戸田氏(とだし)は、武家華族だった日本氏族。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名旗本大藩重臣を輩出した。維新後、現米5万石以上の中藩だった旧大垣藩戸田家が伯爵家、それ以外の小藩大名だった戸田家5家は子爵家に列した。

戸田氏
家紋
六耀
本姓 清和源氏義隆流?(河内源氏信濃源氏
藤原北家閑院流正親町三条家庶流
家祖 戸田信義
種別 武家
華族伯爵)- 大垣
華族(子爵)- 松本
華族(子爵)- 宇都宮
華族(子爵)- 高徳
華族(子爵)- 足利
華族(子爵)- 大垣新田
出身地 尾張国海部郡戸田荘
主な根拠地 三河国
信濃国
下野国
東京府
著名な人物 戸田宗光(全久)
戸田康光
戸田康長(松平康長)
戸田忠昌
凡例 / Category:日本の氏族

美濃森氏流戸田氏

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森頼定から数えて12代目 森可秀の末男 成恒の次男、直高外家の号を冒し、戸田姓を称する。家紋は鶴丸に六星。子孫は江戸幕府旗本。鶴丸は本来、森氏の家紋である。六星は三河戸田氏の家紋であることから、三河戸田氏の家号を冒したものか[要出典]。三河戸田氏は森頼定の十男戸田信義の血筋という説がある。なお、戸田直高は森三左衛門可成の従兄弟にあたる(可秀嫡男 森越後守可行の子が森可成)。高善のとき徳川綱重に仕え、高畳徳川家宣に同行して江戸へ入り、300俵の御家人となった。

司馬遼太郎は、豊臣秀吉に仕えた戦国時代の武将戸田勝隆戸田勝成は美濃系戸田氏ではないかと紀行文集『街道をゆく』で推測している[1]

可秀以前は森氏を参照。

美濃森氏流戸田氏系譜

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森可秀成恒戸田直高高善高畳高猶祐之
  ┣━━┓ 
 祐武 祐光
  ¦  ┃
 従逸←従逸

三河戸田氏

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出自

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寛政重修諸家譜』によれば、正親町三条公治の子・実興が下向し、その子・実光のとき戸田氏を称したと家伝にあるという。ただし『寛政重修諸家譜』は実光の子・宗光が三条公治と同時代だと指摘し、この出自に疑問を呈している[2]

また別の資料では、清和源氏の流れである河内源氏棟梁鎮守府将軍八幡太郎源義家の5世・戸田信義森頼定の十男)の血筋とされ、清和源氏の一家系河内源氏森氏の支流である[3]。宗光(全久)の父綱光または実光正親町三条家藤原北家摂関家の傍流)より養子に入ったという。ただしこの三条家末裔説は仮冒ともされる[4]

義家から戸田信義までの系譜

源義家陸奥七郎義隆源姓毛利氏の祖)ー若槻頼隆若槻氏の祖)ー森頼定森氏の祖)ー戸田信義(戸田氏の祖)

戸田信義から宗光までの系譜(誓願寺文書に所収される系譜による)
戸田信義義成
    ┣頼重
    ┗義房頼方頼房宗忠綱光宗光

中世の三河戸田氏

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尾張国海部郡戸田荘(現・愛知県名古屋市中川区戸田一帯)を支配して戸田氏を称するようになったという[4]鎌倉時代の建保年間には、戸田十郎信義が御家人として同地の地頭となった旨が当時の記録から確認できる。南北朝時代戸田弾正忠宗忠という武将が、南朝に属して信濃宮宗良親王に供奉し、信濃を転戦したという記録が残されている。その後、宗忠は族党を率いて信濃国大河内城を出て、尾張国海部郡に至ったとあり、旧領に帰参したものと考えられる。室町時代は幕府政所執事伊勢氏被官であった豪族として確認されている。ただしこれらの戸田姓の人物と後代の戸田氏の系譜関係は不明である[5]

戸田宗光の登場

確証ある三河戸田氏としてみえるのは、戸田宗光(全久)からである。彼は文安年間(1444年 - 1449年)、代官を務める碧海郡上野(愛知県豊田市)に上野の古城を築城したといわれる[要出典]文明7年(1475年)には戸田宗光が、三河国渥美郡大津村(大津城)に入った。さらに、文明11年(1479年)には一色氏の一族である一色政照を追って田原に入っている。のちに政照の養子となる。応仁の乱の折には松平氏(後の徳川氏)とともに東軍に味方して勢力を広げ一族の支配基盤を確立していった。

応永年間には田原城をはじめ、上野城や朝倉川南岸の二連木城などを築城するなど渥美郡での勢力基盤を固めていった。室町時代を通して三河国の守護は足利氏一門である一色氏細川氏が務めてきたが、守護の支配力は弱体化していく。その一方、戦国時代初期には、独自路線を歩む渥美の戸田氏に今川氏との協調路線を歩む宝飯郡牧野氏が対抗する。今橋城の争奪戦に代表される、両氏による度重なる争いが繰り広げられると、これに西三河の雄・松平氏が絡むという、三つ巴の拮抗状態に陥っていく。やがて、同国における松平氏の台頭が顕著になるにつれ、戸田憲光は駿河守護の今川氏との関係を凍結し、一時的に松平氏の配下となるなど戸田氏は、今川氏や尾張の織田氏・松平氏の勢力の中で従属先を変転していった。

