 395 95,041 1,579
宝暦12年 1762年 108,430 58,610 49,820 108,356 58,569 49,787 4,337 64 1,537 10 3,473 404 95,319 1,568 1,718
明和8年 1771年 109,630 59,041 50,589 109,559 59,005 50,554 4,506 71 1,304 0 3,614 402 96,442 1,462 1,829
安永元年 1772年 110,527 59,660 50,867 109,475 58,967 50,508 4,517 74 825 1,342 4 149 3,636 409 96,303 1,422 1,846
安永2年 1773年 110,058 59,374 50,684 109,135 58,828 50,307 4,473 73 693 1,366 4 153 3,579 399 96,065 1,408 1,845
安永3年 1774年 110,167 59,394 50,773 109,224 58,845 50,379 4,443 75 698 1,341 4 166 3,372 422 96,387 1,393 1,866
安永4年 1775年 110,186 59,460 50,726 109,231 58,896 50,335 4,472 77 699 1,297 4 175 3,431 411 96,333 1,405 1,882
安永5年 1776年 110,487 59,588 50,899 109,508 59,009 50,499 4,423 78 721 1,183 4 176 3,464 409 96,713 1,420 1,896
安永6年 1777年 109,675 59,100 50,575 108,686 58,515 50,171 4,392 77 738 1,141 3 171 3,443 389 96,018 1,409 1,894
安永7年 1778年 109,671 59,047 50,624 109,593 59,006 50,587 4,526 75 1,236 3 3,490 383 96,652 1,383 1,923
安永8年 1779年 110,701 59,685 51,016 109,689 59,071 50,618 4,515 74 750 1,184 3 185 3,532 380 96,781 1,357 1,940
安永9年 1780年 110,657 59,733 50,924 109,578 59,038 50,540 4,514 73 835 1,157 3 168 3,466 380 96,757 1,335 1,969
天明元年 1781年 111,081 59,871 51,210 110,158 59,315 50,843 4,552 72 714 1,155 4 133 3,499 364 97,243 1,362 1,983
天明2年 1782年 111,255 59,980 51,275 110,327 59,414 50,913 4,682 71 712 1,038 5 140 3,458 378 97,449 1,332 1,990
天明3年 1783年 111,898 60,285 51,613 110,955 59,713 51,242 4,530 72 723 1,070 5 143 3,449 382 98,161 1,332 2,031
天明4年 1784年 112,195 60,350 51,845 111,243 59,759 51,484 4,576 77 735 1,016 6 134 3,430 379 98,475 1,320 2,047
天明5年 1785年 111,447 59,949 51,498 110,497 59,374 51,123 4,648 74 735 1,072 4 137 3,342 357 97,748 1,291 2,039
天明6年 1786年 110,760 59,662 51,098 109,665 58,960 50,705 4,628 87 854 1,065 7 147 3,319 359 96,988 1,279 2,027
天明7年 1787年 109,254 58,817 50,437 109,169 58,776 50,393 4,618 80 1,039 5 3,287 369 96,547 1,284 2,025
天明8年 1788年 108,758 58,519 50,239 108,681 58,478 50,203 4,634 72 1,031 5 3,278 353 96,127 1,251 2,007
寛政元年 1789年 109,341 58,886 50,455 108,345 58,227 50,118 4,695 75 800 1,071 5 116 3,296 324 95,730 1,230 1,999
寛政2年 1790年 109,449 58,862 50,587 108,545 58,306 50,229 4,679 76 696 1,072 6 126 3,295 342 95,907 1,248 2,002
寛政3年 1791年 110,311 59,322 50,989 109,387 58,761 50,626 4,688 82 708 1,016 20 114 3,342 351 96,669 1,300 2,021
寛政4年 1792年 110,913 59,672 51,241 109,983 59,095 50,888 4,635 85 717 1,061 19 109 3,311 352 97,278 1,306 2,040
寛政5年 1793年 111,557 60,048 51,509 110,622 59,479 51,143 4,655 84 719 1,056 19 113 3,358 383 97,828 1,294 2,048
寛政6年 1794年 112,983 60,778 52,205 111,897 60,053 51,844 4,690 84 872 1,045 20 110 3,464 405 98,915 1,293 2,085
寛政7年 1795年 113,700 61,085 52,615 112,771 60,523 52,248 4,715 82 719 1,052 11 117 3,403 417 99,803 1,279 2,102
寛政8年 1796年 114,742 61,638 53,104 113,778 61,061 52,717 4,751 86 740 1,095 13 125 3,447 452 100,650 1,267 2,116
寛政9年 1797年 115,792 62,250 53,542 114,847 61,676 53,171 4,824 80 736 1,138 9 120 3,462 447 101,604 1,248 2,124
寛政10年 1798年 116,154 62,441 53,713 115,141 61,783 53,358 4,792 69 813 1,136 5 126 3,447 462 101,923 1,238 2,143
寛政11年 1799年 116,992 62,871 54,121 116,085 62,309 53,776 4,700 69 711 1,108 7 120 3,425 457 102,992 1,252 2,151
寛政12年 1800年 116,228 62,468 53,760 115,296 61,906 53,390 4,675 72 730 759 15 115 3,435 444 102,563 1,265 2,155
享和元年 1801年 116,787 62,655 54,132 115,847 62,095 53,752 4,730 72 735 804 13 120 3,447 459 102,982 1,265 2,160
享和2年 1802年 117,556 63,070 54,486 116,617 62,511 54,106 4,818 69 740 871 11 119 3,424 458 103,575 1,275 2,196
享和3年 1803年 118,144 63,368 54,776 117,199 62,806 54,393 4,763 67 749 893 11 118 3,428 460 104,170 1,273 2,212
文化元年 1804年 117,663 63,071 54,592 116,730 62,514 54,216 4,728 64 741 954 11 117 3,385 454 103,769 1,252 2,188
嘉永2年 1849年 154,542 81,077 73,465 154,493 81,053 73,440 5,587 46 1,039 3 4,726 469 139,046 3,626
嘉永6年 1853年 156,677 82,006 74,671 156,627 81,980 74,647 5,534 47 1,078 3 4,833 474 140,902 3,806
安政6年 1859年 164,066 85,510 78,556 164,016 85,482 78,534 5,488 47 1,263 3 5,060 488 146,414 1,201 4,102
万延元年 1860年 166,121 86,454 79,667 165,003 85,840 79,163 5,456 42 953 1,182 3 120 5,083 498 147,422 1,207 4,155
文久元年 1861年 167,242 86,972 80,270 166,093 86,346 79,747 5,504 41 983 1,273 3 122 5,070 500 148,333 1,200 4,213
文久2年 1862年 168,181 87,342 80,839 167,017 86,709 80,308 5,563 42 996 1,294 3 123 5,104 506 149,109 1,204 4,237
文久3年 1863年 166,677 83,412 83,265 165,857 85,943 79,914 5,608 39 719 1,397 4 58 4,957 508 148,006 1,185 4,196
元治元年 1864年 166,861 86,542 80,319 166,155 86,134 80,021 5,805 35 619 1,500 4 48 4,923 512 148,032 1,191 4,192
慶応元年 1865年 168,227 87,118 81,109 167,516 86,715 80,801 6,129 34 628 1,486 2 47 4,982 534 148,936 1,189 4,260
慶応2年 1866年 169,056 87,638 81,418 168,333 87,233 81,100 5,995 39 636 1,499 0 48 5,073 551 149,671 1,178 4,366
慶応3年 1867年 170,339 88,110 82,229 169,872 87,845 82,027 6,341 34 407 1,551 0 26 5,119 557 150,707 1,154 4,443

(典拠は安澤秀一 (1980年)[41]。)

弘前藩 (津軽藩)

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以下に弘前藩の人口変遷を示す。但し統計に統一がなく、武家を加えた領内総人口と、武家を除いた領民人口の統計が混在していると思われるが、後者も領内総人口の項目にまとめた。

