毛利斉房
長州藩9代藩主。毛利治親の長男。従四位下侍従、大膳大夫
毛利 斉房(もうり なりふさ)は、江戸時代後期の大名。毛利氏23代当主。長州藩9代藩主。8代藩主・毛利治親の長男[1]。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明2年11月20日[1](1782年12月24日) |
死没 | 文化6年2月14日(1809年3月29日)[1] |
改名 | 義二郎[1]・善次郎(幼名)、維房(初名)[1]、斉房[1] |
戒名 | 靖恭院殿前二州太守大官令四品拾遺補闕澹雲如祥大居士[1] |
墓所 | 山口県萩市椿東の東光寺[1] |
官位 | 従四位下・侍従、大膳大夫[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 長州藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 | 毛利治親[1]、明善院[1] |
兄弟 | 斉房、斉熙、細川興昶、熙載、水野忠篤、多美 |
妻 | 有栖川宮織仁親王娘幸子、芳春院[2] |
子 | 徳丸[1]、斉熙 |
経歴
編集天明2年(1782年)11月20日、江戸で生まれる[1]。寛政3年(1791年)、父・治親の死去により10歳で跡を継ぐ[1]。寛政7年(1795年)8月、11代将軍・徳川家斉から偏諱を授かって初名の維房(これふさ)から斉房に改名し、叙任する。寛政12年(1800年)からは藩財政再建のために10ヵ年の倹約を行ない、さらに伊能忠敬に周防・長門の測量を行なわせて海防の強化に努めるなどしたが、文化6年(1809年)2月14日に28歳で江戸にて死去した[1]。実子の徳丸が生まれたのは斉房の死後であり[3]、養子となっていた弟の斉熙が跡を継いだ[4]。墓所は萩市椿東の東光寺[1]。
系譜
編集斉房の代の主要家臣
編集文化元年(1804年)頃の主要な斉房の家臣は下のとおり。
偏諱を受けた人物
編集- 毛利房良(勇之進、右田毛利家)
- 毛利房直(吉敷毛利家、房良の実弟)
- 毛利房顕(右田毛利家、房良・房直の実弟)
- 毛利房裕(吉敷毛利家、房直の養孫)
- 毛利房晁(房衆)(厚狭毛利家)
- 毛利房嘉(阿川毛利家、房晁の実弟)
- 毛利房謙(房祀)(吉敷毛利家、房晁・房嘉の実弟で房裕の養子)
- 浦房伴(うら ふさとも、通称:浦木工、浦氏、浦元襄(靱負)の養父)
- 国司房長(毛利元美の後見役)
- 佐佐木房高(尼子氏末裔・佐佐木氏)
- 宍戸房純(宍戸氏一族の者か、次男に佐佐木房高の婿養子となった佐佐木元久、孫に元久の子で浦元襄養子の浦親教がいる)
- 宍道房智(宍道外記、宍道氏)
- 益田房清(吉十郎、須佐領主益田家)
- 福原房純(房俊)(豊前、宇部領主福原家)
- 福原房昌(従兄弟、房純の養子、のちの長州藩第11代藩主毛利斉元)
脚注
編集参考文献
編集- 時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。
- 大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年