戸田康光の滅亡と徳川氏家臣化

戸田氏の運命が大きく揺れたのは、松平氏の勢力が弱まった戦国中期である。戸田氏や牧野氏を抑え、三河を統一しかけていた松平清康の急死により、同氏の隆盛には陰りが見えはじめていた。清康の跡を継いでいた松平広忠は織田氏の圧迫を受け、嫡男の竹千代(後の徳川家康)を今川氏の人質に出すことを条件に後援を申し入れていた。この時、竹千代の今川領・駿河国までの護衛を命じられていたのが戸田氏である。護衛役を命ぜられた戸田家の当主・戸田康光は、三河における今川方の有力な戦国武将であったが先年今川義元に一門の戸田宣成が滅ぼされたことを深く恨み、同じ末路をたどることを恐れて尾張の織田氏に寝返ろうとした。康光は竹千代を駿河に送ると見せかけ、今川氏の仇敵・織田氏に届けたため、今川氏の追討を受け康光・尭光は討ち死にした。ただし、近年の研究では戸田康光の裏切りは事実ではなく、松平・戸田連合対今川・織田連合の戦いに敗れた結果、今川氏に敗れた戸田康光は滅亡し、織田氏に敗れた松平広忠は命は助けられたものの竹千代を織田氏への人質に出すことになったとする説が出されている[6]。分家して仁連木戸田家を立てていた康光次男・宣光は今川方についてその命脈を保ち、宣光系の嫡流が戸田宗家となった。

今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長に討たれると、宣光の跡を継ぎ仁連木城主となっていた重貞は義元嫡男・今川氏真から離反し、今川から自立した西三河の徳川家康に従った。彼は東三河の国人に対して徳川に味方する様に周旋するものの、今川方の吉田城を攻略の途上にて討死した。重貞には子がなかったため、家康は重貞弟・戸田忠重の子・康長を以って跡目となした。伯父同様、父・戸田忠重も徳川家に仕え功ある武将であったが早くに没したため、不憫に思った家康は康長をして所領を与え、異父妹の婿となし松平姓を授けた。一方、康光弟 光忠の子・戸田忠次三河一向一揆に加わっていたが、一揆軍が徳川氏と争った折は、一揆勢のうちに忠次がかつて徳川家と数代にわたって縁戚及び主従関係にあったことから内通を疑われ、ついに忠次は徳川方に寝返って一揆鎮圧に功を挙げた。これにより戸田氏は仁連木戸田家(戸田宗家)、田原戸田家ともども徳川家の譜代家臣となった。田原戸田家は江戸時代に老中を輩出している[7]

江戸時代

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江戸期には、6家の譜代大名家が出た。嫡流は信濃国松本藩主家となり、松平姓と葵紋を与えられていた。また戸田光忠の家系からは宇都宮藩主家が出、その支流から足利藩主家、高徳藩主家が出た。また戸田一西の家系から美濃国大垣藩主家が出、その支流から大垣新田藩主家が出た。6家いずれも廃藩置県まで存続し維新後には華族に列した。そのほか旗本となった家や、甲府藩水戸藩など諸藩に仕えた一族もいる。

康長の家系(戸田松平家、宗家)

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松本藩主戸田松平家が徳川将軍家に与えられて江戸期に使用していた三つ葉葵の家紋。鳥羽伏見の戦い後、徳川宗家が朝敵となったのを受けて、松平姓とともに廃棄。明治以降は六曜紋を使用[8]

三河戸田氏の嫡流で、戸田宗家である(特に戸田宣光以降を指して、仁連木戸田家と称する)。徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を授けられた松平康長以降、松平姓を称して葵紋を家紋とすることを許された。松平を称したことから戸田松平家ともいわれる。信濃国松本藩→播磨国明石藩美濃国加納藩山城国淀藩→信濃国松本藩と転封された。

支藩はなく、光永の相続時に弟2人(孫十郎光正、内蔵助光直)に5000石ずつ分知し、分家の旗本家2家が続いた。孫十郎光正の家を文殊戸田家、内蔵助光直の家を北方戸田家という[9]

王政復古後の慶応4年(1868年)1月2日に元将軍の徳川宗家当主徳川慶喜鳥羽・伏見の戦いを起こして朝敵となったのを受けて、勅命に従って松平姓を廃棄して戸田に復姓。維新後は華族の子爵家に列した(→戸田宗家子爵家)。

凡例 太線は実子(細線は養子)

       康長
  ┏━━┳━━┫
 永兼 忠光 庸直
     ┃  |
    光重 光重
        ┣━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓
       光永       孫十郎光正   内蔵助光直
        ┣━━┓      ┃       ┃
       光煕 光規     光輝      光言
        ┣━━┳━━┓   ┣━━┓    |
       光慈 光清 光雄  光政 光典   光清
        |         |       ┣━━┓
       光雄        光典      光為 光智
        ┣━━┳━━┓   |       ┣━━┳━━┓
       光徳 光和 光悌  光智      光一 光行 光陽
        |         |       ┃
       光和        光陽      光大
        |         ┃       ┃
       光悌        光逸      光武(光遠)
        |━━┓      ┃       ┃
       光行 光年     光天(光田)  内蔵助
        |━━┓      ┃
       光年 光庸     光利
        |━━┓      |
       光庸 光領     光顕
   ┏━━━━╋━━━┳━━━━┓
小笠原長国  光則 内藤政恒 松平(松井)康載→戸田央→板倉勝観
        ┣━━━┓
       康泰  氏懿(大垣新田藩家へ)
        ┣━━━┓
       康保  氏徳(大垣新田藩家へ)
        ┃
       康英
        |
       英冠

庄右衛門忠政(光忠)の家系(田原戸田家、下野国宇都宮藩主)