弘前藩の身分構成の変遷
元号 西暦 領内総人口 家中 弘前町中 寺社門前 在方 九浦
合計
宝永3年 1706年 154,323 4,754 149,569
寛延3年 1750年 151,072
宝暦6年 1756年 160,774
宝暦12年 1762年 174,035
明和元/2年 1764/65年 222,280 14,600 16,600 172,700 18,380
明和5年 1768年 195,064
安永3年 1774年 250,000
天明元年 1781年 246,822 129,888 116,934 16,974 16,847 4,166 189,742 19,093
寛政年中 1795年頃 143,399 73,107 70,292 12,923 10,814 784 107,600 11,278
寛政10年 1798年 169,892
寛政12年 1800年 173,863 89,283 84,580 26,730 132,847 14,286
文化元年 1804年 173,471 89,910 83,561 14,505 2,849 156,117
文化7年 1810年 189,721 14,928 10,498 1,934 124,640 12,899
文化13年 1816年 198,828
文政5年 1822年 206,004
文政11年 1828年 228,797
天保5年 1834年 239,741 124,180 115,561 21,048 3,424 215,269
天保7年 1836年 239,311 123,343 115,968 20,480 14,535 3,252 183,431 17,613
天保8年 1837年 21,004
天保11年 1840年 170,797 87,793 83,004
弘化3年 1846年 185,098 95,334 89,764
嘉永5年 1852年 204,664 105,973 98,691
嘉永6年 1853年 221,496 112,310 109,186 23,431 14,086
安政5年 1858年 204,380 105,837 98,543 14,850
安政6年 1859年 236,522 120,213 116,309 23,964 14,631
元治元年 1864年 227,042 116,962 110,080
慶応2年 1866年 255,273 131,289 123,984 21,926 16,061
明治3年 1870年 254,633 124,042 130,591

(典拠は『弘前市史』、『津軽史事典』)

津和野藩

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19世紀の津和野藩の人口構成について、旧津和野藩主亀井家第15代当主の亀井茲建が論文に公表しており、士農工商の割合を示すデータとしてしばしば引用される。

津和野藩の身分構成の変遷
身分・地域・職業 文化2年
(1805年)
弘化2年
(1845年)
弘化3年
(1846年)
嘉永3年
(1850年)
嘉永4年
(1851年)
家中 5,464 5,164 5,200 5,296 5,296
   津和野住居 5,078 4,859 4,902 5,021 5,012
   江戸住居 272 211 198 174 179
   大坂住居 22 19 24 25 25
   廿日市住居 92 75 76 76 80
町方 2,540 1,923 1,949 2,048 2,038
在方 68,332 58,579 59,106 61,002 61,451
   修験 22 22
   寺宗門修験家内 19 16
   社人 144 142
   寺宗門社人家内 215 218
   百姓 66,048 57,207 57,573 58,920 59,381
   永明寺領虹ヶ谷村 102 93 91 96 91
   鑢鍛冶屋 1,494 792 946 1,084 1,061
   木地屋 83 24 25 0 10
   穢多 590 461 469 502 506
   番太郎 15 2 2 0 4
合計 76,336 65,668 66,257 68,346 68,785
39,763 34,512 36,002
36,573 31,743 32,783

(典拠は亀井茲建 (1932年)[42]。)

江戸時代の生活史に関わる人口統計

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江戸時代の人の一生、世帯の状況など、生活史に関わるミクロな視点からの人口統計に関しては、歴史人口学古人類学の立場から様々な研究がなされている。

出生率

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江戸時代の各地の出生率は宗門改帳等により推測することができる。宗門改帳は、江戸期におけるキリスト教禁圧の産物であり、全住民が仏教徒であることを証明するため、世帯毎に各家族や奉公人が所属する宗派・寺院を記したものである。宗門改は毎年行うことが原則とされ、各世帯の人員構成や続柄、出生、結婚、死亡等が記載されるため、人口学上極めて貴重な資料となっている。

宗門改帳等により推計される各地の粗出生率(Crude Birth Rate:人口1,000人当たりの出生数。普通出生率と同義)は、陸奥国下油田村(1773-77年:18.4、1808-12 年: 28.2、1832-36 年:19.1)、信濃国横内村(1671-1871 年:26.3)、尾張国神戸新田(1838-70 年:31.2)、美濃国西條村(1773-1868 年:31.9)、和泉国塔原村(1792-1851 年 31.48)、備前国吹上村(1693-1860 年:26.0)、肥前国野母村(1766-1871 年:28.8)等となっている。

東北地方の出生率が低かったこと、中部以西の出生率が比較的高かったことがうかがえるが、総じて比較的出生率が低い。明治33(1900)年の全国の普通出生率は32.4、大正元(1912)年は 35.1、昭和元(1926)年は 34.6、「団塊世代」の出生期であった昭和 22(1947)年は 34.3 であり、江戸時代は明治~昭和前期より出生率が低かったことになる。

もっともこれに対しては異論がある。宗門改は原則1年毎に行われるため、その間に出生し死亡した乳児が記載されないことが多く、この脱漏を考慮すると、実際の出生数は1 割ないし2割程度多かったのではないかとも推測されている。しかし、このような補正を行っても江戸期の出生率は明治~昭和前期に比べ高かったとは言い難い。当時の乳幼児死亡率の高さ、医療、衛生、食料等を考慮すれば、江戸後期の出生率は必ずしも十分ではなかったと言えよう。また、生涯出生数は地主や比較的大規模な自作農の方が、小規模自 作農や小作より高く、出生力の低い小規模自作農や小作は絶家となる例も多かった。

人口と耕地の減少に悩む各藩、さらに幕府は、間引きの禁止や「赤子養育」のための養育金支給等の施策を行っている。

平均寿命、乳児死亡率

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江戸時代の生活史の人口資料としてよく利用されている資料は宗門改帳だが、基本的に静態統計であり、出生直後から宗門人別改めの期日までに死亡した場合には記載漏れとなり、正確な出生数と乳児死亡率の把握が困難である。宗門改帳より推計された数え2歳時、5歳時、10歳時、15歳時の平均余命は以下の通りである。[43]

宗門改帳を用いた江戸時代の数え2歳, 5歳, 10歳, 15歳時平均余命推計[43]
対象村落 期間 数え2歳時
平均余命, 年
数え5歳時
平均余命, 年
数え10歳時
平均余命, 年
数え15歳時
平均余命, 年
事例数 計算方法 出典
男子 女子 男子 女子 男子 女子 男子 女子 男子 女子
岩代国安達郡仁井田村 1720–1870年 37.7 36.4 900 824 死亡コーホート
(乳児死亡率200を仮定)
成松佐恵子 (1992年)[44]
岩代国安積郡下守屋村 1716–1872年 37.8 38.6 674 641 死亡コーホート
(乳児死亡率200を仮定)
成松佐恵子 (1985年)[45]
信濃国諏訪郡横内村 1671–1725年 36.8 29.0 46.7 35.9 50.0 38.3 46.9 35.6 226 144 出生コーホート 速水融 (1973年)[2]
1726–1775年 42.7 44.0 48.3 48.8 49.9 48.1 46.6 44.6 253 97
信濃国筑摩郡湯船沢村 1675–1740年 37.1 37.6 45.8 42.6 44.1 41.0 39.8 36.8 137 130 死亡コーホート 鬼頭宏 (2000年)[5]
1741–1796年 43.2 42.0 48.2 44.6 45.1 41.7 42.7 37.7 286 264
美濃国恵那郡飯沼村 1712–1750年 37.4 37.4 43.8 45.4 44.2 43.8 40.4 39.9 104 112 死亡コーホート 速水融 (1992年)[46]
1751–1800年 45.6 43.8 50.6 49.6 51.2 48.6 46.2 43.6 127 141
1826–1867年 44.4 44.9 47.9 45.2 46.6 44.3 42.1 39.6 128 128
1712–1867年
(全期間)
42.8 42.3 47.7 46.9 47.6 45.7 43.1 41.2 359 381
1711–1780年 41.8 39.7 50.4 46.9 52.0 47.8 49.2 42.8 100 100 出生コーホート
美濃国安八郡西条村 1773–1800年 34.6 34.4 37.8 39.9 37.5 40.6 34.2 35.6 122 119 出生コーホート 速水融 (1992年)[46]

出生時平均余命(平均寿命)と乳児死亡率に関しては、懐妊書上帳や出生調書上帳、明治以降の数値、モデル計算により推計値が出されている。以下江戸時代における乳児死亡率と出生、満5歳、満10歳、満15歳時平均余命の推計をまとめる。[43][47]なお江戸時代全般に見られる異常な男女比は嬰児殺しの影響があると見られるが、出生調書上帳などでは出産後に殺された嬰児についても堕胎とともに死産(死産は平均余命の計算から除外される)扱いされている可能性があり、宗門改帳における乳児死亡の情報欠落と共に、平均余命が実際よりも高く見積もられている原因となり得る。[48]

