徐夫人(じょふじん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の人物。孫権の2番目の正室。通称は徐妃[1]揚州呉郡富春県の出身。

一族

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祖父の徐真は孫堅(孫権の父)と親交があり、彼の妹を妻として娶った。すなわち孫権とは元より血縁関係に当たる。父は徐琨。兄は徐矯。弟は徐祚。

徐琨は孫堅の時代から将校として活躍し、家臣の中でも最高の官位を獲得していた。しかし、兵力が大きることから孫策に警戒され、197年以降は参戦の記録がない。孫権が家督を継いだ直後に将軍として復帰したが、ある時点で黄祖と戦ったときに逝去した。その後、兄弟2人も相次いで戦功により将軍に昇進した。

生涯

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初めは陸尚に嫁いだが、彼の死後、孫権が討虜将軍として呉にあった時代[2]に再嫁した。また、父の生前に嫁いだのか、それとも没後に嫁いだのかは定かではない[3]

建安14年(209年)、孫権の長男として孫登が生まれるが、彼の母親は身分が低かったため、徐夫人が母親代わりとして養育に当たった[4]

建安16年(211年)頃[5]、孫権が拠点を秣陵に移すに当たり、徐夫人は嫉妬深いということで廃され、呉に留められた。

その後も孫登は徐夫人を母と慕い、彼女から衣服の贈り物があった時は必ず沐浴し、身を清めてから身に着けた。それは孫権の寵愛を得た歩夫人からの贈り物よりも敬意を払うものだった[4]

黄初2年(221年)、孫権がから呉王に封じられると、孫登は太子となるがこれに先立ち、自身の母親たる徐夫人を后に立てるよう訴えていた[4]。さらに黄龍元年(229年)、孫権が皇帝に即位すると臣下たちも徐夫人を皇后に立てるよう進言するが、歩夫人の立后を望む孫権はこれを受け入れなかった。その後、徐夫人は病死した。

出典

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脚注

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  1. ^ 太平御覧
  2. ^ 孫権が討虜将軍となる建安5年(200年)から、行車騎将軍となる建安14年(209年)までの間。『三国志』呉書 呉主伝より。
  3. ^ 徐琨の没年は203年または207年または208年。呉志「徐夫人伝」では「琨以督軍中郎将領兵、従破廬江太守李術、封広徳侯、遷平虜将軍。後従討黄祖、中流矢卒」。黄祖との戦いが具体的にどの戦いを指しているのかは不明である
  4. ^ a b c 『三国志』呉書 孫登伝
  5. ^ 『三国志』呉主伝によると、孫権は建安16年に秣陵へ拠点移動。翌年に石頭城を築き、秣陵を建業と改名している。