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戸田康光の弟・戸田庄右衛門忠政(光忠)[10]の系統。

忠政の子・忠次が家康に仕え、忠次の子・尊次のとき三河国田原藩主となった。以後、下総国佐倉藩肥前国島原藩などを経て、下野国宇都宮藩主となり幕末に至った。

支藩は2家(足利藩高徳藩)。足利藩は初代田原藩主忠能の弟・忠次に始まる家系である。忠次は200俵取の旗本であったが、その子・忠時のとき加増され宝永2年(1705年)下野国足利郡河内郡都賀郡1万1000石を領して、足利藩を立藩した。なお忠時の三男・忠義は分家し旗本となっている。一方で高徳藩は、宇都宮藩が元治元年(1864年)の天狗党の乱への関与を疑われた際に朝廷へ働きかけ事態打開に功があった一門の家老・戸田忠至に、1万石が分与されて立藩されたものである。藩主の血筋だが当初は200石の家臣であった。

また支藩でない尊次系の分家には、忠真の弟の忠章が3150石を分知され旗本になった家と、もう一人の弟・忠恒が本家の家臣となった戸田三左衛門家の2つがある。忠章系はのち7000石となり忠友のとき本家を継ぐが、忠友の養子・鋠蔵上野戦争で戦死したため断絶した[11]

明治維新後、支藩を含め大名だった3家はすべて華族の子爵となった(→宇都宮戸田子爵家足利戸田子爵家曽我野戸田子爵家)。

忠能・忠次以外の尊次の子3人(正次生勝忠高)の系統も旗本となった。正次は300石、生勝は1200石(のち分知により600石。分家は全て1代で絶家)、徳川綱重に仕えた忠高は2570石を知行した。忠高の次男・忠重は分家し新たに600石を知行した。

また、忠次以外の忠政の子たち(清勝勝則忠勝)も旗本となった。清勝の家は200石のち400石、勝則は700石で嫡孫の貞吉のとき2080石余となった。貞吉の嫡孫・正吉のとき弟・義陳に580石余を分知し1500石となった。また貞吉の弟・吉連は150俵を知行している。忠勝はその子・政次が300石を得ている。なお忠勝の孫・恭光(茂睡)は歌人として名を馳せた。家臣となった者もあり、忠勝の子・宗勝の戸田小膳家が宇都宮藩の家老となっている。

一方、尊次の兄・三九郎清光の子・清堅紀伊藩徳川頼宣に仕官し3000石を知行した[11]

尊次の孫の忠昌秋元富朝の娘を正室とし、その縁で忠昌の長男は富朝の養子となり秋元喬知と名乗った。以後も忠昌の子孫から秋元家へ養子入りする者が出ている。

尊次系の系図

     忠政(光忠)
      ┣━━┳━━┳━━┓
     忠次 清勝 勝則 忠勝
   ┏━━┫
  清光 尊次
      ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
     忠能                            忠次       正次    生勝    忠高
      |                          ┏━━┫        ┃     ┃     ┣━━┓
     忠昌                         忠昌 忠時       忠辰    忠貞    忠春 忠重
  ┏━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┳━━┓     ┏━━┳━━┫        ┃     ┃     |  ┃
秋元喬知 忠真             忠章 忠恒    忠勝 忠義 忠囿       忠位    忠常    忠就 忠位
      |━━┓           ┣━━┳━━┓     |  ┣━━┳━━┓  ┃     ┃     ┃  ┃
     忠余 忠久          忠余 忠胤 九鬼隆抵  忠古 忠位 忠褒 忠則 忠城    忠栄    忠汎 忠義
  ┏━━━╋━━━┳━━┓          ┃        ┃  ┣━━┓     |━━┓  ┃     ┃  ┃
秋元喬求 忠盈 忠寛 木下俊胤        忠諏       忠寛 忠言 忠貫    忠則 忠周 忠雄    忠倚 忠真
      |                 ┣━━┳━━┓  ┃  ┣━━┳━━┓  |     |     |  |
     忠寛                忠従 忠集 氏宥 忠諸 忠春 忠皎 忠喬 忠周    忠褒    忠皎 忠貫
      ┣━━━━━━━━┓        ┃        |        ┃  |  ┏━━╋━━┓  |  |
     忠翰       忠舜       忠偲       忠春       忠禄 忠喬 忠釣 忠準 忠養 忠集 忠準
      ┣━━┓     ┃        ┃              ┌──┨     |
     忠延 忠温    忠至       忠友             忠文 忠行    忠養
      |        ┣━━┓     |              |
     忠温       忠綱 秋元興朝  鋠蔵大久保忠宣の弟)    忠行
      ┣━━┳━━┓  ┣━━┓                    ┃
     忠明 忠文 忠恕 忠義 鹿園実博                 忠雄
      |        ┃                       ┃
     忠恕       忠粛                      忠孝
      |        ┃                       ┃
     忠友       忠邦                      忠武
      ┃
     忠庸
      ┃
     忠和
尊次系以外の光忠(忠政)流諸家系図