江戸時代の乳児死亡率と出生時, 満5歳時, 満10歳時, 満15歳時平均余命の推計[43][47]
対象村落 期間 乳児死亡率, ‰ 出生時
平均余命, 年
満5歳時
平均余命, 年
満10歳時
平均余命, 年
満15歳時
平均余命, 年
資料 推計方法 出典
男子 女子 男子 女子 男子 女子 男子 女子 男子 女子
陸中国磐井郡狐禅寺村 1810–1823年 154 203 46.0 38.4 51.5 48.6 49.8 44.5 44.8 42.2 人数改帳,
出減帳,
出生調書上帳,
病死書上帳,
懐妊書上帳
長澤克重 (2008年)[47]
200 43.6 38.5 乳児死亡率200を仮定
1851–1861年 141 186 46.9 40.0 54.0 48.8 50.7 45.5 47.0 42.4 人数改帳,
出生調書上帳,
病死書上帳,
懐妊書上帳
200 43.8 39.3 乳児死亡率200を仮定
磐城国白川郡中石井村 1808–1826年 178~198~208 懐妊書上帳 最小~中間~最大値 鬼頭宏 (1976年)[49]
岩代国会津郡金井沢村,
   鴇巣村, 石伏村, 桑原村
1752–1859年 200 39.8 36.1 宗門改帳 乳児死亡率200を仮定 岡田あおい (2006年)[50]
羽前国村山郡山家村 1760–1799年 222 204 39.1 41.1 51.8 52.6 49.8 52.2 45.1 47.7 宗門改帳 初年死亡率からの推計 木下太志 (2002年)[51]
1800–1835年 232 213 35.4 35.6 47.3 45.8 45.1 45.0 41.9 41.4
1836–1870年 237 218 36.1 36.2 48.9 47.0 48.6 46.4 44.5 42.3
1760–1870年
(全期間)
231 212 36.8 37.5 49.3 48.5 47.8 47.8 43.8 43.8
常陸国茨城郡川戸村 1854–1871年 158~170~176 懐妊書上帳 最小~中間~最大値 鬼頭宏 (1996)[52]
常陸国河内郡小茎村, 六斗蒔村 1851–1871年 115~143~190 懐妊書上帳 最小~中間~最大値 鬼頭宏 (1972)[53]
越前国坂井郡田島村 1819–1854年 26.3 24.1 宗門改帳 北モデル 坪内良博, 坪内玲子 (1984年)[54]
信濃国伊那郡虎岩村 1812–1815年 229 189 36.8 36.5 48.8 46.3 46.6 46.4 43.9 45.0 宗門改帳 0-4歳死亡数の上方修正 小林和正 (1956年)[55]
飛騨国大野郡往還寺村落
   (宮村, 久々野村)
1776–1795年 264 228 32.5 33.6 49.9 47.6 48.4 46.0 44.8 42.0 過去帳   須田圭三 (1973年)[56],
Jannetta, Preston (1991年)[57]
1796–1815年 291 252 33.9 32.9 52.3 49.7 51.3 49.9 47.4 45.8
1816–1835年 314 281 33.9 32.2 53.3 48.2 50.4 45.9 46.8 42.3
1836–1855年 315 313 31.8 31.5 50.0 47.9 48.5 46.1 44.7 42.7
1856–1875年 397 363 29.2 29.8 49.3 47.8 48.0 47.2 44.6 43.5
1776–1875年
(全期間)
288 265 32.3 32.0 50.9 48.2 49.3 47.0 45.7 43.3
美濃国郡上郡中原村 1717–1830年 165 125 43.2 49.7 52.6 46.7 50.0 44.9 宗門改帳 北モデル Smith (1977年)[58]
美濃国大野郡鹿野村,
   安八郡小泉村, 西条村
1751–1869年 232 199 35.9 38.9 48.7 50.5 46.5 47.7 42.5 43.4 宗門改帳 西モデル 斉藤修 (1992年)[59]
177 150 38.4 41.3 北モデル
美濃国安八郡西条村 1773–1869年 200 36.8 36.7 48.9 49.8 47.4 47.7 43.5 43.1 宗門改帳 乳児死亡率200を仮定 速水融 (1992年)[46]
三河国宝飯郡西方村 1782–1787年 43.5 75.3 43.7 75.2 宗門改帳 西モデル Hanley, Yamamura (1977年)[60]
1787–1792年 30.6 39.1 37.3 45.0
1791–1796年 30.5 50.6 35.1 56.2
1782–1796年
(全期間)
34.9 55.0 38.7 58.8
大和国広瀬郡河合村 1789–1867年 38.2 過去帳 菱沼従尹 (1978年)[48]
備前国児島郡藤戸村 1800–1805年 44.1 54.4 41.1 55.8 宗門改帳 西モデル Hanley, Yamamura (1977年)[60]
1805–1810年 45.1 52.9 45.4 49.3
1825–1830年 40.8 40.3 53.6 36.5
1830–1835年 34.3 32.1 38.6 49.0
1800–1835年
(全期間)
41.1 44.9 44.6 54.5
筑前国宗像郡泉福寺村落
   (鐘崎村)
1700–1724年 48.9 43.4 過去帳   Kalland, Pedersen (1984年)[61]
1725–1749年 47.1 49.1
1750–1774年 47.7 45.9
1775–1799年 41.2 41.2
1800–1824年 40.0 39.1
1700–1824年
(全期間)
44.7 43.3

以上は農村を中心とした研究であるが、これに対して城下町などの人口密集地域では人の出入りが激しく、平均余命の推定が困難である。小林和正は江東区深川の浄土宗雲光院跡で出土した江戸時代の満15歳以上の人骨の平均死亡年齢を男子45.5歳、女子40.6歳と推定している。[62]満15歳時平均余命は男子30.3年、女子25.6年、男女平均27.8年に相当する。[63]

東京各所の墓地から出土した
江戸時代の江戸の満15歳以上人骨
平均死亡年齢 (小林和正, 1967年)[62]
出土場所 満15歳以上人骨
平均死亡年齢, 歳
個体数
男子 女子 男子 女子
東京各所 (深川以外) 39.9 40.4 37 21
深川 45.5 40.6 79 29
東京各所 43.9 40.6 116 50

また、ワイスのモデル生命表を15歳未満に適応することにより、菱沼従尹(1978年)は江戸深川の出生時平均余命を20.3年と推定している。[48]長岡朋人, 平田和明(2007年)[64]らも都立一橋高校内遺跡から出土した人骨を元に出生時平均余命を21.3年と推定している。江戸時代は一般的に都市部の方が農村に比べて死亡率が高くて出産率が低い傾向にあり、都市部への出稼ぎを担う農村からの余剰人口を減らすことで全体の人口を調整していたと考えられている(「都市アリ地獄説」)。[46]

都立一橋高校内遺跡から出土した人骨から推定した
江戸時代の江戸の平均余命(長岡朋人, 平田和明, 2007年)[64]
推計方法 乳幼児(満5歳未満)
死亡率, ‰
出生時
平均余命, 年
満5歳時
平均余命, 年
満10歳時
平均余命, 年
満15歳時
平均余命, 年
直説法 362 20.7 26.0 25.2 23.1
ベイズ推定法 21.8 27.7 27.2 25.5
最尤推定法 21.3 27.0 26.4 24.5

