村木雅美
日本の陸軍軍人
村木 雅美(むらき まさみ、1856年11月15日(安政3年10月18日) - 1922年12月8日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。
経歴
編集高知藩郷士・村木保次の長男として生れる。1871年に上京し海南私塾に入る。1878年12月、陸軍士官学校(旧2期)を卒業し、翌年2月、砲兵少尉任官。フランス留学、陸士教官、欧州出張などを経て、1887年11月、陸相秘書官心得として大山巌大臣に仕える。陸軍省副官心得、陸軍省副官兼秘書官、砲兵第1方面内砲兵本廠長、第5師団兵站監、陸軍省軍務局砲兵課長などを歴任し、1901年2月、陸軍少将に進級。
1901年2月より東宮武官長となり、1906年7月に陸軍中将に昇進。1907年12月11日[1]から1911年6月2日[2]まで東宮大夫を兼任。1912年8月から10月まで侍従武官を兼務した。同年10月に待命となり、同年12月17日、予備役に編入された[3]。1919年4月1日、後備役となる[4]。
1907年9月、男爵を叙爵し華族となり、1912年12月17日[3]から1922年12月まで貴族院議員に在任。さらに、竹田宮及び東久邇宮宮務監督を勤めた。
栄典
編集- 位階
- 1884年(明治17年)10月20日 - 正七位[5]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[6]
- 1901年(明治34年)6月10日 - 正五位[7]
- 1906年(明治39年)6月30日 - 従四位[8]
- 1911年(明治44年)7月20日 - 正四位[9]
- 1912年(大正元年)12月28日 - 従三位[10]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11]
- 1892年(明治25年)5月28日 - 勲六等瑞宝章[12]
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[15]
- 1901年(明治34年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[16]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[17]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [18]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[19]
- 1912年(大正元年)
- 1915年(大正4年)
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集- ^ 『官報』第7338号、明治40年12月12日。
- ^ 『官報』第8383号、明治44年6月3日。
- ^ a b 『官報』第116号、大正元年12月18日。
- ^ 『官報』第2006号、大正8年4月14日。
- ^ 『官報』第471号「賞勲叙任」1885年1月28日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5380号「叙任及辞令」1901年6月11日。
- ^ 『官報』第6901号「叙任及辞令」1906年7月2日。
- ^ 『官報』第8424号「叙任及辞令」1911年7月21日。
- ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第127号「叙任及辞令」1913年1月4日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
- ^ 『官報』第2636号「叙任及辞令」1892年4月15日。
- ^ 『官報』第4810号「敍任及辞令」1899年7月14日。
- ^ 『官報』第5039号「叙任及辞令」1900年4月23日。
- ^ 『官報』第6594号「叙任及辞令」1905年6月24日。
参考文献
編集日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 村木(雅美)家初代 1907年 - 1922年 |
次代 村木雅枝 |