     光忠(忠政)
      ┣━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓
     忠次  清勝  勝則             忠勝
   ┏━━┫   ┃   ┃              ┣━━━┳━━━┓
  清光 尊次  勝吉  吉久             政次  渡辺忠 宗勝
   ┃      ┃   ┣━━━━━━━━┓     ┃   ┃
  清堅     清次  貞吉       吉連    政勝  恭光(茂睡)
   ┃      ┃   ┃        ┃     ┃
  清正     清益  吉成       忠之    政武
   ┃      |   ┣━━━━━┓  ┣━━┓  |
  清方     忠辰  正吉    義陳 忠光 忠陳 政貞
   ┃      |   ┣━━┓  |  |━━┓  ┣━━┓
  清勝     忠清  勝秀 政則 政則 忠陳 忠勝 政興 政恒
   ┃      ┃   |  ┏━━┫  |     |
  清福     忠久  勝便 政貴 勝便 忠勝    政恒
   ┃      ┃   ┃  ┃     ┣━━┓  ┃
  清郷     忠継  勝愛 政任    忠精 忠亮 忠明
   ┃      ┃   ┃  |     ┃
  清煕     忠明  勝英 尹永    忠及
   ┃      ┃   ┃  ┃     |
  清章     保定  勝喬 市左衛門  忠亮
   ┃      ┃   ┃  ┃     ┃
 市右衛門   平右衛門 勝行 隆之助   忠清
              ┃
            鎬次郎勝強
              ┃
             松次郎

七内光忠(光定)の家系(旗本)

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七内光忠(光定)[10]の子・光定と忠重は家康に仕えて旗本となった。光定系は次代の政重のとき長子・政次が400石(のち1500石)、次子・政勝(貞政)も400石で別家し、330石余で孫の政信(政次の子)が継いだ。ただし政信の孫の代で断絶した[2]。また政勝(貞政)系も天保5年(1834年)に当主・邦政中間に殺害され絶家となった[12]。政次系を芦敷戸田家という[9]

                      光忠(光定)
                        ┣━━━┓
                       光定  忠重(重成)
                        ┃   ┃
                       政重  重吉
     ┏━━━━━━━━━━━┳━━━━━━|   |
    政次          政勝(貞政) 政信  重秀
  ┏━━╋━━━━━┓     ┃      ┃   ┃
 政信 政倚    政道    吉政     光高  正矩
     |     |     ┃      ┃   |
    政峯    政英    政勝     政弘  正方
     ┣━━┓  |     ┃          ┃
    政甫 政友 政泰    政春         正唯
     |     ┣━━┓  |          ┃
    政友    政珍 政苗 政弘         方節
     |     |     |          ┃
    光稟    政苗    政利         正為
     ┃     |     |
    光紹    政演    邦政
     ┃     |
    光新    政方
     ┃     ┃
    七内    三之丞
           ┃
         千万次郎

重真の家系(旗本)

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戸田康光の子という重真の子孫。重真嫡男・重元は家康に仕えて500石を得、三男・重康は兄の配下となって700石を知行した。以後この2家は幕末まで続いた。また重元の長男・光正は別家するが罪を得て没落、光正の子・正好が旗本となり820石を得る。だが正好の養子・長重(実家は不明)ののちは子孫不明という[2]。一方、正好は部屋住みで300俵を有したのみで、弟・正勝が家を継いで1020石を知行したとも伝えるが、正勝に嗣子なく絶家となったともいう(『断家譜』)。

 重真       
  ┣━━━━━━┳━━━━━━┓
 重元     孫九郎     重康
  ┣━━━━━━┓      ┃
 光正      重宗     重政
  ┣━━┓   ┃      ┃
 正好 正勝  重種     重照
  |  ┏━━━┫      ┃
 長重 重恒 本多忠澄    重光
     ┃          |
    重澄         宗貞(近藤正元の子)
     ┃          ┃
    重辰         忠章
     |          ┃
    光邦(板倉勝澄の子) 忠捷
     |          ┃
    光弘(松平信直の子) 捷重
     ┃
    光韶
     ┃
    光烈
     ┃
    太郎

玄蕃の家系(旗本)

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戸田綱光の次男・玄蕃の系統。玄蕃の子・直頼が家康に仕えて500石を知行した。直頼の嫡男直秀は父の知行を継いだ。直秀の孫・直広徳川綱重の家臣となり、のち幕臣に戻って850俵を得た。

直頼次男・直寛の家系は結城秀康松平光長に仕えるが、直郷のとき処士となった。直郷の弟・直太の系統は徳川綱重に仕え、のち旗本となり200俵を知行した。直頼三男・直長は540石を得、四男・直良は700石を知行した。直良系は直勝のとき弟・直昌が200俵で分家している。また直良の次男・輝道は兄とは別に出仕して600俵を知行した。[2]

凡例 実子は太線、養子は細線。

 玄蕃
  ┃
 直頼     
  ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
 直秀    直寛    直長    直良
  ┃     ┃     ┃     ┣━━━━━━━━━━┓
 直次    直吉    直良(直佐)直次         輝道
  ┣━━┓  ┣━━┓  ┃     ┣━━━┳━━━┓  ┣━━┓
 直政 直広 直郷 直太 直寿    直勝 小栗直政 直昌 憲直 直保
  ┃  ┃  ┃  |  ┃     |   ┃   ┃  |
 直武 直俊 直栄 直栄 直澄    直雅  直雅  直賢 直保
  ┃  ┃     ┃  |     |       |  ┣━━━┳━━━┓
 直房 直清    格誠 直方    直幸      直春 直之 秋田季貞 直方
  ┃  ┃     |  ┣━━┓  ┃          ┃
 直政 直寿    政儀 直常 直興 直右         直能
  |  |     ┃  |     ┃          ┃
 直年 直貞   亀三郎 直興    直義         直著
     ┃                         ┃
    直温                       市郎兵衛
                               ┃
                              市之進

一西の家系(大垣戸田家、美濃国大垣藩主)