脚注

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注釈

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  1. ^ a b c d e 本項の享保6年(1721年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は『三暇謾録』記載の数字をまとめた以下の須田昭義の論文による。
    • 須田昭義, 「徳川時代人口に関する新資料」, 人類学雑誌, 63, pp. 146-148 (1954).
    なお享保6年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は関山直太郎『近世日本の人口構造』を介して須田昭義の論文の人口を採用しているが、須田昭義の論文とは上総・全国の総人口が異なる。
    享保6年(1721年)の人口の相違点
    旧国 須田昭義論文 速水融監修
    総数 総数
    上総 407,553 407,552
    以上合計 26,065,422 26,065,421
    総数 26,065,422 26,065,425
  2. ^ a b c d e 古くより西山元文著『官中秘策』には寛延3年(1750年)の総人口、男女別人口、旧国別人口が記載されていることが知られており、以下のように様々な論文・書籍で寛延3年の総人口、男女別人口、旧国別人口がまとめられている。これらの内、鈴木券太郎論文では出典が示されていないが、延享元年(1744年)と宝暦6年(1756年)の人口との比較による人口増減が記述されていることから、『官中秘策』によるものとみて間違いない。
    • 村田豊, 「大日本古今人員」, 統計集誌, (3), pp. 132-134 (1881).
    • 鈴木券太郎, 「寛延三年御国人口表」, 東京経済雑誌, (125), pp. 1090-1092 (1882).
    • 井上瑞枝, 「大日本国古来人口考 (第三)」, 統計学雑誌,(215), pp. 59-64 (1904).
    • 高橋梵仙, 「第二篇 近世日本の人口」, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, pp. 87-161 (1971).
    ただし『官中秘策』の写本は何十点と現存しており、一つとして正しい集計がなされているものは存在せず、上記文献でも微妙に数字が異なっている。井上瑞枝の論文では4種類の異なる『官中秘策』の写本により、寛延3年の旧国別男女人口をまとめているが、集計に誤りがある。そこで本項の寛延3年の総人口、男女別人口、旧国別人口は、国立公文書館所蔵『官中秘策摘要』を底本とし、同じく国立公文書館所蔵の写本5点、国立国会図書館所蔵の写本、東京大学史料編纂所所蔵の写本、早稲田大学図書館所蔵の写本、及び上記4報の論文・書籍などと数字を比較・検討することで、伊豆・常陸・美濃・越前・備後・豊後の総人口、伊賀・遠江・駿河・安房・陸奥・但馬・出雲・播磨・備中の男人口、伊賀・安房・近江・越前・越中・石見・豊前の女人口を改訂した。改訂により、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」とは駿河・甲斐・美濃・但馬・備中・紀伊・阿波の総人口、山城・河内・遠江・駿河・甲斐・相模・安房・上総・上野・能登・越中・丹波・但馬・因幡・石見・備中・紀伊・筑前の男人口、尾張・三河・駿河・相模・上総・陸奥・出羽・越後・石見・播磨・安芸・日向の女人口が異なることになる。
    寛延3年(1750年)の人口の相違点
    旧国 本項における改訂 官中秘策摘要 速水融監修
    総数 総数 総数
    山城 522,626 276,940 245,686 522,626 276,940 245,686 522,626 276,640 245,686
    河内 231,266 114,951 116,315 231,266 114,951 116,315 231,266 114,651 116,315
    伊賀 91,392 47,149 44,243 91,392 44,149 41,243 91,392 47,149 44,243
    尾張 553,340 279,810 273,530 553,340 279,810 273,530 553,340 279,810 273,350
    三河 419,283 208,406 210,877 419,283 208,406 210,877 419,283 208,406 218,077
    遠江 333,744 166,857 166,887 333,744 186,857 166,887 333,744 186,857 166,887
    駿河 313,817 161,386 152,431 313,817 161,388 152,431 313,819 161,388 151,431
    甲斐 314,193 157,878 156,315 314,193 157,878 156,315 311,193 158,878 156,315
    伊豆 105,120 53,806 51,314 105,020 53,806 51,314 105,120 53,806 51,314
    相模 310,796 167,791 143,005 310,796 167,791 143,005 310,796 167,781 123,005
    安房 158,440 83,031 75,409 158,440 83,021 75,419 158,440 83,021 75,409
    上総 453,460 237,699 215,761 453,460 237,699 215,761 453,460 237,695 215,765
    常陸 655,507 361,246 294,261 655,500 361,246 294,261 655,507 361,246 294,261
    近江 575,216 290,500 284,716 575,216 290,500 284,706 575,216 290,500 284,716
    美濃 533,091 272,630 260,461 533,096 272,630 260,461 533,095 272,630 260,461
    上野 576,075 315,619 260,456 576,075 315,619 260,456 576,075 315,609 260,456
    陸奥 1,836,134 1,019,138 816,996 1,836,134 1,019,130 816,996 1,836,134 1,019,138 816,966
    出羽 846,255 479,223 367,032 846,255 479,223 367,032 846,255 479,223 367,052
    越前 348,052 178,316 169,736 348,042 178,316 169,726 348,052 178,316 169,736
    能登 157,765 79,973 77,792 157,765 79,973 77,792 157,765 79,073 77,792
    越中 313,562 165,793 147,769 313,562 165,793 140,769 313,562 165,793 147,769
    越後 970,185 510,703 459,482 970,185 510,703 459,482 970,185 518,703 451,482
    丹波 276,336 143,631 132,705 276,336 143,631 132,705 276,336 143,620 132,705
    但馬 156,612 81,366 75,246 156,612 81,367 75,246 156,613 83,367 75,246
    因幡 125,085 66,909 58,176 125,085 66,909 58,176 125,085 66,907 58,176
    出雲 234,896 120,354 114,542 234,896 120,394 114,542 234,896 120,354 114,542
    石見 219,512 112,283 107,229 219,512 112,283 117,229 219,512 112,583 107,529
    播磨 551,393 285,632 265,761 551,393 285,622 265,761 551,393 314,490 284,911
    備中 365,410 192,396 173,014 365,410 192,393 173,014 319,410 192,396 173,014
    備後 306,818 158,102 148,716 306,810 158,102 148,716 306,818 158,102 148,716
    安芸 396,878 202,040 194,838 396,878 202,040 194,838 396,878 202,040 194,938
    紀伊 508,674 282,975 225,699 508,674 282,975 225,699 508,174 282,475 225,699
    阿波 362,905 185,881 177,024 362,905 185,881 177,024 336,905 185,881 177,024
    筑前 307,439 171,878 135,561 307,439 171,878 135,561 307,439 171,876 135,561
    豊前 242,653 129,086 113,567 242,653 129,086 112,567 242,653 129,086 113,567
    豊後 511,880 273,145 238,735 501,880 273,145 238,735 511,880 273,145 238,735
    日向 225,421 126,409 99,012 225,421 126,409 99,012 225,421 126,409 99,900
    以上合計 25,917,830 13,818,654 12,099,176 25,907,710 13,835,666 12,098,166 25,842,337 13,876,766 12,097,628
    総数 25,917,830 13,818,654 12,099,176 25,917,830 13,818,654 12,099,176 25,917,830 13,818,654 12,099,176
  3. ^ a b c 渋井孝徳著『国史』巻二十三「地理志 第六」には、宝暦6年(1756年)の旧国別人口が収録されており、以下の論文・著作でその数字がまとめられている。この内、高橋梵仙の著作の人口は、国立国会図書館所蔵の写本による。
    • 井上瑞枝, 「大日本国古来人口考 (第三)」, 統計学雑誌,(215), pp. 59-64 (1904).
    • 高橋梵仙, 「第二篇 近世日本の人口」, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, pp. 87-161 (1971).
    ただし『国史』巻二十三「地理誌第六」の写本の多くは人口情報を欠き、また国立国会図書館や国立公文書館所蔵の写本や、上記文献でも微妙に数字が異なっている。そこで本項の宝暦6年の総人口、旧国別人口は、高橋梵仙により改訂された国立国会図書館所蔵本を底本とし、国立公文書館所蔵の13冊本と井上瑞枝の論文により隠岐・美作・豊後・対馬・蝦夷の総人口を改訂した。 なお速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は関山直太郎『近世日本の人口構造』を介して高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』の諸国別人口を引用し、宝暦6年の総人口を2607万0712人としているが、この数字はあくまでも高橋梵仙が国立国会図書館所蔵『国史』記載の旧国別人口の合計として算出したものである(実際の国立国会図書館所蔵『国史』には出雲・石見の人口がそれぞれ32万0094人・15万9202人と記載されているほか、蝦夷の人口が2万2632人と記載されているため、正確な合計は2607万0713人と1人多い)。国立公文書館所蔵の13冊本の『国史』巻二十三「地理誌第六」の「宝暦六年日本国御領私領御惣人数」には、人都合2606万1830人、内1383万3311人男、1222万8519人女との記載があり、この数字は『官中秘策』の各種写本や『吹塵録』収録「日本国郡沿革考」に掲載されている宝暦6年の人口とも一致する。よって本項でも宝暦6年の総人口として2606万1830人を採用し、それにより男女別人口の合計との差も解消される。これらの改訂にもかかわらず依然として旧国別人口の合計は総人口よりも130人少ない。 また速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」や関山直太郎『近世日本の人口構造』は、高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』とは下野の総人口が異なる。
    宝暦6年(1756年)の人口の相違点
    旧国 本項における改訂 高橋梵仙著作改訂 速水融監修
    総数 総数 総数
    下野 535,743 535,743 533,743
    隠岐 19,546 19,548 19,548
    美作 173,421 172,431 172,431
    豊後 511,706 521,706 521,706
    対馬 11,972 11,973 11,973
    蝦夷・松前 22,632 22,631 22,631
    以上合計 26,061,700 26,070,712 26,068,712
    総数 26,061,830 26,070,712 26,070,712
  4. ^ a b c 本項の天明6年(1786年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は以下の滝本誠一編纂『日本経済大典』に収録された「天明寛政人数帳」によるが、下野の総人口として男女別人口の合計を用いることにより下野の人口を改訂し、そのほか各旧国別総人口、男女別総人口との比較検討により、河内・陸奥・紀伊の男人口、加賀・美作・備中の女人口を改訂した。
    • 滝本誠一編, 「天明寛政人数帳」, 『日本経済大典』, 48, pp. 167-189 (1930).
    なお天明6年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』を介して「天明寛政人数帳」の人口を採用しているが、「天明寛政人数帳」とは遠江・陸奥・肥前の男人口が異なる。また速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」では旧国別人口合計として2505万7492人を掲載しているが、これは男女の旧国別人口合計の合算値であり、実際の旧国別人口合計は2508万6472人である。
    天明6年(1786年)の人口の相違点
    旧国 本項における改訂 天明寛政人数帳 速水融監修
    総数 総数 総数
    河内 205,585 104,184 101,401 205,585 104,084 101,401 205,585 104,084 101,401
    遠江 332,100 167,367 164,733 332,100 167,367 164,733 332,100 167,368 164,733
    下野 434,791 240,354 194,437 434,797 240,354 194,437 434,797 240,354 194,437
    陸奥 1,563,719 826,775 736,944 1,563,719 826,755 736,944 1,563,719 826,775 736,944
    加賀 196,732 107,924 88,808 196,732 107,924 83,808 196,732 107,924 83,808
    美作 157,747 86,061 71,686 157,747 86,061 71,616 157,747 86,061 71,616
    備中 316,904 167,707 149,197 316,904 167,707 140,997 316,904 167,707 140,997
    紀伊 500,621 260,160 240,461 500,621 260,110 240,461 500,621 260,110 240,461
    肥前 662,342 353,167 309,175 662,342 353,167 309,175 662,342 337,612 309,175
    以上合計 25,086,466 13,230,656 11,855,810 25,086,472 13,230,486 11,842,540 25,086,472 13,214,952 11,842,540
    総数 25,086,466 13,230,656 11,855,810 25,086,466 13,230,656 11,855,810 25,086,466 13,230,656 11,855,810
  5. ^ a b c d e f 本項の寛政4年(1792年)、寛政10年(1798年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は国立公文書館内閣文庫所蔵『雑載』収録の「寛政四子年 諸国人数帳」と「寛政十午年 諸国人数帳」による。 この内寛政4年の人口は以下の南和男の論文でも紹介されている。
    • 南和男, 「寛政四年の諸国人口について」, 日本歴史, (432), pp. 42-47 (1984).
    寛政4年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」も南和雄の論文の人口を採用しているが、南和雄の論文と出羽の男人口が異なる(速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」では旧国別女人口合計として1885万6910人を掲載しているが、実際の旧国別人口合計は1185万6920人であり、総数と一致する)。
    寛政4年(1792年)の人口の相違点
    旧国 雑載 速水融監修
    総数 総数
    出羽 816,770 439,143 377,627 816,770 439,142 377,627
    以上合計 24,891,441 13,034,521 11,856,920 24,891,441 13,034,520 11,856,920
    総数 24,891,441 13,034,521 11,856,920 24,891,441 13,034,521 11,856,920