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美濃大垣藩主戸田家の家紋「九耀」

宗光4世孫の氏輝が祖で、氏輝以前の系譜は天正年間に焼失し伝わらない[2]。一方、『藩翰譜』には戸田憲光の三男・氏一が氏輝の父だとする系図を載せている。家康の代には松平康長の家系とは既に別家(本家分家ではない)の関係となっていた。

一西が関ヶ原の戦いの後に近江国膳所藩3万石を領し、譜代大名となった。次代の氏鉄のとき、近江国膳所藩→摂津国尼崎藩5万石→美濃国大垣藩10万石と転封され、その後は大垣藩在封のまま、明治4年の廃藩置県を迎えた。

支藩は1家(大垣新田藩)。大垣藩主戸田氏鉄の次男・氏経が新田分与などで6200石の旗本となったのに始まり、3代目の氏成が本家から入って継いだ際、新田3000石を兄・氏定から分与されて1万石の大名となった。[2]

美濃国内に領地を持つ分家には牛洞戸田家と深坂戸田家があった[9]戸田氏鉄の子・氏照が、兄の氏経とともに分家して美濃大野郡に新田4000石を領したのが牛洞戸田家のはじまりである。のち牛洞戸田家は氏照の子・氏胤のとき、弟・氏道に500石を分与して深坂戸田家を立てさせたため、3500石となって幕末に至った。この家系は戸田欽堂(氏益)が著名である。欽堂は大垣藩主・戸田氏正の六男で、母はキテ(高島嘉右衛門(高島易断)の姉)である。氏益は維新後に自由民権運動に参加し、日本初の政治小説民権演義情海波瀾』を著した。深坂戸田家は氏道が500石を領したのち幕末に至った。幕末の当主・氏栄浦賀奉行としてマシュー・ペリー提督と会見している。

また氏定の次男・定浩も新田5000俵を分知され分家している[2]

氏鉄の四男、五郎左衛門氏頼は大垣藩の家老となった。子孫に次席家老の五郎左衛門義頼、頼及(戸田睡翁)がいる。七男、利鉄も家老となり1000石を知行する。子孫には、利鉄の次男で間宮(戸田)家を継いだ俳人の戸田大川(小七郎信秀)や、幕末の章鉄、章鉄の子で大垣藩家老上席・贈正五位三弥寛鉄がいる。

明治維新後、大垣藩主家は華族の伯爵家(→戸田伯爵家)、分家の大垣新田藩家は子爵家に列した(→野村戸田子爵家)。

凡例 実子は太線、養子は細線。太字は老中

 氏輝
  ┣━━━┓
 氏光  牧氏吉(牧氏)
  ┃
 一西
  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┓
 氏鉄                正直              為春 勝興
  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┳━━━━━┳━━┓   ┃
 氏信                氏頼 利鉄    氏経 氏照 六条有純室(戸田氏豊の母)
  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓  ┃  ┣━━━━━━━━┓
 氏西                      氏広 氏利 氏胤       氏道
  ┣━━━┓                   |  |  ┃        ┃
 氏定  氏成                  氏賢 氏成 氏常       氏紀
  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┓  |  |  ┣━━┳━━┓  |
 氏長                定浩 氏房 氏亮 氏房 氏喜 氏香 氏休 氏喜
  ┃                 ┃     |  ┃     |     |
 氏英                定儀    氏住 氏之    氏休    氏孟
  |                 ┃     ┃  ┃     |     |
 氏教                氏紹    氏昌 氏養    氏純    氏友
  ┣━━━┳━━━━┳━━━━┓   ┃     ┃  ┃     |     ┃
 氏庸 本多助賢 遠藤胤統  氏綏  氏澄    氏香 氏興    氏永    氏栄
  ┣━━━┳━━━━┳━━━━┓         ┃  |     |
 氏正 土井利順 堀田正義 北条氏久       氏著 氏宥    氏寧
  ┣━━┳━━┳━━┓                 |     ┃
 氏彬 氏良 氏共 氏益(欽堂)            氏綏    氏寿
  |                          |     |
 氏共                         氏良    氏益(欽堂)
  |                          |
 氏秀                         氏懿(戸田松平家より)
  ┣━━━┓                      |
 氏忠  氏直                     氏徳(戸田松平家より)
                             ┃
                            氏昌

                              氏昭

水戸藩士戸田家

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戸田宣光の三男・重政の孫・三衛門有信徳川頼房に仕え、水戸藩士となった。この流れからは、藤田東湖と並び水戸の両田と称された水戸藩家老・忠敞(蓬軒)が出た。一方、有利の次男・十衛門有慶榊原忠次に仕えた。

戸田重政━有利┳有信━有重━有次━忠長━銀次郎忠真━忠之┳忠敞忠則━雄之介
       ┗有慶                  ┗安島帯刀

尾張藩士・河和水野家

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田原城主・戸田憲光が河和城愛知県美浜町河和)を築き、その子・万五郎親光が河和城を継いだのに始まる。孫右衛門繁光・孫八郎守光と続く。天正17年、孫八郎守光が小田原征伐で討死すると河和城は廃城となった。守光の子・光康は母(水野信元の娘、妙源尼)の縁で水野姓に改姓し、家康に仕え武蔵国足立郡大門郷500石を知行、のち旧領の河和郷1460石に復帰した。そして徳川義直の家臣となり、家系は尾張藩士として続いた[13]。また尾張国富貴城水野右馬允守信忠守の子)は戸田守光の娘を娶ったため、一時的に戸田氏を名乗っている(のち水野に復姓)。

戸田親光繁光守光水野光康━政康━伊頼┳康寛=康村━康友━康般━康民━康功━康年
                     ┗康親━康村

六条家支流戸田家

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明治以降

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維新後、戸田氏からは6家の華族家が出た。大垣戸田家のみ伯爵家、それ以外の5家は子爵家に列した。

戸田宗家子爵家

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王政復古後の慶応4年(1868年)1月2日に元将軍徳川慶喜らが鳥羽・伏見の戦いを起こしたのを受けて新政府は1月10日に慶喜追討令を下し、慶喜は朝敵となった。1月27日には賜松平姓を受けていた大名家に対し「徳川慶喜反逆二付テハ松平之苗字ヲ称シ居候族ハ(略)速二各本姓二復」すことを命じる勅命が出た[14]。最後の松本藩主松平光則は、勅令に恭順し松平姓を廃棄して戸田に復姓した[15]

松平光則改め戸田光則は、明治元年から明治2年(1869年)の戊辰戦争で官軍として北越や東北各地に出兵した[15]。その後明治2年(1869年)の版籍奉還で松本藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[16]

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で3685石[17]、また戊辰戦争における戦功により賞典禄3000石を下賜された。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄(実額750石)の合計4435石と引き換えに支給された金禄公債の額は12万2104円75銭6厘(華族受給者中60位)[18]。明治前期に光則の住居は東京府日本橋区矢ノ倉町にあった[19]

康泰の代の明治17年(1884年)7月7日に華族令施行で華族が五爵制になったのに伴い、同年8日に旧小藩知事[注釈 1]として子爵家に列せられた[21]

戸田宗家子爵家の邸宅は昭和前期に東京市品川区大井伊藤町にあった[22]

宇都宮戸田子爵家

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東京市世田谷区船橋町にあった宇都宮戸田子爵家の邸宅
 
同邸の一室

最後の宇都宮藩戸田忠友は戊辰戦争で官軍に付いたが、旧幕府軍から激しい攻撃を受けて宇都宮城が落城した[23]

しかしその激戦の戦功により明治2年(1869年)には戸田忠恕・忠友親子に賞典禄1万石が下賜された[24]。同年6月24日に版籍奉還で宇都宮藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで務めた[25]

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で1883石[17]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄(実額2500石)の合計4383石と引き換えに支給された金禄公債の額は8万901円27銭5厘(華族受給者中82位)[18]。明治前期に忠友の住居は東京市浅草区浅草冨坂町にあった[26]

明治17年(1884年)7月7日に華族令施行で華族が五爵制になったのに伴い、同年8日に旧小藩知事[注釈 2]として子爵家に列せられた[21]

2代子爵忠傭は陸軍騎兵大佐まで昇進した陸軍将校であり[27]予備役入り後貴族院の子爵議員に当選して務めた。

宇都宮戸田子爵家の邸宅は昭和前期に東京市世田谷区船橋町にあった[28]

足利戸田子爵家

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最後の足利藩戸田忠行は戊辰戦争で官軍に参加[29]。明治2年(1869年)の版籍奉還で足利藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[30]。その後、海軍裁判所御用掛や海軍省御用掛などを歴任した[31]

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で270石[17]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万682円92銭5厘(華族受給者中375位)[32]。明治前期に忠行の住居は東京市神田区表神保町にあった[33]

明治17年(1884年)7月7日に華族令施行で華族が五爵制になったのに伴い、同年8日に旧小藩知事[注釈 3]として子爵に叙せられた[21]

3代子爵忠孝は海軍法務官として活躍した[31]

足利戸田子爵家の邸宅は東京市本郷区向ヶ丘弥生町にあった[31]

曽我野戸田子爵家

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初代にして最後の高徳藩主である戸田忠至は、幕末に幕府若年寄だったが、宇都宮藩主戸田忠恕の意を受けて畿内の山陵の調査と修復を行って尊皇の姿勢を示していたため、その功により慶応3年(1867年)12月に発足した新政府にも参与として参加を許され、その後権弁事、内弁事、宮内大丞などを歴任した[34]。明治2年(1869年)の版籍奉還で高徳藩知事に任じられるとともに華族に列した。明治3年(1870年)に下総国曽我野藩に転封となり、曽我野藩知事に任じられた。同年に忠綱が家督して藩知事に就任し、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで務めた[35]

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で372石[17]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は2万1122円38銭7厘(華族受給者中218位)[36]。明治前期に忠綱の住居は東京市神田区駿河台鈴木町にあった[37]

版籍奉還時に華族に列し、忠義の代の明治17年(1884年)7月7日に華族令施行で華族が五爵制になったのに伴い、同年8日に旧小藩知事[注釈 4]として子爵家に列せられた[21]

忠義は貴族院の子爵議員に当選して務めた[38]。その息子の2代子爵戸田忠粛大蔵省官僚として活躍した[38]

曽我野戸田子爵家の邸宅は東京市芝区白金三光町にあった[38]

戸田伯爵家

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戸田伯爵家の岐阜本邸

最後の大垣藩戸田氏共は、戊辰戦争の初戦の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍として参加したが、小原鉄心の活躍で藩論が勤王に統一されたことで官軍に転じ、奥羽戦線では会津若松城に攻め込む戦功を挙げた[39]。明治2年(1869年)にはその功績により3万石の賞典禄が下賜された[24]

明治2年(1869年)の版籍奉還で大垣藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[40]

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で5032石[41]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄および賞典禄(実額7500石)の合計1万2532石と引き換えに支給された金禄公債の額は22万9219円28銭4厘(華族受給者中29位)[42]。明治前期に氏共は工部省御用掛准奏任を務めており、当時の住居は東京市神田区駿河台南甲賀町にあった[43]