    また寛政10年(1798年)の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は文部省史料館(現・国文学研究資料館)所蔵『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(信濃国佐久郡御馬寄町田家文書からの写本)記載の数字をまとめた以下の関山直太郎の論文による寛政10年の人口を採用しているが、『雑載』収録の「寛政十午年 諸国人数帳」は集計に誤りがなく、より原本に近いと考えられる。

    • 関山直太郎, 「寛政10年及び文政5年の国別人口」, 経済理論, (37), pp. 61-74 (1957)

    寛政10年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は『雑載』と近江・陸奥・越中の総人口が異なるほか、和泉・甲斐・上総・近江・美濃・越中・越後・周防の男人口、武蔵・越後の女人口が異なる。

    寛政10年(1798年)の人口の相違点
    旧国 雑載 速水融監修
    総数 総数
    和泉 199,083 101,089 97,994 199,083 100,089 97,994
    甲斐 309,604 156,695 152,909 309,604 156,696 152,909
    武蔵 1,666,131 908,341 757,790 1,666,131 908,341 757,190
    上総 368,831 189,818 179,013 368,831 189,813 179,013
    近江 538,442 273,717 264,725 538,412 253,717 264,725
    美濃 563,863 289,504 274,359 563,863 288,504 274,359
    陸奥 1,589,178 837,908 751,270 1,589,108 837,908 751,270
    越中 337,129 178,088 159,041 337,229 178,083 159,041
    越後 1,053,674 542,672 511,002 1,053,674 567,681 511,605
    周防 357,507 185,586 171,921 357,507 181,586 171,921
    以上合計 25,471,033 13,360,520 12,110,513 25,471,033 13,359,520 12,110,513
    総数 25,471,033 13,360,520 12,110,513 25,471,033 13,360,520 12,110,513
  6. ^ a b c d e 文化元年(1804年)の総人口、男女別人口、旧国別人口をまとめた論文・著作は様々あるが、微妙に数字が異なる。このうち村田豊、井上瑞枝の論文は出典として「諸国人数帳」を挙げている。また滝本誠一編「天明寛政人数帳」記載の人口は実際には寛政期のものではなく文化元年のもので、高橋梵仙は「天明寛政人数帳」記載の総人口、男女別人口、旧国別人口を典拠とし、井上瑞枝の論文により明らかに誤記のある筑後の男女人口を改訂している。
    • 国立公文書館所蔵, 『諸国人数調 全』.
    • 村田豊, 「大日本古今人員」, 統計集誌, (3), pp. 132-134 (1881).
    • 勝安房(勝海舟)編, 「文化元甲子年 諸国人数調」, 『吹塵録 上巻』, 「人口及国高之部」, 日本学術振興会, pp. 144-149 (1890).
    • 井上瑞枝, 「大日本国古来人口考 (第三)」, 統計学雑誌,(215), pp. 59-64 (1904).
    • 滝本誠一編, 「天明寛政人数帳」, 『日本経済大典』, 48, pp. 167-189 (1930).
    • 高橋梵仙, 「第二篇 近世日本の人口」, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, pp. 87-161 (1971).
    本項の文化元年(1804年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は高橋梵仙によって改訂された「天明寛政人数帳」によるが、山城の総人口として男女別人口の合計を用いることにより山城の人口を改訂し、そのほか各旧国別総人口、男女別総人口との比較検討により、大和・摂津・備前・周防の男人口、備中の女人口を改訂した。 なお文化元年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』による改訂値を引用している。
    文化元年(1804年)の人口の相違点
    旧国 本項における改訂 高橋梵仙著作改訂
    (速水融監修に同じ)
    総数 総数
    山城 469,517 242,920 226,597 469,519 242,920 226,597
    大和 340,706 174,766 165,940 340,706 174,767 165,940
    摂津 789,857 413,966 375,891 789,857 410,966 375,891
    備前 318,273 172,200 146,073 318,273 152,200 146,073
    備中 328,408 174,097 154,311 328,408 174,097 154,211
    周防 358,761 188,573 170,188 358,761 158,573 170,188
    以上合計 25,621,957 13,427,249 12,194,708 25,621,959 13,383,074 12,185,784
    総数 25,621,957 13,427,249 12,194,708 25,621,957 13,427,249 12,194,708
  7. ^ a b c 本項の文政5年(1822年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は文部省史料館(現・国文学研究資料館)所蔵『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(信濃国佐久郡御馬寄町田家文書からの写本)記載の数字をまとめた以下の関山直太郎の論文によるが、摂津の総人口 は男女別人口の合計に改訂した。この改訂によっても依然として伊勢・甲斐・伊豆・近江・下野・但馬・石見・肥前・対馬の総人口と男女別人口の合計が異なり、旧国別人口の合計は総人口よりも1487人多い
    • 関山直太郎, 「寛政10年及び文政5年の国別人口」, 経済理論, (37), pp. 61-74 (1957).
    なお文政5年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は関山直太郎『近世日本の人口構造』と高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』を介して関山直太郎の論文にまとめられている国文学研究資料館所蔵『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』記載の人口を採用しているが、関山直太郎の論文とは対馬の男人口、蝦夷松前の男女人口が異なる。
    文政5年(1822年)の人口の相違点
    旧国 本項における改訂 関山直太郎論文 速水融監修
    総数 総数 総数
    摂津 799,635 417,032 382,603 790,635 417,032 382,603 790,635 417,032 382,603
    伊勢 494,640 248,985 245,652 494,640 248,985 245,652 494,640 248,985 245,652
    甲斐 291,675 148,500 143,075 291,675 148,500 143,075 291,675 148,500 143,075
    伊豆 134,722 68,471 66,253 134,722 68,471 66,253 134,722 68,471 66,253
    近江 557,491 285,027 272,466 557,491 285,027 272,466 557,491 285,027 272,466
    下野 395,045 213,472 181,577 395,045 213,472 181,577 395,045 213,472 181,577
    但馬 179,408 93,876 85,533 179,408 93,876 85,533 179,408 93,876 85,533
    石見 257,508 134,917 121,917 257,508 134,917 121,917 257,508 134,917 121,917
    肥前 683,536 359,080 324,455 683,536 359,080 324,455 683,536 359,080 324,455
    対馬 16,963 8,785 8,178 16,963 8,785 8,178 16,963 8,785 8,178
    蝦夷・松前 61,948 32,030 29,918 61,948 32,030 29,918 61,948 15,002 13,709
    以上合計 26,603,597 13,894,443 12,708,387 26,594,597 13,894,443 12,708,387 26,594,597 13,873,415 12,692,178
    総数 26,602,110 13,894,436 12,707,674 26,602,110 13,894,436 12,707,674 26,602,110 13,894,436 12,707,674
  8. ^ a b c 以下の井上瑞枝の論文は『嘉永五年壬子居闔国總人別寄帳写』を元史料として嘉永5年(1852年)の総人口、男女別人口、旧国別人口を記載しているが、『文恭公実録』や『三暇謾録』など他史料との比較から内容は文政11年(1828年)の調査人口であると推測されている。
    • 井上瑞枝, 「大日本国古来人口考 (第四)」, 統計学雑誌,(217), pp. 126-129 (1904).
    本項の文政11年(1828年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は井上瑞枝の論文記載の人口に関し、明らかに誤記のある越後の人口を改訂した高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』によるが、同様に駿河の総人口を男女別人口の合計に改訂し、さらに山城の男女人口と因幡の女人口を改訂した。この改訂によっても依然として摂津・三河・安房・能登・佐渡・因幡・伯耆・周防・阿波・豊前・豊後・大隅の総人口と男女別人口の合計が異なり、旧国別人口の合計は総人口よりも202人多い
    • 高橋梵仙, 「第二篇 近世日本の人口」, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, pp. 87-161 (1971).
    なお文政11年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は関山直太郎『近世日本の人口構造』を介して高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』記載の人口を採用しているが、高橋梵仙の著作とは伊豆・信濃・蝦夷松前の総人口、伊豆・丹波の女人口が異なる。
    文政11年(1828年)の人口の相違点
    旧国 本項における改訂 高橋梵仙著作改訂 速水融監修
    総数 総数 総数
    山城 498,296 257,500 240,796 498,296 250,500 247,096 498,296 250,500 247,096
    摂津 812,090 421,309 390,791 812,090 421,309 390,791 812,090 421,309 390,791
    三河 439,635 218,510 221,115 439,635 218,510 221,115 439,635 218,510 221,115
    駿河 277,763 143,544 134,219 270,763 143,544 134,219 270,763 143,544 134,219
    伊豆 136,796 69,354 67,442 136,796 69,354 67,442 130,796 69,354 97,442
    安房 140,830 71,463 69,370 140,830 71,463 69,370 140,830 71,463 69,370
    信濃 797,099 409,026 388,073 797,099 409,026 388,073 797,079 409,026 388,073
    能登 198,111 99,546 98,666 198,111 99,546 98,666 198,111 99,546 98,666
    佐渡 103,269 52,804 50,765 103,269 52,804 50,765 103,269 52,804 50,765
    丹波 291,869 151,002 140,867 291,869 151,002 140,867 291,869 151,002 140,967
    因幡 135,969 71,740 64,299 135,969 71,740 74,299 135,969 71,740 74,299
    伯耆 186,813 98,684 88,119 186,813 98,684 88,119 186,813 98,684 88,119
    周防 429,329 222,639 206,691 429,329 222,639 206,691 429,329 222,639 206,691
    阿波 454,120 233,821 220,289 454,120 233,821 220,289 454,120 233,821 220,289
    豊前 243,949 129,094 114,854 243,949 129,094 114,854 243,949 129,094 114,854
    豊後 474,540 247,169 227,357 474,540 247,169 227,357 474,540 247,169 227,357
    大隅 243,412 130,858 112,554 243,412 130,858 112,554 243,412 130,858 112,554
    蝦夷・松前 65,023 33,902 31,121 65,023 33,902 31,121 65,022 33,902 31,121
    以上合計 27,201,198 14,160,927 13,040,712 27,194,198 14,153,927 13,057,012 27,188,177 14,153,927 13,087,112
    総数 27,201,400 14,160,736 13,040,664 27,201,400 14,160,736 13,040,664 27,201,400 14,160,736 13,040,664
  9. ^ a b c d 本項の天保5年(1834年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は以下の篠崎亮の論文(元史料不明)によるが、備後の総人口・女人口、出雲の男人口に関しては、国立国会図書館所蔵『諸国人数』により数字を改訂した。
    • 篠崎亮, 「天保五年調査諸国人数帳」, 統計学雑誌, (369), pp. 14-15 (1917).
    国立国会図書館所蔵『諸国人数』の内容は以下の著作でも取り上げられている。
    • 高橋梵仙, 「第九篇 天保五年甲午十二月 『諸国人数』について」, 『日本人口史之研究 第二』, 第一部, pp. 333-343 (1955).
    なお速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は天保5年の男女別総人口をそれぞれ1405万3450人、1301万0457人としているが、引用している関山直太郎『近世日本の人口構造』と高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』や、篠崎亮の論文、国立国会図書館所蔵『諸国人数』などは共に男1405万3455人、女1301万0452人と記載しており、本項でも男女別総人口として男1405万3455人、女1301万0452人を採用する。天保5年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は関山直太郎『近世日本の人口構造』と高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』を介して篠崎亮の論文の人口を採用しているが、篠崎亮の論文とは摂津の男人口、備後の総人口・女人口が異なる。
    天保5年(1834年)の人口の相違点
    旧国 本項における改訂 篠崎亮論文 速水融監修
    総数 総数 総数
    摂津 796,439 411,366 385,073 796,439 411,366 385,073 796,439 411,938 385,073
    出雲 315,270 165,593 149,677 315,270 160,593 149,677 315,270 160,593 149,677
    備後 360,656 186,924 173,732 360,659 186,924 173,735 360,659 186,924 173,732
    以上合計 27,063,907 14,053,455 13,010,452 27,063,910 14,048,455 13,010,455 27,063,910 14,049,027 13,010,452
    総数 27,063,907 14,053,455 13,010,452 27,063,907 14,053,455 13,010,452 27,063,907 14,053,450 13,010,457
  10. ^ a b 本項の天保11年(1840年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は東京大学法学部法制史料室所蔵『諸国人数帳』記載の数字をまとめ、一部の数字を改訂した以下の著作による。
    • 南和雄, 「附章 天保十一年全国人口調査について」, 『幕末江戸社会の研究』, pp. 164-185 (1978).
    なお天保11年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」も南和雄『幕末江戸社会の研究』の人口を採用しているが、『幕末江戸社会の研究』とは山城・越中・大隅の男人口、遠江・上野・因幡・肥後の女人口が異なる。
    天保11年(1840年)の人口の相違点
    旧国 南和雄著作 速水融監修
    総数 総数
    山城 445,432 226,214 219,218 445,432 216,214 219,218
    遠江 350,967 177,870 173,097 350,967 177,870 173,090
    上野 426,073 221,417 204,656 426,073 221,417 224,656
    越中 383,583 195,476 188,107 383,583 195,486 188,107
    因幡 120,879 62,353 58,526 120,879 62,353 59,526
    肥後 741,677 378,514 363,163 741,677 378,514 363,063
    大隅 97,228 51,923 45,305 97,228 59,923 45,305
    以上合計 25,918,412 13,359,384 12,559,028 25,918,412 13,357,394 12,579,921
    総数 25,918,412 13,359,384 12,559,028 25,918,412 13,359,384 12,559,028
  11. ^ a b c 本項の弘化3年(1846年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は勝海舟著『吹塵録』上巻「弘化三丙午年 諸国人数調」によるが、男女別人口の合計値を旧国別人口として採用した。即ち『吹塵録』記載の陸奥・出雲・石見の総人口は男女別人口と異なるが、後者を総人口とした。 なお弘化3年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は関山直太郎『近世日本の人口構造』と高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』を介して『吹塵録』の人口を採用しているが、『吹塵録』とは摂津の総人口が異なるほか、尾張・上総の男人口、大和の女人口も異なる。
    弘化3年(1846年)の人口の相違点
    旧国 吹塵録 速水融監修
    男女計 総数 総数
    大和 361,157 361,157 183,325 177,832 361,157 183,325 177,862
    摂津 763,728 763,728 389,864 373,864 763,729 389,864 373,864
    尾張 653,678 653,678 328,343 325,335 653,678 328,353 325,335
    上総 360,761 360,761 184,362 176,399 360,761 184,361 176,399
    陸奥 1,603,881 1,607,881 830,090 773,791 1,607,881 830,090 773,791
    出雲 309,906 309,606 161,179 148,727 309,606 161,179 148,727
    石見 236,963 236,963 122,878 114,085 239,963 122,878 114,085
    以上合計 26,907,625 26,911,325 13,854,043 13,053,582 26,914,326 13,854,052 13,053,612
    総数 26,907,625 26,907,625 13,854,043 13,053,582 26,907,625 13,854,043 13,053,582
  12. ^ a b c d 江戸時代の蝦夷・松前は東山道として扱われてきたが、本表では明治以降に成立した北海道として扱う。また、旧国の配列では、伊豆の直後に甲斐を置き、出羽の直前または直後に蝦夷・松前を置くことが江戸時代は一般的であったが、本表では明治以降の慣例に従い、伊豆の直前に甲斐を置き、西海道の後に北海道として蝦夷・松前を置く。
  13. ^ a b 江戸時代、奄美諸島の人口は琉球国のものとして全国人口調査の統計から除外されたが、明治5年(1872年)、明治6年(1872年)の薩摩の人口には、奄美群島の本籍人口(『日本地誌提要』によると明治6年に10万8426人)が含まれる。明治12年(1879年)以降に奄美群島は大隅国へ編入されたものの、明治15年『統計年鑑』記載の面積では、奄美群島は薩摩国に含まれたままである。
  14. ^ a b 江戸時代を通じて琉球国は全国人口調査の統計から除外されたが、廃藩置県により一時的に鹿児島県の管轄となり、明治5年9月14日(西暦1872年10月16日)に琉球藩が発足する。ここでは明治以降の慣例に従い、統計上は西海道として扱う。琉球の人口については#琉球、奄美群島、鹿児島藩(薩摩藩)の人口変遷参照。
  15. ^ a b 幕府の全国人口調査は寛政10年(1798年)までは和人のみが対象で、約2万人のアイヌ人が集計されていない。文化元年(1804年)以降の全国人口調査ではアイヌ人も集計されている。
  16. ^ 幾つかの史料では旧国別人口の合計と総数が一致しない。
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m 地域区分は以下の通り。
    • 北海道: 蝦夷。
    • 東奥羽: 陸奥。
    • 西奥羽: 出羽。
    • 北関東: 上野、下野、常陸の合計。
    • 南関東: 武蔵、相模、上総、下総、安房の合計。
    • 北陸: 佐渡、越後、越中、能登、加賀、越前、若狭の合計。
    • 東山: 甲斐、信濃、飛騨の合計。
    • 東海: 伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、美濃の合計。
    • 畿内: 山城、大和、河内、和泉、摂津の合計。
    • 畿内周辺: 近江、伊賀、伊勢、志摩、紀伊、淡路、播磨、丹波の合計。
    • 山陰: 丹後、但馬、因幡、伯耆、隠岐、出雲、石見の合計。
    • 山陽: 美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門の合計。
    • 四国: 阿波、讃岐、伊予、土佐の合計。
    • 北九州: 筑前、筑後、肥前、壱岐、対馬、豊前、豊後の合計。
    • 南九州: 肥後、日向、大隅、薩摩の合計。
  18. ^ 延宝4年(1676年)の薩隅日三ヶ国合計人口は、慶賀人口不明。
  19. ^ 延宝5年(1677年)の薩隅日三ヶ国合計人口は、慶賀1081人の男女別人口が不明のため、男女別人口の合計と一致しない。
  20. ^ 宝永3年(1706年)の薩隅日三ヶ国合計人口は、他国居付者4155人の男女別人口が不明のため、男女別人口の合計と一致しない。
  21. ^ 明治4年(1871年)の薩隅日三ヶ国合計、薩摩国、大隅国の人口は、東郷、種子島の人口が欠落している。また、末吉郷の人口は大隅国にまた薩隅日三ヶ国合計、薩摩国、大隅国の人口は、男女別人口の合計(それぞれ72万6515人、45万6312人、19万1116人)と一致しない。欠落分を補った薩隅日三ヶ国合計、薩摩国、大隅国の人口はそれぞれ76万人台、46万3000~46万4000人、21万人台後半~22万人台と推定される。