明治17年(1884年)7月7日に華族令施行で華族が五爵制になったのに伴い、旧中藩知事[注釈 5]として伯爵家に列せられた[45]。戸田氏の中で伯爵に叙されたのはこの家のみである。

初代伯爵となった氏共は駐パリ公使、駐オーストリア全権公使、諸陵頭宮中顧問官式部長官議定官主計頭事務取扱、麝香間祗候などを歴任した[46]

3代伯爵氏直の代の昭和前期に戸田伯爵家の邸宅は東京市牛込区若松町にあった[46]

野村戸田子爵家

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最後の大垣新田藩戸田氏良は、明治2年(1869年)の版籍奉還野村藩知事に任じられるとともに華族に列する。同年に宗家の大垣藩主氏共より3000石の地所分割を受けて1万3000石になった。その後明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[47]

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で390石[41]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万4782円56銭8厘(華族受給者中283位)[48]。明治前期の住居は東京市小石川区小日向茗荷谷町にあった[49]

明治17年(1884年)7月7日に華族令施行で華族が五爵制になったのに伴い、同年8日に旧小藩知事[注釈 6]として子爵家に列せられた[21]

野村戸田子爵家の邸宅は昭和前期に東京市小石川区荷谷町にあった[50]

系図

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三河戸田氏

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源 義家
 
 
 
義隆
 
 
 
頼隆
 
 
 
森 頼定
 
 
 
戸田 信義1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義成2頼重3義房4
 
 
 
頼方5
 
 
 
頼房6
 
 
 
弾正忠宗忠7
 
 
 
綱光8
 
 
 
実光9
 
 
 
宗光10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲光11家光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
政光12宣成吉光親光
河和戸田家
氏一?
多米戸田家?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗光13光忠
田原戸田家
繁光氏輝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尭光宣光14
仁連木戸田家
重真
旗本
真喜姫忠次守光氏光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重貞15忠重重政尊次
田原藩主家
水野光康
尾張藩士
一西
大垣藩主家
 
 
 
 
 
松平 康長16
松本藩主家
有利
 
 
 
有信
水戸藩士

戸田松平家(松本藩主家)系図

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松平 康長16
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永兼忠光庸直17
 
 
 
 
光重18
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光永19戸田 光正
文殊戸田家
戸田 光直
北方戸田家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光熙20戸田 光規戸田 光言
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光慈21戸田 光清光雄22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
戸田 光為光徳23光和24一柳直住光悌25
 
 
 
 
 
光行26光年27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
戸田 光逸光庸28甲斐庄 正道光領
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小笠原 長国戸田 光則29
子爵家
内藤 政恒戸田 光芬戸田 光遠野々山 義比松平 康載→板倉 勝観
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
康泰30氏懿光祐
 
 
 
康保31
 
 
 
康英32

田原戸田氏系図

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     忠政(光忠)
      ┣━━┳━━┳━━┓
     忠次 清勝 勝則 忠勝
   ┏━━┫
  清光 尊次
      ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
     忠能                            忠次       正次    生勝    忠高
      |                          ┏━━┫        ┃     ┃     ┣━━┓
     忠昌                         忠昌 忠時       忠辰    忠貞    忠春 忠重
  ┏━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┳━━┓     ┏━━┳━━┫        ┃     ┃     |  ┃
秋元喬知 忠真             忠章 忠恒    忠勝 忠義 忠囿       忠位    忠常    忠就 忠位
      |━━┓           ┣━━┳━━┓     |  ┣━━┳━━┓  ┃     ┃     ┃  ┃
     忠余 忠久          忠余 忠胤 九鬼隆抵  忠古 忠位 忠褒 忠則 忠城    忠栄    忠汎 忠義
  ┏━━━╋━━━┳━━┓          ┃        ┃  ┣━━┓     |━━┓  ┃     ┃  ┃
秋元喬求 忠盈 忠寛 木下俊胤        忠諏       忠寛 忠言 忠貫    忠則 忠周 忠雄    忠倚 忠真
      |                 ┣━━┳━━┓  ┃  ┣━━┳━━┓  |     |     |  |
     忠寛                忠従 忠集 氏宥 忠諸 忠春 忠皎 忠喬 忠周    忠褒    忠皎 忠貫
      ┣━━━━━━━━┓        ┃        |        ┃  |  ┏━━╋━━┓  |  |
     忠翰       忠舜       忠偲       忠春       忠禄 忠喬 忠釣 忠準 忠養 忠集 忠準
      ┣━━┓     ┃        ┃              ┌──┨     |
     忠延 忠温    忠至       忠友             忠文 忠行    忠養
      |        ┣━━┓     |              |
     忠温       忠綱 秋元興朝  鋠蔵大久保忠宣の弟)    忠行
      ┣━━┳━━┓  ┣━━┓                    ┃
     忠明 忠文 忠恕 忠義 鹿園実博                 忠雄
      |        ┃                       ┃
     忠恕       忠粛                      忠孝
      |        ┃                       ┃
     忠友       忠邦                      忠武
      ┃
     忠庸
      ┃
     忠和