出典

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  1. ^ 吉田東伍, 『維新史八講』, 冨山房, 1910.
  2. ^ a b (a) 速水融, 「小倉藩人畜改帳の分析と徳川初期全国人口推計の試み」『三田學會雑誌』59巻 (3号), pp. 221–256 (1966). (b) 速水融, 『日本経済史への視角』, 東洋経済新報社, 1968.
  3. ^ (a) 速水融, 「近世信州諏訪地方の人口趨勢」『三田學會雑誌』61巻 (2号), pp. 111–137 (1968). (b) 速水融, 『近世農村の歴史人口学的研究』, 東洋経済新報社, 1973.
  4. ^ a b c d 社会工学研究所編, 『日本列島における人口分布の長期時系列的分析:時系列推計と要因分析』, 1974.
  5. ^ a b c d e f g h (a) 鬼頭宏, 「明治以前日本の地域人口」『上智経済論集』41巻 (1-2号), pp. 65–79 (1996). (b) 鬼頭宏, 『人口から読む日本の歴史』, 講談社, 2000.
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  8. ^ a b c d (a) Jean-Noël Biraben, "Le Point sur l'Histoire de la Population du Japon," Population Vol. 48 (no. 2), pp. 443-472 (1993). (b) Jean-Noël Biraben, "The History of the Human Population From the First Beginnings to the Present" in "Demography: Analysis and Synthesis: A Treatise in Population" (Eds: Graziella Caselli, Jacques Vallin, Guillaume J. Wunsch) Vol 3, Chapter 66, pp 5–18, Academic Press, San Diego, 2005.
  9. ^ a b (a) William Wayne Farris, "Japan's Medieval Population: Famine, Fertility, and Warfare in a Transformative Age," University of Hawaii's Press, Honolulu, 2006. (b) William Wayne Farris, "Daily life and demographics in ancient Japan", Michigan monograph series in Japanese studies no. 63, Center for Japanese Studies, University of Michigan, Ann Arbor, 2009.
  10. ^ a b 藤野正三郎, 『日本の経済成長と景気循環』, 勁草書房, 2008.
  11. ^ (a) Irene B. Taeuber, "The population of Japan", Princeton, NJ: Princeton University Press, 1958. (b) アイリーン・B・トイバー, 毎日新聞社人口問題調査会訳, 『日本の人口』, 毎日新聞社人口問題調査会, 1964
  12. ^ (a) 横山由清, 『本朝古来戸口考』, 1879. (b) Ryoichi Ishii (石井了一), "Population Pressure and Economic Life in Japan", P. S. King & Son, 1937.
  13. ^ a b Colin McEvedy and Richard Jones, "Atlas of World Population History," Facts on File, New York, 1978.
  14. ^ 司法省調査課, 「諸国領知田畑町歩並人数可書出旨御書付」, 『司法資料 第百八十三号 徳川禁令考 (第六帙)』, 「第六十六章 戸籍調査統令」, p. 571 (1932).
  15. ^ a b c 特に以下の書籍を元に本表を作成した。
    • 柚木重三, 堀江保蔵, 「本邦人口表」 『経済史研究』 (7号), pp. 188-210 (1930).
    • 関山直太郎, 『近世日本の人口構造』, 吉川弘文館, 1958.
    • 高橋梵仙, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, 1971.
    • 速水融, 「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」 『国勢調査以前日本人口統計集成』 別巻1, 速水融監修, 原書房, 1993.
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 明治5年(1872年)旧暦1月29日、明治6年(1873年)1月1日調の本籍人口は『日本全国戸籍表』による。ただし明治5年調、明治6年調の本籍人口に関しては、開拓使は明治6年1月1日調、琉球藩は明治6年2月調のものをともに記載しており、琉球、石狩、後志、胆振、渡島、日高、十勝、釧路、根室、千島、北見、天塩、樺太の人口は明治5年と明治6年で全く同一である。琉球を含めた全国の本籍人口が揃うのは明治6年以降ということになる。 なお明治5年の段階ですでに府県制に移行していたが、戸籍による旧国別人口統計はしばらく存続した。
  17. ^ a b c d e f g h i 1 方里 ≡ (216/55)2 km2 ≒ 15.423 471 km2。なおこれらの面積は明治15年『統計年鑑』に記載されている、明治14年内務省調査面積であり、伊能忠敬大日本沿海輿地全図の大図(縮尺1/36,000)などを基に算出されている。樺太・千島交換条約締結後のことであり、北海道の面積には樺太の面積が含まれず、千島列島の面積(986.23方里 (約1万5211.1 km2))が含まれ、日本の総面積(2万4796.63方里 (約38万2450.1km2))には小笠原島の面積(4.65方里 (約71.8 km2))が含まれる。また、奄美群島の面積(101.02方里 (約1,558.1 km2))は薩摩国の面積に含まれる。奄美群島を除く薩摩国の面積は231.66方里 (3,573.0 km2)、奄美群島を含む大隅国の面積は348.38方里 (約5,373.2 km2)、奄美群島を含む琉球国の面積は257.93方里 (約3,978.2 km2)となる。
  18. ^ a b c d e f g h i j k 郡数、村数、石高集計は『天保郷帳』による。
    • 郡数:天保年中においては、伊豆国の伊豆国附諸島、讃岐国の小豆島塩飽島直島男木島女木島等、奄美群島を含む琉球国、蝦夷地・松前藩、小笠原島には郡が設置されていない。
    • 村数:『伊豆国郷帳』には伊豆国附諸島の郷村等32(17村1湊2郷12島)、『松前島郷帳』にはアイヌ人居住地である蝦夷人居所402箇所(箱館附場所8箇所、東蝦夷128箇所、西蝦夷195箇所、国後島8箇所、択捉島11箇所、奥尻島利尻島礼文島3箇所、樺太49箇所)と他の島25の記載があるが、これらは村数として集計されていないので、伊豆国の村数として伊豆4郡内のみの284、蝦夷地・松前藩の村数として松前藩領内の和人村のみの128(枝村を含む)を採用する。奄美群島19村は原本通り琉球国に含む。
    • 石高:『天保郷帳』原本では、石高とは別に、相模国永1346貫670文、常陸国永21貫文、合計永1367貫670文が集計に含まれている。奄美群島の石高3万2828石7斗は原本通り琉球国に含む。
  19. ^ a b c d e f g h i 以下速水融, 「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」における註釈:
    • 前後の数値との比較から、寛政4年(1792年)の三河の人口は過少に記載されていると推測される。
    • 前後の数値との比較から、寛延3年(1750年)の駿河の人口は高すぎであり、記載された全国総数と実際の合計値との間にある差約7万人は、駿河の人口の誤記が原因かも知れない。
    • 前後の数値との比較から、文政11年(1828年)の甲斐の人口は高すぎであり、29万1499人の誤記と推定される。
    • 前後の数値との比較から、寛政4年(1792年)、寛政10年(1798年)、天保11年(1840年)、弘化3年(1846年)の伊豆の人口は低すぎであり、明治13年(1880年)の統計で約2万人を数えた伊豆七島の人口が抜けていると推定される。
    • 前後の数値との比較から、文政5年(1822年)と天保5年(1834年)の下総の人口は低すぎるが、補正すべき数値の根拠はない。
    • 前後の数値との比較から、宝暦6年(1756年)の加賀と能登の人口は入れ替わっている可能性が高い。
    • 前後の数値との比較から、寛政4年(1792年)の美作の人口は過少に記載されていると推測される。
    • 前後の数値との比較から、宝暦6年(1756年)と文政11年(1828年)の対馬の人口は過少に記載されていると推測される。
  20. ^ a b 森田優三, 『人口増加の分析』, 日本評論社, 1944.
  21. ^ 葭田光三, 1989, 「アイヌ人口史―資料を中心として―」 『日本大学人文科学研究所研究紀要』 (37号), pp. 279–301.
  22. ^ (a) 白山友正, 1971, 「幕末のアイヌへの人口政策と人口」 『社会経済史学』 36巻 (6号), pp. 524–555; (b) 白山友正, 1971, 「北海道アイヌ人口史(中)」 『北海道経済史研究』 (28号), pp. 7–25; (c) 白山友正, 1971, 「北海道アイヌ人口史III」 『函大商学論究』 (6号), pp. 131–154.
  23. ^ 関根達人, 『近世墓と人口史料による社会構造と人口変動に関する基礎的研究 (平成19年度~21年度 科学研究費補助金 (基盤研究 (B)) 研究成果報告書)』, 2010.
  24. ^ 『本琉球内大宜味間切城村人数改帳』などが存した。(『沖縄大百科事典』(1983年)沖縄タイムス、p.140)
  25. ^ 寛永13年(1636年)の薩隅日三ヶ国人口は、薩摩国喜入鹿籠蘭牟田甑島水引東郷黒木久志、大隅国桜島種子島垂水百引の各外城人口、日向国諸県郡須木1047人の男女別人口の記載を欠く。欠落分を補った薩隅日三ヶ国合計人口は33万~34万人と推定される。
  26. ^ a b 身分別人口の合計と総数は一部合致しない。
  27. ^ (a) 尾口義男, 「薩摩藩の人口」, 『黎明館調査研究報告』, (11号), pp. 87–134 (1998). (b) 尾口義男, 「薩摩藩と近世琉球国の人口―琉球人口データ及び近世前期の薩摩藩の社会動向に関する新たな史実を付加しての「薩摩藩の人口」補論―」 『黎明館調査研究報告』 (13号), pp. 1–42 (2000).
  28. ^ 人口の復元方法は主に高木正朗・新屋均(2006年)による。なお人口に関しては古文書にみられる数字を尊重し、記録のない時期に関しては、江戸時代初期の人口は会津藩の公式人口記録(『会津家世実記』)、江戸時代末期の人口は西磐井郡狐禅寺村・下油田村・峠村・中村、東磐井郡赤生津村・大籠村・新沼村・増沢村・保呂羽村の人別改帳の人口を元に再現している。
  29. ^ 難波信雄, 「廃藩置県前における旧仙台藩領の帰農問題」, 『東北学院大学論集 歴史学・地理学』, (2号), pp. 73–94 (1971).
  30. ^ 玉山勇, 「江戸時代の人口問題 ―仙台藩の場合―」 『国民経済雑誌』 73巻(1号), pp. 63–94 (1942).
  31. ^ a b 高木正朗, 新屋均, 「近世国家の人口とその趨勢 ―仙台藩郡方・一関藩村方人口の復元: 1668–1870年―」 『立命館大学人文科学研究所紀要』(87号), pp. 7–39 (2006).
  32. ^ 萩藩陪臣の扱いはこの時点では、おそらく卒族のような扱いだったと思われる。陪臣は明治2年の人口総数に含まれていない。
  33. ^ (a) 城島正祥, 「佐賀藩の人口統計(一)」, 『史学雑誌』, 82巻(9号), pp. 1293–1320 (1973). (b) 城島正祥, 「佐賀藩の人口統計(二)」, 『史学雑誌』, 82巻(10号), pp. 1450–1467 (1973).
  34. ^ 金井圓, 「ひとつの藩の総人口」, 『日本歴史』, 67号, pp. 39–40 (1953).
  35. ^ 川口洋, 「17~19世紀の会津・南山御蔵入領における人口変動と出生制限」 『歴史地理学』 40巻 (4号), pp. 5–24 (1998).
  36. ^ 建山生, 「土佐の人口」 『土佐史壇』 (5号), pp. 82–86 (1920).
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  39. ^ a b c d e f g 貞享元年(1684年)の総人口には、九戸郡の百姓人員3444人(男1879人、女1565人)が加算されていない。また、宝永7年(1710年)の寺社領門前・金山師人員を1万0029人と解釈、宝暦元年(1751年)の和賀郡の百姓人員(欠落)を3万4210人と解釈、宝暦7年(1757年)の侍召仕人員(欠落)を1万0270人と解釈、安永3年(1774年)の和賀郡の百姓人員(欠落)を3万4268人と解釈、天明元年(1781年)の二戸郡の百姓人員2万2295人を三戸郡の百姓人口の誤記とし真の値は2万8883人、天保9年(1838年)の四町人員(欠落)を2万8385人と解釈し、それぞれ人口を修正した。
  40. ^ 一部男女・出家・修験・座頭人口の合計と総人口が一致しない。
  41. ^ 安澤秀一, 「宇和島藩切支丹類族改・宗門人別改・公儀え指上人数改の基礎的研究」 『史料館研究紀要』 (12号), pp. 1–210 (1980).
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参考文献

編集
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  • 高橋梵仙、『日本人口史之研究 第一』、日本学術振興会、1971年。
  • 高橋梵仙、『日本人口史之研究 第二』、日本学術振興会、1955年。
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  • 南和男、『幕末江戸社会の研究』、吉川弘文館、1978年。
  • 木村礎, 藤野保, 村上直編、『藩史大事典』、雄山閣、1988年。
  • 速水融監修、『国勢調査以前日本人口統計集成』、原書房、1992~1993年。
別巻1に収録されている「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は速水融, 「明治前期人口統計史年表: 附 幕府国別人口表」, 日本研究, (9), pp. 135-164 (1993).にも別途掲載されている。
  • 鬼頭宏、『人口から読む日本の歴史』、講談社、2000年。
  • 鬼頭宏、『図説 人口で見る日本史―縄文時代から近未来社会まで』、PHP研究所、2007年。
  • William Wayne Farris, Japan's Medieval Population: Famine, Fertility, and Warfare in a Transformative Age, Honolulu, HI: University of Hawaii's Press, 2006.
  • 高木正朗編、『18・19世紀の人口変動と地域・村・家族―歴史人口学の課題と方法』、古今書院、2008年。
  • 浜野潔、『歴史人口学で読む江戸日本』、吉川弘文館、2011年。