各地の戸田氏

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  1. 美濃国の戸田氏。森氏の出身。森可秀の末男・成恒の次男直高が戸田氏を称した。
  2. 三河国の戸田氏。藤原北家公季流正親町三条家の末裔と伝わる。古い時代においては十田と記した例もある。宗家は松平家の家名を下され、戸田松平家と呼ばれた。[4]。維新後宗家も松平から戸田姓に戻る。旧大垣藩主家だった戸田家は伯爵家、それ以外の大名だった戸田家は子爵家に列した。
  3. 村上源氏。江戸時代の公卿・六条有純の子で、3代将軍徳川家光の側室のお万の方の実弟にあたる氏豊が、母方の祖父・戸田為春戸田一西の子)の縁で戸田氏を名乗った。江戸時代は代々、高家を務める。[4]
  4. 村上源氏赤松氏の流れを汲む奥平氏の一族で奥平貞昌の子孫が称した。[4]
  5. 鴨建角見命(八咫烏武津之身命)の末裔、賀茂氏に連なる藤木重保の子である藤木保高の子孫が戸田氏を称した。
  6. 桓武平氏流。尾張国海部郡発祥や陸奥国岩城発祥が伝わっている。その家系につらなる人物としては、戸田定隆仙台藩家臣)がいる。[要出典]
  7. 大垣藩主の戸田家は前項の三河戸田氏の戸田宗光の血を引くというが、江戸時代は別家扱いであった。一説にもともと他姓であったのを、戸田一西が戸田氏の宗家康長の婿となるに及んで姓を許されたという説もある[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 旧松本藩は現米3万6850石(表高6万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[20]
  2. ^ 旧宇都宮藩は現米1万8830石(表高7万850石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[20]
  3. ^ 旧松本藩は現米2700石(表高1万1000石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[20]
  4. ^ 旧松本藩は現米3720石(表高1万1139石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[20]
  5. ^ 旧大垣藩は現米5万320石(表高10万石)で現米5万石以上15万石未満の旧中藩に該当[44]
  6. ^ 旧野村藩は現米3900石(表高1万3501石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[20]

出典

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  1. ^ 司馬遼太郎『街道をゆく 人名・地名録』朝日新聞社、1989年。ISBN 4022559322 
  2. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』[要文献特定詳細情報]
  3. ^ 平凡社編『日本人名大事典 (新撰大人名辭典)第四巻』(平凡社、1980年)432頁参照。
  4. ^ a b c d e f 太田亮著、上田萬年三上参次監修『姓氏家系大辞典 第2巻角川書店1934年[要ページ番号]
  5. ^ 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会『愛知県姓氏歴史人物大辞典 23 愛知県』(角川書店1991年)797頁参照。
  6. ^ 柴裕之「松平元康との関係」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-322-0 P276-277.
  7. ^ 一連の成立経緯については愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会前掲書(角川書店、1991年)796頁、797頁参照。
  8. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 184.
  9. ^ a b c 『岐阜県史 通史編 近世 上』岐阜県、1968年。[要ページ番号]
  10. ^ a b 『寛政重修諸家譜』編纂時に戸田家が提出した系図によれば、政光の次男庄右衛門たる光忠・忠政は同一人物で、三男の七内の名は光定という。しかし『寛永諸家系図伝』は、政光の次男庄右衛門を忠政、三男・七内を光忠としている。『寛政重修諸家譜』は『寛永諸家系図伝』のものを採用している。『藩翰譜』『系図纂要』は庄右衛門を光忠とする。また『系図纂要』は七内の名を光定とみなしている。
  11. ^ a b 戸田博亘 『幕臣戸田一族の系譜』サツキプロセス、1984年。[要ページ番号]
  12. ^ 『寛政譜以降旗本家百科事典』[要ページ番号]
  13. ^ 愛知県美浜町ウェブサイト内「水野氏の成立と水野屋敷」
  14. ^ 井戸田 1985.
  15. ^ a b 戸田光則」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%85%89%E5%89%87コトバンクより2022年11月21日閲覧 
  16. ^ 新田完三 1984, p. 774.
  17. ^ a b c d 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 20.
  18. ^ a b 石川健次郎 1972, p. 39.
  19. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/38 国立国会図書館デジタルコレクション 
  20. ^ a b c d e 浅見雅男 1994, p. 151.
  21. ^ a b c d e 小田部雄次 2006, p. 333.
  22. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 424.
  23. ^ 宇都宮藩」『藩名・旧国名がわかる事典』https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E8%97%A9コトバンクより2022年11月21日閲覧 
  24. ^ a b 落合弘樹 1999, p. 39.
  25. ^ 新田完三 1984, p. 126.
  26. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/39 国立国会図書館デジタルコレクション 
  27. ^ 新田完三 1984, p. 262.
  28. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 261.
  29. ^ 戸田忠行」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%BF%A0%E8%A1%8Cコトバンクより2022年11月21日閲覧 
  30. ^ 新田完三 1984, p. 38.
  31. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 351.
  32. ^ 石川健次郎 1972, p. 60.
  33. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/39 国立国会図書館デジタルコレクション 
  34. ^ 戸田忠至」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%BF%A0%E8%87%B3コトバンクより2022年11月21日閲覧 
  35. ^ 新田完三 1984, p. 437.
  36. ^ 石川健次郎 1972, p. 50.
  37. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/39 国立国会図書館デジタルコレクション 
  38. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 319.
  39. ^ 大垣藩」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%9E%A3%E8%97%A9コトバンクより2022年11月21日閲覧 
  40. ^ 新田完三 1984, p. 143.
  41. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 19.
  42. ^ 石川健次郎 1972, p. 37.
  43. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/38 国立国会図書館デジタルコレクション 
  44. ^ 浅見雅男 1994, p. 123.
  45. ^ 小田部雄次 2006, p. 325.
  46. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 157.
  47. ^ 新田完三 1984, p. 658.
  48. ^ 石川健次郎 1972, p. 54.
  49. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/40 国立国会図書館デジタルコレクション 
  50. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 274.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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